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◎東京新聞「東京Oh!」が新聞協会賞授賞

 2009年度日本新聞協会賞に東京新聞の「東京Oh!」が選ばれました。この写真原稿は、すでに2008年東京写真記者協会賞企画部門賞を獲得したものです。授賞理由は、「東京新聞は、大都会「東京」の現在と変化の断面を切り取った完成度の高い写真を、平成19年10月3日付から計100回にわたり夕刊1面に連載した。
 斬新なアングルによる圧倒的なインパクトのある美しい写真の数々は、読者に新たな視点と驚きをもたらし、写真が語りかけるテーマを考えてもらおうという連載手法は革新性に富むもので、絶妙にマッチした記事とともに、新聞の新しい楽しさを伝えた。
 カメラマンの独自の着想と感性を生かしたこの連載は、写真の力と面白さを示したものであり、新聞写真の新たなジャンルに挑戦し、その可能性を広げた企画力は高く評価され、新聞協会賞に値する。」とあります。
 また、産経新聞の「トキ、27年ぶりの飛翔――野生復帰に立ちはだかる試練――」が第1回選考分科会では最も高く評価されましたが、「写真・映像」部門審査会で最終的に「東京Oh!」が選ばれ、新聞協会賞に輝きました。
 「東京Oh!」を取材した写真記者は、東京新聞写真部の、笠原和則、戸上航一、嶋邦夫の3人ですが、全体をまとめ、そのデスクワークをした星野浅和次長が「新聞研究10月号」に寄稿した記事を東京写協のホームページに採録させていただきました。
 
 東京新聞「東京Oh!」取材班
 (代表)編集局写真部次長・星野浅和
 
 「写真でしか伝えられない大都会」
 見たこともないような、見たくても簡単には見ることのできない大都会の一断面を切り取った写真を1年8カ月にわたって連載した「東京Oh!」。 東京は政治や経済の中心地であるばかりでなく、世界に情報を発信する国際都市です。その東京がバブルの崩壊で疲弊して以降、不安定な経済状況の中であえぎ続けています。一方で再開発など大型プロジェクトの動きは休むことを知らず、気が付けば高層ビルがそびえ立ち、巨大な施設も次々とオープンしています。
 東京に何が起きていて、何が変わっていないのか。大都会の懐にカメラを潜入させ、その「今」と「本質」を描き出す。先人の知恵と工夫が生かされ、文化や芸術の香りにあふれる街。何かが蠢き、混沌としながらも、どこかに美しさを醸し出す大都会。そこには私たちが知らない、あるいは知っておくべき東京の姿があるはずです。一枚の写真から、進むべき道や踏みとどまらなければならいことを考えるきっかけとなる写真。ユニークなタイトルそのままに「おぉ!」とうなるような写真を掲載し、その写真のテーマを読者それぞれに委ねる。巨大で雑多ではあるが、知的で優美な東京の一断面。その先に展開する写真による東京論が「東京Oh!」でした。
 新聞業界を取り巻く環境が厳しさを増す中、当紙も首都園における全国紙と地方紙の狭間で苦しんでいます。新聞離れをいかに食い止めるか、一度離れた読者をどうやって呼び戻すか。危機感が募る中で、東京新聞らしい紙面作りに立ち返ることは必然的なことでした。
 全社的に、今まで以上に東京を意識した紙面や事業などに取り組む中、写真部にできることは何か。それが夕刊1面企画の展開でした。「渡良瀬有情」や「富士異彩」など、過去さまざまな取り組みをしてきた一面企画の大きなスペース。ここに「今」の東京を取り上げる。情報があふれ、素材も豊富に潜む東京ですが、そのあまりの膨大さとスピードに押され、これまで取り上げたことがありませんでした。及び腰だったのかもしれません。しかし、企画あるいは写真記者でなければ伝えられない東京を読者に届けたい。「東京Oh!」は、写真部が発信する「東京ニュース」として産声を上げたのです。
 紙面における写真企画の役割のひとつに、その質があると思います。凝ったもの、いわゆる「企画らしい写真」を指すのではありません。事前取材やロケハンなどを含めて、一般取材にはない時間と労力をかけた一枚が掲載されるという意味です。撮影を担当した3人の写真記者の勤務は、宿直をこなす以外は、休日も自己申告制の原則自由でした。決して人員に余裕があったわけでもありませんが、彼らには、その時間が必要だと思ったからです。取材予定や掲載スケジュールも作りませんでした。とにかく目指すものが撮れるまで探す、粘る。2週間待っても1枚も仕上がらないこともあり、担当デスクとしては胃がきりきりするような日々もありました。しかし、そんなそぶりは見せたつもりはありません。焦りや締め切りは、妥協やあきらめを生む可能性もあります。企画写真は写真記者の取材力や技術、センスなどが凝縮された高品質なニュースだと思うのです。
 東京23区を取材エリアとしたのは、首都や大都会といったイメージをストレートに感じる場所に限定したかったからです。全100回の記事を担当した当時の写真部長は、そのすべての現場に足を運んでいます。しかし、3人のカメラ目線は、地上を這う虫であったり、鳥や魚、時にはじっと動かない石像のそれです。そこにカメラマンとしてのテクニックが駆使されており、写真と同じ光景を目にするのは容易ではなかったはずです。

Tokyo OH! 01
第11回 「水の都」2007年11月1日付掲載
葛飾区内を流れる中川。「中川の七曲がり」と称される様子をイタリア・ベネチアに例えた夕映えの光景は、知的で優美な写真と高評価を受けた(笠原和則撮影)




 各回の見出しは、 撮影者自身がつけたもので、撮影の意図や狙いなど唯一の自己主張がここにあります。新聞でありながら、この見出しを「作品名」ととらえて、紙面での独立性と写真記者の自立性を図りました。縦5段、横4段を基本とする「東京」を取り囲むケイ線もモノトーンに仕上げています。キャプションはなく、航空撮影であっても、それを明記しないなど徹底して写真を際立たせようとしています。記事もそれを最大限に生かすことを意識し、写真が仕上がってから現場を訪れることを基本にしました。その作品名を念頭に置きながらも決して絵解きに終始しない。エッセンスを盛り込み、ときには撮影のエピソードに少し触れてみる。一枚の写真から受ける印象は人それぞれで、記事がその方向性を決めないように心掛けたのです。17行の記事のさりげなさが、この企画の魅力でもあったはずです。
 個人情報保護法の施行と相まって高まったプライバシー意識や米中枢同時テロ以降の警備強化は、写真記者の行動に大きな壁となって立ちはだかっています。カメラを肩から下げ、大型バッグと脚立を持って歩くだけで、周囲に警戒の目が光り始めます。撮影場所や時間などにこだわり、意図する写真が撮れるまで粘る企画取材では、その苦労はさらに増します。
 この企画で目指した、見たこともないような光景は、撮影者自身にとっても未知です。取材先で目的を伝えても、何を撮ろうとしているのかが伝わりにくく、不信感を抱かれることもありました。ビルの屋上など私有地での撮影交渉は難儀で、それが早朝や夜間となれば困難の極みです。一億総カメラマンとも言われ、写真の楽しさや重要性を認識しながらの過剰な自己防衛。マスコミ不信も相まって、まさにカメラマン受難の時代です。質の高い写真を目指せば、目指すほど、これまでにない苦労が待ち受けています。「東京Oh!]は多くの理解者と協力者に支えられて成り立っていますが、写真記者を取り巻く環境が日に日に厳しくなっていることを実感した取材でもありました。
 一方で性能が向上したデジカメの恩恵に授かった企画だったとも言えます。デジカメの本格使用となった1996年のアトランタ五輪は、フィルムも併用する大会でしたが、実際の紙面掲載率はデジカメが圧倒しました。「時代が変わった」と実感したものですが、画素数や色再現、暗部のノイズ、連続撮影枚数の制限などが悩みの種でした。「フォルム並み」が、その目標であったデジカメも、過渡期を経て、今やその完成度の高さは目を見張るばかりです。「東京Oh!」にも、飛躍的に向上したデジカメの性能が発揮された写真が多く含まれています。


Tokyo OH! 02
第73回 「満天」 2009年1月13日付掲載
銀座四丁目交差点の電話ボックス脇に三脚を据えること約6時間。帰社後の画像処理に要した時間は10時間。満天の星空をなんとか表現できた(笠原和則撮影)


 第73回掲載の「満天」は、東京の空にも星が輝いていることを表現するために銀座四丁目の交差点で撮影したものです。ネオンが瞬き、まさに光の海のような状況で、長時間露光はできません。約10秒間隔で撮影した1891枚のカットをパソコン上で合成しましたが、これだけの枚数を撮り、重ね合わせることはフィルムでは技術的にも労力的にも不可能で、暗部のノイズが問題となっていた数年前のデジカメでも厳しかったと思います。


Tokyo OH! 03
第4回 「幻影」 2007年10月9日付掲載
副都心を包み込む朝日を撮影しようと500㎜の超望遠レンズで撮影。目には見えなかったビル群はデジカメの特性と偶然の産物でまさに写真の面白さ(戸上航一撮影)



 第4回の「幻影」は、東京郊外の高尾山稜線から約40キロ離れた都心を狙った写真です。写っているビル群はファインダーの中では見えず、撮影者はカメラの液晶モニターでその存在に初めて気づいたそうです。ビル群を中心にしたアングルに整え直して、シャッターを切ったのが紙面に載った写真です。微細な光を像として結び付けるデジカメ本体の画像処理プログラムによる結果ではないでしょうか。
 カメラの特性を理解し、機能を駆使ながらも、その結果をわずかな偶然に委ねる写真。「東京Oh!」では、目的に合わせて10機種のデジカメを使用していますが、その弱点を論議することは、皆無に等しかったと思います。
 新聞の「将来」へ向けた動きが活発になる中で、プロとしての写真記者のありようを考えるときがあります。動画など多メディアへの取り組みや画像系部署の組織改編などが顕著です。一方で写真記者の業務(取材)の多様化が、写真の質向上と相反する結果を生まないかと心配になります。記者と写真記者の垣根が低くなったのはプラス面です。しかし、高性能なデジカメをようやく手にできたのに…という思いを捨てきれません。動画優先の事情があるとしても、写真の質が代償となるならば疑問を持たないわけにはいきません。養ってきたニュース感覚やセンス、そして技量を発揮したハイレベルな写真を私たちは目標としてきました。


Tokyo OH! 04
第85回 「オリンピック」 2009年3月31日付掲載
写真部員からも露出などの質問攻めにあった写真。プロから見れば撮れそうで撮れない不思議な写真は、カメラ性能の熟知と写真記者の執念が生んだもの(嶋邦夫撮影)



 第85回掲載の「オリンピック」は、ホテルの一室で一晩中カメラを構え、そのなかに訪れた絶妙な瞬間にシャッターを切っています。露出が極端に違う道路と墓地の双方が美しく再現されているのは、カメラの機能と特性を生かしながら、写真記者としての能力を存分に発揮した結果で、まさに執念の1枚です。
 新聞協会賞に動画から抜き出した写真の応募が当たり前になり、いつしか動画の応募が主流になると心配するのは大げさでしょうか。1枚の写真が発する光と影、色や形、そのすべてがニュースを構成し、撮影前の緻密な計算と相反する結果も写真です。ニュースでも企画でも、それらが決定的な瞬間であってほしいとも思います。新聞の将来への努力と上質な写真を読者に届けようとするこだわりは、常に並列であってほしいと思います。
 渾身の思いを込めてシャッターを切った100枚の写真。読者の反響や意見などに東京への思いが伝わってきました。新旧入り交じった東京の知的で優美な写真には、その魅力とともに東京の課題や問題も見え隠れします。連載途中には100年に一度といわれる経済危機が世界を覆い、揺れに揺れた政局の中で、都市と地方の関係や格差も論じられました。準備期間を含め、カメラを通して見続けた2年間は、東京を考えることの意義をあらためて実感させてくれる日々でもありました。描き出した姿は、ほんの一部です。「東京」への取り組みは、 まだまだ続きそうです。        (了)
 (新聞研究10号より)

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2009年10月08日 23:33に投稿されたエントリーのページです。

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