東京写真記者協会は1月20日(土) 「2017年報道写真展 記者講演会」を開催します。 新聞や WEB で目にする報道写真はどのようにして撮られているのか。写真記者はどのような思いでシャッターを切るのか。
受賞作となった 写真の撮影時の様子や報道写真への思いなど、写真記者の生の声をぜひお聞きください。
【講演】 午後1時30分〜午後2時30分
東京新聞編集局写真部 沢田 将人記者
2017年東京写真記者協会賞グランプリ 「沖縄の視線」
産経新聞東京本社写真報道局記者 川口 良介
奨励賞スポーツ部門(海外) 「400リレー、歓喜と衝撃と」
【質疑応答】 午後2時30分〜午後3時30分
コーディネーター 東京写真記者協会事務局長 池田 正一
申し込みはメールまたは往復はがきで住所・氏名・電話番号を明記してお申し込みください。定員になり次第、締め切らせていただきます。
メール press2017@pressnet.jp
往復はがき 〒231−8311
横浜市中区日本大通り11 ニュースパーク「記者講演会」係
(返信部分にあて先をお書き下さい)
1月21日(土)午後、横浜市中区の日本新聞博物館で「2016年報道写真展 記者講演会」を開きました(写真@=東京新聞撮影)。
新聞読者の方が60名来場、関係者を含めて70人を超える盛況の記者講演会になりました。
2016年報道写真展のメインテーマは多くの感動を呼んだリオデジャネイロオリンピック・パラリンピックです。年間最高賞のグランプリを受賞した毎日新聞梅村記者は、400メートルリレーの第4走者で競り合うケンブリッジ飛鳥選手とジャマイカのウサイン・ボルト選手をとらえた瞬間の撮影秘話を披露、「バトンリレーと同じように取材する記者も取材位置を分担、チームワークで受賞できた作品」と取材位置の詳細も画面投影して説明しました。スポーツ写真がグランプリを受賞するのは記録が残るこの40年間でも初めてです。
「アナザーアングル」はどのようにして撮られているのか。撮影時の様子に加え、撮影に至るまでの取材秘話なども交えて講演したのは東京新聞由木記者(写真A)。4人の取材班を代表して取材の詳細について話しましたが、日常の見慣れた風景の中から「新しいアングル」を、しかも東京に限られた風景を探し出す苦労について来場していただいた方に聞き入っていただきました。
写真記者が被写体にどのようなアプローチをしてシャッターを切るのか。1枚の写真に仕上げるまでに現場に何度も足を運ぶような取材までの裏話や苦労について、新聞読者の理解が深まったのではないかと思います。
また「アナザーアングル」はSNSのインスタグラムを意識した正方形の画面に表現するよう企画したということから、議論はネットと写真の関係にも進みました。由木記者はネット上の画像にはない新しい表現を探して“いい写真”を新聞紙上で読者に届けたいと決意も語っていました。
参加したパネラーは以下の写真記者です。
グランプリ
「実力の銀、ボルトも驚く日本のリレー」(写真B)
毎日新聞 梅村 直承
企画部門賞
「アナザーアングル」(5枚組の1枚、写真C)
東京新聞 由木 直子
写真@
写真A
写真B
写真C
野球殿堂博物館と東京写真記者協会は、企画展「 野球報道写真展2016」を開催します(写真)。
本展では、東京写真記者協会加盟各社のカメラマンが撮影した2016年シーズンの野球界のハイライトを収めたベストショットで、野球の素晴らしさを伝える 写真約70点 を展示し、シーズンの出来事を振り返ります。
また、会場では「ベスト ショットオブザイヤー」を決めるファン投票を実施します。
会期 2016年12月17日 (土)〜2017年1月29日 (日)
主催 公益財団法人野球殿堂博物館、東京写真記者協会
協力 一般社団法人 日本野球機構、一般財団法人 全日本野球協会
会場 野球殿堂博物館企画展示室(東京ドーム21ゲート右)
入館料 大人600円 高大学生400円 小中学生200円 65歳以上400円
開場式
2016年を報道写真で振り返る「第57回2016年報道写真展」が12月14日、日本橋三越本店7階で始まりました。
オープニングセレモニーのゲストはリオオリンピックのカヌー・スラローム男子カナディアンシングルで銅メダルを獲得した羽根田 卓也選手とパラリンピック車いすラグビーで銅メダルの池崎 大輔選手です。テープカットを終えた両選手は自らの競技写真にサインしました。会場ではサイン入りのパネルがご覧になれます。
写真はいずれも共同通信社提供。
写真展は、日本橋三越本店で12月25日(日)まで。
12月27日から2017年1月3日まで(元旦を除く)、静岡伊勢丹(静岡市葵区)でも開催いたします。(いずれも入場無料)
3月5日(土)午後、東京・品川のニコンセミナールームで「2015年報道写真展 記者講演会」を開きました(写真=読売新聞東京本社撮影)。
約30人の新聞読者の方が来場、関係者を入れると40人を超える盛況となりました。
報道写真はどのようにして撮られているのか。撮影時の様子に加え、撮影に至るまでの取材秘話なども交えて1時間半。写真記者がどのような思いで現場に駆け付け、シャッターを切るのか。あまり表に出ない取材の裏話や苦労について、新聞読者の理解が深まったのではないかと思います。
参加したパネラーは以下の写真記者です。
東京新聞編集局写真部 河口 貞史記者
2015年東京写真記者協会賞グランプリ
「安保法案にNO!」(写真@)
読売新聞東京本社編集局写真部 林 陽一記者
一般ニュース部門(国内)
「濁流からの生還」(写真A)
サンケイスポーツ写真部 今野 顕記者
スポーツ部門(国内)奨励賞
安保関連法案に反対し、国会議事堂正門前の道路を埋め尽くして廃案を訴える大勢の人たち(写真@) | 鬼怒川の堤防が決壊、電柱につかまり救助を待つ坂井正雄さん親子 (写真A) | 楽天ドラフト1位の安楽智大投手の初ブルペン入り での一コマ。大久保監督(当時)が「まっすぐは(田中)将大に似ている」と評する右腕は、左手を大きく上げる独特のフォームで42球を投げ込んだ。開いたグラブの 隙間から、未来を見据える鋭い眼光をのぞかせた (写真B) |
ゲストは前中日ドラゴンズの山本 昌さん(野球殿堂博物館)
(写真は共同通信社提供)
野球殿堂博物館と東京写真記者協会は、企画展「 野球報道写真展2015」を開催します。
本展では、東京写真記者協会加盟各社のカメラマンが撮影した2015年シーズンの野球界のハイライトを収めたベストショットで、野球の素晴らしさを伝える 写真約70点 を展示し、シーズンの出来事を振り返ります。
また、会場では「ベスト ショットオブザイヤー」を決めるファン投票を実施します。
会期 2016年 1月 26日 (火)〜2月 28日 (日)
主催 公益財団法人野球殿堂博物館、東京写真記者協会
協力 一般社団法人 日本野球機構、一般財団法人 全日本野球協会
会場 野球殿堂博物館企画展示室
入館料 大人600円 高大学生400円 小中学生200円 65歳以上400円
安倍首相が12月19日午後、日本橋三越本店で開催されている「第56回2015年報道写真展」を鑑賞しました。(写真は共同通信社提供)
開場式
2015年を報道写真で振り返る「第56回2015年報道写真展」が12月16日、日本橋三越本店7階で始まりました。オープニングセレモニーのテープカットは世界レスリング女子48キロ級で優勝し大会3連覇、リオ五輪でも活躍が期待される登坂絵莉選手らで行われました。写真は共同通信社提供。
写真展は、日本橋三越本店で12月24日まで。12月26日から2016年1月3日まで(元旦を除く)、静岡伊勢丹でも開催いたします。(いずれも入場無料)
写真@「火山灰の中に生存者 〜御嶽山噴火」 産経新聞 大山文兄
写真A「太陽を横切る若田船長のISS」 朝日新聞 飯塚晋一
日本新聞博物館主催の「2014年報道写真展 記者講演会」が15年2月20日(土)、同館のニュースパーク・シアターで開かれ、120ある客席が熱心な聴衆でほぼ埋まる盛況でした。
「火山灰の中に生存者〜御嶽山噴火〜」=写真@=長野県御嶽山の突然の噴火翌日に山頂付近で救助を待つ女性の姿を捉え、2014年東京写真記者協会賞(グランプリ)を受賞した産経新聞東京本社写真報道局大山文兄編集委員、「太陽を横切る若田船長のISS」=写真A=で日本人として初めて船長となった若田光一さん搭乗のISS(国際宇宙ステーション)が太陽の前を横切る瞬間を見せ、一般ニュース部門(国内)部門賞を受賞した朝日新聞東京本社報道局写真部飯塚晋一記者が受賞作だけではなく、関連する画像などを投影しながら講演しました。コーディネーターは東京写協池田正一事務局長。
講演後には会場からの質問に答えながら、新聞社の写真記者の取材活動、紙面では伝えられない取材秘話、報道写真として伝える側の思いなどについても語って頂きました。(以下はその抜粋です)
【池田】本日はご来場いただきありがとうございます。新聞博物館での写真展は今回で10回目になります。写協主催「2014年報道展」で55回目を数えます。1年を報道写真で振り返る写真展です。この講演会でみなさんの報道写真、新聞写真への理解が深まればと思います。講演するお二人は多くの仕事をしてきた超ベテランです。今回の受賞作だけでなく、取材秘話までお伝えできると思います。大山さんお願いします。
【大山】産経新聞の大山です。始まる前に写真展に展示されている私の写真を見てきました。飾られている写真の中で一番画質の悪い写真ではないでしょうか。2011年5月からデスク勤務をして、現在は編集委員の仕事をしています。3月11日の東日本大震災では1か月間取材をして、デスクの仕事をしています。デスクワークは仮眠はあるものの、24時間会社で勤務しています。新聞カメラマンの中ではデスクになることは“終わった”とみられがちで、このまま定年を迎えるのかと思っていました。今回御嶽山噴火取材で賞をもらえるとは思ってもいませんでした。2008年から新潟県佐渡島のトキ放鳥取材に携わっており、7年経った現在でもデスクをしながら取材を続けています。この取材だけは年2回ほど、延べ3週間続けて自分がまだカメラマンだというモチベーションだけは持ち続けてきました。トキの取材は800_の超望遠レンズを使用しています。車の中から窓ガラスに固定して撮影しています。トキは車に対しては全く警戒しません。動く人間についてはすぐに逃げてしまいます。地元では車から出てはいけないというルールがあり、トイレ以外は外に出ません。佐渡での自然というと大自然の中でのんびりと撮影していると思われがちですが、私の知っている佐渡は田んぼの風景ぐらいです。
今回の御嶽山噴火取材も、トキの取材をしていなければ、800_の超望遠レンズを使おうとは思わなかった。(トキの写真を続けて見せ)21日の産経新聞朝刊にはトキのグラフが掲載されます。よろしかったら手に取ってご覧になってください。
9月27日昼前に御嶽山が噴火しました。当日は泊り明けのデスクで、24時間経ちもうすぐ退社できる時間でのんびりとしていました。午前中まで、制作する新聞の1面候補は木曽駒ヶ岳の千畳敷カールでの紅葉を売り込もうと思っていました。午前9時過ぎに現地から紅葉の写真が入ってきて、編集長に売り込みたいと思っていました。(ボツになった木曽駒ヶ岳の美しい紅葉風景を見せながら)御嶽山でも同じような光景が広がっていたはずです。当日NHKが現場で取材してスクープ映像でした。産経新聞も山ひとつ裏側の駒ヶ岳。この取材者は一歩間違えれば自分が被災者になっていた可能性もありました。御嶽山と逆側に下山しましたが、まったく音も感じなかったようでした。
午前11時52分に御嶽山が噴火しました。次第に大惨事であることがわかってきました。土曜日の出勤者は少なく、当日出勤していたカメラマンを現場に向かわせました。駒ヶ岳取材で下山中の取材者もタクシーをチャーターさせて現場に向かわせました。東京から取材に出たカメラマンが到着したのは午後7時になり、真っ暗になっていました。現場は非常線が張られていて、下山する登山客を窓越しにしか取れなかったと聞いています。
駒ヶ岳取材で転戦した取材者が話を聞いた女性が山岳ガイドでした。軽トラ大の噴石が飛んでいたとの話が産経新聞だけに掲載されました。気象庁の記者会見では当初誇張しているといわれていたが、その後気象庁もその事実を認めました。発生当日の貴重な証言だったと思います。
私なりに考えている事件災害取材のセオリーがあります。@早く現場につくことAより近づくことBより高い場所から撮ることです。この日はいかに登山者が撮影した写真を入手できるかを4つ目に入れなくてはなりません。前日の勤務開始から30時間が経ち、思考能力も低下していました。東京からもヘリコプターをチャーターすることになり、勤務できるカメラマンがいないため、自分が行くしかないと腹を決めました。どんな取材でもそうですが、自問する3つがあります。まずどんな写真を撮りたいのか、現地の状況は、機材は何が必要なのかです。この3点は皆さんが写真を撮るときには使えると思います。良かったら覚えておいてください。
まずどんな写真か。噴火から一夜明けての取材なので、救出される登山者の表情をできるだけアップで狙おうとしました。救出活動が続いており、ヘリの低空取材ができないことや噴火も続いており制約のあるものと考えました.
今はヘリの騒音問題もあり、低空での取材は難しくなっています。昔、ヘリコプターは脚立替わりと言われていました。低く降りて取材するのが当たり前でした。29年前、伊豆大島の三原山の噴火では、取材中の他社ヘリに噴石があたり、緊急着陸したこともあります。
どのような機材が必要なのか。新聞各社はヘリの格納庫にある機材を持ち出すのが当たり前です。よほどの企画取材ではない限り、800_の超望遠を使うことは考えられません。ヘリからの撮影は100−400_程度のレンズが一般的です。上空は寒くなると思い、手袋も持参しました。噴火してから1日たった現場では自分がトキ取材で7年間使い慣れた800_を使い、いい画質で撮影すると決めたわけです。
800_で撮影した写真と肉眼と同じ画角50_で見た風景と見比べてみてください。(東京・大手町の産経新聞から撮った写真を比較)800_はここまで拡大して撮ることができます。プロ野球のセンター席から撮ったり、野生動物、私はトキ取材で使っていますが、あまり使われない特殊なレンズと言えるでしょう。値段では175万円ぐらい。重さは4.5`です。800_で撮影するメリットは肉眼で見る16倍で撮れること。トリミングで画質が優位になる、遠近感を圧縮する効果があり、被写体を浮き上がらせることができることです。デメリットはヘリの機内では三脚、一脚が使えないことです。ヘリは200`近いスピードで飛び、各社のヘリも飛んでいることでホバリング(空中で飛行停止する状態)ができませんでした。そのために振動がありブレが発生してしまいます。早いシャッタースピードで被写体を大きく撮るよりも小さく撮って画像を拡大するようにトリミングして写真を生かす手法が新聞写真の場合に取られます。上空で心がけたことがあります。撮影よりも救出作業を優先して妨げにならないようにしました。飛行に関するパイロットの判断も優先させることも部長と決めました。
午前10時に離陸して、1時間後に御嶽山上空に到着しました。スケールが大きな現場で、何を撮ればいいのかというものがわからないぐらいでした。多くの事件事故取材に携わってきましたが、火山の噴火取材は初めてです。初めて旋回しているときに、捜索隊が目に入り、一面灰色となった現場で後方にある色鮮やかな紅葉が印象的でした。この風景を被災した登山客の方たちも見ていたのだなと思いました。紅葉と灰色の現場を絡めた写真はほかの新聞にはなかったと思います。
捜索隊が中腹の山小屋に到着した場面がありました。山道が火山灰で埋まって、張られたロープがないとわからないくらい状態です。到着してから15分、山頂から離れて全体を見渡すことにしました。事件事故はピンポイントなんですが、この噴火は山全体が現場でそのスケールの大きさに飲み込まれそうになりました。自分を落ち着かせるためです。当日は10機以上のヘリが上空で旋回していました。11時20分になって航空無線が救助を待つ女性がいることを伝えていました。手を振っていると。ヘリは円滑に飛べるように同一の周波数で連絡を取り合っています。救助のヘリに情報を提供していたのです。その女性がどこにいるのかもわからないので、その情報にとらわれず、次の写真を撮ることにしました。揺れる機内から画面の中にとらえるだけで難しかったです。撮影した画像をトリミングしてわかる噴石の恐ろしさがわかってもらえると思います。
11時30分ごろに同乗の社会部記者が偶然、山頂付近の石垣付近に横たわる女性を発見しました。ヘリでは、視界が限られています。窓から見える対象を報告しあって情報を共有します。800_で撮影しましたが、画面で見てもよくわからないくらいです。現場とは1500メートル離れたところから撮っています。社会部記者が肉眼で見た時と800_で撮った時を比べると画像では小さくしか写っていません。
この女性が来ていた登山服が蛍光ピンクだったのでわかると思います。この写真を拡大したものが受賞したものです。近くには亡くなられていると判断できる方もいました。揺れる機内からファインダーにとらえるだけで精いっぱいでした。この女性が航空無線で伝えられていた女性かわからずに撮っています。新聞写真の場合、亡くなられた方の写真を掲載することはありません。かつてほかの新聞社で掲載した時があって、苦情や抗議があったと聞いています。撮影できる時間が30分を切っていました。上空を2周して全部で41枚撮影しました。(現場の状況を投影しながら説明)11時43分に離脱する準備に入り、交代で飛来した大阪本社のヘリに先ほどの女性の救助場面は任せて長野ヘリポートに向かい、機内で画像を確認しました。生存していると確認できたのは、リュックの位置が変わったこと、手が動いたこと、顔の角度が変わっていたからです。社会部の記者と「よかった」と喜んだことを覚えています。アップにして1枚目を送信しました。自分がアピールするものを送るように心がけています。
東京へリポートに戻り、デスクから状況がわかるようにトリミングして再送するように連絡がありました。自分もデスクワークをしていますが、いざ取材に出ると思い込みやこだわりが出て、冷静に判断できないところがあります。デスクは冷酷に写真を見て判断するのが仕事だと思います。今回の受賞作がそのトリミングで、アップにするよりも現場の状況がわかり、この女性が生存できたのかのヒントがこの写真からわかると思います。この女性が誰なのか、どのように救出されたのかは警察発表がなくわかりませんでした。掲載について編集局長はじめ整理部長など幹部が議論を重ねました。写真報道局長が最後に掲載の判断をしました。現地の取材班から救出後に亡くなられた女性はいないということが伝えられ、掲載の後押しになりました。
報道写真として評価されたことは光栄ですが、50人以上の方が亡くなり、今も現場に取り残されたかたもいます。受賞作がパネルとして展示されている事に、報道写真とは違うのではという思いがあり、自分の中で整理がついていません。葛藤を抱えながらみなさんにお話しする日を迎えてしまいました。現場を記録する報道写真と、それに伴う賞というのは別のものと思っています。選ばれたのは光栄ですが、この女性の気持ちを考えた場合、喜びではなく、申し訳ないという気持ちがあることをこの会場に来ていただいた方にはわかってもらいたいと思います。
【池田】 1枚の写真を撮影に至るまでの大山記者の様々な考えや報道写真と新聞に掲載されることとパネルで展示されることについて大山さん自身の葛藤について踏み込んで話してもらいました。
【飯塚】 朝日新聞の飯塚です。天文の写真で賞を頂きましたが、天文写真を専門に撮っているわけではありません。写真記者として今までどのような仕事をしてきたのかということから説明したと思います。昨年の2月末にはソチ五輪でフィギュアスケートの取材をしていました。写真記者には専門分野というものはなく、担当もあまりありません。私の場合は冬季五輪のトリノ、バンクーバー、ソチと3大会連続で取材しました。撮っていてファインダーが涙で曇ったのはソチ五輪の浅田真央選手のフリーの演技でした。その前年は福島でのフリースタイルW杯を撮っていましたし、その前の年は大阪本社勤務でした。高浜原発が稼働を終えるというのでヘリで上空から取材していました。その前の年は大阪の橋下知事(当時)が脱ダム方針を打ち出していたので、地元の陳情の様子をやっています。バンクーバー五輪ではカーリングを撮っていましたし、外国人の介護福祉士を受け入れる動きの取材もありました。その実習に密着していました。2007年には東京勤務。三遊亭圓楽さんの引退会見をとりました。その前年がトリノ五輪です。フィギュアの荒川選手の代名詞ともなっている「イナバウアー」を撮っていました。日々の事件事故も含めて様々な取材をしていました。現在は国会担当です。昨年12月の衆院選投開票の時の自民党本部の写真です。(各社カメラマンが密集している様子を見せ)安倍首相からはこのように取材陣がこのように見えています。
天体写真とのかかわりですが1986年にハレーすい星が来ました。76年に1回地球に近づき明るくなりますけれど、天体ブームになり小学生6年生の私はすい星をいつか見てみたいと思っていました。日本からの条件は悪くて見られず、大きくなったらすい星を写真に撮りたいと思っていました。高校、大学と写真部にいました。大学では心理学を専攻しましたが、将来写真で食っていこうと決意して卒業後報道カメラマンになりました。多種多様の取材が報道カメラマンの仕事です。その中に専門的な天文写真を自分の得意分野にしていこうとしたわけです。例えばしし座流星群(1999年、2001年に大出現)です。高知の室戸岬で撮った写真です。(写真を説明して)幻想的な雰囲気の写真になりました。2009年の皆既日食に(北硫黄島付近で同僚が撮った写真を示して)朝日新聞は全部で十何人も取材記者を出しましたが唯一地上、海上から撮れたのがこの写真です。私がいたのは鹿児島県の種子島に行きましたが雨でした。重い機材を担いで持っていきましたが皆既日食中の写真ですが、日没後30分ぐらいの暗さになったようでした。撮れなかったリベンジを果たそうと休みをとって2012年にオーストラリアに自費で行きました。(曇っている写真を見せ)この辺に太陽があるはずなんですが、全然見えませんでした。皆既日食が終わってから太陽の光が差してきました。雲が一つあるだけで振り回されてしまう、己の小ささを感じるのが天文取材です。金星の太陽面通過というのがありました。7時間かけて金星が太陽の手前を横切る現象です。この写真を撮るには赤道儀という天体の動きに合わせて自動で動くカメラの台です。7時間にわたり晴れていないといけないので、天気予報を参考に「晴れの国」といわれる岡山県岡山市で撮りました。(撮影風景の写真を見せ)パソコンですぐに合成作業ができるように準備していました。赤道儀は夜になって北極星が見えないと設置できません。前日夜から準備していました。太陽の光は強烈です。フィルターを付けますがアルミホイルのようなものをレンズに付けます。太陽光が10万分の1になるものです。2012年金環日食がありました。東京都心で見えたので記憶されているかたも多いと思います。私は大阪本社勤務でしたので、和歌山県那智勝浦町に行きました。(その写真を見せ)二重に見える瞬間は雲に隠れていて、真ん丸に見えず中心が偏っているものになりました。その時も赤道儀と800_に倍率を倍にするテレコンというレンズを追加して撮りました。大阪通天閣の上空で皆既月食です。連続写真ですが、雲で見えないところが欠けています。月の軌道は毎日変わります。下見を重ねていましたが、通天閣に月が隠れてしまうのではとひやひやしたのを覚えています。そのほかのすい星の写真取材で午前3時に和歌山県の天体取材で有名な山奥で他社のカメラマンにあったことがあります。同じ狙いで来るなんて同じものを考えているカメラマンもいるんだと思いました。
アイソンすい星は肉眼でも見られるといわれていましたが、太陽に近づいてバラバラになったことは皆さんごぞんじの通りです。この写真も赤道儀で撮りましたが、肉眼ではほとんど見えず、双眼鏡でようやくぼんやり見える程度のものです。
天候に左右されてしまうのが天体のしゃしんです。今回受賞した写真ですが、横切っている時間が0.6秒です。ピュという時間です。このような現象は頻繁に起こっています。何度も狙ってきましたが、夜空では1〜2分かけて横切るのもわかります。太陽の前を横切るISS(国際宇宙ステーション)を撮ってみたいと思っていました。若田船長が地球に帰還するタイミングです。インターネットで軌道が計算できるので、日本国内で3回のチャンスがあり、日中のほうがいいと判断しました。撮影場所は下北半島の青森県横浜町です。ホタテと菜の花で有名なところです。ホタテの貝殻で埋め尽くされている海岸で、地元の漁師さんに不審がられていましたがひとり腕時計をみてひたすら連写していました。2秒間です。すぐにカメラのモニターで確認するとISSが横切っていくのがわかりました。(一コマの写真をみせ)左上にISS,黒い点が太陽の黒点です。ISSの大きさがサッカーグラウンドを同じくらいです。450`上空のものが800_と2倍のテレコンバーターでこのような写真が撮れたということです。1200_という超望遠レンズで撮ろうとした時もあります。
今回は天文写真のテクニカルな写真で受賞しました。事件事故の現場や伝えるための使命感で発表する写真が多い中で、自分が計算して企画して、紙面に使ってもらい誰も不幸になっていないということがよかったなと思っています。ご清聴ありがとうございました。
【池田】 飯塚さんも撮影に至るまでの苦労に加え、自らがこうむった不運まで明らかにしてもらって面白いお話でした。
【池田】 飯塚さんの写真は7枚の写真を合成しています。どのように処理されたのでしょうか。
【飯塚】 デジタル時代になり、写真の合成処理は簡単になりました。報道写真は本質を損ねる不自然な合成は使えませんが連続で動きを見せる場合に使う場合があります。複数枚の画像を重ねて比べて暗いところだけを残すソフト機能を使って合成しました。
【池田】 撮影のデータについての質問が多く寄せられています。
【大山】 昨年は3回しか取材に出ていません。トキの取材の設定のままで撮ってしまいました。1000分の1ぐらいでいいのかなと思っていましたが、カメラの設定が1600分の1、感度自動、すべてカメラ任せでした。普段は使わないRAWデータ(受光素子に入った光の情報をそのまま記録する形式)でも撮ってしまいました。普段は新聞写真では使用しません。そのため、あそこまで拡大したトリミングでも見ることができたのではないかと思います。
【池田】 三脚、一脚は使えないですが手持ちで撮ったのですが
大山 他社のカメラマンから翌日に聞かれましたが、手持ちで800_と答えました。
【池田】 私も現場にいましたが、400_を超すとヘリの振動でカメラがぶれ、ファインダーの中は何が写っているのがわからないくらいだと思います。
【大山】 佐渡で撮っていたトキ取材とヘリのスペースがほぼ同じなので、トキを撮っていなかったならば今回も取れなかったと思います。
【池田】 大山さんがRAWデータで撮っていなかった紙面に掲載できなかったということですか
大山 紙面には耐える画質でしたが、パネルで展示するのは無理ではなかったのではないでしょうか
【池田】 大山さんには肉眼で見た現場と800_で拡大したものを見せてもらいました。現場取材そのものを紹介してもらっています。産経新聞記者の方が生存していて「よかった」ということを言われました。その通りですね。事件事故の場合、目の前に目をそむけたくなる光景があります。東日本大震災も同じでした。現地入りした写真記者は命を真剣に向き合っています。どう記録する、どのように伝えるという厳しい現場と同じ状況でした。その取材で大山さんはその後も写真で見せることについて様々に心の中で葛藤している、いまだに自分で整理がついていないと締めくくられていました。
写真記者というのは飯塚さんが披露していたように様々な被写体が対象です。楽しいものもあれば、有名人にも会えます。でも政治の世界は面白くないですね。
【飯塚】 国会担当ですから、たとえば昨日は予算委員会などを朝から晩まで2000枚ぐらい撮りましたが、結局は1枚も紙面に出ませんでした。
【池田】 2000枚ですか。1日取材しているとそれだけシャッターを切る場面があるんですね。当日の予算委員会はヤジ合戦など相当ヒートアップしていたようですね。
ところでヘリコプターの中から送信することがありますか。
【大山】 締切に間に合うように送ります。大阪本社勤務時代にはこの高速道路サービスエリア上空は回線がよくつながるなどと言われていました。
【飯塚】 携帯電話の通信速度が遅いときにはPHSを使っていました。海上は航空法で高度300メートルの規制がないので、海岸まで出て低空で電波をつかんで送っていたこともあります。
【池田】 自費でカメラ機材を購入することはあるんですか
【飯塚】 赤道儀の私物があります。30万円。必要ということで会社にも買ってもらいました。
【池田】 飯塚さんが天文に対する知識の欲求はなんですか
【飯塚】 小学校時代にハレーすい星が見られなかったのが原動力になっています。なかなか見られないものをきれいな写真にしたいとか宇宙のロマンをかきたててくれるということです。近年の天文ブームで将来天体写真を撮る子供が増えるんだろうなと自分でも勉強しています。
【池田】 自分で撮りに行くと天候が悪いという不運に恵まれてしまうということですね。
【飯塚】 お金の続く限りやりたいです。2017年にアメリカで皆既日食があります。2035年には日本でも見られます。みなさんも楽しみにしてください。
【池田】 デスクの勤務はどのようなものと質問があります。
【大山】 ヘリの写真は新人でも撮れるわけではありません。デスクの私が、写真部に残された中では私を選んで現場に派遣するという決断をしたのです。
【池田】 デスクは部員が撮ってきたものをデスクが生かす、ボツにする、時には見ないでボツにするなんてこともありますよね。大山さんはデスクの見方と撮影者としての見方が違って自分が撮った時には思い込みやこだわりがあって冷静に判断できなかったと語られていました。
【大山】 デスクとして見てしまうと、写真に愛情がわきません。自分が撮ったものではないからで、なんでこんな撮り方をするんだよとか、じぶんならこう撮ると思ってしまいます。こだわりですね。冷酷に画像をトリミングしてしまうことでよくなることもありますよね。今回の場合もデスクがみてくれて適切なものだったと思います。
【池田】 デジタル化の時代で、大量に撮れる中で、大山さんは上空で41枚しか撮らなかったですね。画像すべてがそのまま読者に伝えられる写真だったと思います。大山さんの技量はすごいですね
【大山】 ありがとうございます。生存しているのがわかっていたのに自分でも41枚なのかという後悔がありましたが、撮りすぎた場合に短時間でやる作業で大丈夫だったかなとも思います。フィルム時代は1つの仕事で1本のフィルムに起承転結を収めろと教育されていました。今の若い部員は無限に撮れるため、入社直後の部員が大相撲の取材で撮り続けて、結びの一番でカードの容量が無くなったという大失敗もありました。
【池田】 会場からの質問には我々の仕事の本質的な部分についてのものがあります。「伝えることはどのようなことか」「伝える際の制約とは」などです。本来ならばディスカッションしてお答えしたいところですが、定められた時間になってしまいました。
写真記者の場合「クールアイ、ウオームハート」と言いまして、冷静な目で切り取り、シャッターを押す心の中は温かいものがあるというのが我々の仕事の基本ではないでしょうか。大山さんの葛藤は「伝えることは重要だけれど、媒体が変わって時間を経た時にどのようなことか」を自問自答しているということは理解していただきたいと思います。写真の持つ機能として写真を見れば、脳の引き出しに収められたさまざま思いや様子がよみがえる、その引き出しのカギが明けられてまた新たな思いや考えが引き出されるということではないでしょうか。その一端が新聞紙面や新聞社のウェブサイトではないでしょうか。それで毎日毎日、ニュースを皆さんにお届けしているということですね。先ほど知人に「文字じゃダメなんだ。写真だから伝えられるんだ」といわれました。その通りだと思います。
報道写真で1年を振り返る写真展は来年も開催させていただきたいと思います。
きょうはご来場いただきありがとうございました。
安倍首相が12月20日午後、日本橋三越本店で開催されている「第55回2014年報道写真展」を鑑賞した。衆議院選挙で与党を大勝に導いた安倍首相は、写真パネルが展示されているコーナーで2か所にサインをして笑顔で報道陣に応えた=写真、朝日新聞撮影。グランプリを受賞した産経新聞の御嶽山噴火の「火山灰の中の生存者」では写真に食い入るように見入り、各部門賞や毎月のニュース写真をうなずきながら見て回った。
開場式
2014年を報道写真で振り返る企画展「2014年報道写真展」が、12月13日(土)から日本橋三越本店7階で始まった。東京写真記者協会賞に選ばれた「火山灰の中に生存者」(産経新聞・大山文兄記者撮影)をはじめ、約280点が展示されている。テープカットは、アジアを制した女子サッカーのなでしこジャパン・佐々木則夫監督と仁川アジア大会女子柔道52キロ級金メダリストの中村美里選手らで行われた=写真。ゲストの両氏は写真展を鑑賞した後、巨大な写真パネルにサイン、プレゼントされたデジタルカメラで報道陣を逆取材して笑顔を見せていた。
同写真展は、日本橋三越本店は12月24日(水)まで。2015年1月10日(土)から3月29日(日)まで、横浜の日本新聞博物館でも開かれる(入館料が必要)。
日本新聞博物館主催の「2013年報道写真展 記者講演会」が14年2月15日(土)、同館のニュースパークシアターで開かれ、「見せましょう!日本の底力を」−JR南浦和駅で車体とホームの間に挟まれた女性の救出劇の様子を捉え、2013年東京写真記者協会賞(グランプリ)を受賞した読売新聞東京本社・繁田統央記者、「今年もふたりで〜福島県飯館村の春〜」で自宅の縁側で桜を見るお年寄り夫妻の姿をルポして企画部門奨励賞を受賞した毎日新聞社・須賀川理記者が講演しました。コーディネーターは東京写協の花井尊事務局長。講演のあと会場からの質問に答えながら、日ごろの取材活動、紙面だけでは語り尽くせない報道への思いなどについても語って頂きました。現代社会で写真・映像による報道に求められている役割や写真ジャーナリズム全般についても話し合いました。(以下はその抜粋です)
【花井コーディネーター】本日は大雪の中、予想以上に大勢の方々にお集まりいただきありがとうございます。この大雪では、多くの人は外に出て来られないな、と自分で勝手に思い込んでいたものですから大変感激しています。これから東京写真記者協会所属の二人の写真記者に受賞写真の取材に関して話して頂くほか、日ごろ写真取材やジャーナリズムに関して感じたこと、思うことなどをざっくばらんに話し合いたいと思います。まず、繁田さんは、たまたま現場に居合わせて事件に遭遇、その映像をすぐ本社に送り、夕刊紙面に載せました。さらに外国通信社がその記事、写真をキャリーして世界中で話題になったと聞いています。そのあたりも含めてお話しください。
【写真】挟まれた女性を救うため車両を押す乗客=繁田撮影
【読売・繁田】この写真を撮影したのは〜午前9時すぎ、JR京浜東北線・南浦和駅のホームです。私は、子供たちに写真の撮り方を教える出前授業のため、埼玉県蕨市の公民館へ向かう途中でした。最初は隣の車両のドア付近に駅員3、4人が集まっているところをのぞいて見ると30歳代ぐらいの女性がホームと電車の間にへそのあたりまで挟まれていました。女性は上半身をホームに横たえて、ぐったりしていました。しばらくすると「人がホームと電車の間に挟まれています」とアナウンスが流れました。「それは大変だ」と乗客も事態がわかり、そのうち、私の近くに居た人から、「車両を軽くするため、皆さん電車を降りましょう」と声があがったのです。その声かけに応じて、続々と皆が車外に出ました。ホームに出ると、駅員が女性を引き上げようとしている姿を見て、自然発生的に皆が電車を押し出しました。その数約40人。車輪を含めた1両の重さは約32d。「押しますよ せーの」というかけ声とともに車体が大きく傾き、女性が引き上げられたのです。「出たー」という歓声や歓声があがり、大きな拍手に包まれました。女性は病院に運ばれましたが、目立ったけがもなかったという。乗客は何事もなかったように電車に乗り込み、定刻の8分遅れで電車は出発しました。乗客の善意に、私の胸にも温かい思いがあふれました。
写真部員は、まず何でも良いから一報用に「現場写真を押さえる」ことを教えられます。私は夕刊に間に合わせようと写真電送の事を考え、ミラーレス一眼とスマートフォンを両手に持って、近くの階段を5段ほどかけ上がりました。階段の手すりに体を預けて、左手を伸ばして、スマホで撮りました。続いて、ミラーレス一眼で撮りましたがスマホの方がシャッターチャンスが良かったです。その場のホームで写真部に送った後、授業に向かいました。事件自体は大きな話ではなく、没かあるいは「県版」かなと思いました。写真部デスクが夕刊に売り込んでくれましたが、当日は参院選の翌日であり、紙面に余裕はありませんでした。しかし、編成デスクが「こんな写真、見たことない」と取り上げて、さいたま支局から取材をしてもらいました。取材は難航したと聞いています。当事者や目撃者は電車に乗って行ってつかまらない。私は授業の合間に、目撃者として、そのときの様子を電話で吹き込みました。授業が終わった時には夕刊ゲラのPDFがスマホに送られて来ました。夕刊発行と平行してヨミウリオンラインに掲載し、APなど外国通信社にも配信しました。私が撮影した写真は22日付け本紙夕刊に載ると世界中のテレビや新聞もこの写真を使って報道しました。各国のメディアに流れて、そこから、フェイスブックなどにこの写真をシェアする人が多く、世界の人々に広がりました。これほど、短時間に世界中に広がったのは、ネット時代だからこそではあるが、読売新聞の信頼性に裏打ちされたものだと思います。
日本の「普通の人々」の強さを物語るものだと思います。東日本大震災の被災地で黙々と復興にとりくんでいる人たちの存在が日本の底力と団結力を示しています。今回の賞は私が取ったものではなくて、ここで懸命に車両を押している人々が取ったものです。
【花井コーディネーター】今回、有意義な取材だったと思いますが、いつもこのようなケースにぶち当たるかどうか分かりません。やはり写真記者(報道カメラマン)は「記録」して「伝える」ことが第一義だと思います。お見事でした。いわゆるネット社会で、このように1枚の写真が世界に流れていくことを実感しました。ただ「撮る」だけでなく、どう「伝える」か、が今後も我々の課題になってくることと思います。これとは若干違うジャーナリズムの世界でじっくり取材して「伝える」企画もので、大変反響が大きかった福島県飯館村で老夫妻を追いかけた毎日新聞の須賀川記者に、取材のアプローチや苦労話しを交えながらお話しを聞きたいと思います。
【毎日・須賀川】「今年も2人で」は福島県飯舘村の現在は居住制限区域にある集落に住んでいる佐藤強さん、ヒサノさん夫妻を2011年6月から継続的に取材したうちの2枚です。お二人を2011年6月、12年5月、13年5月の計3回のグラフ紙面で紹介しました。連載という形ではなく、強さんの人柄に惹かれて通ううちに写真ができて、強さんの話す言葉で原稿ができていきました。3回のグラフに共通するのは強さんのヒサノさんと古里に対する愛情です。
私が初めて飯舘村の取材をしたのは2011年4月です。当時、飯舘村は広範囲に放射性物質に汚染されていることは分かっていましたが、対応の遅れから住民は不安の日々を過ごしていました。その後、全村民の避難が決まりましたが、故郷を離れることや、飼育している家畜がどうなるのか見えない状態で自分たちが避難する事への抵抗感がとても強かったように思います。
佐藤さん夫妻に出会ったのは6月です。すでに子供がいる家庭は避難を終えていましたが、それでもまだ数多くの農家の方が残っていました。「今までと違う切り口で飯舘の現状を伝えられないか」そんな思いで農家を訪ね歩いている時に「向かいのおじいちゃん、おばあちゃんは避難をしないで家に残る」という話を聞き、自宅を訪ねたのです。
強さんは「足の不自由なババと避難すると介護施設と仮設住宅に分かれて暮らすことになる。もう何年も生きられないんだから、最後まで一緒にいさせてくれ」と決意を話してくれました。そして村への思いを聞かせてくれました。
故郷への思いと家族への愛。被災した村人の現状や今後に対する考えは様々でもこの2つは常に共通しています。強さんの思いを伝えることで村の人の思いの一端を伝えられるのではと考え、1度目のグラフ紙面(グラフ@)を作りました。
グラフ@
その後も、暇を見つけては夫妻の家を訪ねました。取材というものではなく、カメラも持たず、お茶を飲んで世間話をして帰ることがほとんどでした。村の人が避難を終えた後、いつも明るく、冗談が好きな強さんですが、「一服しても話し相手がいないもの。だあれも通らねえ」というのが口癖のようになっていました。それでも別れ際には必ず「みんなが帰ってくるまで、ババと元気に見守り隊だ」と村の防犯パトロール隊「見守り隊」の名にひっかけて明るい笑顔で送り出してくれていました。
2012年5月、別の取材で村内を移動中に偶然、出くわしたのがこの光景です。築100年を超える自宅。ヒサノさんの生家で強さんは二十歳の時に隣の家から婿に入りました。たぶん2人が子供の頃から見ていた光景なのだと思うと神々しさすら感じました。でも撮影する私の背後には荒れた田畑が広がり悲しい現実があります。この写真と現実を対比させることで作ったのが2回目の紙面(グラフA)です。
グラフA
それから1年も同じように時間を見つけては訪ねていました。「話し相手がいない」という話に、近所の人が避難先で亡くなったという話が加わりました。3月、偶然、福島県内に滞在していた時に「ヒサノさんが亡くなった」と連絡を受けました。駆けつけると家は弔問客や葬儀の準備に追われる親類であふれかえっていました。強さんは私を見つけると「おらのババが死んじまった」と泣きはらした顔でつぶやきました。そして布団に横たわるヒサノさんを確認するように何度も何度も見ていました。
強さんの気持ちが少し落ちついた4月下旬、再び自宅を訪ねました。家の前に車を止めると強さんは1年前と同じように縁側で桜を見ていました。少し話をして、「桜が綺麗だから1枚撮らせて」とファインダーを覗くと部屋の中に飾られたヒサノさんの遺影が傍らで微笑んでいるように見えました。1年前を思い出し、残酷な時間の流れをこれほど強く伝えられる場面はないと思いました。これは高齢者の多い村が直面する問題でもあります。
撮影を終えると強さんは「ババも一緒に撮ってもらおうか」と室内から遺影を持ち出そうとしました。「もう一緒に写っているよ」。デジカメのモニターで撮影した画像を見せると「そうか。良かった」と微笑んでくれました。久しぶりに見る強さんの笑顔でした。(グラフB)
グラフB
以上がこれまでの取材経緯です。強さんとの付き合いは、もちろん今も続いています。もし次回のグラフ紙面があるとするなら村に人が戻って、強さんが大好きな農業を再開する様子を伝えたいと思っています。
【花井コーディネーター】興味深い取材話をありがとうございます。この2枚の写真を見てジーンときたのは私だけではないと思います。伝わってきますね、やりきれない思いとともに強さんのやさしさが。1枚の写真から発するメッセージは強いものがあります。やはり動画ではない写真のメッセージ性は、1枚の写真がおのずと語ってくれるのです。
さて、これからは三人でディスカッションをしながら、また会場からのご質問にも答えながら進めていきますので、よろしくお願いします。
○繁田さん、メディアの多様化でデジカメ、スマホ、ツイッター、電子新聞など、我々を取り巻く環境は激変しましたが、どう対応したらいいのでしょうか。
【繁田】それは新聞とネットのニュースは共存可能だと思います。一覧性、一度に目に入って来る情報量が違います。見出しや写真の大きさで何が重要なニュースかを教えてくれます。これからは紙とネットとの連動性が重視されるのではないでしょうか。よみうり写真大賞入選作品を紙面のスペースの都合上、上位までしか、掲載できませんが、YOLでは全入賞作品を見られます。高校生は写真部として、活動している生徒が多く、彼らの発表の場や作品参照の場として、人気が高いです。 記者の取材裏話、撮影の苦労話。記者が撮った動画などもあります。また全国の県版ニュースも掲載していて、ふるさとなど、興味のある県のニュースを見ることができます。新聞紙面で一般教養を身に付け、興味のある分野について、連動したネットでより深く知るという利用の仕方もあります。
○同じ質問ですが、須賀川さんはどう捉えますか。
【須賀川】新聞報道において速報の重要性はいうまでもありませんが、事件事故、災害で現場に居合わせた一般の方がツイッターなどで発信する一次情報に我々は速さという意味ではかないません。信頼のできる二次情報、三次情報、そしてその後の企画取材でいかに独自性を出していけるかがこれからますます問われていくと思います。
○須賀川さん、特に企画ものに対しての切り口といいますか、写真取材の信条とか、何か心掛けていることはありますか。
【須賀川】一口に企画といってもアプローチの仕方は様々で、今回の「今年も2人で」は佐藤さんのご自宅に通う中で、中心となる写真がたまたま撮れ、それを補う原稿やその他の写真をどう組み立てていくかを現場で考えています。これが自然や動物相手の企画だと、初めに思い描く映像があって、それを撮影するための手段を考える事前準備が重要になります。共通するのは、時間を掛け、現場に数多く通った方がうまくいくことが多いということでしょうか。
○同じく繁田さんはいかがでしょうか。
【繁田】90年代前半、読売新聞夕刊で「写撃」という、欄を先輩とデスク、3人で担当していて、 その時々の世相を斬るという目的、東京写真記者協会の92年国内部門企画賞をいただきました。当時はエイズやバブル崩壊、など時代をにぎわせたニュースを日々のニュースと違って、どう切り取るかが大変でした。まず、そのニュースが象徴するものは何か。及ぼす影響は、別の見方はないかを考えながら、全国の新聞を見たり、ネットで検索したりしました。ナイーブな問題だと取材拒否、良くても話だけで写真NGだったりと難しかったです。それを突破するには、実際に当事者に会って直談判をするという大切さを痛感しました。
○繁田さん、これまでに一番記憶に残っている写真取材は何ですか。
【繁田】それは下のアネハヅルの写真です。
ヒマラヤ山脈を越える、アネハヅルの渡りを撮りました。
アネハヅルはロシア、カザフスタンで繁殖、インドで越冬しますが、気流に乗って高度8,000メートル以上に上昇、ヒマラヤを飛び越えます。しかし限られた登山家以外、その渡りの姿を目にした者はほとんどいません。繁殖地で、21羽の背中にマッチ箱大の送信機を装着。モンゴルで送信機をつけた一羽を含む群れがダウラギリ西方を越える瞬間を撮るのに成功しました5,000`を渡るルート解明に役立ちました。日本野鳥の会との壮大なプロジェクトでプレッシャーも大きかったです。ネパールのカトマンズからチャーター機に乗って、標高3,000bの村を拠点にしました。車どころか自転車の1台もなく、強風が毎日村を襲います。村から馬に乗って川を渡って、3,500b山腹まで、毎日登り、800ミリの望遠レンズで強風の中、ひたすらツルが現れるのを待ちました。カメラ1台は川に転落したときに水没してしまい、もう1台は風に三脚ごと飛ばされて、破損して。残り2台になってしまいましたが、苦難の末、ヒマラヤ超えのツルを撮影に成功しました。ツルの後を追って、インドに渡り、休息地の湖で、群れの中に送信機を付けたツルを発見したときには熱いものがこみ上げてきました。
○須賀川さんはどうでしょう。
【須賀川】東日本大震災です。これまでも中越地震や岩手・宮城内陸地震など震災取材は経験がありましたが、想像をはるかに超えた被害の大きさに圧倒され、言葉を失いました。私は3月下旬に岩手県大槌町という所に入ったのですが、報道カメラマンとして「何を伝えるべきか」を考えるよりも、暖かい食事や人手、情報など被災者の「何が欲しい」をとにかく写真や原稿に盛り込んで発信しようと、被災者と読者を繋ぐ伝書鳩のようになれれば良いと思いました。
【花井コーディネーター】ありがとうございます。それぞれご苦労があったと思います。多くの写真記者たちは、国民の知る権利に応えるべく頑張っています。それが、「時代の目撃者」としての写真報道だと思います。これからも「記録する」ことはもちろん、社会に「問題提起」することも忘れずに、その両輪で精進していただきたいと思います。本日は大雪の中、ありがとうございました。これで終わらせていただきます。
以上
安倍首相が、12月21日午後、日本橋三越本店で開催されている「第54回2013年報道写真展」を鑑賞した。本人の写真パネルが展示されているコーナーでは、2か所にサインをして報道陣に応えた。安倍首相は、花井事務局長から説明を受けながら、終始笑顔で読売新聞のグランプリ写真や各部門賞、各月のニュース写真をうなずきながら見て回った。首相は「東京五輪・パラリンピックの決定は最も記憶に残っている」などと語った。
開場式
2013年を報道写真で振り返る企画展「2013年報道写真展」が、12月14日から、日本橋三越本店で始まった(24日火曜日まで)。入場無料。東京写真記者協会賞に選ばれた「見せましょう!日本の底力を」(読売新聞東京本社・繁田統央記者撮影)をはじめ、約250点が展示されている。テープカットは、ゲストの読売巨人軍終身名誉監督・長嶋茂雄氏らで行われた。長嶋氏は展示された自分の写真を見ながら「いい写真だ、いいねー」と感慨深げに見入っていた。
同写真展は、日本橋三越本店は年内の24日まで。年を明けて2014年1月11日から3月30日まで、横浜の日本新聞博物館でも開かれる。
長嶋茂雄氏が撮影した報道陣
日本新聞博物館主催の「2012年報道写真展 記者講演会」が13年2月16日(土)、同館のニュースパークシアターで開かれ、「闇を切り裂く火山雷」で桜島の噴火を捉え、2012年東京写真記者協会賞一般ニュース部門賞(国内)を受賞した産経新聞社・大里直也記者、「ここで生きることが闘い 福島県富岡町」で東電福島第一原発事故の警戒区域内で動物愛護の活動をルポして企画部門奨励賞を受賞した共同通信社・原田浩司記者が講演しました。コーディネーターは東京写協の花井尊事務局長。講演のあと会場からの質問に講師が答えていただきながら、報道カメラマンの実態、思いなど写真ジャーナリズム全般の理解を深めていただきました。(以下はその抜粋です)
【花井コーディネーター】本日はお忙しい中、大勢お集まりいただきありがとうございます。これから東京写真記者協会所属の二人の写真記者に受賞写真の取材に関して話して頂くほか、日ごろ写真取材やジャーナリズムに関して感じたこと、思うことなどをざっくばらんにお聞きしたいと思います。まず、大里さんは夜通し1日10時間以上の撮影が1週間以上続き、カメラも本人も火山灰まみれだったと聞きましたが、その辺の取材エピソードを含めてお聞かせください。
【写真】激しい火山雷が飛ぶ桜島の爆発的噴火=大里撮影
【産経・大里直也】この写真を撮影したのは昨年(2012年)の4月17日の27時(18日の朝3時)ごろです。2012年の4月というと、東日本大震災発生から丸1年が過ぎた頃でした。震災発生当時、私はサンケイスポーツの担当をしており、同年の7月に産経新聞担当に移動になったのですが、様々な事情があって発生当初の被災地に仕事としては行っていません。そのため、震災の取材を開始したのは8月頃からになるのですが、やはり一生懸命やっても当初から取材している人たちとはなかなか同じようにはいかないかなという思いはありました。そこで、全く違うアプローチができないかとぼんやり頭の隅で考えていました。そんな時、一周忌を迎えるにあたり、今度は東海大地震だとか富士山が噴火するとかの様々な予測や報道が出てきました。これらの話題が出るたびに「活断層」「プレート」「マグマの移動」などという単語が必ず出てくるわけです。そこで思いつきまして、火山の噴火だったら普段目にできない部分が表現できるのではと思ったのです。「地球は生きている」といった狙いです。
それまでの報道で、桜島の噴火回数が当時の年間最多記録を更新したとか話題があることは知っていたので改めて調べました。そうしたら火山雷という噴火の際に噴煙が巻き上がった摩擦などで発生する、普通の雷とは違う現象があるということがわかり、これが撮れたらすごいのでは、と上司に相談してみた、という次第になります。それでも、相談はかなりダメ元でしました。なぜならば、雷とか噴火とか、いつ起こるかわからないもの撮ってきますというので出張OKというのは、あまり考えられないからです。運にかなり左右され、取材日数や結構な額の経費をかけても必ず撮れるとは限らないわけで、本当に手ぶらで帰る危険性がかなり高いのです。そんな撮影でも「撮れたらおもしろい。行ってみたら!」と上司や会社が快く送り出してくれたのは大きかったです。
ここからは撮影話です。まずは噴火や火山雷の撮影が目的でしたので、撮影時間は自ずと夜になりました。したがって、明るくない時間は、夕方から夜通し朝まで、ずーっと撮影していました。これを約1週間続けました。空撮でもなければ展望台などの特別な場所ではなく、桜島の島内南側の草むらみたいなところです。連日、火山灰がすごく、カメラにカッパをかけておいてもすぐに灰だらけになってしまい、併せて夜露もひどく、いつでもシャッターを切れる状態にしておくことがまず大変でした。現地入りする前に、念入りに噴火状況を調べていったので、1日、2日目でまずまずの噴火が撮影できました。これは運がよかったです。早い段階で何かしかが撮れたので、手ぶらで帰らなくていい!という安心感が生まれました。そして、これが撮れているのだから、もっといいものを狙おうと、攻めの姿勢で撮影に臨むことができました。また、撮影の成功には、火山ウォッチャーとでも呼べる方との出会いが大きかったです。これも運がよかったといえます。現地に頻繁に通っている方だったので、噴火の条件などについて様々、教えていただきました。こういった詳しい人から教わることも取材の一環だと思っています。そして取材開始から約1週間が経過した日に、その方と自分とで今日は絶対に大きい噴火がくる!という予測ができた日がありました。そのため、その日に限ってはいつもより二まわりくらい広い画角で噴火口を狙いました。また、風向きがこれまでと逆だったのでカメラを向ける方向も逆にしました。そうして待っていたら、ついに大きな噴火に遭遇し、予想していた以上の結果になった、という次第です。
今回の取材については運が非常に大きいところでしたが、運をつかむための準備は十分にできていたのかなと思います。また、冒頭で以前スポーツ新聞の写真の担当をしていたと申しましたが、その経験がいきていると今、感じています。スポーツ新聞では野球の撮影が多くを占めます。野球担当になれば年間200試合くらい取材します。いつも同じようなところ(カメラマン席)から同じようなもの(マウンドや打席)を撮影します。そういった反復を繰り返すことで、見えてくるものがあるように思いました。それは、自分の予想できない部分をいかに撮影するか(自分の陳腐な予想で事態が終了した時はたいした事にはなってない)。そういった状況が起きた時に対応できる判断力と撮影技術をいかに身につけるか。といった点です。これらは事件・事故や今回の風景のような取材でも通ずるところは多くありますし、この経験が、今回の撮影の成功につながったと思います。
【花井コーディネーター】大里さんは今回、大変な取材だったようですが、いい写真が撮影できてよかったですね。火山灰をかぶりながら取材した姿は頭が下がります。頑張ってもいつも結果がついてくるとは限らないですが、今回は粘り勝ちですね。さて、これまで新聞協会賞などいくつもの受賞経験があるベテランの原田さんに、今回福島第一原発の警戒区域内での取材についてお話しください。
【共同・原田浩司】「問題自体が法を犯したものであれば、報道カメラマンは法を犯してもかまわない」。反戦報道写真家で有名な福島菊次郎氏の言葉です。「犯してもかまわない」とまでは思わないが、「犯すこともありうる」と思う方でしょうか。今回の取材も、法的にはグレーゾーンに入ってしまうのかもしれない。
東日本大震災から2年を経ようとしていますが、いまだ警戒区域の取材は、明文化されず規制されたまま。無許可の取材活動を行い警察に数回事情聴取されたジャーナリスト、偽造した車両通行証で動物保護を行って逮捕された人もいます。前者は災害対策基本法違反、後者は偽造有印公文書行使と災害対策基本法違反とされる。災害対策基本法の主目的は、災害からの生命の保護であり取材規制ではないはず。取材の正統性を主張する意味もあって、この写真ルポは署名入りの記事で配信することにしました。福島県の地元紙にも掲載され、しばらくは警察からの出頭要請を覚悟したものですが、現在までにそれはありません。それだけに、東京写真記者協会が賞という形で支持してくれたことはとても嬉しく思います。
被写体となった松村直登氏は、福島県で活動する日本人であるのに、皮肉なことに国内よりも海外で有名な方です。当初、米AP通信が同氏を報じたことで知られることになり、英BBC、米CNNなどが特集を組んだほど。一方、日本のメディアは、頑ななコンプライアンス(順守、従順)から警戒区域の取材を控えるところばかりでした。そのため、松村氏はなかなか取材に来ない日本のメディアに対して不信感さえ抱いていました。それでも、最初に警戒区域内に入ってきた日本メディアということで歓迎してくれました。
【写真】家畜に水を与える松村さん=原田撮影
電気、水道、ガスというライフラインが絶たれた警戒区域で、ローソクの灯りで松村氏と何度も杯を傾けました。決して動物愛護だけの人ではなく、強い郷土愛と弱者は助けなければならないという男気の方です。被ばくした牛の殺処分の現場に出くわし、後先を考えずに「頼むから殺さないでくれ」と叫んでしまったそうです。そうやって、保護した牛は百頭ほど。ようやくNPO法人を立ち上げたものの、組織の体を成していないため、他の動物保護団体に較べてき集金力に劣っています。それどころか、被災者として受け取る補償金から、活動費を切り崩しているようで、資金不足と人手不足から「この先、どうなるか分からない」とこぼしています。
元々、食用として殺される運命にあった家畜の生命を守ることに、意味があるのか、それともないのか、それは私も明快な回答を持ち合わせていませんが、「ただ殺すために生命をいただくのは駄目だ」という松村氏の言葉はストンと胸に落ちました。食事の時の「いただきます」という言葉の意味を改めて考えさせられたものです。
東日本大震災から2年。原発事故の放射能汚染に晒された福島県では、復興からは程遠い状況です。今回に終わらず、「ここで生きることが闘い」という男を通して、福島第1原発事故がもたらしたものを報じていきたいと考えています。
【花井コーディネーター】貴重かつ興味深いお話をありがとうございます。現場で法的に厳密にいえば入ってはいけない時とか、相手が報道陣に見せたくない場合とか、そんな状況の時、写真記者の多くは悩むと思います。知らせるために少しくらい法を犯してもいいのか、いけないのか。私の経験からですと現場で撮影できる状況ならば、「まず撮る」方針できました。それを紙面に載せるかどうかは撮ってから考えました。担当デスクと相談して、これまで自己規制して載せない選択はありませんでした。読者に知らせるべきだと優先したからです。さて、これからは会場からいくつも質問がきています。お答えください。
○質問《これまでに一番大変だった取材は何でしたか、また一番感動した瞬間は何のときでしたか》
【産経・大里】感動した取材は、やはり今回の火山雷の瞬間に出会えたことです。あまりにも状況がすごすぎて、自然の脅威、人間がどうあがいても太刀打ちできない何かというのを生で、いやがおうにも感じさせられる取材でした。
【写真】ペルーの日本大使公邸人質事件、公邸内をスクープ撮影=原田撮影
【共同・原田】大変だったのは、ペルー日本大使公邸人質事件。公邸内にいるゲリラや人質との単独会見を行い世界的なスクープとなり、世界中の新聞やテレビがその写真と記事を報道しました。取材そのものよりも、その後の執拗な国内メディアのバッシングが気持ち悪かったものです。最も感動したのは、東日本大震災。ひたすら耐え忍び、他者を思いやる気持ちを忘れない東北の人たちの姿には涙を禁じ得なかったことと寡黙に働く自衛隊員の姿にも頭が下がりました。
○質問《大里さん、プロ野球選手が球を打つ瞬間を撮るコツを教えてください》
【写真】インパクトの瞬間写真。バットの中央が捕手側にしなっている。
【産経・大里】バットがボールに当たる瞬間にシャッターを切ることです。当たり前すぎてすいません。これは練習が必要ですが、慣れてくれば割と撮れます。が、100発100中の人は、おそらくいません。なお、私たちの高速連射のプロ用カメラでも、バッターのスイング開始から適当なタイミングで連射しても、撮影できる確率は少ないので、どんなカメラでも、最初の1コマ目で狙ってください。
○質問《紙面などに自分が意図した写真と違う写真が使われたり、意図と違うキャプションがついてしまうことがありますか》
【共同・原田】通信社の場合、一度の取材でたくさんの写真を配信します。掲載判断は、配信を受けた新聞社それぞれなので何とも言い難いです。
【産経・大里】新聞社でも、そういったことはあります。事前に分かれば、会社に「意図と違いますよ」という点は伝えますし、わかりにくい写真や、意図と違うキャプションになってはいけない場合については細かく文面や口頭で注意喚起や状況説明はしています。
○質問《取材する時に心がけている「マイルール」「目標」があれば教えてください》
【産経・大里】町中などでの取材では、可能な限り写真を撮るときや撮ったあと、声がけをして、取材の主旨などを理解してもらうようにしています。これはインターネットの影響も非常に大きいと思います。カメラを構えているだけでよけていったり顔をそむけたりする人はその人の「写りたくない」という意思表示だと思うので、それがいい被写体だったとしてもなるべく撮影しないようにはしています。どうしてもの場合は、きちんと説明します。
【共同・原田】写真を撮るという仕事は、その時その場で瞬時の判断を求められるもので、他人を頼るべくもない作業。ゆえに、その結果責任は自分で負うしかない。職業生命を賭けて、写真を撮るような場はあまりないが、報道カメラマンをやっていれば、いつか出くわすもの。誰のせいにするでもなく、自分で全てを背負うことをルールとして課してきたつもりです。しかし、福島第1原発事故の取材に関しては力不足と勉強不足で反省するばかりです。
【花井コーディネーター】ありがとうございます。それぞれご苦労があったと思います。多くの写真記者たちは、国民の知る権利に応えるべく頑張っています。それが、「時代の目撃者」としての役割を担っていると思います。事件事故など発生ものだけではなく、スポーツでも芸能でも、「記録する」という意味で写真は残ります。
◎「2012年報道写真展 記者講演会」アンケート結果(抜粋)
(2013年2月16日・日本新聞博物館)
【講演会の感想】
・詳しく説明していただき参考になった。来年もあるなら参加したい。(30代・男性・東京都江東区)
・共同通信社の原田さんの取材に取り組む姿勢が大変興味深く、報道の重要性と難しさを感じた。(40代・男性・横浜市内)
・一般のサラリーマンだがとても勉強になった。記者の取材時の心構え、写真を撮った時、撮るまでのいきさつが良く分かった。ただ、普段、情報が氾濫し過ぎていて、その思いが伝わりにくくなっている現状にがっかりした。せっかくのすばらしい写真を生かしきれていないのではないのかと疑問に思った。(40代・男性・横浜市内)
・原田氏の取材最前線の模様がよく理解できた。特に外人カメラマンの方が「動物」に視点がいくという点に興味を持った。(70代・男性・横浜市内)
・私たちにたくさんの情報を届けてくれる現場の方々のお話を聞いて、新聞をより大切に読める。福島の今をもう少し私たちに知らせてほしい。(30代・女性)
・記者が撮った写真を見て記者の苦労が伝わるように思えた。(20代・男性・埼玉県)
・裏話的な話を聞けて面白かった。(20代・男性・神奈川県外)
・興味深い話だった。(20代・男性・新潟県新潟市)
・初めてこのような講演会に参加したが、報道の真実を知ることができた。私は62才だが今後の生き方の参考にさせていただき、生きたいと思う。(60代・男・横浜市内)
・報道写真は記事以上に力がある。その影には記者の努力もあるが、報道機関の姿勢が大事だ。写真を通して何を訴えたいのかを示すことが期待される。事件性のある課題を追いかけるだけでなく、過去の問題で継続性のある社会問題も追及してほしい。日の当たらない途上国の社会問題も。(70代・男性・横浜市内)
・時間の関係で最後まで聞けなくて残念だった。為になる講演だった。(20代・男性・横浜市内)
・原田氏の話は本音レベルでおもしろかった。こうした取材の実態に即した話を追跡する企画を続けてほしい。 (60代・男性・東京都町田市)
・楽しい話が聞けて良かった。(50代・男性・東京都)
・国家的問題、グレーゾーンをしっかり表現してほしい。(70代・神奈川県横須賀市)
・あっという間に終わってしまった。特に原田さんのお話はざっくばらんで非常に興味深かった。またこのような機会があればぜひ参加したい。(20代・男性・横浜市内)
・興味深いお話を伺った。タイプの違うカメラマンお二人だったことも良かった。(40代・女性・横浜市内)
・シャッターチャンスが大事だと感じた。チャンスをものにする努力を感じた。(40代・男性・横浜市内)
・普段は出来上がった写真しか見られないため、取材の背景のお話は興味深かった。(40代・女性・横浜市内)
・原発事故に関してギリギリの取材によって事故がもたらすさまざまな影響を知ることができ、今後の活動に大変役に立つと思う。(50代・男性・横浜市内)
・興味深い話が聞けた。(70代・男性・神奈川県鎌倉市)
・何げなく見ている新聞の写真だが、その裏に大変な苦労があることをうすうす知ってはいたが、第一線の記者の方の話でよく伝わった。これからは新聞写真をもっと気持ちを込めて見られるようになるだろう。現場の方々のお話で久しぶりに現実の社会を感じた。高齢者の生活にどっぷりつかっているので。(70代・女性・横浜市内)
・次も参加したい。友達を連れてくる。(60代・男性・神奈川県川崎市)
【企画展の感想】
・展示している写真から伝わってくる情報量が紙面やウェブで見たときよりも多く感じることができた。順路が少し分かりにくかった。(20代・男性・東京都北区)
・日々の多々ある事柄の記憶の思い起こし。(50代・男性・横浜市内)
・特にオリンピック関連だが、笑顔の写真は目にする側に元気を与えてくれると思った。そういう写真が増えればと思う。(30代・女性)
・初めて見たが、涙有り、感動有り、喜び有りだった。来年もぜひ生きている限り、見にきたい。(60代・男性・横浜市内)
・毎年続けてもらいたい。(70代・男性・横浜市内)
・時間をかけてじっくり見ることができなかったので、もう一度来たいと思う。(20代・男性・横浜市内)
・順番になっている構成が大変良かった。(50代・男性・東京都)
・初めて見た。大変すばらしい。(70代・神奈川県横須賀市)
・1年を振り返り感慨にふけることができた。(40代・女性・横浜市内)
・報道の大半(スポーツ以外)は暗い話が多い。明るい希望のもてる写真をもっと増やしたらどうか。(70代・男性・神奈川県鎌倉市)
・良かった。(70代・男性・神奈川県横須賀市)
以 上
「2012年報道写真展」の関連イベントとして、3月2日(土)に横浜市の日本新聞博物館で「親子写真教室」が開かれ、小学生とその保護者ら5家族11人が参加した。遠くは東京都東村山市から参加した親子もいた。講師は共同通信社編集局ニュースセンターの冨田晴海整理部長、東京新聞の笠原和則氏、東京写真記者協会の花井尊事務局長が務めた。カメラはキヤノンマーケティングジャパンの協力で、親と子供に1台ずつ貸し出した。 この日は晴天に恵まれ、子供たちはデジタル一眼レフカメラを手に、海辺の「象の鼻パーク」まで写真を撮りながら移動、観光船や横浜の町並みなどそれぞれ撮影取材に挑戦していた。 撮影後、新聞博物館の新聞製作工房で新聞作りに臨み、思い思いのA3新聞を作って楽しんだ。写真の面白さや魅力を感じながら新聞作りを体験してもらう貴重なイベントだった。
日本新聞博物館の「2012年報道写真展」(1月11日から3月3日)
報道写真で2012年を振り返る日本新聞博物館、東京写真記者協会共催「2012年報道写真展」が、13年1月11日(金)から3月3日(日)まで横浜市中区日本大通りの日本新聞博物館で開かれている。昨年暮れに東京の日本橋三越本店で開催された「2012年報道写真展」に、東京以外の各地区写真記者協会が選んだグランプリ作品も併せて、約300点が展示されている。
入館料:一般・大学生500円、高校生300円、中学生以下無料。
交通アクセス:みなとみらい線「日本大通り」駅直結。
開場式
2012年報道写真展のテープカット
写真パネルにサインする小原日登美選手(左)と村田諒太選手(冨田晴海撮影)
報道陣を撮影する小原選手(左)と村田選手(冨田晴海撮影)
村田選手が撮った小原選手のポーズ
村田選手が撮った報道陣
小原選手が撮った村田選手の笑顔
小原選手が撮った村田選手の撮影状況
小原選手が撮った村田選手の表情
「2011年報道写真展」の関連イベントとして、12年3月31日(土)に横浜市の日本新聞博物館で「親子写真教室」が開かれ、小中学生とその保護者ら10家族22人が参加した。講師は共同通信社の冨田晴海写真部次長、東京新聞写真部の笠原和則デスク、東京写真記者協会の花井尊事務局長が務めた。カメラはキヤノンマーケティングジャパンの協力で、子供一人に1台貸し出した。この日はあいにく横殴りの雨で外へ出られず、子供たちはデジタル一眼レフカメラを手に、博物館の中で思い思いの構図を狙って撮影、取材をした。撮影後、新聞博物館の新聞製作工房でミニ新聞作りに臨み、講師に指導を受けながらA3新聞を作って楽しんだ。5階に展示してある小型取材ジェット機「はやて」の窓から撮影する父親を、講師の肩車から撮影して1面トップに据えたり、「春の嵐」みたいな雨の街頭写真を組み込んでニュースっぽく作るなど大胆なミニ新聞が数々あった。写真の持つ面白さや魅力を自ら体験しながら新聞作りを身近に感じてもらう楽しいイベントだった。
日本新聞博物館主催の「2011年報道写真展 記者講演会」が12年2月4日(土)、同館のニュースパークシアターで開かれました。あまり知られていない写真取材を一般の方々に知っていただき、写真ジャーナリズム全般の理解を深めてもらおうと企画されました。講演したのは、2011年東京写真記者協会賞の受賞作「ままへ」を撮影した読売新聞東京本社立石紀和記者の当時直属の上司であった池田正一写真部長(現編集委員)、スポーツ部門賞・海外の部「死闘制し、なでしこ頂点へ」を撮影した共同通信社写真部・鈴木大介さん。コーディネーターとして東京写真記者協会事務局長・花井尊が参加しました。新聞紙面に出ない裏話や、デジタル時代の報道写真などをディスカッション、会場からの質疑応答の抜粋です。
[冒頭あいさつ]東京写真記者協会事務局長・花井尊
本日は寒い中、満員の人たちが記者講演会に来ていただきまして感謝します。まず、ざっと東京写真記者協会の組織を説明させていただきます。ホームページに載っていますが、首都圏に本社を置く新聞社、通信社、放送(NHK)の各社と一部地方紙が加盟している任意団体です。平成24年1月現在の加盟社は34社です。当協会の目的は、自由公正な写真取材のため、連絡、調整を行い、写真報道を通じて社会の進歩発展に寄与することです。また、年末に日本橋三越本店、年始に、この日本新聞博物館で開く恒例の報道写真展を開催し、その記念写真集を出しています。それでは、順番に講演をお願いします。
[第1部受賞報告等]抜粋
◎「ままへ」
読売新聞東京本社写真部長(当時)・池田正一
▼ 受賞作品の概要・経緯・ねらい
読売新聞の池田です。まず、3・11大震災が発生した日の読売新聞東京本社の編集局の紙面作りのための会議風景を見てもらいましょう。
当日組む新聞をどのようにするかを決める会議で、昔は大相撲の幕内土俵入りのように円陣を作って行っていたため社内では「土俵入り」とか「立会い」とかと呼ばれています。発生から2時間経たないうちに編集局以外の販売、広告、制作、メディア対応の関係者も集まり会議が始まりました。平時の5倍以上の人が集まったようです。各地の印刷工場も震災で被害を受け、輪転機が使えるかどうかわからなかったですし、高速道路などの交通網が遮断され新聞を刷っても配達する販売店へ持って行けるのかどうかわからないまま、新聞のページ建てや内容についての話し合いが行われました。現地の様子も含め、すべてに情報不足でみんなが大きな不安感を持っていました。この写真では見えませんが後方の壁には大きな亀裂ができていました。すでにこの時には、写真部を始めとする取材陣は乗用車や本社所有のヘリコプターなどに分乗、現地へ向かったあとです。札幌、新潟、名古屋、大阪、福岡からも被災地へ写真部員が向かいました。
次に当時私の部下であった立石紀和記者が撮影した4歳の女児の話しをさせていただきます。その前に、1万6,000人もの命が奪われ、未だに3,400人近い方が行方不明です。あらためて命の尊さを考えるとともに、亡くなった方のご冥福を祈りたいと思います。
当時、立石記者は震災直後に被災地入りしたのではなく、5日ほどたってから取材第2陣として現地入りしました。直接的な大津波被害を取材するのではなく、被災した人たちは今どうなっているのだろうとの思いで、1軒1軒人影がありそうな家を訪ねたそうです。そして岩手県宮古市の高台にある家の玄関を開けた時に、出迎えてくれたおばあちゃんの後ろから顔を出したのが女児でした。その沈んだ暗い表情が気になり、事情を聞いてみると、両親、妹と一緒に津波に流され一人だけ漁に使う網に引っかかって救助されたということでした。
立石記者は取材の合間をぬって、毎日女児に会いに行きました。カメラを持たずに、そして遊び相手になるために。5日ぐらい経って、女児が「ままに手紙を書く」といってノートに1字1字幼児雑誌でひらがなを確認しながら書いたそうです。「ままへ。いきているといね おげんきですか」と書き終えたところ、寝入ってしまったそうです。立石記者は外に置いてあるカメラを急いで取りに行きこの写真を撮影しました。被写体となった女児との心の距離をすこしずつ埋める努力を続けて撮影しました。この写真が震災のため、両親や家族をなくしてしまった「震災孤児」に初めてスポットをあてたのではないでしょうか。
読売新聞写真部では、発生直後の被害状況の報道のほか、震災孤児など人の絆とか愛情とか苦しみをどのように報道すべきか毎日議論を重ねて紙面を作ってきました。そして震災孤児を真正面から取り上げようと新聞1面と社会面で大きく扱うことになったのです。
私もこれまでいろいろな現場を踏んできたつもりですが、今回の大震災はどう指揮していったらいいのか戸惑う場面が確かに多くありました。2か月後に掲載した写真グラフにある母親の写真に見入る女児の写真をみると・・。彼女が母親から受けるはずだった愛情の大きさを思うとこの笑顔が切なく、やりきれません。小さな背中にどんな声をかければいいのか・・。
(池田氏、感極まって涙。会場の多くの方ももらい泣き=注:花井)
6月には、母親の遺体がDNA鑑定で見つかり、遺骨が無言の帰宅をしました。女児は「これがママ?」と一言だけ口にしたそうです。お父さんや妹はまだ行方不明ですが、葬儀があわせて行われたそうです。震災後ずっと見守ってきた記者によると、泣くこともなく現実を小さな体で受け止めようとしているようだったそうです。
今回この写真が、優れた報道写真に贈られる東京写真記者協会賞の年間グランプリに選ばれたことで、岩手県の児童福祉課の方から写協事務局あてに「人権侵害」との抗議の手紙が届いたそうです。読売新聞の報道で、震災孤児の問題が深刻だということを初めて皆さんにお知らせできたわけですし、掲載からの女児の心のケアも専属の記者を担当させて継続させています。女児のおばあちゃんからは掲載されたことで震災孤児の問題がみんなに知らされることになったと言っていただきました。取材した立石記者は現在米国に留学、写真の勉強をしていますが、今年9月には写真部へ復帰します。そして女児が成人するまで見守り続けることになります。本人は女児の花嫁姿の写真を両親に供えたいと誓っています。
〈花井〉池田さん、ありがとうございました。大震災直後の新聞社内の動きなど普段一般の人たちが知り得ない貴重な写真と話が興味深かったです。また、「ままへ」を取材した立石記者の気持ち、読売写真部が目指した報道理念も十分伝わってきました。われわれは賞をとるために写真を撮っているわけでもなく、震災孤児への関心を喚起するのに貢献したと自己満足しているわけでもありません。報道は確かに多方面にさまざまな影響を与えます。いいこともあるし悪い影響もありえます。ただ「これだけは伝えたい」という強い理念があってこそ読者、国民に理解されるものと思っています。
続きまして、スポーツ部門賞の共同通信社の鈴木さんにお願いします。
◎「死闘制し、なでしこ頂点へ」
共同通信社ビジュアル報道センター・写真部 鈴木大介
▼ 受賞作品の概要・経緯・ねらい
共同通信の鈴木です。サッカー女子W杯取材について講演させていただきます。初めに断っておきたいのですが、私が取材したのはあくまで決勝戦の1試合のみです。後輩カメラマンが予選からずっと取材していて、私は応援要員として取材に関わりました。決勝が現地時間の11年7月17日だったのですが、ちょうど五輪の1年前企画取材で15日からロンドン入りが決まっていました。企画取材といっても序盤は忙しくないので、日本がドイツ戦に勝利した時点で自分からデスクにアピールし、出発直前に取材が決まりました。慌ただしくFIFAに取材申請を出しましたが、肝心のフィールドパスの申請が間に合わず、「ウェイティング」というカテゴリーに入れられてしまいました。これは全てのカメラマンが席を決めてから、最後に余った席に入るというものです。決勝戦当日、カメラマンは150人ほどいて、最終的に私の席が決まったのは試合開始1時間前でした。ちなみに、日本人のカメラマンは私を含め8人で、新聞メディアは共同通信だけでした。
ここでサッカー国際戦の取材位置について説明します。席はゴールを決めた選手がベンチに向かって喜ぶシーンが撮れるメインスタンド側から埋まります。ここは席の優先権を持っている後輩に、そして私はバックスタンド側の席を交互に行き来することにしました。純粋にW杯の決勝戦を取材に来ている欧米カメラマンはサイドが変わるタイミングでも一切席を移動してくれません。そうした内心ひやひやの状況で試合を迎えることになりました。
さて、これからは実際に決勝戦当日について写真を紹介していきたいと思います。まず、余裕のある試合開始前に応援雑観を撮る。前半は過去23試合対戦で0勝21 敗3引き分けの成績が示す通り、圧倒的な高さを誇る米国の猛攻をなんとか凌ぐという形でした。この段階では、競り合いなどのプレー写真を随時送信します。やはり注目はワンバック選手と沢選手です。そして後半、米国が先制します。当然と言えば当然の展開で、「負けたけどよくがんばった」という紙面になるのかなと考えていました。
しかしその後すぐに宮間選手が同点ゴールを決めます。ゴール後に宮間選手がたいして喜びもせずにすぐにボールを拾い駆けだす姿を見て、「選手はまだ全然諦めていない」と、気持ちを引き締め直しました。
そのまま一進一退の攻防が続き試合は延長戦へ。そして延長前半、ついに米国のワンバック選手に勝ち越しゴールを決められてしまいます。頭を抱えているのは沢選手です。この瞬間、「沢選手のためのワールドカップが終わってしまう」と思いました。この時点で『感動をありがとう、沢、』というスポーツ紙の一面が頭に思い浮かび、今後は沢選手だけを追いかけることにしました。特に試合終了時の沢選手の表情と、喜ぶ米国選手の「明暗写真」は絶対必要になるはずだと。
そして延長後半12分にCKのチャンスを獲得。そしてついに奇跡の同点ゴールとなるわけですが、このシーンは私が撮影した全コマを紹介したいと思います。
@
A
B
C
宮間選手の鋭いCKに反応して、沢選手が飛び出します=写真@。倒れ込んだ後に一瞬、=写真AB、間をおいて喜びが爆発=写真C。私もここで「えっ!入ったんだ」とわかりました。そのまま沢選手は日本ベンチではなく、宮間選手の方へ駆けだします。サッカーの国際戦を何度も取材してきましたが、ゴールもその後の喜びもバックサイドで決まったのは初めてでした。奥には丸山選手など何人も詰めていて、「初めから沢選手だけを見る」と決めていなければ撮れませんでした。逆にいえば、他の選手が決めていたら撮り落としていたわけです。普通はボールに反応してゴールシーンを狙うため、このようにシュートの前のコマがあること自体あり得ないことです。まさに「大ばくちがはまった」わけですが、それでも頭に浮かんでいたのはやはり「沢選手は運や才能を持っている人だな」というものでした。
ですがまだ試合に勝利したわけではありません。米国の最後のフリーキックを選手全員で凌ぎ、PK戦に突入します。事前に後輩とPK戦の配置について相談していて、後輩はゴール周りに、私は反対サイドにつきました。1本目、GK海堀選手が右足でスーパーセーブを見せます=写真D。
D
2本目はクロスバーの上でした。この時点で圧倒的に日本が有利になったため、慌ててメインスタンド側の位置に移動しました。そもそもPKというのは決めて当たり前というもので、キッカーよりもGKの写真が重要になります。3本目も好セーブ。この時点で勝利を確信しました。そして最後のキッカー、熊谷選手が決めて日本のW杯初制覇となりました。歓喜の瞬間、選手たちは一斉にGK海堀選手のもとへ駆けだします。この時一人だけ歓喜の輪に加わらない選手がいました。宮間選手です。彼女は米国選手をねぎらいに歩み寄っているのです。私はこのシーンが一番感動しました。もみくちゃになりながら子供のように「やったー、やったー」と叫ぶ沢選手の姿が印象的でした。
その後、すぐに表彰式が始まります。沢選手の「せーの」の掛け声でトロフィーを掲げ、少し遅れて金の紙吹雪の乱舞=写真E。
E
こういう1シーンも広めやアップなど撮りわけます。その後、東日本大震災への各国の支援に感謝する垂れ幕を持って場内を一周します。その中で、岩手県滝沢村出身の岩清水選手は「皆さんのことを忘れたことはありません。ともに進もう東北魂」というメッセージを掲げていました。今度の五輪もきっとこういう震災関連の社会面が多くなると思います。
沢選手は大会MVPと得点王にも輝き、まさに「沢穂希のためのW杯」になりました。「記憶に残る名勝負」でしたが、私は翌日ロンドンに戻ってしまったので、日本の盛り上がりを今ひとつ実感できず、それが少し心残りです。駆け足でしたが、TVで放映されなかった角度の写真を皆さんにお見せできたかなと思います。
〈花井〉鈴木さん、ありがとうございます。女子サッカーW杯取材の舞台裏がよくわかりました。会場の皆さんも普段紙面で何気なく見ているスポーツ写真も、こんなに苦労しているのだという現実や写真記者の取材に対する情熱を知っていただいたと思います。
[第2部ディスカッション、質疑応答]抜粋
コーディネーター:東京写真記者協会事務局長・花井尊
〈花井〉それでは只今から第2部ディスカッションを始めます。講演者のお二人から日ごろの取材活動や、紙面では語り尽くせないこと、裏話などをお話して頂きます。また、デジタル時代の報道写真、今ジャーナリズムが求められていることなども合わせてお聞きします。まず池田さん、写真部長を経て現在編集委員ですが、これまでのあなたの現役時代の写真記者生活で一番印象に残っている取材は何でしたか。
〈池田〉1987年だったでしょうか。エイズが世界的規模で広がりつつあるときに、アフリカ取材で生まれて間もないエイズに感染している乳児を見たときでしょうか。衝撃を受けました=写真F。
F
ザンビアの病院でした。当時はエイズの知識がまだなく、「空気感染するかも。息はできない」と思いこんだことを恥じています。それと侵されつつある地球環境の取材で、サハラ砂漠やアマゾン川の奥地に派遣されたことでしょうか。2〜3日食わなくても死なないだろうということで。丈夫そうだからということでそれこそ環境の悪いところへ出されました。アマゾン川取材では水銀汚染されているといわれる魚が毎食出てくるので、3日なにも口にできませんでした。
〈花井〉まだ現役で若い鈴木さんはいかがでしょう?一番印象に残っている取材は、またはうまくいった取材、大失敗な取材など。
〈鈴木〉 印象深い取材はやはり東日本大震災取材です。私は震災発生の時、ちょうど東京都庁で石原都知事の再選出馬表明の取材をしていました。発生後すぐに会見が中止になったので、近くの公園に避難してきた人たちを撮影し、携帯電話が通じない中、すぐに本社へ引き返すことにしたのですが、高速がストップし外は大渋滞で、結局6時間かけて汐留の本社に戻りました。その時点で、第1陣はすでに東北に向かったあとでした。その後、現場に行けない焦りややるせなさを感じながら、東電や首相官邸や計画停電の取材などをしていました。当時の私の個人的な感覚なのですが、「今、現場に行かないと明日にはなくなってしまう」だとか、「先行しているカメラマンが現場のあらゆる写真を撮り尽くし、私が行った時には『もうこの写真はみたことがあるから、いらないよ』なんて状況になってしまっているのでは」と疑心暗鬼に陥っていました。
結局私は第2陣として、震災発生6日後に現地入りしました。息巻いて現場に入り、壮絶な被害状況や被災者の方たちを場当たり的に取材することしかできなかったですね。結果としてその日ごとの紙面には使われましたが、皆さんの記憶に残るような写真を撮ることはできませんでした。ちょうど同じ時期に同じ岩手に滞在していた立石さんは「ままへ」の写真を撮られていて、自分がいかにスケールの小さい人間か痛感しました。先ほど、撮影する以前に何度も通っていたとうかがい、私にはカメラマンのマンの部分、ゆっくりじっくり人として被災者の方と向き合うことができなかったのでは、と思いました。これが反省談ですね。
〈花井〉デジタル化で新聞写真は大きく変化したわけですが、鈴木さん、何か感想はありますか?
〈鈴木〉我々にとって、デジタルになったもっとも大きな点は、カメラマンがエディターもやらなければならなくなったということでしょうか。フィルムの時はバイク便でフィルムを本社へ送り、デスクが全コマに目を通して、出稿写真を選んでいたわけです。デジタルになってからは、たとえ1年生であろうが、夕刊段階の忙しい時間帯などは、自分で一番いいコマを迅速に選んで送信しなければならないのです。私は今でも、後から見直して、「やっぱりこっちのほうが良かった」なんてことがありますし、日ごろからいい写真を目にする機会を増やすようにしています。
〈花井〉原発取材はどんな対応をしましたか。
〈池田〉福島第1原発が水素爆発したのは12日午後だったと思いますが、その直前、原発から2キロぐらいまで、写真部員が入っていました。爆発した瞬間はもう別の取材があり離れていましたが、すぐさま会社が定める原発事故取材の規定にある原発から30キロ離れるよう指示しました。本社の科学部の判断も同様でした。線量計は当初なく、近くの支局から取り寄せました。事故の情報公開も進まなかったことから、福島入りする部員の交代のローテーションは早くしました。累積した線量は記録しています。爆発直後に福島県内で取材した部員が体調不安を訴えたので、専門家のカウンセリングを受けさせました。
〈鈴木〉震災の取材は、ほぼ2カ月に1回は、岩手や宮城に行っていますが、福島にはまだ、一度も入っていません。ヘリからの空撮で、30キロ以上離れたところから第1原発を超望遠レンズで撮影したことがあるくらいです。各社それぞれに方針があり、共同通信は今までなるべく年次が上の人が福島をまわすようにしていました。
〈花井〉原発事故の発生直後は、フリーランスのカメラマンが福島第1原発のかなり近い周辺を取材した実績があります。大手の新聞社、通信社は記者の健康管理、当局の安全対策からどうしても取材の縛りがきつく、勝手に近づけなかった事情があります。当初から各社とも東京電力や首相官邸に対し、取材させるよう要望は出していましたが、事故8ヶ月後の11月になって初めて代表取材の形で敷地内の現場が取材できました。
〈花井〉現場で被災者に対する肖像権など、特に気を配った点はありませんか。
〈池田〉取材したときに必ず被写体となった人に声をかけるよう徹底しました。名前や被災した状況などしっかり取材するようにしました。
〈鈴木〉声をかけてから撮影することを第1に考えていますし、被災者の方が映った写真の外部への販売も、社の規定で生ニュース用の一時使用に限っています。被災地の方々は本当に優しい人ばかりで逆にこちらが元気づけられてしまったりします。これからも誠意を持って被災地での取材に臨みたいと思います。実際のところ、がれきの中からご家族の遺体が発見されて涙の対面をはたしていた被災者に対し、欧米系のカメラマンがワイドレンズで突っ込んでいく様子を見て、腹立たしく怒ったこともありました。無理強いしてまで撮る写真に何の意味もないと思います。
〈花井〉いつも出てくる質問ですが、1枚の写真と動画問題はどう捉えていますか。また、どう対応していますか。
〈池田〉写真と動画の取材方法や被写体に対する感性は違います。社内には動画から静止画を切り出せばいいという乱暴な意見もありますが、やはり写真と動画では、脳の記憶の引き出しに入れられる要素が違うと思います。皆さんの多くの記憶は静止画ではないですか。
〈鈴木〉今、私の所属はビジュアル報道センター、写真部です。「ビジュアル」の名のごとくビデオカメラも一人1台配布され、動画の撮影も行います。ただし、いずれの場合も写真優先です。ヘリ取材の時には「最後の一周、動画用にお願いします」とパイロットにお願いしたりします。動画を止めたこま落としの画像は多少なりともぶれたものになってしまいますし、秋葉原の殺傷事件の容疑者逮捕の写真や、カダフィー大佐が捕まったというような緊急性が高い写真以外は、こま落としに意味はないと思います。被災者の声にならないうめきや嘆きを伝えられるのは動画ですが、声にならないうめきが聞こえてきそうな静止した写真も、それはそれで読者の感性に訴える力があると思います。
被災地のお年寄りと話していて「なるほど」と思ったのですが、「TVは早すぎてついていけない。新聞写真は自分のペースでゆっくり咀嚼できる」と話される男性がいました。私もその通りだと思いますし、両者のいい部分を生かしていければよいのではないでしょうか。
〈花井〉お二人がおっしゃる通りだと思います。要するに、カメラでもビデオでも「何をどう記録して伝えるのか、どう問題提起するのか」ということでしょう。手段が違えばメッセージ性は若干違ってきますが、目指す目的は同じだと思います。個人的には一枚写真の静止画の方が脳裏に焼き付くメッセージ性が強く好きです。
〈花井〉次に「べき」論で恐縮ですが、報道写真は、今後どうあるべきだと考えますか。または写真ジャーナリズム全般について何か持論がありましたらお願いします。
〈池田〉震災取材の話をしていますのでその延長で。取材する記者が被災者の気持ちを共感していないといけないと思っています。今後も被災者と向き合って街の復興を願いながら記録し続けていきたいと思います。生活再建やふるさとの復興を伝え続けることは私たちの責務です。
〈鈴木〉東日本大震災の取材は今後もずっと続いていきます。つい先週も岩手に入っていたのですが、10カ月以上経過しても「まだまだ」という印象です。報道写真は、できる限り被災者の心に寄り添えるよう努力しなければなりません。被災者の方々は「忘れられてしまう」ことを何よりも恐れています。できる限り被災地入りし、全国各地の地方紙にニュースを配信できる通信社の特性を生かして、精力的に復興に向かって歩み続ける方々の取材を続けていこうと思います。
生ニュースに左右されない企画キャンペーンなど、いくらでもやり方はあるはずですので。個人的な話で恐縮ですが、私はこの夏のロンドンオリンピックで陸上を担当します。昨年の世界選手権の取材にも行ったのですが、金メダルを獲得したハンマー投げの室伏広治選手も、交流のある石巻の生徒たちに向けてメッセージを発信していました。「被災地に元気を与えたい」と頑張る選手のメッセージを伝えられるのも、我々の大事な役割ですし、プレー写真以上に力を入れて取材に臨みたいです。
〈花井〉本日は興味ある多くのお話を聞かせていただき、大変ありがとうございます。では、さきほど会場から回収しました質問用紙から伺います。まず池田さんへの質問です。「ままへ」をピューリッツア賞に応募することは考えていないでしょうか。また、今年から新聞記者として働く者です。載せたくてもボツになってしまう写真はたくさんありますか。心残りのコマはどんな写真ですか。掲載する写真を決定する判断基準を教えてください。震災取材のような時の記者の心的ケアは行なっていますか。
〈池田〉まずピューリッツァー賞は自薦できなかったと思います。世界の報道写真を集めた年間コンテストの世界報道写真展への応募はしました。読売新聞の写真部員にはPTSDのような心的影響はありませんでした。被災地には1週間から長くても10日間を限度で交代しています。震災直後は目を覆うばかりの衝撃的な情景があったと思いますが、全員が命と向き合ってくれたと信じています。
〈花井〉ある地方紙の報道部長に聞いた話しですが、押し寄せる大津波に巻き込まれる家屋や人たちを目の当たりに見て、現場の記者たちはかなり強い衝撃を心に受けたそうです。PTSD(心的外傷後ストレス障害)にかかった記者もいたと聞きました。心的ケアのため記者全員のカウンセリングをして、内勤に勤務変更をさせた記者もいたそうです。被災者はもちろん大変ですが、報道する方もかなりダメージを受けていたことになります。
〈花井〉では鈴木さん質問ですが、サッカーの取材は1試合何枚くらい写真を撮りますか。そして何枚くらい加盟者に出稿するのですか。テレビ映像に負けないくらい躍動感がある写真を撮るために心がけることや事前準備は何ですか。場所とりが勝負なのか、勘の力が勝負どころか教えてください。
〈鈴木〉今はフィルム時代と違って押せば押しただけ撮ることができます。今回のような極めて注目度の高いサッカー取材に関して言えば、1000枚や2000枚以上です。この中で出稿された写真は本日紹介したものを含めて100枚ほどでしょうか。それでも実際に紙面化される際には、それぞれの新聞社の好みで写真をセレクトします。「沢の同点ゴール」のシーン一つを取り上げても、「シュート」の写真を大きく使ってくれた新聞もあれば、その後の「ガッツポーズ」の写真を使った新聞もあります。今回の取材の勝因は、まず「他社がいなかった」こと。そしてPK戦などあらゆる局面を後輩と相談して、「パニック状態に陥らなかった」ことです。そうした事前準備があった上で、沢選手にほほ笑んでくれた「サッカーの神様」に、私も少しだけあやからせてもらった、という感じです。
私はスポーツが専門というわけではなく、政治や事件、自然などなんでも取材します。いずれの取材にしても「力の抜きどころを見極めること」を心掛けています。自分が撮った写真が加盟紙の紙面上ではトリミングされて使われたり、グラフ記事の署名を削られてしまい、ちょっぴりさみしい思いもします。ただその半面、通信社は取材の幅が広く、海外出張も多いといういい部分も多くあります。
〈花井〉本日は貴重な話し、感動的な話しをたっぷり聞かせていただき、厚くお礼申しあげます。今後も精進して読者、人々との信頼関係を築きながら前へ進んでいただきたいと思っています。これで2011年記者講演会を終わります。
〈新聞博物館に寄せられた講演会アンケートの感想〉抜粋
○写真だけでは目の前に映る事実しか飲み込めず、あたかもそれが、自分とは全く関係のない別世界で起こっているような錯覚さえも起こします。しかし、記者の方が取材を重ね、考え、感じた言葉によって、目の前の事実を、現実として実感されるのだと感じました。見ただけでは分からない写真の裏を知ることで、改めて、身の細る思いで撮った記者の方の魂を感じました。マスコミは腐敗したというが、報道は変わらず輝き続けるのだと思いました。(20代・女性)
○「カメラは冷たくても押す人間は被災者と同じ気持ちであるべき」というお言葉が心に響きました。写真記者を目指しているので頑張ります。(20代・女性)
○池田氏のお話を聞き、女児の成長を今後も見つめていこうとする取材方針に感動しました。是非続けていただきたいです。また、鈴木氏のお話からは、普段分からないスポーツ取材の難しさを知ることができました。報道と人権は、今後もぶつかり合う問題だと思いました。(40代・女性)
○なでしこジャパンの写真取材は、ゲーム展開の決定的瞬間をよく捉えていることに感心しました。(60代・男性)
○東日本大震災の状況はまだ生々しく、声を詰まらせながら講演した池田氏の話を、私もふるさとを失った者なので、胸がつぶれる思いで拝聴しました。これからも大切に取材してください。(60代・女性)
○池田講師同様に(「ままへ」に)何度も泣かされました。立石さんの写真「ままへ」は国宝クラスの写真なので、大切にネガを保存してください。写真の力を新ためて認識しました。ありがとうございます。(70代・男性)
○新聞記事の一枚の写真から伝わってくるもの、受け取れるものがたくさんありますが、やはり撮り手が伝えきることのできない部分も多いことを実感しました。同時に、新聞の力も感じました。一枚の写真で会場が涙し、一枚の写真で会場が笑顔につつまれる。とても一体感のあるイベントで、今後も、記者が発信するイベント、記者と読み手が交流するイベントをどんどん開催してほしいと思いました。読者の知的欲求も満たされ、記者の「伝えきれなかった」部分も伝えられ、一石二鳥だと思います。(20代・男性)
○現場で取材された方々の生の声を聞けて、紙面での感動がさらに深まり、蘇りました。参加できてよかったです。ありがとうございました。(60代・男性)
○「ままへ」が新聞に載るまでの裏側、記者の方の心遣い、優しさ、努力によってこの作品が生まれたことに感動しました。何度見ても、涙があふれ出てとまりません。立石さんに代わってお話しくださった池田さん、ありがとうございました。鈴木さん、裏側の仕事の大切さを見せていただきました。ますますのご活躍をお祈りします。(60代・女性)
○報道は真実を伝えるだけではなく、心をこめて人間の本質を伝えるということが大事なのだと改めて感じた。写真を見て、心から感動するのは、撮り手の心が入っているからなのだと、今日の講演会で良く分かりました。(60代・女性)
○池田氏の話はリアルで、涙が止まらなかった。女児へのとても人間的な対応に感動しました。花嫁姿の報道を楽しみにしています。早く素敵な人と出会ってね、私は長生きして待っています。なでしこジャパンの優勝にはどんなに元気づけられたか分かりません。女子パワーを再確認しました。これからもリアルな報道を待っています。(60代・女性)
○報道カメラマンは被写体(特に人間)に対する限りない思いやりの心をもって撮っており、それが、結果として写真に現れているのだということを改めて感じました。写真の裏に隠されたものを強く認識した講演でした。ありがとうございました。(70代・男性)
〈新聞博物館に寄せられた「2011年報道写真展」の感想〉抜粋
○三越日本橋店でも昨年末に拝見しました。展示で一年を振り返ることができる面白さがあります。毎年、会場に足を運んでおります。(20代・男性)
○感動的な写真であり、2011年の貴重な記録だと思います。特に、東日本大震災の写真や、大震災や不景気によって暗い時代に、なでしこジャパンのサッカー女子ワールドカップ優勝が私たちに明るさをもたらしてくれた折りの写真は印象深く、心に響きました。撮影には大変なご苦労をされたことと拝察します。(70代・男性)
○改めて東日本大震災の激しさにショックを受けました。今、被災地の皆さんがどうされているかと思うと切なくなります。(60代・男性)
○大震災の生々しい記録が映し出されていて、復興状況の比較も見られて、感激した。一瞬一瞬を大事にすることの重要性を感じました。(70代・男性)
○ただ写真を撮るのではなく、何を訴えたいかというポリシーが、良い作品を生み出したのだと、感銘を受けました。カメラマンよ、頑張れ!(70代・男性)
以上
開会式
日本橋三越本店で、12月16日(金)、「2011年報道写真展」(25日まで)のオープニングセレモニーが行われました。
ゲストは、新大関 琴奨菊関と「なでしこジャパン」の丸山桂里奈選手です。また、同日午後、高円宮妃久子さまが会場を訪れ、展示された一点一点を丁寧に鑑賞されました。下記は開会式当日の記録です。
2011年報道写真展のテープカット風景 |
写真パネルにサインした後、プレゼントされたデジタル一眼レフカメラで報道陣を撮る琴奨菊関。左は丸山桂里奈選手 |
琴奨菊関が撮影した報道陣 |
琴奨菊関が撮影した丸山桂里奈選手 |
12月16日午後、報道展会場で作品をご覧になる高円宮妃久子さま |
皇太子さまは5月20日、横浜市の日本新聞博物館を訪れ「東日本大震災報道写真展」(東北写真記者協会、東京写真記者協会、同博物館主催)をご覧になった。同展は全国紙、地方紙、通信社の32報道機関から提供された津波発生直後の様子など大震災の記録写真90点が展示されている。皇太子さまは、東京写真記者協会の花井尊事務局長から説明をうけながら、体育館で毛布にくるまる被災者の写真の前で「寒い中にね」と気遣ったり、子供が多数犠牲になった現場に並ぶランドセルの写真を見て「かわいそうでしたね」と述べられた。ニュース映像などで被災状況は把握していたが、「一枚写真はメッセージ性が違いますから」と述べ、新聞に掲載された報道写真を一枚一枚ていねいに見学された。この写真展は開催期間が延長されて、6月22日まで開かれている。
2011年4月23日(土)〜5月29日(日)横浜市中区日本大通、日本新聞博物館で。月曜日休館。午前10時〜午後5時。入館料有料。
2011年3月11日に発生したマグネチュード9.0の「東日本大震災」。それに伴う大津波は、沿岸各地に壊滅的な被害をもたらしました。東京電力福島第一原子力発電所の事故による放射能漏れは、世界中を震撼させ、いまだ解決の見通しすら立っていません。死者・行方不明者は2万人を超え、今なお、10万人の人々が避難所で暮らしています。写真展では、地震および津波発生時に危険と隣り合わせで撮影された写真をはじめ、被害状況、被災者の悲しみ、懸命の捜索、救援・救護活動、避難所で生きる人々、原発事故の状況、復興への希望などをとらえた報道写真90枚を展示します。困難な場所で懸命に取材・報道を続けている報道各社、そして記者の思いも、写真を通じて受けとめていただければ幸いです。
主催:東北写真記者協会、東京写真記者協会、日本新聞博物館
出展社:朝日新聞、毎日新聞、読売新聞、東京新聞(東京中日スポーツ、中日新聞)、産経新聞、サンケイスポーツ、報知新聞、日刊工業、日刊スポーツ、スポーツニッポン、東京スポーツ、共同通信、時事通信、東奥日報、デーリー東北、岩手日報、岩手日日、河北新報、秋田魁新報、北羽新報、山形新聞、福島民報、福島民友、いわき民報、茨城新聞、常陽新聞、埼玉新聞、千葉日報、静岡新聞、新潟日報、神戸新聞、中国新聞(順不動)
問い合わせ:電話045-661-2040日本新聞博物館
「2010年報道写真展」の関連イベントとして、2月19日(土)に横浜市の日本新聞博物館で「親子写真教室」が開かれ、小学生とその保護者ら7家族19人が参加した。講師は共同通信社の冨田晴海写真部次長、スポーツニッポン新聞社の成瀬徹写真部次長、東京写真記者協会の花井尊事務局長が務めた。カメラはキヤノンマーケティングジャパンの協力で、子供一人に1台貸し出した。子供たちはデジタル一眼レフカメラを手に、博物館近くで踊っていた民族衣装のシャルジャ首長国の人たちを撮ったり、象の鼻パークで散歩中の犬を狙ったり、それぞれ撮影取材に挑戦していた。撮影後、新聞博物館の新聞製作工房で新聞作りに臨み、思い思いのA3新聞を作って楽しんだ。写真の持つ面白さや魅力を体験しながら新聞を身近に感じてもらうイベントだった。
東京・南麻布の東京都立中央図書館で、11年1月7日から2月19日まで、日本新聞協会、日本新聞博物館、東京写真記者協会が協力する企画展「新聞っておもしろい!――新聞の魅力再発見」が開催され、関連して2月5日に「一瞬を切り取る!――報道写真の舞台裏」の講演会が同図書館の多目的ホールで開催されました。一昨年、新聞協会賞、東京写真記者協会賞企画部門賞を獲得した東京新聞「東京Oh!」取材斑の東京新聞・星野浅和次長、笠原和則写真部員、東京写協・花井尊事務局長が講演しました。その抜粋です。
(定員100人)
<花井>
本日は満員の方々に感謝します。まず東京写真記者協会の活動を簡単に説明させていただきます。東京写真記者協会は、首都圏に本社を置く新聞社、通信社、放送(NHK)の各社と一部地方紙が加盟している任意団体です。現在の加盟社は、34社610人です。目的といたしましては、「自由公正な写真取材のため、連絡、調整を行い、写真報道を通じて社会の進歩発展に寄与する」ことです。今では新聞メディアでの写真取材を調整する局面では不可欠の存在になっています。代表撮影、各種取材IDの配布、各取材先とのとり決め(野球、ゴルフ、ボクシング、競馬、ゴルフなど)、報道写真展の開催、同記念写真集の作成などの活動をしています。
総論として私から15分間ほど話します。まず、報道・新聞写真の役割といたしまして写真は、読者の目を引き付けて、活字には表現できない情報を伝えることが出来ます。新聞写真の持つ記録性や証言能力の重みは、時が経っても変わりません。しかしながら、新聞写真に対する読者の見方は年々厳しくなっています。肖像権、プライバシー、メディアスクラム(集団的過熱取材)に関してのトラブル、インターネットの爆発的普及などで、従来の取材方法を見直す時が来ているかも知れません。しかしモットーとしては、従来から言われていることですが、「より速く」、「正確に」、「分かりやすく」伝えることが肝要だと思います。
次に新聞の未来において、その役割に変化はあるのかというと、役割としては変わることはないと思います。やはり記録における「ニュース写真」とニュースの背景を探ったり、問題点を浮かび上がらせたり、都会を切り取り表現するのも含めて問題提起の「フィーチャー写真」の両輪が必要だと思います。どちらも新聞写真、報道写真として存在し続けると信じています。話は飛びますが、現在は一次情報がインターネットを通じていち早く流れます。たとえば世界でインターネットにつながっている人口は20億人といわれていますが、今話題の実名で参加することが前提になっているfacebookに6億人がつながっているというから驚きです。あっという間に情報が共有されます。今やマスメディアとインターネットのキャッチボールで情報が爆発的に広まっていくのです。しかしながら、私としては、既存のマスメディアが限りなくネットに近づいて、これまでの自分たちの存在基盤を切り崩さないようにするべきだと思っています。新聞・報道写真も紙面のみならず、ネットに発信することが多くなってくるかも知れません。
最後に若干のまとめになりますが、写真記者のあるべき姿といたしましては、新聞が残る限り力強い新聞・報道写真を発信していく気概を持ってほしいと思います。基本はさきほど申し上げましたが、読者、国民に事実を伝達、記録する「ニュース写真」と、写真表現の面白さを含め、ニュースの背景をえぐりだし、これでいいのかと考えさせる「フィーチャー写真」の両輪で迫っていただきたいと思います。
<星野>
東京新聞で長期連載しました「東京Oh!」という写真企画の担当デスクを務めました。
新聞社のデスクというと厳しく、ドラマなどでは鬼デスクのような人が登場しますが、実際には部員と編集幹部、整理部など編集者との橋渡し役のようなものです。自分の思い通りにならないことが多いので、ついつい厳しいことを言ったりするだけのことです。しかし、デスクが何を言ったって、現場が頑張らなければ何も生まれない。現場が神様で、デスクはひたすら願うばかりといったところが実情です。
本日の講演会のテーマは「一瞬を切り取る」「報道写真の舞台裏」となっていますが、一般的に「報道写真」とか、「一瞬を切り取る」言うと事件事故やスポーツなどストレートニュースを思い浮かべるかと思います。しかし、私は新聞に掲載されている、ほぼ全ての写真が報道写真であり、一瞬を切り取った写真だと思っています。実際のところ、そんな格好の良いことを言えないような写真も紙面にはありますが、当然、「東京Oh!」のような写真企画も報道写真だと認識して取り組んでいます。
ではなぜ、「東京Oh!」のような風景や光景、建物や道路が報道写真なのか。それは、そこに写っていること、あるいは写っていない、見える、見えないといったこと全てが、今の東京を伝えるニュースだからです。そして、カメラマンがこだわる色や線、形、光、影といったものが、そのニュースを構成しているわけです。
東京新聞では大型の写真を掲載する写真企画を夕刊一面に掲載することが定番になっています。たまたま、企画担当のデスクになり、これまでに12,3本の一面写真企画を手がけてきました。ところが、東京新聞でありながら、今の東京を真正面から取り上げた企画はありませんでした。それは東京のことは、新聞はむろんですが、テレビや雑誌などが取り上げていて、今さら何をテーマに取り組んでいいのか分からない、東京のことはみんなが既に知っていると思うからです。しかし、東京新聞であるならば、やはり足下の東京に目を向けて、そこで何が起きているかを伝えることが責務だと思い、2年に渡って東京に立ち向かうことになったのです。
「東京Oh!」は3人の撮影スタッフが、全100枚の写真を撮影したのですが、いずれもベテラン揃いで、デスクとしては特段、何かしたような記憶をありません。「東京Oh!」は紙面掲載時、いわゆるキャプションがなく、作品名と17行程度の短い記事だけでした。通常の企画の場合は、読者の目を引くタイトルカット、記事、写真説明、場合によっては地図も掲載します。それは理由があってのことですが、「東京Oh!」は、なるべくシンプルにして、読者の皆さんに1秒でも長く写真を見つめてもらおう、写真が何を伝えようとしているか、この写真に潜んでいるニュースは何かを考えてもらおうと紙面上でも工夫をしたつもりです。それでは数枚の写真をご覧いただきながら、先ほどお話したような、企画写真の中のニュースとは、あるいはニュースのとらえ方など、私たちが伝えたかったことなどをお話ししたいと思います。
この写真の作品名は「水の都」です。
【写真】「水の都」。
葛飾区内を流れる中川の蛇行の様子をヘリコプターから撮影したものですが、ちょうど夕日を浴びて街全体がオレンジ色に染まっています。その様子を、少々オーバーですが、イタリアのベネチアに例えてこの作品名をつけました。「東京にこのような風景があるのか」と話題になった写真ですが、このような写真が撮れる理由は、この川の周囲に高層ビルがないことです。それが下町といえばそれまでですが、この写真から高層ビルの乱立や、あるいはヒートアイランドの問題を考えるきっかけになる。また、首都高速が覆っている日本橋の問題にもつながる。さらに源流域には、あの八ツ場ダムがある。1枚の写真ではありますが、このように多くの問題や課題を見いだすことができるのです。しかし、ただ撮影しただけの写真では、読者の目を引き寄せられない、話題にならないので、このように美しい瞬間を、そしてアングルとしても面白く仕上げる努力をするのです。
次にカメラマンの着眼点についてお話ししましょう。この写真は、建築中のビルの壁面を1000mm相当の超望遠レンズで撮影したものです。物が落下しないように壁面を覆っているビニールシートですが、風を通したり、明かりを取り込むために、このような状況にすることが、時々あるようです。
【写真】「ワイングラス」。
この様子を切り取った写真ですが、ワイングラスに似ているので、作品名も「ワイングラス」にしました。工事現場とワイングラスという、何ともマッチングしない作品名が、逆に大評判となった写真です。私たちの日常生活にあるもの、日頃何気なく目にしているものでも、切り取り方やレンズワークなどで見たこともないような写真に仕上がるという典型だと思います。このビルは一作年オープンした三菱1号館ビルなのですが、歴史的建造物の保存問題を考えるきっかけになればという思いもありました。
ただ写しただけでは読者の関心を引けない、注目されない。だから、美しく、あるいは「Oh!」とうなってもらえるような写真を撮ったわけですが、「オリンピック」と題したこの写真がその典型かもしれません。
【写真】「オリンピック」。
この写真は東京オリンピックのために、現在の選手村があった代々木公園と国立競技場を結ぶために通された、いわゆるオリンピック道路です。計画地にあった墓地を移設し、一旦は切り通しになったのですが、檀家の思いをくんで、道路に橋というか、ふたをして、土を入れ、墓を一つ一つ戻したそうです。やはり、お墓ですから、見る人によっては気持ちが悪いかもしれません。それこそ何十年も前からある光景ですから、見せ方を変えなければなりません。そこで車の光跡を生かした美しい写真を撮るためにカメラマンは、近くのビルにカメラを構えます。日没から翌朝まで12時間以上粘ったそうですが、道路と墓地の露出があまりにも違いすぎ、このような表現が可能だったのは、街の明かりが絶妙に混じり合った10分ほどしかなかったそうです。この写真からは都会の墓地事情や道路事情などに思いをはせることができます。しかし、なんと言ってもオリンピックです。東京オリンピックの遺産というか、後遺症みたいな光景は、まだまだあると思いますが、当時は東京都が招致運動をしている最中でしたので、大きな反響がありました。
時間の関係で3枚しか紹介できませんでしたが、新聞における企画というか、写真企画とは何か。これは、じっくりと時間をかけた上質の報道写真だということです。上質なんて口幅ったいのですが、ストレートニュースでは伝えられない世界でも、写真企画ならお見せできるということだと思います。「東京Oh!」はそのような思いを凝縮して取り組んだ企画です。取材を始める前に集めたネタは約300本。そこから実際に紙面化できたのは5枚程度。残りの95枚は取材を進めながら、足で稼いだネタばかりです。その分、本当に多くの方にお世話になりました。あらためてお礼を申し上げて終わりにしたいと思います。ありがとうございました。
<笠原>
撮影者として作品について話したいと思います。
星野と重複しますが「水の都」について撮影段階の話をします。この写真は、企画が始まる前のネタ探しの段階で都内を空撮した時に、使えそうな一コマとして撮影したのが最初です。こういう地形があることは元々知っていましたので、絵になりそうだということはわかっていました。掲載された写真は夕日が当たっている時間を狙って南西方向から撮影したのですが、実は逆方向の北東側から撮影した蛇行の様子の方が良いと思っていました。そのため、朝日の当たる時間を狙って3回ほどヘリに乗りました。しかし結果的に色が夕日ほど赤みがからず、夕方の写真が採用されました。この写真が掲載された後、いろいろな人に「Oh!」と言ってもらえました。
この写真は前の水の都とは違って、簡単に撮影できてしまった写真です。私はネタ探しの時には都内をよく歩き回っていたのですが、その際、都立青山公園に行くと、金網に囲まれた米軍施設があることに気づき、また運の良いことに米軍の幹部でしょうか、人員輸送をしてきた米軍ヘリが着陸、飛び去る光景に出会いました。
【写真】「一等地」。
そこでパッと撮影した写真です。この場所は赤坂プレスセンターというのですが、その時は都立青山公園から見えることも知らなかったため、偶然ですが簡単に作品として成立した写真です。
もう一点、街を歩いて発見した写真を。このいかにも痛そうな針がたくさん付いているのは「鳩プロテクト」という商品だそうで、それが上野駅北にある歩道橋にこれでもかとばかりに取り付けられています。
【写真】「プロテクト」。
「鳩プロテクト」と言うからには鳩をからめて撮影しなければなりません。この鳩を画面に入れるのには苦労しました。一週間ほど通い詰めてやっと撮影できました。
次にデジタルならではの写真を紹介します。銀座和光の背後に北の空の星が日周運動する様子を写した写真です。これは建物の明るさに合わせてISO100か50、F8で30秒露光を掛けた写真約2000枚を画像処理ソフトで合成したものです。和光は午前0時を過ぎると電気が消されるので、消えてから明け方までの五時間半くらい撮影し続けました。和光の電飾が光っているのは消える前の写真を一枚合成したからです。撮影には合計6時間ほどかかったのですが、帰社してからの画像処理に12時間もかかりました。
【写真】「満天」。
このような合成はフィルム時代は数千枚の写真の位置合わせができず、とうていできなかったものです。デジタルになって初めてできるようになった撮影方法です。実はこの写真を撮影する一年前に、別の企画で同様の方法で撮影をしていたので、経験が生きた作品といえます。
これも空撮ですが、大井の東海道新幹線車両基地を真上から撮影したものです。私の気持ちとしては先頭を下にした写真がよかったのですが、星野デスクはじめ、編集幹部が上向きのほうが良いということでこの写真になりました。ちなみにこの場所が大井にあり、新幹線が頭をそろえて止まることは知っていました。
【写真】「スタートライン」。
この写真掲載後、どうやって撮ったの? こんなところで撮っていいの? Oh!とびっくりしたよ、など多くの言葉を掛けてもらいました。この写真は私にとってはOh!と思うほどのものではなく、ヘリコプターに乗っていると何となく見ている光景なのですが、前の新幹線の写真を撮影した時に、同乗していた整備士に「あれ撮っといてよ」と言われて撮影したものです。考えてみれば普通の人はこんな光景は見ないわけで、読者をOh!とさせることができました。
【写真】「プラモデル」。
以上私が撮影した中から6点を選んで撮影裏話を紹介しました。
<星野、笠原、花井の鼎談(ていだん)>
<花井>
さて、今回の講演内容が、報道写真の舞台裏となっています。星野さん、笠原さん、舞台裏といってもいろいろあると思いますが、「東京Oh」の舞台裏は聴きましたが、これまで紙面で話題になった写真で、まず撮影段階での舞台裏、紙面掲載する上での舞台裏と分けて考えますと、笠原さん、自分で体験したなかで、撮影段階での思い出の舞台裏はありますか。星野さんには、紙面掲載時に苦労したとか、編集段階で掲載できなかったなどの舞台裏はありますか。
<笠原>
ペルー日本大使公邸人質事件取材です。当時は長野五輪一年前でスピードスケート取材のため松本に出張していたのですが、長野・新潟県境で土砂崩れが発生、予定の取材をせずに現場へ移動して1週間取材、その後予定していたアイスホッケー取材に戻りました。ところがその取材を始めた当日に事件発生。部長から連絡があってすぐに長野駅を午前1時半ごろ発車する夜行列車で帰京、機材とパスポートをそろえて昼の飛行機でペルーに飛びました。その後、事件は膠着状態が続いて結局取材を終えたのは3カ月後でした。 この一件が私のカメラマン人生でもっともダイナミックな経験です。
この事件に限らず、報道カメラマンが事件取材をする時の仕事の大きな部分を占めるのは場所と連絡手段、送稿手段の確保です。当時の現場を写した写真がありますが、これを撮影できるマンションの確保がまず重要な仕事でした。
【写真】「全景写真」。
場所がペルーということもあり、まず、日系人通訳と契約し、携帯電話と業務用無線機をレンタル、大使公邸が見下ろせるマンションの部屋を確保することに相当のお金と労力を使いました。
そして送稿手段です。事件現場付近は携帯電話の通話を止められていたので、当初は近くのホテルから送稿していたのですが、借りたマンションに臨時電話を引くことにしました。ところが電話の名義人が日本人だと時間がかかることがわかり、雇っていた通訳のペルー人に変わりに名義人になってもらうことでスムーズに設置できました。
現場で起きていることを撮影する技術はプロカメラマンですから、誰しもあるわけですが、その現場が見えないと撮影できません。その意味では報道カメラマン最大の仕事は場所の確保といえるのではないでしょうか。
【写真】「脚立が並んでいる写真」。
<星野>
デスクとして…掲載できなかった、あるいは部員が撮った写真をボツにしてしまったことは山のようにあります。それは写真を紙面化するまでに、いくつもの関門があるからです。むろん、現場が一番で、写真そのものの善し悪しもありますが、ここでは社内事情というか編集現場の写真の流れをお話ししたいと思います。
写真部員が撮影した写真をデスクがセレクトする段階でたくさんの写真がボツになります。まずは部員が現場や社に戻って数枚選んでデスクに見せます。その中からデスクが出稿する1〜2枚に絞りますので、この段階でボツが生まれます。時間があれば部員とデスクで議論をしますが、なければデスク判断となります。部員にとっては一押しの写真でも、この段階でボツになる可能性があるのでデスクの責任は重大です。
次は整理部です。記事や写真を集約して一面、社会面、運動面と振り分ける整理部はその日のニュース量や内容を一番把握している部署。非常に冷静に記事や写真を見ている。
写真部デスクが一面用と思っていても、掲載する場所がないと判断されることもあります。写真部ではヨコ写真を押しても、レイアウトの都合でタテ写真を要求されることもあります。当然、押し問答があるのですが、整理部の影響力はかなり大きいと思う。
そして最終的にその日の編集責任者のOKがとれるかどうか。当社の場合は編集局次長が交代で編集責任者となり、写真そのものの質や紙面全体を見て総合的に判断します。写真部デスクがOKを出し、整理部も納得しても、この段階でダメだしがある場合もあります。多くの関門があって、1枚の写真を選んで掲載するまでには本当に苦労します。しかし、このステップがあることで、撮影者の独りよがり、写真部の自己満足ではない写真の掲載につながっています。段階を踏むことでミスがなくなり、読者にとってわかりやすい、信頼のおける写真の掲載が可能になっているわけです。
<花井>
「写真は死んでいくのか」というショッキングな見出しがありました。(1/10朝日Globe)よく読むと、今の時代、デジタルカメラ、電子新聞、電子出版、ツイッター、ブログと取り巻く環境の激変に、しかし「写真力」は信じたい、というような内容でした。これまでプリントメディアだった新聞写真が、ウエブに載せたり、別の発信方法を余儀なくされてくると思いますが、星野さんは新聞写真の将来はどうなっていくのか、どうなるべきか、その辺を今の段階で感じていることをお願いします。笠原さんには新聞写真の取材現場での変化、今後の対応などを話してください。
<星野>
新聞写真というよりは新聞そのものの、あるいは新聞社ということになるのでしょうか。
新聞があるなら新聞写真は生き続けるでしょう。しかし、「新聞に掲載している写真」「Webに公開されている写真」「あるいはその他の電子メディアに載っている写真」が同じ場合がある。あるいは単にコマ違いなら、それは新聞写真とは言えないのではないでしょうか。新聞社の写真部の仕事が多様化している象徴で、少し前は「Webにも載る写真」だったのが、今では「新聞にも載る写真」と「Webしか載らない写真」を撮っているのが実情です。しかし、新聞写真はあくまで報道写真であって、さらに見出しや記事とともに紙面に存在していることを忘れてはいけません。1枚の写真が持つ力は当然大きいと思いますが、新聞写真は多くの編集人が関わって初めて世に出る写真であり、新聞に掲載された写真と1枚のプリントあるいはネットに単独で流れる写真では、その価値、意味合い、そしてなりよりも信頼性が圧倒的に違うと思います。
<笠原>
取材現場では、ムービーを撮影するカメラマンや記者が増えました。記者会見場の記者席の小型テーブル上に小型のムービーカメラを置いて写真撮影の傍ら会見のようすを動画撮影したり、一眼レフカメラをかまえているのに撮影しているのは動画、と言うカメラマンも見かけます。デジタル一眼レフカメラに動画機能が付いているからできることです。 インターネット用ですが、紙媒体用の写真以外に電子メディア用の動画も求められているようです。
<花井>
昨年11月、国会で当時の官房長官から、衆院予算委員会審議中に「望遠レンズで盗撮されたようです」の発言があり、在京8社写真部長会で、発言修正を求め、議事録を修正して陳謝させたことがありました。写真は権力側と対峙することが、時としてあります。これまでは黙殺していたこともはっきりものを言うようになりました。この一件以来、首相官邸とか国会内で写真取材がやりにくくなった、または、やりやすくなったことはありますか。
<笠原>
最近国会取材をしていないのでわかりません。しかし、あのような発言をする政治家は今までいなかったのでちょっとびっくりしました。かつてキッシンジャー米国務長官が国連の場で、手元の資料を望遠レンズで撮影されたことがありましたが、それを盗撮呼ばわりしたなど聞いたことがありません。
<星野>
この一件があった直後に当社の国会担当カメラマンから報告を受けたが、ちょっとあきれた。国会の議場、予算委員会の部屋の構造は何十年も変わっていないし、過去にもあのような写真は山ほど撮ってきた。あの場所が国民が注視している公の場所だということを忘れているのではないか。前官房長官の個人的な資質の問題ならいいのだが、民主党政権になって代表取材が増えたと感じるし、民主党本部内の取材のしにくさを口にする部員も多い。マスコミに対して何か独特の意識があるのではないかと思ってしまう。在京8社写真部長会の素早い対応は評価できる。黙っていてはいけないと思う。
<花井>
いろいろ議論してきましたが、将来、新聞写真も考えられない変貌を見せるかも知れません。星野さん、「べき論」になるかも知れませんが、こうあるべきだ、と考えることがありましたら、お願いします。笠原さんにも同じ質問です。
<星野>
新聞写真の将来につながるが、メディアの多様化が進む中で、写真部というセクションの有り様も変わっていくと思う。しかし、大事なことは、私たちは報道写真を撮るということです。それを強く意識して、撮る理由や伝える、つまり新聞に掲載する理由が何であるかによって、報道写真かそうでないかが決定づけられる思います。面白い写真を撮ったので、みんなに見せようと、単にネット流すのは報道写真ではない。報道の目的は私たちの生活の向上や幸せにつながること、あるいはそのための問題提起が肝要です。撮影時あるいは公開するときにこの目的があるかどうか…ここが分かれ目だと思います。
<笠原>
今まで通り、紙媒体用に撮影した写真は質が高く、インターネット時代にも十分通用する写真です。インターネットを使えば新聞には載せられなかった多様な写真を読者に提供できるようになります。これをチャンスにして、報道カメラマンの撮影した迫力ある写真をより多くの人に見てもらい、心を動かしてもらえればと思います。
<花井>
私としては、やはり新聞・報道写真は信頼性を失えば、ただのごみくずになってしまうと思います。それを前提に、国民に知らせる、記録するという点と、問題提起の視点が大きなメッセージ性を持つと思います。それが写真ジャーナリズムの原点じゃないでしょうか。このことは、これまで識者や数々のジャーナリストが発言してきたことですが、これにつきると思います。もちろんスポーツ、娯楽の写真も大切です。基本的には人間の喜怒哀楽を伝えていくことが大切だと思います。人の営みをたたずむ都会とか、人のありよう関心とか、新聞・報道写真は、何らかのかたちで人間にからみつく写真であって欲しいと願っています。
◎「一瞬を切り取る!−報道写真の舞台裏−」アンケート結果抜粋
<主なコメント>
☆一瞬を切り取るため、問題意識を持ちつつシャッターを切る等、興味深い内容でした。
☆「一瞬」の素晴らしさ、苦労の舞台裏について、わかり易く説明されたのでとても興味深く聞きいってしまいました。3人とも説得力のある人柄が感じられ、とても好感が持てました。
☆「一枚の一瞬時間の写真」心を動かし感動をよび人生を変えるような物であると思いました。「東京Oh!」写真展大変素晴らしく、一瞬を切りとるそのもので良かったです。
☆映像が効果的であった。奥の深い話を聞きました。
☆報道写真の裏側が良くわかりました。新聞をこれから見る(読む)楽しみが増えました。
☆写真をとる行為が今の時代を見る、考えるというのと同じだということを感じました。
☆新聞写真の重要性が良く語られ今後の在り方が伝わったと思います。
☆努力、ご苦労が伝わってきました。担当者で話し合っている様子又写真を写している様子が目に浮かんできました。
☆構成と講師が良い。
☆写真を取っている時の気持をもっと沢山話してほしかった。質問コーナーはわかりやすくて良かったでした。
☆もっとこれからの新聞ビジョンを聞かせてほしかった。
以上
日本新聞博物館主催の「2010年報道写真展 記者講演会」が11年1月22日、同館のニュースパークシアターで開かれました。日ごろ目立たない写真記者たちの地道な取材活動などを一般の方々に知っていただき、理解を深めてもらおうと企画されました。講演したのは、2010年東京写真記者協会賞を受賞した「生物多様性〜支え合ういのち」の産経新聞東京本社写真報道局・大山文兄さんと一般ニュース部門賞(海外の部)の「わずか13日間の命 ハイチからの報告」の毎日新聞東京本社・梅村直承さん。コーディネーターとして東京写真記者協会事務局長・花井尊が参加しました。新聞紙面では語りつくせない写真報道や裏話、激変する現代社会で報道写真に求められていることは何かなどをディスカッション、質疑応答した中からの抜粋です。
[冒頭あいさつ]東京写真記者協会事務局長・花井尊
寒い中、このように満員の人たちが東京写真記者協会所属の2人の写真記者の講演会に来ていただいて誠にありがとうございます。始める前にざっと当協会の組織を説明させていただきます。東京写真記者協会は、当ホームページにも載っていますが、首都圏に本社を置く新聞社、通信社、放送(NHK)の各社と一部地方紙が加盟している任意団体です。平成22年1月現在の加盟社は34社です。当協会の目的は、自由公正な写真取材のため、連絡、調整を行い、写真報道を通じて社会の進歩発展に寄与することです。また、年末に日本橋三越本店、年始に横浜の日本新聞博物館で開く恒例の報道写真展を開催し、その記念写真集を出しています。それでは、順番に講演していただきます。
[第1部・受賞報告]抜粋
◎「生物多様性〜支え合ういのち」
産経新聞東京本社写真報道局 大山 文兄
▼ 受賞作品の概要・経緯・ねらい
産経新聞写真報道局の大山です。本日短い時間ですが講演させて頂きますのでよろしくお願いします。20年以上、新聞社のカメラマンを職業としておりますが、自分の撮影したいと思う対象を撮影出来るようになったのはここ数年のことです。残りの20年近くは依頼された取材の撮影やら、ただ仕事をこなしてきただけかもしれません。
そんな取材生活の中で、3年前から新潟県佐渡市で野生復帰を目指して自然界に放鳥されたトキの撮影を行うようになりました。残念ながら繁殖を2回失敗し、今年こそは成功してもらわないと困るのですが、今回の野生動物の撮影もそんなトキの撮影があったからこそ思いついた企画でしたし、昨年はタイミングよく国連の定めた生物多様性年でした。
まずは写真を見ていただきたいのですが、今回写協賞を頂いた写真はこの7枚です。撮影順にこれまで産経新聞に掲載された写真を見て頂きたいと思います。今回の企画では私のほかに5名のカメラマンが携わりました。今回受賞したのはそのうちの4名の写真です。
一番目がシマフクロウなんですが、この木からエサを狙って急降下する写真が自分の中では好きなんですね。しかし組み写真としてまとめた場合、どうしても一枚一枚が弱くなってしまいます。ですから野生動物の眼力、ぬいぐるみでなく生きている自然の姿を、多くの掲載写真の中から選び出しました。
2番目はエゾクロテンですが、このエゾクロテンは佐渡でトキを襲ったテンとは違います。トキを襲ったのはホンドテンと呼ばれていて、このエゾクロテンは北海道だけにしか生息していないので準絶滅危惧種になっています。近年ではホンドテンは人間が持ち込んだのですが、北海道でも勢力を伸ばしています。この撮影にはストロボを2灯使用していますが、今回の撮影では野生動物の生息地で、スタジオのようにライティングにもこだわりました。
通常、野生動物を撮影すると目が赤く光ったりします。これはレンズとストロボが同じ角度だと赤目現象と言って光ってしまうのですが、2灯ストロボを使用することでこの赤目を防ぎ自然な感じで撮影することが出来ます。この撮影はけもの道にカメラとストロボをセットし、遠隔操作で撮影を行っていますが、雪の中で8時間近く待ち続けました。
次はトキですが、トキは非常に臆病な鳥で警戒心がとても高いです。そのため殆どは車の中から撮影を行っています。この雪の中を舞うトキはトキが来るであろうエサ場の中でも湧き水で凍らないエサ場に狙いを定め、やはり雪の中で8時間近く待ち続けて撮影できた写真です。
私の場合はトキをはじめ野生動物の撮影に1週間から2週間と、新聞社の撮影としては長い時間を会社が許してくれました。そのため例え撮影できない日が数日続いても、焦ることなくじっくりと撮影に望めたと思います。
また、常に野生動物を撮影するときに心がけていることが、撮影するのではなく撮影させてもらうという気持ちです。そんな気持ちのおかげか、最終日に良い写真が撮影できたり、逆に動物たちに助けてもらっているのです。
今回の撮影の中でも幻の魚と呼ばれているイトウの撮影はもっとも難しい撮影の一つでした。普段は見ることも出来ない巨大魚のイトウが、繁殖期のわずか数日間だけ川幅の小さな上流部に上ってきます。このイトウの産卵風景を撮影するには水中でその様子を撮影しないとならないのですが、20年以上イトウの撮影を行っている産経新聞のOBのカメラマンの方にその撮影方法を教えていただきました。
詳細は詳しく話せないのですが、遠隔操作でシャッターを切っています。この撮影に手を上げたのが入社して1年目の女性カメラマンでした。なぜ彼女がイトウを撮影したかったというと、学生時代にサケの研究を行っていたからというだけです。一年生でも大事な現場へやる気さえあれば出してくれるのが産経新聞の良い所かもしれません。ただし冬眠からさめたヒグマもいますし、付き添いとして私も同行しました。
今回の撮影では北は北海道から南は沖縄まで14地域、17種の様々な動植物を撮影してきましたが、一番撮影したかったイリオモテヤマネコはこの後姿しか撮影できませんでした。イリオモテヤマネコの撮影では5台の無人カメラを2ヶ月かけて製作しましたが、カメラを仕掛けた9月、10月は繁殖期前で一番動きが鈍い時期だそうです。どんなに警戒心が高い野生動物でも、この繁殖期には人間と一緒で恋に夢中になり行動も活発になります。
本当はイリオモテヤマネコも繁殖期を狙えば良かったのですが、すでにこの企画が始まった時点では終わってしまっており、最終回にイリオモテヤマネコで飾りたいという気持ちがありました。人間の希望通りにはなかなかならず、台風で機材が水没したり結局1ヶ月半の撮影期間で写し出されたのはこの後姿で歩く1コマだけでした。
無人カメラでの撮影は、センサーがシャッターを切るため、撮影したのは機械のセンサーじゃないかという人もいます。しかし私は違うと思います。なぜなら、確かにシャッターを切ったのはセンサーが反応した信号かもしれませんが、カメラの角度やセンサーの位置、画角などすべて計算してシャッターが切れるようにセットしてあるからです。
設置にも一箇所1時間以上掛けて入念にセットします。自分の目、指となるセンサーに委ねているだけです。ハンダコテで作ったのも自分ですし、だからこそセンサーが撮影したのではなく、自分が撮影したと思っています。
時間が長くなってしまいましたが、これで私の撮影報告とさせていただきます。
ありがとうございました。
◎「わずか13日間の命 ハイチからの報告」
毎日新聞東京本社写真部 梅村 直承
▼ 受賞作品の概要・経緯・ねらい
毎日新聞の梅村です。今回、一般ニュース部門賞(海外)を頂いた写真取材のいきさつを話させていただきます。
1月12日、ハイチ大地震の発生後、15日に成田を立ち、16日の夜中にドミニカのサントドミンゴ空港へ着きました。タクシーに乗って6時間ほど走り、明朝にハイチとドミニカの国境の町、ヒマニへ。先に現地入りしていた記者と合流しポルトープランスへ向かいました。ポルトープランスへ近づくにつれて建物の被害が見られるようになりました。ポルトープランスについたのは、昼過ぎ。30度を超える暑さと瓦礫から立ち上る臭いに、立ちくらむようでした。至る所に遺体が置き去りにされていたのもショックでしたが、なによりも建物の壊れ方に驚きました。ハイチ大地震では30万以上の犠牲者がでたといわれています。今にして思えば、その数字も納得ができる瓦礫の山でした。
毎日の取材はドミニカ側の国境の町・ヒマニから車でポルトープランスへ向かいました。100キロほどの距離なのですが、避難者の車、救援物資を運ぶ車、重機を運ぶ車両、悪化した道路のせいで、片道4時間以上かかる日も多かったです。まず、朝、ガソリンの確保から始まります。ガソリンが不足しており、スタンドで1時間ほど並んで手に入れました。それから、水、食料の確保。水は500ミリのペットボトルを毎日、50本ほど買いました。それから食料は、クッキーを買い込みました。朝から晩まで、ドミニカに帰ってくるまで、水とクッキーだけですごしました。道路が悪くて4度ほどパンクをしたことも苦労した原因です。100キロ以上で走行中にタイヤが破裂した時は、無事を記者やドライバーと喜びあったものです。
震源地に近い町、レオガン。地震で孤立した町、ジャクメル。7万人以上の身元が確認されず埋葬されていたティタンエン。車や国連のヘリコプターに乗るなどあらゆる手段をかけて、いろいろな場所に取材しましたが、取材を重ねるたびに胸が痛んだのは、救援物資を奪い合う姿です。見ていてとても辛くなりました。奴隷黒人の国で、世界で一番初めに独立した国なのですが、1957年から86年まで続いたデュバリエ親子による独裁を元凶として、国は荒廃し続けたのでした。その荒廃は人々の心も蝕んだようです。全壊したマカジュ通りというハイチで一番大きい商店街では、毎日のようにつぶれた商店から物資を略奪する被災者の姿が見られました。どの避難所で配られる水に並ぶ被災者は必ず列が崩れ、ののしり合っていました。極めつけは全壊した大統領宮殿前で国連治安維持部隊が食料を配った時でした。2万人以上の被災者が配布に殺到。コントロールできなくなった、治安維持部隊が威嚇発砲を始めました。こん棒で叩かれる被災者。少年は銃の音に恐怖の表情を浮かべていました。卒倒した妊婦が治安維持部隊に運ばれていきました。無事だったのでしょうか?部隊が去ったあとも人々は物資を奪い合っていました。
暗澹とした気持ちで取材をしていた24日、全壊した大統領宮殿前の避難キャンプで、フレディちゃんを抱きしまる、母親のスーズさんに出会いました。一面のがれき、ひしめくようにテントが立つなか、きれいな産着を着ているフレディちゃんの姿に、母親の愛情を感じました。初めてハイチに来て温かい気持ちになれました。3時間ほど取材をした後、遠くから二人を見ているとスーズさんがフレディちゃんの小さな、小さな手にキスをしていました。ちょうど日本にいる妻のお腹に子どもがおり、生まれた後の姿を想像し、思い重ねたのかもしれません。フレディちゃんが育つ姿がハイチの復興の象徴になればと思いシャッターを押しました。しかし、25日容態が急変して、亡くなってしまいました。わずか13日間の命でした。栄養失調だったそうです。26日にスーズさんに会いに行きました。彼女は大粒の涙を流しながら、ぬいぐるみを離しませんでした。フレディちゃんの替わりだったのでしょうか。あまりに悲しい、救いのないハイチの大地震でした。
[第2部・ディスカッション、質疑応答]抜粋
コーディネーター:東京写真記者協会事務局長・花井 尊
<花井>大山さん、今回の企画で切り口など特に心掛けたことは?
<大山>まず、野生動物の撮影は生息地に行っても必ず撮影できるわけではありません。しかし少ないチャンスで、また自然の姿をそのまま撮影するために無人カメラや遠隔操作を多用しました。今までで一番工夫した取材かもしれないです。
また、撮影地を案内してくださる方、水中写真の特殊な撮影方法のコツを教えていただいた方など、周りの方々に大変お世話になってこの企画は成立しました。その意味で支えて頂いた多くの人たちに感謝しています。
<花井>梅村さん、写真取材の信条みたいなものは?
<梅村>できるだけ被写体の名前を聞くということ。よくキャプションで、たとえば「涙を流す女の子」というものがあるが、撮られた人の名前がないとリアリティが薄れます。また、名前を聞くことで少なくともコミュニケーションが成り立ち、被写体との関係が生まれ写真が変わると思います。もう一つは被写体に感情移入して写真を撮るということ。撮った本人の感情が動いていない写真は見ている人にとっても何かを感じるのは難しいと思います。
<花井>会場からいただいた質問からですが、「写真は一瞬一瞬を伝えるものであり、テレビのような映像と比べ部分的なことしか伝えられない気がします。そんな中、写真を通じて人々に訴える、伝える意義は何だとお考えですか」とあります。大山さん、動画と一枚の写真を比べていかがでしょうか。
<大山>テレビで記者会見の映像を見ていると、物凄い音のシャッター音が聞こえてきます。まるで機関銃のようですが、私が若かった頃、フィルムの時代は36枚撮り1本で完結しろとよく言われました。
しかし今の時代は撮影枚数の中から良い画像を選ぶといった撮影方法に変化しているのかもしれません。10年後にはテレビも現在のハイビジョンからスーパーハイビジョンに変り、同じ大きさの映像素子を使用しているとなると、テレビと写真の違いがなくなるかもしれません。
現在でも新聞やインターネットではテレビの映像をコマ落とししたものでも区別がつかなくなってきています。そうなると写真はこのままでいいのかと疑問に思うときもあります。しかしまだまだ映像とは違い、一枚の瞬間を切り取った写真には高いメッセージ性があり、動画映像に負けないようにカメラマンも時代とともに変化していかなければならないと思います。
<花井>梅村さんはどうお考えですか。質問の中には、「梅村さんのお話を聞いて、涙が出た」という人もいます。
<梅村>ツイッターやブログというものが情報発信の媒体として支持されています。おそらく個人の感覚や感情が情報として重要になったのだと思います。写真は動画に比べて、部分的なことを切り取る分、撮ったカメラマンの感覚や感情がより反映される媒体です。だから、これからはより一層、写真を撮った本人の「なぜ撮ったのか」「どう感じたのか」が大切なのだと思います。さらに、そのカメラマンの個人の思いが見る人に伝わる見せ方が必要だと思います。ネットで写真を見せる「場所」が増えている今、写真を見せるチャンスが増えていると、わたしは前向きに考えています。
<花井>今後の取材に対する抱負や心掛けていきたいことはありますか。
<大山>今後ですが、今年に入ってから実は一度も紙面に自分が撮った写真が掲載されていませんし、取材にも出ていません。宣伝になるかもしれませんが、1月の17日から産経新聞ではインターネネットで写真を見て楽しむ「MSN産経フォト」というサイトを始めました。私は今、そちらのお手伝いをしておりまして新製品のカメラや撮影機材のレビューを行っています。いずれ現場には戻ると思いますが、戻れたら事件事故の取材よりも、競争のない好きな野生動物の撮影に新たな挑戦をしたいと思っています。
<梅村>命が動く現場で、「人」に向き合って、「人」にこだわって写真を撮りたいと思っています。また、今回はハイチの絶望、救いのない写真ばかりを撮りました。許されるのならばいつかハイチで希望を撮りたいと思っています。
<花井>時間がきました。ありがとうございました。これからも本日の講演を糧に自分に与えられたチャンスを逃すことなく頑張ってください。また、この講演会が写真取材の実情やジャーナリズム、報道の使命、役割など少しでも理解していただければ幸いです。
≪日本新聞博物館が行った記者講演会アンケート結果・一部抜粋≫
・春から新聞記者として働くことが決まっている。記者になる前に話が聞けてよかった。自分もお2人のような、人の人生に寄り添えるような記者になれるようまい進します(20代・男性)
・興味があったのでとてもよかった(60代・女性)
・感動した(60代・男性)
・現場のリアリティーのある話が聞けてとても面白かった。記者の方々は1枚1枚命をかけて撮っているのだと思った(20代・男性)
・1枚の写真を撮る大変さがよくわかった(50代・男性)
・動物(生き物)と人間を撮るカメラマンの対比が参考になった(60代・男性)
・報道から動物(生き物)に移ってそれなりに苦労がある事も分かった(60代・女性)
・1枚の写真が紙面に出るまでの苦労がよく分かった(60歳以上・女性)
・現場での詳しい話と大きな画面で感動した。取材の費用なども聞きたかった。写真を撮る際に嫌がられたり、クレームを付けられたりすることはなかったのだろうか(50代・女性)
・1枚のカットを撮るまでの段取り、事前取材の大切さを知った(40代・男性)
・ハイチ取材のリポートには心が打たれた。殺伐とした真実を撮りつつも、その中に愛ある物を探したという話は感動したが、続けて取材していくと、悲しいドラマに出会うことにもなると知り、梅村さんの心情はいかがかと思った(40代・男性)
・非常に勉強になった(20代・女性)
・昨年も参加し、今年もとても楽しみにしていた。現在就職活動中で新聞記者を目指している私にとって記者の苦労話や地道な取材、忍耐などを聞くことができてとても参考になった。来年も楽しみにしています(20代・男性)
以上
開会式
日本橋三越本店で、12月17日、「2010年報道写真展」のオープニングセレモニーが行われました。
ゲストは、プロ野球千葉ロ ッテの井口選手、山崎直子宇宙飛行士です。下記は開会式風景の写真です。
2010年報道写真展のテープカット風景 | |
展示された作品を鑑賞する千葉ロッテの井口選手(左)と山崎直子宇宙飛行士 |
会場でカメラを手にする山崎飛行士と井口選手 |
山崎飛行士が撮影した取材に来た報道関係者 |
山崎飛行士が撮影した井口選手 |
井口選手が撮影した山崎飛行士の撮影ポーズ |
井口選手が撮影した写真パネルのアップ |
12月22日、報道展会場で協会賞の作品をご覧になる高円宮妃久子さま |
12月10日に東京・内幸町のプレスセンターで開かれた2010年東京写真記者協会の総会風景 |
記者講演会記録(抜粋)2010年3月6日 日本新聞博物館「ニュースパークシアター」で
(定員120人満席)
【2009年報道写真展 記者講演会】
日本新聞博物館主催の「2009年報道写真展 記者講演会」が10年3月6日、同館のニュースパークシアターで開かれました。写真記者たちの取材活動などを一般の方々に知っていただき、理解を深めてもらうため企画されたものです。講演したのは、09年度東京写真記者協会賞「奇跡の生還」の東京新聞編集局写真部・澤田将人さんと文化・芸能部門賞「辻井伸行−全盲のピアニストに『光』−」の産経新聞東京本社写真報道局・鈴木健児さん。コーディネーターとして東京写真記者協会事務局長・花井尊が参加しました。日頃の取材活動、新聞紙面では語りつくせない報道への思いや取材時の裏話、現代社会で報道に求められていることなどをディスカッション、質疑応答した中からの抜粋です。
[冒頭あいさつ]東京写真記者協会事務局長・花井尊
雨の中、このようにたくさんの人たちが東京写真記者協会所属の二人の写真記者の講演会に来ていただいて誠にありがとうございます。始める前にざっと当協会の組織を説明させていただきます。東京写真記者協会は、首都圏に本社を置く新聞社、通信社、放送(NHK)の各社と一部地方紙が加盟している任意団体です。平成22年1月現在の加盟社は34社です。当協会の目的は、自由公正な写真取材のため、連絡、調整を行い、写真報道を通じて社会の進歩発展に寄与することなのです。また、年末に日本橋三越本店、年始に新聞博物館で開く恒例の報道写真展を開催し、その記念写真集を出しています。また。東京写協ホームページでは、「一押し、この1枚」の写真や各社写真部長が担当するコラムなどを発信しています。それでは、順番にお二人から講演をしていただきます。
[第1部・受賞報告]抜粋
◎「奇跡の生還」
東京新聞編集局写真部 澤田 将人
▼ 受賞作品の概要・経緯・ねらい
昨年10月28日午前11時40分ごろ、4日前に八丈島近海で消息を絶っていた漁船「第1幸福丸」が発見されたという一報がヘリポートに入りました。現場までは200`以上あり、午後1時過ぎの夕刊最終版の締め切りにぎりぎり間に合うかという時間だったため、離陸を急ぎました。
離陸後約1時間で、現場海域に到着しました。転覆した漁船の周辺には海上保安庁の救助艇と潜水士の姿。少し離れたところに巡視船「いず」とヘリがいました。撮影を始めて間もなく、潜水士は救助艇に戻ってしまい、そのまま巡視船に引き揚げました。空から見るとひっくり返った赤い船体だけが残された状態になったため、そこで取材を終え、写真送信のために八丈島空港に向かいました。
私は生存者がいたことに気付いていません。離陸するときに「漁船発見」という情報しかなかった上、転覆した船の中で何日間も生き延びているとは想像できませんでした。潜水士たちは到着後すぐに活動を終えて救助艇に戻ったため、彼らをアップで狙う時間的な余裕もなく、漁船を調べていただけだと思い込んでいました。
ノートパソコンで撮影した画像を選択して、写真送信のための電波が通じるようになる着陸を待ちました。着陸とほぼ同時に送信を始めました。その直後、同乗していた整備士のもとに会社から電話がありました。午後1時のニュースで生存者3人救出の映像が流れたらしく「撮れているか」という問い合わせでした。それを聞いて私は顔面蒼白(そうはく)です。自分は撮れているという意識はありませんから、大事なものを撮り逃したのでは、と思いました。急いで送信中の写真を拡大してみました。「あった」。潜水士に交じって、今まさに救出されている乗組員が写っていました。
すぐにデスクに電話をして「もうすぐそちらに入る横位置の写真に、救出活動が写っています」と伝えました。こうしてぎりぎりのタイミングで夕刊1面を飾ることができました。私たちの世界では、どんなにいい写真を撮っても、締め切りに間に合わなければ意味がないと言われます。ヘリ取材は上空から写真を送ることがほぼ不可能なため、現場での撮影と、着陸しての写真送信の兼ね合いがとても難しいです。これだけしびれるタイミングの取材はなかなかありませんが。
この写真を撮影している時、上空には3社のヘリしかいませんでした。これだけの事件なのに、なぜほかの会社がいなかったのか。わが社は新聞各社の中で、現場到着が遅い方でした。一報が入った時点で、締め切り時間と現場までの距離を考えた時、いくつかの会社は飛行機を選択しました。飛行機は写真を撮りにくいですが、機動性と輸送力ではヘリをはるかに上回ります。一報の時点では生存者の情報もなく、発見された漁船の写真を確実に夕刊に掲載するには飛行機がベストの選択だったと思います。
飛行機でヘリよりも早く現場に着き、漁船の撮影を終えると、写真送信のためにどこかに着陸しなければなりません。それで現場を離れたのでしょう。もし生存者がいることを知っていれば、何があっても上空に居残っていたと思います。わが社のヘリが現場に着く少し前に生存者が漁船からの脱出を始め、着いた時間が、まさに3人目の生存者を救出しているクライマックスだったのです。到着が少し遅かったら撮れませんでした。また早過ぎたら、生存者の存在を知らなかったので、程なく現場を離れたでしょう。
結局、報道写真においてもっとも重要なことのひとつは、その現場、その瞬間に居合わせることだと思います。シャッターを押すタイミングや構図なども重要ですが、それらは現場と対峙(たいじ)して、初めて必要になる要素ですから。この写真を撮ってから4カ月以上がたちました。過去を振り返るのは今日で最後にして、また新たに多くの人の記憶に残るような写真を撮りたいです。運ばかりではなく、実力が伴った協会賞受賞であることを証明すべく、これからも精進していきたいと思っています。
◎「辻井伸行−全盲のピアニストに『光』−」
産経新聞東京本社写真報道局 鈴木 健児
▼ 受賞作品の概要・経緯・ねらい
6月7日、ヴァンクライバーン国際ピアノコンクールで優勝したというニュースが飛び込んできた。それがどんな大きな賞なのかも知らなかったが、過去に取材したことを思い出した。彼がまだ高校生のとき、“全盲の高校生ピアニスト”を紹介する取材をしたことがあった。辻井さんの自宅に伺い、音楽に無知な私は、「何か弾いてください」という安易な要求をした。彼は快く撮影のために2曲弾いてくれたのを覚えている。今考えると、これほどの贅沢はなかった。
テレビ中継で、表彰される彼の姿を見たとき、本当に嬉しかったし、私自身のこの感情を写真で表現しよう、と腹に決めて、凱旋帰国会見が行われるホテルに向かった。会場では、二人三脚でここまできた、辻井さんのお母さんにも注目が集まっていた。たぶん一緒に会見場に入るだろうと予想し、辻井親子を狙える位置についた。が、それは先導するホテルマンが前に立ちはだかったため“いい写真”にはできなかった。
そのあと席に着いた辻井さんをサイドの位置から観察した。今日、この時だからこそ辻井さんの喜びがどこかに表れていないか、全身を数秒間、見た。手の表情はどうだろう、つま先に喜びはあるだろうか、背中は?その中で、上に向かって目を開き、少し嬉しそうな表情を見つけた。これだと判断し、アップ狙いに切り替えた。すると目の中に、会場の照明が映っていることに気がついた。会見開始から約10分くらいだろうか、この時点で“狙い”と「全盲のピアニストに光」というタイトルは決まった。目に映った光が、今開かれた辻井さんのピアニストとしての未来を象徴するものだろうと。
あとは記者会見という雰囲気をいかに消すかという事を考えた。会場には黒いカーテンが掛かっていて、そこに抜けば、全体を黒いトーンにできる、あたかもピアノコンクールの会場であるかのように。この写真に関しては、露出もシャッタースピードも全く覚えていない。もちろんあのときの素データを見返せば、確認はできるのだが、撮った本人が意識していないのだからそんな数値は必要ないのかと。ただ、いつもより、また他のカメラマンより、辻井さんに対しての「おめでとう」の気持ちは強かった気がする。
それから約半年後の昨年末に辻井さんを取材する機会を与えられ「辻井くんのおかげで、私も賞をいただくことができました。ありがとうございました。」の報告に、「ありがとうございます、また、おめでとうございます。」とはにかみながら答えてくれた。
[第2部・ディスカッション、質疑応答]抜粋
コーディネーター:東京写真記者協会事務局長・花井 尊
<花井>鈴木さん、バンクーバー冬季五輪を取材して帰国したばかりですが、現地での体験、感じたことなどいかがでしたか。
<鈴木>バンクーバー冬季五輪は、前回を上回るメダル計5個、注目度も高く、非常に良い状態で終わったと思います。現地は、ボランティア等も親切で、カナダならではのゆとりも感じられました。その上、気温は日本より暖かかったという取材環境としては申し分ない状況でした。その中でも注目はなんと言ってもフィギュアスケート。不況やアジア勢の圧倒的な強さの影響もあり、世界各国からのカメラマンの数も通常より少なく、五輪ではきわめて珍しく、日本人プレスがリンクサイドでの撮影ができたのが今回のフィギュアの特徴でしょう。そのため、メダリストらの氷を滑る音や息使い、細かな表情まで間近で感じる事ができました。浅田真央は滑走前にその時の気持ちがわりと表情に出るタイプだと思います。2月23日のショートプログラムの時は、明らかに強ばっているように見え、不安に思ったのはリンクサイドにいた私だけではないと思います。ただただ最初のトリプルアクセルの成功を祈るばかりでした。演技が始まっても表情は硬く、そのまま最初のジャンプに入りました。そこはさすがに浅田真央の凄さ、強さが勝ったのか、五輪の歓声に持ち上げられたのか、見事に成功しましたが、表情は硬いまま。しかしスパイラルを終えたあたりでした。浅田真央が急に笑い始めたのです。演技表現の笑いとは明らかに違う、心底楽しんでいる表情が見えました。これがたぶんゾーン(スポーツ選手が競技中に集中し、心技体が一致して体が自然に動く最高の状態、楽しくて仕方ない絶好調の時)に入った瞬間だったと思います。演技後の会見で、浅田自身「スパイラルの後、オリンピックで演技している事を再認識し、楽しくなった」と話したそうです。テレビ中継でどのくらいそれが見えたかはわかりませんが、私にははっきり伝わってきました。高橋大輔も同じく、フリープログラムの4回転ジャンプを転倒した直後から笑い始めたのを感じました。ジャンプを失敗し、完全に吹っ切れて、ゾーンに入ったからこそ、持ち味であるステップで最高の見せ場を創れたんだと思います。この最高の舞台の至近距離に立てたことこそ、“現場のカメラマン冥利に尽きる”のだと実感しました。ショートプログラムの朝の練習で見たこともないような大転倒をしたにもかかわらず、驚くほどの強さで完璧な演技をみせたキム・ヨナ(韓国)、亡くなった母に演技直後に呼びかけたロシェット(カナダ)、予想外のはつらつとした演技で会場を沸かせた長洲未来ら、張りつめた緊張感と息が詰まるような“氷上の競演”の傍らに立ち会えた事に最高の喜びを感じています。
<花井>ありがとうございました。いい経験をしましたね。オリンピックという最高の舞台で、選手の心の中まで読み切るとはすばらしいことです。
<花井>質疑応答に入りたいと思います。事前に新聞博物館に来た質問があります。質問は、「被写体に何を見たかったのか、見たのか。時には雑踏のような場所でも撮影に集中しなければならないと思います。どのように狙う構図を切り取るのか。新人のころからの苦労話しを聞かせてほしい」。
<澤田>「被写体に何を見たかったのか」という質問ですが、事前に何かを見たいなどと決めつけないようにしています。決めつけると、とっさのことに対応できないので。雑踏のような場所で撮影する場合も、どこか一点だけに集中するということはありません。事件事故でもスポーツ取材でも言えることですが、何が起きても柔軟に対応できるよう、広く周囲を見るようにしています。
<鈴木>新聞社のスタッフカメラマンである以上、もっとも必要なことはニュースは何か、ということだと思います。被写体があって、ニュースがあって、そののち、現場で私自身が感じた事を加味して写真で表現したいと思っています。(例:辻井伸行さんが被写体 国際ピアノコンクールで優勝した、というのがニュース 目に光が反射して、未来が開けたように見えた のが私なりの解釈、表現 です。)構図で切り取るということは普段あまり考えず、直感的に浮かんだ“画(絵)”にしようと心がけています。「集中しなければならない」に関しては、周りの雑音などは一切邪魔にはなりませんし、むしろ集中しすぎで周りが見えなくなるのは禁物です。騒がしい現場や事件の場合は、写真を撮りながらも、ファインダーを覗いていない目や、耳で周りの状況を把握しながらのときも数多くあります。「新人のころ苦労したこと」は画(絵)にできないこと。自分が現場にいても自分の存在を表現できないことにもどかしさを感じていました。劣等感たっぷりで数年間の苦しい日々を乗り越えると、案外自由に表現できたりするときもあるものです。
<花井>取材で心掛けることは…
<澤田>写真は人間を写してこそ、人の心を打つと思います。災害の写真などでも、災害状況を説明する写真より、そこで悲しんでいる人の写真の方が、伝わると思います。
人間の写真は目です。目が死んでいる写真は、どんなに決定的な場面をとらえたものでも、好きではありません。人の目が生きている写真を撮っていきたいです。
<花井>苦労話や信条みたいなものは…
<澤田>最近の苦労ですが、東京地検による小沢一郎民主党幹事長への任意聴取が行われるという日、小沢氏が宿泊しているとみられるホテルに向かいました。早朝6時ごろから、聴取される場所へ向かうであろう小沢氏の姿をとらえようと、張り込みを続けました。できれば夕刊時間帯に撮りたかったのですが、何時間待っても一向に姿を現しません。結局、聴取はそのホテル内で行われ、張り込みは無駄に終わりました。翌日朝刊には、私ではなく先輩が撮影した、夕方に小沢氏が記者会見する写真が載りました。待つことが多い私たちの仕事ですが、待っても報われないことが多々あります。
<鈴木>苦労話はいろいろありますが、長いこと狙って撮れない時がもっともつらいですね。でも基本的には苦労と写真の質は全く比例せず、写真の結果がすべてだと思っています。ただ現場の取材者が楽しめれば、その雰囲気は写真のどこかに反映される、とにかく現場を満喫することが重要だと思っています。取材で心掛けることは、理性と感覚のバランスをいかに保つかということ。細かくはいろいろ心がけています。
・的確にネタ(ニュース)の核をつく。
・自分らしい写真を目指す。
・被写体や取材記者の邪魔にならず、あくまで陰に徹する。
・傍観者にならず、当事者の気持ちで現場を感じたことを写真にする。
・相手に喜んでもらえる写真にする。
などいろいろありすぎで、わかりません。現場によっていろいろ考えたり、思いを巡らせたりしますが、やっぱり根本は、「現場を充分に楽しむこと」ですね。
<花井>質問「普段外で歩いている時、歩行者を勝手に撮影して紙面に載せても肖像権トラブルは起きないですか」。
<鈴木>腕章は必ず着用しています。使う写真がきまりそうなときは、写っている人に声をかけ、あらかじめ許可を得たりもしています。あとは顔がわからないようにブラしたり、後ろ向きを狙ったりしますが、こちらが一切の悪意を持たずに配慮にこころがけることが大事だと思っています。今のところ、私自身は苦情、トラブルは一度もありません。
<花井>質問「放映されているNHKの画面を複写して勝手に紙面に使ってもいいのですか」。
<花井>各新聞社がNHKの画面を紙面化するときは、NHKの許諾を得て使っています。たとえば「奇跡の生還」の時、夕刊締め切りぎりぎりだったため、やむを得ずNHKのテレビ画面を複写して「生還写真」を朝日、毎日、読売の1面に使っています。
<花井>時間がきました。ありがとうございました。これからも本日の講演を糧に頑張ってください。また、この講演会が報道現場の実情やジャーナリズム、写真取材の使命、役割について、少しでも理解していただければ幸いです。
≪日本新聞博物館が行った記者講演会アンケート結果・一部抜粋≫
・写真ひとつ撮るのにもたいへんな苦労があるのだなと思った(50代・女性)
・写真報道の苦労ややりがいが実感できた(60代・男性)
・普段、紙面だけでは知ることのできないような報道の裏話を聞くことができて、勉強になった(20代・女性)
・写真展で見た写真の撮影者の心がよくわかり、本当に納得した。自分だけの想像の狭さを思い知らされた(70代・男性)
・記者を目指している私にとって、カメラマンの仕事をとてもよく知ることができた貴重な講演だった。今回は五輪後だったので、スポーツ関連の話題や裏話がとても面白かった(10代・女性)
・カメラマンの人間性も含まれての報道になるということが分かった。いつも何気なく見ていた新聞の見方が変わると思う。現場主義はすばらしいですね(60代・女性)
・写真を撮る苦労や考え方など、現場に立つ記者だから感じる視点を知ることができてよかった。今日はよい勉強になった(20代・男性)
・毎日配達されている新聞をただ何気なく見ていたが、写真一枚にしてもたいへんな苦労があることがよく分かった(70代・男性)
・今回はバンクーバー五輪の取材秘話などを聞けて楽しかった(20代・男性)
・このような講演は中・高生にも聴かせて、こうゆう職業があるということを知らせたい(60代・男性)
・シャッターチャンスの大事さや、(記者の)日本人気質についてよくわかった。澤田記者の「写真は人の目が生きていることが大事」という話に感銘した(60代・女性)
・鈴木記者の「画になるか、字になるか」の話に記者魂を見た(60代・男性)
以上
開会式
2009年12月17日開場式テープカット | |
写真パネルにサインする鶴見虹子さん(左)と杉山愛さん |
鶴見さんが撮影した杉山さん |
杉山さんが撮影した鶴見さん |
17日の天皇皇后両陛下の行幸啓 | |
展示写真の説明を受けられる両陛下 | |
23日、鳩山総理夫妻が来場 |
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鳩山総理が撮影した報道陣 | |
鳩山幸夫人が撮影したSPら | |
19、20日に開かれた親子で楽しむカメラ教室 |
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ていねいに指導を受ける子供たち | |
すぐプリントして力作を持ち帰った | |
27日、高円宮妃久子さまも来場 |
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ご自身も撮影に行かれたというトキの企画写真をご覧になる高円宮妃久子さま | |
「四川大地震発生1周年写真展」
2008年報道写真展 記者講演会
(毎日・小出、東京・朝倉、事務局・花井)
日本新聞博物館主催の「2008年報道写真展 記者講演会」が09年2月14日、同館のニュースパーク・シアターで開かれました。ジャーナリズムの活動について一般の方に理解を深めてもらうため企画されたものです。08年度東京写真記者協会選定の協会賞、部門賞受賞者の記念講演と、日頃の取材活動、新聞紙面では語りつくせない報道への思い、現代社会で報道に求められていることなどをディスカッション、質疑応答した中からの抜粋です。
[第1部・受賞報告]
「秋葉原ホコ天で凶刃に倒れる男性」
毎日新聞東京本社写真部 小出 洋平
▼ 受賞作品の概要・経緯・ねらい
08年6月8日の日曜日、午後0時半すぎに本社から直通電話で一報が入りました。はじめは「人が刺され、救急車が相当数来ている」という内容の連絡だったと思います。通り魔事件だという概要すらもまだ分かりませんでした。離陸の準備を整える5分ほどの間にも入ってきた「多数が心肺停止」などの断片的な情報を持って、パイロットと整備士の計3人で現場に向かいました。羽田空港にある格納庫から現場まで約10分の間、どのような写真が撮れるか考えながら、カメラのバッテリー残量を確認。高いビルが林立する都心の取材なので高度制限も厳しく、望遠レンズを付けたりと機材の準備をしていました。
交差点周辺に人が大勢集まっていたので、上空から現場はすぐに確認できましたが、到着直後はなぜこんなに人が集まっているのか状況がつかめませんでした。レンズで交差点をのぞき、目をこらすと人が倒れ、点々と血が流れているのが分かり、「大変な現場」だと思いました。
混乱した交差点、その周囲に集まる群集、男が刃物を振り回し次々に通行人を襲った路上、男が乗り捨てた車、と現場の状況が1枚に納まり、説明的な写真ばかりで何かが伝わらない、足りないと感じていました。自分自身も腰が引けていたと思います。
400_を構えて「交差点の真上にお願いします」とパイロットに声を掛け、交差点の囲いの中で救急隊員に治療を受ける男性を上空から撮影したのがこの写真です。
取材中は「7人死亡10人けが」とは分かりませんでした。遠い国の出来事ではなく、自分の生活圏内でこれほどの事件が起きたことを読者に伝えたかった1枚だったと今にして思います。実は交差点の脇でシートに覆われているでもなく通行人の目にさらされていた同じようなアップの写真を撮るには撮ったが、これは出稿を見送りました。一方でこの写真は10人近い隊員が懸命に救護を続けている姿があり、まだ生存している、助かる可能性があると判断して出稿しました。
「歴史的な瞬間」
東京新聞社写真部 朝倉 豊
▼ 受賞作品の概要・経緯・ねらい
広範囲なことは避けてスポーツ写真という局面において私が普段心がけているようなことを話します。そもそも私は社会・政治ものはあまり詳しくないので局所的なことしかわかっていないという事情もあります。とはいえ、これらの中には応用が利く事象もありますのでご参考になれば幸いです。
今回、賞を頂いたフェンシング競技は撮影経験が全くなく、ルールもほとんどわからない状態でした。太田選手が準決勝に進んだという一報を受けてから試合会場へ移動してみたところ、主要な撮影場所はほとんど埋まっていたため他の場所を探しての撮影となりました。幸いなことに試合会場(ピスト)周りは広くて自由に動けたので選手が剣を持つ手や背景、使用するレンズを考慮して他のカメラマンが全くいない場所を選んで撮影しました。
このときに一番重要なのはその場所から撮影した場合、できあがる絵柄がどのようなものになるのかということを早いタイミングでつかむということだと思います。フェンシングは15点までは試合が続くので比較的余裕のある競技だと思いますが、アルペンスキーの滑降のように一回しか撮影のチャンスがない競技もたくさんあるので予測はとても大切な要素になってきます。その競技の見せ場を早く見抜きその後の展開を何通りか想定しておくことができれば「右に行ったからこちらも右へ」という後追い的な撮影を避けられ、常に先手を取って待ちかまえるような感じで被写体に対応することが可能です。
そんな理由から私は絵柄や展開をあれこれ何種類も予測し準備するための想像力こそが重要であると考えています。これはスポーツ写真に限らず、どのような事柄の撮影にも当てはまるはずです 。カメラの性能が上がってきて「押せば誰でも撮れる」という現在において絵柄を決める撮影場所の選択が「シャッターを押す」こと以上に今後ますます大切になっていくと思います。
[第2部・ディスカッション]抜粋
コーディネーター:東京写真記者協会事務局長・花井 尊
<小出さん、取材で心掛けることは…>
[小出] 日ごろの事件取材で多々あることですが、事件・事故の取材は警察の発表を受けて各社が一斉に取材を始めます。現場に到着すると、そのほとんどは警察の事件捜査が始まっているので、近づける距離も限られています。都心の火災などビルの谷間で起きた事件事故は規制線をかいくぐって現場が見通せる建物を探し回って、交渉して中に入れてもらう。冬の時期でも汗をかくぐらい息を切らせて走り回ることもしばしばです。淡々と警察が捜査している様子を撮影していても事件事故の緊迫感がないこともあり、人が亡くなった現場だという意識が自分自身の中で希薄になっていると感じています。
逆に秋葉原の現場は発生後間もなく、交差点の中には、急いで乗りつけた救急車、パトカーが何台も止まり、人が右往左往しているのが見え、明らかに混乱しているのが分かりました。現場の喧騒は聞こえてきませんが、その雰囲気に呑まれると自分が何を撮っているのか分からなくなるので、のべつ幕無しにシャッターを切ることはせずに、時々、ファインダーから目を離して現場全体を眺めて、狙いを絞ってレンズを換えて撮影を続けました。目の前には何が起きて何があるのか一つ一つ頭の中で整理していきました。
<朝倉さんはどうですか>
[朝倉]新聞社に入社して20年になります。私の場合はスポーツ取材が主でした。サッカーコンフェデレーションカップ、世界陸上、アルペンスキーワールドカップ、フィギアスケート世界選手権などのほか、プロ野球取材は8年やりました。好きでしたしスポーツ取材に恵まれていました。オリンピックは夏冬あわせて北京大会で3度目です。
スポーツ写真で一番大切なことはシャッターチャンス、つまりシャッターを押すタイミングですが、そのタイミングを日々苦労しています。しかし慣れというか、訓練のたまもとというか、だいたいヤマを張ってもきっちり写真の図柄がはまるケースが多くなりました。ヤマカンで撮れと言っているのではありませんが、早く予想して早くカメラとレンズと向けないと間に合いません。地道な撮影訓練が結果的にカメラマンの腕を磨き、読者にいい写真を届けられると思います。
<苦労話や信条みたいなものは…>
[小出] 秋葉原事件のような空撮取材の場合、現場の記者とやりとりができ、かつ警察からも刻々と情報が入る地上と違い、現場の記者→本社の社会部→本社の写真部→羽田格納庫の整備士→ヘリのパイロット、と何人も経由するため限られた情報に自分の経験、時には勘で自分なりに現場を読み解かなければなりません。上空からの撮影は写真記者の僕らでも慣れない高さなので、いつも以上に緊張感はあったと思います。
特に事件事故現場の取材では「とにかく何でも撮れ」とよく言われますが、自分でも何を撮っているのか説明できない写真は何も伝わらない。これは新聞記事も同じです。カメラを手にしている以上は自己満足だけでなく、見た人に何かが伝わる写真を、と心掛けています。自分自身に感じるものがなければ、なにも伝わらないと思います。
[朝倉] 一般取材に関しては、私も小出さんと同じ意見です。あえてスポーツ取材に関して言えば、スポーツはドラマを絶えず含んでいるということです。何が起きるか分からない。その時シャッターを押していなければ写っていない。ヤマカンだけでなく、絶えず何かが起きるだろうと心構えがあると無いとでは、結果に天と地の差があります。だからスポーツ取材は面白いのです。戦争ではありませんが、決められたルール内での格闘技です。それは各選手の精神的な格闘も含まれます。そんなドラマチックな人間の姿を伝えていければと常に思っています。
<最近、動画がはやりのようですが…>
[小出・花井]動画は動画で役割があり、流れる映像のほか、音も声も解説もあり、時には効果音も含んでものごとを伝えていきます。しかし、一枚の写真が滅びるわけではありません。写真力といいますか、静止した一枚の写真からメッセージが発せられ、人間の感性を呼び覚まします。「戦場のフォトグラファー」というドキュメンタリー映画で、主人公である写真家のジェームズ・ナクトウエイが「私は目撃者であり、これらの写真は私の証言です。私が記録した出来事は、忘れられてはならず、また繰り返されてはならないのです」と言っています。動画とは違う強いメディアだと思います。
<マスコミの人間は、現場で、取材より苦しんでいる被害者をなぜ助けないのか、という質問がありますが…>
[朝倉・花井]このご質問はこれまで何度もお聞きしてきた質問です。現実的な話ですが、たとえば秋葉原事件で現場に着いて、シャッターを押すのをやめて、救急隊に「何かお手伝いすることはありますか」とは言えません。救護の邪魔になるだけです。役割分担といいますか、我々は写真を通じて読者、国民に現状や問題点を伝えるのが仕事です。2001年、児童8人が殺害された大阪の「池田小学校児童殺傷事件」のとき、上空の取材ヘリコプターが何機と舞っているのに救助に降りてくれなかった、という批判も受けました。メディアスクラムといって、取材現場に報道関係者が群がり被害者、加害者ともに大迷惑をかけてきたことは今では許されません。今ではそのような反省のもと日々の取材に当たるのが我々の任務だと思います。
<ありがとうございました。これからも精進して取材にあたってください。この講演会が報道現場の実情とジャーナリズムの使命や役割について、少しでも理解していただければ幸です>
≪日本新聞博物館が行った記者講演会アンケート結果・一部抜粋≫
・写真記者の生の声が聞けてよかった。また、取材する際の視点がわかりとても参考になった(40代・男性)
・新聞から写真が抜けたら全く無意味なものになると思う。報道写真の訴える力は絶大だ。これからも読者へ感動を伝えてほしい(80代・男性)
・取材の状況、姿勢など、具体的な話が聞けてよかった(20代・男性)
・写真記者の立場や魂の様なものを感じた(70代・男性)
・報道現場の第一線で活躍している方の話に重みを感じた(10代・男性)
・写真記者としてのこだわりが伝わってきた(20代・女性)
・若手記者、中堅記者、それぞれの考え方の違いが大変興味深かった(50代・男性)
・1枚の写真が掲載されるまでの過程がわかってよかった(60代・男性)
・報道写真の難しさがよくわかり、社会とのつながりがすごいと思った(40代・男性)
・写真記者本人の伝えたい心を知ることができてよかった(70代・男性)
・報道写真の迫力や一瞬を切り取るための取り組みや苦労が感じられた(50代・男性)
・報道写真の本質に接した良い機会であった(70代・男性)
・取材背景を詳細に聞けてよかった(20代・男性)
・豊かな内容で大満足した。2人の記者の率直な話も、コーディネーターの進行もとてもよかった(60代・女性)
・写真記者の現場での姿がよく伝わってきた(50代・男性)
・日ごろ聞けない話が聞けてよかった(20代・男性)
・いかに目的を持ち、先を読んで写真を撮ることが大切かを確認できた(20代・女性)
以上(まとめ文責・花井)
開会式
テープカット | サイン |
上野選手がプレゼントされたカメラ で撮った原田(左)・鈴木両選手。 |
開会式での取材風景。 |
麻生首相
報道写真展を見学する麻生首相夫妻 | カメラで報道陣を撮影する麻生首相 |
麻生首相が撮影した報道陣の写真 その1 |
麻生首相が撮影した報道陣の写真 その2 |
2008年東京写真記者協会の総会風景