「『W杯』にちょっと違和感」
オールスターゲームが終了して、プロ野球はいよいよ後半戦に突入しました。古くから日本人は節目を大事にしてきましたが、報道の世界も例外ではありません。ワールドカップやオリンピックなどの大イベントでは、「開幕まで一年」や「あれから一ケ月」など節目に合わせた紙面を作成します。特にスポーツ紙ではプロ野球のキャンプインやペナントレース開幕日は特別な日で、各社が独自の視点で一面を競い合います。担当カメラマンも選手と同じような高揚感や緊張感を持ってその日を迎えているはずです。オールスターゲームが終わるとシーズンの折り返し。球団、選手にとっては大きな節目で、好位置にいるチームはさらに上を目指し、下位に甘んじているチームは心機一転の巻き返しを図るチャンスです。ファンの心躍る好ゲームを展開して、一面をにぎわしてほしいものです。
冒頭から「オールスターゲーム」や「ワールドカップ」「オリンピック」と記してきましたが長たらしく、さらに片仮名が多くて読みにくく感じませんか? 新聞ではそれぞれを「球宴」「W杯」「五輪」といった略表記を用いて紙面化しています。見出しや記事の字数が限られている新聞ならではの工夫ですが、文章がコンパクトになる上に、文体も滑らかで全体的に読みやすい紙面になります。今ではテレビや雑誌にも使用され、読者にも広く受け入れられている略表記ですが、「W杯」については多少論議があるようです。私の回りにも「あまり好きな言葉じゃない」という人は少なからずおり、サッカーが好きな人ほど違和感を持っているようです。
「五輪」は五大陸を五色で表現したシンボルマークを由来とした素晴らしい言葉だと思います。読売新聞社の記者が考案したと言われていますが、オリンピックという壮大なスポーツの祭典を端的に表現しながら、日本語としても美しいと思います。「球宴」もまあまあでしょう。「オールスター」を直訳したわけではなく、野球をイメージしながら、華やかさとお祭り気分のような雰囲気が伝わってきます。対して「W杯」には由来や創造性がなく、肝心な世界観もありません。そもそもW=世界とするには無理があり、事務的な言葉の域を出ていません。
では、どう略表記すればよいのか。「World Cup」をそのまま日本語に置き換えると「世界杯」となり、何の大会なのかわからなくなります。では頭文字を取るとどうなるか。「WC」…これはちょっと。結果として「W杯」となったのもやむを得ないような気がしますが、さらに発音も問題です。「ダブルはい」なのか「ダブリューはい」なのか。どちらにしても語感がよろしくありません。今回の南ア大会のテレビニュースを注意して聞いていたら、アナウンサーは「ダブルはい」と発音していましたが…。
スポーツに限らずワールドカップを冠する催しが乱立していますが、ワールドカップと言えばサッカーのワールドカップのことを指します。その正真正銘のワールドカップを「W杯」と記すことや、「ダブルはい」と呼ぶことにファンは違和感を覚えるのでしょう。新聞紙面は略表記のオンパレードで、日々「新語」も誕生しています。むろん読者の立場に立って考えた言葉なのですが、評判の良いもの、お叱りを受けるもの玉石混合です。先ほど「南ア大会」と記しましたが、次回の2014年ブラジル大会はどう略されるでしょうか。漢字の「伯剌西爾」は馴染みが薄いので頭文字をとった「伯大会」になることはないでしょう。「ブ大会」もまさかとは思いますが、テニスのデビスカップを「デ杯」と略す新聞業界ですから少し心配です。
当たり前に使っている略表記や言い換えが、実は事の本質を損なうことになっていないか。「W杯」が「絶対ダメ!」とは思いませんが、新聞を生業とする私たち自身が節目、節目に見つめ直す、考え直すことが必要だと考えます。あれこれ愚痴のようなことばかり記してきましたが、何か「W杯」に代わる素晴らしい略表記はないでしょうか。世界観があって、夢や熱気を感じられ、そして日本語としても美しい…。次大会までにどなたか妙案を!
東京中日スポーツ
写真部長 星野浅和

《速報が“命”の夕刊紙》
夕刊紙といえば、仕事帰りのサラリーマンが満員電車の中で身を小さくして読んでいるイメージが強い。きわどい見出しで駅の売店に並んでいるアレだ。中身は政治からスポーツ、ギャンブルにゴシップ、三面記事のなんでもござれ。
世のお父さんたちが酒の肴にしたりと“役立つ”?情報が満載。当然、写真も多岐にわたる。政権交代など世間の耳目を引く出来事があると、一面は政治一色。芸能スキャンダル発覚ともなると、連日追っかけまわす。
元グラビアアイドルでストリップデビューしたKさんの場合がそうだった。浅草の劇場の出入り口全てにカメラマンを張り付けるライバル紙もあった。うちは朝からエース一人を投入。「Tスポ、すごい人数来てますよ。応援は(出してくれますか)?」「今はなし。スポーツ(担当デスク)に頼んで昼から出すわ。ま、それまで一人でがんばれよ」非情な命令を出さなければならない。
Kさんは報道陣のあまりの騒ぎように、劇場に入るのを躊躇していたようだ。結局夕方近くに裏口から入ろうとしたKさんは100人近い報道陣に囲まれる始末。もみくちゃになりながらの“撮影会”。うちのエースもどうにか撮れたようだ。芸能ネタは、尽きない。結婚、離婚、不倫。薬物汚染なんて事件にからむこともある。
覚せい剤取締法違反の罪で起訴された女優のSさんが、拘置されていた警視庁東京湾岸署から保釈されるのは夕方の4時過ぎの予定だった。通常の夕刊フジの締切り時間はとうに過ぎている。編集局長の「事件発覚後、初めて公の場に出るSさんの表情を一面に載せたい」との判断で、すでに4人のカメラマンを送り込んでいる湾岸署に写真の電送要員として写真部員を追加した。
頭を下げ、神妙な面持ちのSさんの写真が本社へ送られてきたのは10分後だった。さっそく紙面が刷られ、山手線の主要駅の売店に並んだ。速報が“命”の夕刊紙ならではのドタバタ騒ぎだった。
さて、夕刊紙の速報は芸能、事件ばかりかというと、そうではない。欧米で行われるスポーツイベントは、日本時間の未明から昼ごろが多い。メジャーで活躍するイチローや松井の試合はデーゲーム、ナイターで時間のずれはあるが夕刊時間帯である。今まさに開催されているサッカーW杯南アフリカ大会では、日本代表がデンマークを3対1で破り、決勝トーナメント進出を決めた試合が終わったのは朝方。朝刊各紙は号外を出さざるを得ない時間帯だ。
夕刊フジも号外に負けていられないと、締切り時間を1時間以上早めて出稿。写真はリアルタイムでAP、ロイターの海外通信社や共同通信から続々と配信されてくる。もちろん産経新聞グループからも2人のカメラマンを特派員として送り込んでいる。
本田だ、遠藤だ、岡ちゃんだと写真選定は盛り上がる。結局一面はAPの写真を使ったが、特派員の写真も掲載できた。このページに添付した写真は、左側が当日の夕刊フジの一面。右側は「前垂れ」というもので、駅の売店で新聞の束の前に垂れ下げ、当日の紙面の読みドコロを紹介するためのものだ。
イチ押しがある場合は大きく写真を使って目立たせることもある。興味をひく写真があったら一度ご覧いただきたい。
夕刊フジ写真報道局
写真部長 清藤 拡文


《W杯とカズ》
このコーナーで何を書こうかと思い悩んでいた時、テレビニュースでカズ(三浦知良)がサッカーW杯南アフリカ大会の日本代表発表について、記者に囲まれている映像が流れてきた。インタビューに真摯に答えているカズを見ていると、今更、カズでもないだろう≠ニいうせつない思いがこみ上げてきた。それは私があの瞬間≠目撃した一人であるからだろうか。無性にカズを書きたくなった。このコーナー「コラム」にそぐわないのかもしれないが、カズのことを書かせてもらう。
あの瞬間≠サれは「ドーハの悲劇」。サッカーファンのみならず、多くの日本人の記憶に刻まれた93年サッカーW杯アジア最終予選の最終試合。イラクに勝利すれば悲願の本大会初出場が決まる一戦のロスタイム、イラクのオムラム・サルランに同点ゴールを決められ、Jリーグ元年で浮かれていた、我々の夢物語は現実の世界へ引き戻され、目を覚まさせられた。
当時、まだインフラが整備されていなかったカタール。衛星回線用のパラボラアンテナを持ち込んだ社もあったが、各社でカタール・テレコムに交渉に行き、何とか国際回線を確保。フィルムの時代だったゆえに40℃のカラー現像液を保つため、魔法瓶に液を入れホテルから競技場に持ち込んだ。余談だが、サポーターで来ていた岐阜・金津園のソープのかわいいお姉ちゃんたち≠ェ隣のライバル社に差し入れに来るのを横目でながめたり、試合開始前から、あわただしい1日が始まった。
試合開始時間が16:15(日本時間22:15)。早版に間に合わせるためには、私は開始10分しか撮影できない。前半5分、運良くカズの放ったシュートが、ゴール裏で構えていた私のファインダーに飛び込んできてくれた。後の取材は同僚に任せ、臨時のプレスルーム(会議室)からカズの写真を送信。しかし、同じ競技場にいながら試合の経過が分からない。
後半25分、東京本社でテレビを見ているデスクから中山が勝ち越しのゴールを決めたと連絡が入り、フィルムをピックアップするためにピッチに走った。洗面所で現像を終え、プレスルームに戻る途中、韓国関係者が待機していた部屋から歓声が上がった。
私は不吉なものを感じながら、戻ったその時だった、目の前の電話が鳴り、「ダメだ!同点だ!」それは東京のデスクからの悲痛な叫びだった。私もとっさに「ダメ?」と大声でデスクに聞き直した。周りにいた各社のカメラマンが送信の手を止め、凍りついた。そして時間が止まり、すべてが終わった。
ピッチに座り込んだ選手の中でも、日本中の期待を一身に背負っていたカズはW杯を機に世界に飛躍しようと考えていただけに、落胆ぶりは計り知れないものがあった。82年、カズは15歳で単身ブラジルに渡り、90年には「サントスFC」でレギュラーポジションを獲得した。当時、ブラジルの国民的英雄のF1ドライバー、アイルトン・セナの活躍で、F1もサッカーと並んで人気スポーツだった地元では、ウィングのカズはF1に参戦していた同じ日本人の中嶋悟と比較され、「ナカジマは全然走らないが、カズはよく走る」と称賛されていた。
90年、帰国して読売クラブ(現東京V)に入団。その後の活躍は言うまでもない。カズは少年時代、周りの大人たちから「長嶋茂雄」の話をよく聞かされていた。チャンスに強く、ファンやマスコミにもサービス精神が旺盛な長嶋さん。監督時代、自らポーズを作ってくれたうえ、我々カメラマンとアイコンタクトをとり、首尾よく撮影できたかどうかを確認し、次の行動に移ってくれた。
カズもまた、記者に囲まれると、次の日の見出し≠ワで考えて話してくれた。いつの日かサッカー界の長嶋茂雄≠ノなりたいと思う気持ちが、長嶋さんに会ってからますます強くなっていった。
しかし、「キング・カズ」と呼ばれ、頂点に登りつめたカズだが、W杯には縁がない。98年、フランスW杯の直前合宿の地スイスで、メンバーから外された。体調が万全ではなく、プレーにも陰りが見えてきたカズだったが、日本代表を引っ張ってきた男に岡田監督は非情にも帰国命令を下した。カズを残すぐらいの余裕≠ェ岡田監督にはないものかと思ったのは私だけではなかっただろう。
カズは髪を銀色に染めて帰国。長嶋さんが、自分であって、自分ではないもう一人の「長嶋茂雄」を常に意識していたように、カズも「キング・カズ」を演じなければならなかった。あの銀髪はその表れだったのだろう。
今年で43歳になったカズだが幾つかのチームを渡り歩き、現役を続けている。今回の代表発表でも岡田監督の口からカズの名前は呼ばれることはなかった。翌日、テレビカメラの前でカズは、次回は母国<uラジルだから、行きたいねと話していた。母国の日の丸を背負って、母国≠フピッチに立つために、今日も走り続けるそんなカズに拍手を贈りたい。
報知新聞東京社編集局
写真部長 多田隆一
《新聞の原点》
写真部に着任したのは昨年6月。あの時、この部に来て、すぐに頭に浮かんだ言葉がある。それは「現場」。外へ次々と飛び出していく部員の後ろ姿を見ていて、反射的に浮かんできた。
新聞の世界に入って30年が過ぎた。ずっと書き手、ペン記者の道を歩んできた。事件でも、事故でも、街だねでも、いつも現場で取材を重ねてきたように思っていた。なのに、写真部に来たら、その「現場」という言葉がなぜか新鮮だった。どうしてか。知らぬ間に、現場から遠ざかっていたような気がして、寂しく、そして恥ずかしい思いがこみ上げてきた。
弊社のことでやや申し訳ないが、約6年前、横浜市の日本新聞博物館で「東京新聞創刊120年展」という催しが開かれた。タイトルの通り、さまざまな展示品によって弊社の120年の歴史を紹介する企画展だったが、当時、横浜支局にいた私は開催の数日前から博物館に足繁く通い、展示品の陳列などの手伝いをさせられた。かなりの重労働。ただ、展示する際に内容をひとつひとつ確かめるため、昔の新聞記事や写真をじっくりとながめることができた。そんな中で、ある記事に目が止まった。
弊紙の前身「都新聞」の記事だった。明治時代に刺殺事件を起こした美人芸者の出獄をスクープしようと、都新聞の記者が張り込み取材する。その現場の様子をこの記者は雑感記事に仕立てていくのだが、この記事が実に生々しく、現場がにおうように書いてある。観察力の鋭さ、表現力の見事さ、現場での粘り…。明治の大先輩の文章を読んで、脱帽した記憶がある。そして、強く感じたものだ。新聞の原点は、やはり現場だと。
当たり前だが、写真は現場に行かなければ話にならない。しかしながら、記事は必ずしもそうではなくなってきた。伝聞、あるいは電話取材…。現場に行かなくても、現場の様子を書き上げる二次的な手段がある。ただ、それに甘えてはいないだろうか。そんな考えがいつも頭の片隅にあったし、新聞全体が甘えの構造に浸食されていくような気がしてならなかった。
通信手段の飛躍的な進歩、官公庁などの行き届いた広報体制、過度になりがちなプライバシーの保護…。そんなさまざまな要素が現場をさらに遠ざけていく。
新聞がおもしろくなくなった、と以前から言われてきた。当たっていると思う。ならば、おもしろくするには…。記者が現場で苦労して撮ってきた写真に多くの手がかりがあるように思える。単純に、素直にそう思う。記事も、現場や現実にもっと肉薄しなければいけないのではないか。やはり、それが原点だろう。
そんなことを考えながら、「現場」を頭によみがえらせてくれた写真部に、感謝している。
東京新聞編集局
写真部長 伊藤憲二
プロ野球が開幕しました。我々スポーツ新聞のカメラマンにとって、プロ野球の開幕は特別な日です。選手たちと同様に私たちカメラマンもキャンプ、オープン戦で競い合い、開幕を迎えます。開幕戦は144分の1だと言う人もいますが、我々スポーツカメラマンにとっては唯一の試合なのです。
カメラマンの担当競技、担当球団が決まるのは前年12月です。サンケイスポーツの場合、部長やデスクが協議して決定します。そして、忘年会の席で発表するのが恒例となっています。20代頃の私は、担当の発表前には夜も眠れず、ワクワクして発表を待ったものでした。担当球団を持つことで、1年の仕事の流れが決まるからです。
担当球団が決まると、カメラマンはキャンプ地の宿を予約します。1ヵ月間過ごすのですから、宿の立地、環境はとても重要です。今年は西武ライオンズに入団したスーパールーキー・菊池雄星選手の人気が高く、キャンプ地・宮崎県南郷町の宿が報道陣で一杯になりました。担当カメラマンは宿の確保に苦労したようですね。
キャンプ期間中は朝から晩まで取材の連続です。1992年、長嶋茂雄さんが2回目の巨人の監督に就任した時に、報道合戦がピークに達しました。監督が第一次政権時、未明に散歩に出かけたという情報から、私たちは警戒のために朝5時に起床し、巨人の宿舎に張り込みました。監督が宿舎をこっそり抜け出して近所の青島神社に参拝するという噂もあり、一部のカメラマンは夜明け前に神社の境内に張り込みました。賽銭箱の陰に隠れ、タバコを吸おうと点したライターの炎で他社のカメラマンの顔が暗闇に浮かび上がり、「お化け!!」と悲鳴を上げたカメラマン同士のエピソードは、今では笑い話です。
夜は浜辺に三脚を立て、超望遠レンズで巨人の宿舎で行われる素振り部屋を監視しました。長嶋監督が現れて、誰かを指導したら一面です。こうして紙面に載らないところでもカメラマンの戦いは続くのです。
夜間練習取材後は、決まって宿の近くのスナックで、各紙のカメラマン揃って酒盛りが始まります。実はこれにも意味があります。他社と飲む事で“抜け駆け”を防止するのです。皆が揃っていれば安心して飲めるということです。
2月のキャンプが終わると、3月はオープン戦で各地を転戦します。地方でのオープン戦では予想できないハプニングも起きます。私が最も印象に残っている出来事は前橋で行われた巨人対ヤクルト戦でおきました。残念ながらゲームの中ではありません。それは試合終了後に起きました。両軍の移動用バスは珍しく同じ駐車場に隣り合わせで停められていました。バスに乗り込む両軍選手に混ざって、ヤクルト・野村監督がやってきました。そして、誤って巨人のバスに乗り込んでしまったのです。当時長嶋監督と野村監督は犬猿の仲と云われ、リーグ優勝を常に争うライバル同士でした。もちろん、試合当日も我々のいう「カラミ」(一緒に写真に写ること)はありませんでした。
野村監督がバスに乗り込むと、監督席には長嶋監督が座っていました。野村監督の驚いた様子がその背中に現れていました。そして、お互い気まずそうに挨拶を交わしました。私たちはバスのフロントガラス越しに夢中でシャッターを切りました。
野村監督の名誉のために付け加えますと、取り巻きの記者と話しながらバスに誘導されたための“失敗”だった気がします。もちろん、間違って乗り込みそうな野村監督を見て、我々カメラマンが「しめた!」と思ったことは言うまでもありません。
こうしてカメラマンは、キャンプ、オープン戦と切磋琢磨し、デスクに怒られながら、やっとの想いで開幕を迎えるのです。選手同様「開幕一軍」を目指して・・・。
サンケイスポーツ写真報道局
写真部長 藤原重信
2月1日付けで、朝日新聞東京本社編集局の写真センターマネジャー(写真部長)に就任しました。入社以来28年間、あくせく現場を駆け回ったのが16年で、残りの12年はデスク稼業です。
写真の原点は究極のスナップだと思っています。「写真は記録。写さなければ意味がない」とよく言われます。なにげない街角の風景やその時代を写した事象など、そこに切り取られている情報量が写真の命ではないでしょうか。
取材現場を離れて久しいのですが、「いつでも現役復帰」との心構えでカバンのなかにはコンパクトタイプのデジタルカメラを持ち歩いています。スナップが中心ですが、変貌する都心の街並みなどを撮りためています。
なかでもこだわりをもっているのが「富士山」です。静岡県人としての愛着もありますが、帰省の際や出張時の車窓などから機会があえば撮影しています。おととしまでの福岡勤務時代はその楽しみをさらに満喫できました。羽田発福岡行きの航路が富士山上空を飛行するコースだったからです。山梨県側からみる富士山は裏富士なのですが、その四季折々でみせる姿がなかなか美しく輝いています。早朝便のときなどは「前方左窓側」の席を事前に予約。雲間に隠れてみえないこともあれば、美しく輝く姿、伊豆半島までがくっきりみえる秀峰に一喜一憂しました。
通常われわれがする空撮とは違い、この撮影は航空会社の機長判断しだいですので、せっかく天気が良くても山の真上過ぎて見えないときもありで、ほんの一瞬しか見ることができない富士山撮影はスリリングでなかなかの醍醐味でした。
新聞社におけるここ二十数年の最大級の変革は写真でしょう。ものすごいスピードで技術革新が進んだ新聞写真はあっという間に取材した結果が瞬時に得られるデジタル時代に飲み込まれていきました。入社以来、さまざまな出来事に遭遇し取材してきましたが、当時はフィルム全盛のアナログ時代。先輩たちから的確で迅速な暗室処理を求められ、四苦八苦の連続だったことを覚えています。
しかし、その手作り感のある写真プリントはとても丹念につくられていて、紙面で写真の訴求力を高める重要な役割を担っていました。デジタル化によって写真は誰もが撮れるようになったこともありますが、その表現力が若干淡泊になったような気がするのは考えすぎでしょうか。とはいえ、その速報力は絶大だと痛感していますが。
朝日新聞に残される約480万枚の古き良きニッポンを伝えるプリント写真。この膨大な写真も順次データベース化され、公開していく予定です。デジタル化の波のなか、動画も注目されているが、個人的にはやはり人々の心に残る印象度の強い一枚の写真にこだわっていきたいと思っています。よろしくお願いいたします。
朝日新聞東京本社報道局
写真センター長(4月から組織変更)
渡辺 幹夫
山田康平、3歳(推定)。2007年5月、わが家にやってきた。その年の1月ころに生まれ、都内の公園に潜んでいたところを保健所に捕獲、収容された。それをドッグシェルターという団体が救い出し、里親を希望するわが夫婦に出会いの機会を与えてくれた。
体重が4キログラム強しかなかった当時の康平は、人見知りが激しく、よちよち歩いてはすぐに私の背中の陰に隠れた。まともなものを食べていなかったのか、お腹の中にはずいぶん虫がいた。少し大きくなって外を散歩できるようになっても、車や自転車が近くを通ると体を震わせて怯え、匍匐(ほふく)前進した。捕獲、収容された経験がトラウマになっているようだ。
犬の3歳は立派な大人だ。体重も17キログラムに増え、顔つきも凛々しくなった。外出時の匍匐前進の癖は直らないが、番犬としての役割も覚え、カラス、野良猫、不意の来客には果敢に吠える。勤め帰りの私には、激しくしっぽを振って出迎えてくれる。
毎朝、近所の公園までの散歩を日課としている。うれしそうに飛びついてくる康平。私はそれを両手でしっかり抱き止め、心臓の鼓動を聞き、ふさふさした毛に顔を埋め、「康平、康平」と呼びかける。最高に幸せな瞬間だ。これを康平も私も、毎日毎日、飽きもせず繰り返している。不思議なのは、何百回やってもこの幸福感が一向に色褪せないことだ。
ナシーム・ニコラス・タレブという文芸評論家が書いた「ブラック・スワン」という本に、おもしろい記述があった。ちょっと長いけど引用してみる。
実際のところ、幸福はいい気分の強さより、いい気分になった回数のほうにずっと強い影響を受ける。心理学者たちはいい気分になることを「ポジティブ感情」と呼んでいる。言い換えると、いいニュースはとりあえずいいニュースだ。どれだけいいかはあんまり関係ない。だから、楽しく暮らすには小さな「ポジティブ感情」をできるだけ長い間にわたって均等に配分するのがいい。まあまあのいいニュースがたくさんあるほうが、ものすごくいいニュースが1回だ けあるよりも好ましいのである。
人間は太古から、飲んで、食べて、寝てという原始的な行為の継続にささやかな喜びを感じるように作られている、とタレブは言う。慧眼(けいがん)である。科学が進歩し、職業が多様化し、生活が複雑さを増したとしても、この原理は変わらないのかもしれない。
そんなことを考えていると、近年の新聞報道が読者を惹き付けなくなっているのも、何となくわかってくる。一人の政治家を失脚させなければ日本はだめになると叫び、基地問題が合意通りに解決しなければ日米関係が戦争状態に陥りそうなほど悪化するとがなり立てる。小さな事実を伝えるよりも大仰な提言で一面を飾ることを好み、読者の不安と焦燥をあおる。それでなくても日々の生活は苦しいのに、新聞を読むともっと辛くなるというのでは、たいがいの人は新聞を放り投げるだろう。
どうすればいいか。確信は持てないが、タレブの言葉を信じて、まあまあのいいニュースを、できるだけ長い間にわたって、継続的に紙面に載せる努力をするというのもありのような気がする。ということで、2010年は、記事も写真も「まあまあのいいニュース」に注目したい。
日本経済新聞社編集局
写真デザインセンター長 兼 写真部長
山田 康昭
明けましておめでとうございます
皆様のご清福を心からお祈り申し上げます。今年もよろしくお願いします。
昨年暮れ、日本橋三越本店で開催された「2009年報道写真展」は、天皇、皇后両陛下の行幸啓を仰いだほか、09年のマン・オブ・ザ・イヤーと言える鳩山由紀夫総理夫妻が来場。また、ご自身も写真を撮影される高円宮妃久子さまも鑑賞に来られました。VIPの相次ぐ来場が影響したのか、入場者は三越調べで約4万人以上と、一昨年と比べ約1万人増となりました。50回目の節目にふさわしい活気溢れる報道展となり、開催にご尽力いただいた関係者各位に改めて感謝申し上げます。
会場に展示された約280点の作品を一点一点頭に浮かべてみると、写真記者が事件事故、スポーツ、話題ものなどを追い求めて真摯に、中には命がけでシャッターを切った力作、労作ばかりです。写真という媒体が持つ、強いメッセージ性を再認識させられた思いです。来場者に自由に書いていただく「感想ノート」には、今年も「感動した」「思いの宿った写真に言葉を忘れた」「さすがプロカメラマン、うまい」などお褒めの意見が多く寄せられました。一方で、「皇室の写真が多すぎる」「テレビで見たものばかりだ」などとちょっぴり辛口な意見も頂戴しましたが、われわれはこうした声も謙虚に胸に抱き、成長の糧にしなくてはいけません。
さて2010年は、2月にバンクーバー冬季五輪、6月にサッカーW杯南アフリカ大会と大きなスポーツイベントが控えています。後半に入ると、7月に参院選挙が予定されています。政権交代後、初の大型国政選挙であり、有権者が参院でも民主党に単独過半数を与えるか、自民党が巻き返せるかが焦点です。結果によっては、政界再編のうねりが起きかねません。また、10月にはCOP10(生物多様性条約第10回締約国会議)が名古屋で開催。地球環境問題に重きを置く鳩山政権のもと、日本のイニシアチブでどこまで有意義な枠組み作りが進むのかが注目されます。
以上のように、今年も写真記者の出番は目白押しです。社会の隅で苦しんでいる人たちの現状を、スポーツ選手が描く伸びやかな表情を、政治家が繰り広げる人間の機微の一瞬を、写真記者たちがどう切り取って伝えてくれるのか、今から期待が膨らみます。われわれの責務は、月並みですが、読者のためにより早く、正確な、分かりやすい写真報道を心がけることです。愚直に取材対象にぶちあたっていけば道は開けてくると信じています。今年も元気印で、自然体で、やりぬきましょう。
2010年1月
東京写真記者協会
事務局長・花井 尊
11日の総会で君波昭治・前常任幹事から業務を引き継ぎました。よろしくお願い申し上げます。
10月まで在籍した写真調査部では昔の写真を見ることが多かった。昨秋から、共同通信は自社著作物を利用した発信の視点で毎日1枚「レトロ写真−あのころ」の配信を開始し、約1年間、出稿作業を担当した。過去に起きた日付をキーワードにして、数年から数十年前の写真に100字から150字の写真説明を付けて配信するもので、社の倉庫やデータベース保存の写真を新たに発信して活用を図るのが目的。
写真探しは手探りの状態。発掘は写真部OBの方にお願いした。資料写真の著作権の確認や事実関係の調査、画像の修復など思いのほか手間がかかる。写真は「懐かしい」「ほのぼの」がキーワード。しかし、これらの写真に説明を付けるのが大変。アルバムの日付は撮影日なのか送信日なのか。撮影場所も無いのが多い。説明はやはり当時の新聞の情報が最もあてになり各紙の縮刷版を参考に作業した。
「だっこちゃん」「フラフープ」「月光仮面」「力道山」「街頭テレビ」など見る人を昭和へいざなうテーマも発信できたと思っている。また、歴史的な節目の「終戦の日」「ミズーリ上の降伏」など重要なテーマも取り上げた。また、全然知らなかった新発見のテーマもあった。ひそかに自分の写真も潜り込ませた。
8月15日付「太平洋戦争が終結」の写真は、同盟通信時代の大先輩の撮影。現在手元に残っているのは35ミリフィルムで15コマのネガ。終戦の日の写真について新聞社から取材を受けたこともあり大先輩のネガをじっくり見た。これが面白かった。
撮影時間は全コマとも、昼前後、天候は晴れ。前半に兵隊か、もしくは軍服姿の集団が行進している背景に皇居・二重橋が見える。一般の人も多いが表情が暗い。しかし、座り込んでいる人は見当たらない。
後半のコマには、正門前で座り込んでいる人、泣いている人、直立している人、歩いている人が見え、国民がいろいろな思いで終戦を迎えた事実を伝える貴重なシーンとなった。
写真はあまり被写体に近づかずに撮影されている。全体的におとなしい印象。
一連の写真は当日加盟社に送られた記録はない。撮影した内容から見ると、脚立を使用した形跡ない。泣く人も遠くから望遠レンズでまとめている。自分だったら被写体にワイドレンズでもっと寄って撮影したいと思うが・・。おそらく翌日に紙面には絶対に掲載されない群集のシーンを撮影したのも、終戦の日に何があったかを冷静に伝えようとしたのではないだろうか。
結果的には当時各紙に掲載された「土下座」以外の写真も残った。古い写真を見ると撮影者の「息遣い」が伝ってきて、しばし「タイムスリップ」する楽しみを味わうことができた。
2009年12月
共同通信社ビジュアル報道センター写真部長 上妻聖二
以前、弊紙のコラム欄に、カメラのデジタル化がもたらした写真記者の仕事の変貌ぶりについて書いたことがあります。フィルムカメラ時代の取材体験を織りまぜながら、最新のデジタル技術を大いに利用し、写真表現の更なるレベルアップに努めていきたいという思いを読者に伝えました。その一方で、デジタルカメラしか知らない入社したての若手の写真部員に、普段はあまり口に出して言えないような話を、『この場を借りて』アナウンスしたいという思惑もありました。
「フィルム世代は、どうがんばったところで36回シャッター押したらそこで一区切り。ピントは手動、露出もマニュアル。フィルム交換を計算したり、思ったとおりに撮れているか不安になったり、出張先のホテルではバスルームで現像液の温度管理をして慎重にフィルムを現像。ネガからベストショットを選んだら電話機に電送機をつないで、20分近くかけて1枚のカラー写真を送っていたけれど、今じゃ、カードでいくらでも撮り放題。画像もその場で確認できて、軽くて薄いノートパソコンで加工したら、その場からピューンといっぺんに送り放題の幸せな時代に新聞社のカメラマンやってるんだから、もっと斬新な写真を撮って紙面をもっと面白くしてくれよー!」という(かなり長い解説ですが)、熱い思いを行間に滲ませつつ、エールを送ったわけです。
果たして、その思いが通じたのかどうかわかりませんが、コラムを読んだ、ある若手女性部員から、「昔は写真を撮った後にフィルムを現像したり、電送も、ものすっごーく時間がかかったり、本当にたいへんだったんですねぇ〜」と、慰めと哀れみが入り交じったような、なんとも名状しがたい表情で見つめられた後に、「でも、今は便利な時代になって本当によかったですねっ!」と明るく屈託のない、実にストレートな感想をもらったのですが、私はフンフンと頷きながらも、「そんなに昔かなぁ。うーん、なんかリアクションがちょっと違うなぁ」と心の中でつぶやきつつ、「まっ、そんなもんか」と妙に納得した次第でした。
無理もないです。デジタル世代の若い写真記者に、アナログ世代が経験した職人的な技術など理解できるわけありません。二十数年前の新人時代に、先輩カメラマンやデスクから、「一枚勝負!」のような緊張感あふれる取材現場の話を聞いた時に、「そりゃ、たいへんだわ。今はモータードライブとズームレンズがあってよかったなぁー」と、ノーテンキに思った感覚に少し似ていると思ったからです。それにしても昔の写真記者って、今振り返ると思わず笑ってしまうような、「家内制手工業的」な作業が多かったような気がします。
今、デジタル時代の最前線で働く写真記者は、アナログ世代とは性格のまったく違う職人技や苦労を背負いながら仕事をしているように思います。写真を撮る以外にパソコン上ですばやく画像を選んで的確に処理できるエディター的能力や、どんどん改良が加わるデジタルカメラや通信機器に精通した「メカを使いこなす」能力も求められます。プライバシーや肖像権の高まりで、昔では思いもよらなかったトラブルに遭遇することもあり、取材上の制約も以前に比べ増えつつあります。撮った写真が紙面に掲載されるまでの過程が劇的に進化したことで、極端に言えば、ひとりで仕事を完結することも可能です。前述の女性部員が言うように、本当に便利な時代なのですが、フィルム時代に写真記者の青春を過ごした身からすれば、仕事の流儀があまりにも変わってしまいました。
あの頃も、写真記者は個人プレイヤーではありました。でも、取材した写真が紙面化されるまでの間に、いつも誰かが介在していたような気がします。たとえば暗室の中で、皆でワイワイ議論したり騒いだりしながら写真を批評しあったり、表現力やプリント焼きの上手な技術を学んだり、現場の失敗談を聞いたり・・・、とても感傷的ですが、「人の匂い」を感じながら仕事をしていました。
パソコンが何台も並んでいる職場では、今日も次代を担う写真記者が黙々とディスプレイに向かっています。彼らの背中を眺めつつ、あの牧歌的でアナログチックな日々を懐かしむ今日この頃です。
2009年11月
産経新聞社 写真部長 佐藤一典
「張り込み」に思う
夏休み期間中は「政権交代」の総選挙で美人候補者や当落予想でも特集しようかなぁ・・・
なんてのんきな事を考えていたら、お盆前にほぼ同時に起きた押尾学と酒井法子の2つの事件で、てんやわんやの大忙しになってしまった。毎年8月は弊社のような駅売り主体の新聞は「夏枯れ」といわれる現象に見舞われ、部数が落ちるのが常なのだが、読者のこの事件への関心の高さからか、わずかながら販売部数を伸ばしてくれた。
ネタを拾ってくる記者ももちろん大変だが、なにより大変だったのは現場カメラマンだ。逮捕や送検で警察車両の透かし撮りは私自身も何度か経験があるが、いざ本人を乗せた車両が来る時には独特の緊迫した空気やアドレナリンが出て戦闘体制に入る。場数を踏めば踏むほど落ち着いて撮れるようになるのだろうが、最初のうちは違う人物を写してしまったりガラスにストロボが反射したり、あるいは光ってなかったり、ギラギラとした感じが目立ちすぎて警官に邪魔されたりと散々な思い出がある。
今回の事件の中継を見ていても、規制されているエリアもあっという間に無法地帯になり、カメラマンが転んでいたり機材がふっ飛ばされていたりと、まさに昔と変わらぬ修羅場だ。ロス疑惑の三浦和義逮捕、オウム真理教の強制捜査で極寒、濃霧、悪臭、雨でぬかるむ上九一色村の張り込み。「絶対に負けるなよ!」と先輩に送り出された思い出がよみがえる。
先日の押尾被告保釈の際には関東に接近した台風11号の影響で強風と土砂降りの雨の中、三田署や三田署以外の持ち場で保釈の時に備え、ずぶぬれになりながら張り込んだカメラマンの苦労を考えると現場は大変だとつくづく思う。もちろん取材にはもっともっと過酷なものもたくさんあるだろう。しかし現場を離れて今、記憶に残る思い出とは、こういった修羅場で同業他社の方と同じ目的のミッションに参加し小競り合いや助け合いをしたという一体感が一番の良い思い出だ。「同じ釜の飯」を食ってきた仲なのだろう。
現場にいたものだけが撮れる写真はうそをつけない。どこの社がどこで何を撮ったかも瞬時にわかる。事件現場は、みんなが公平に撮れるわけではなく明暗が分かれる現場だ。現場にいなければ撮る権利さえないからお地蔵さんのようにどんな状況でもひたすら待つ。あるときは非情な運にも左右される。撮れたのか撮れなかったのかで疲労感は天地ほど違う。撮れれば祝杯、撮れなければやけ酒だ。
通常の取材と違い「張り込み」は待ち時間に情報交換をしながら飛び交うデマにもざわめき翻弄される。時にはさまざまな暇つぶしをしながら自身のいろいろな事を考える時間もあるだろう。
長くいればいるほど、交代要員と交代するとすぐにチャンスがやってきそうで交代したいのに交代したくなくなる。そんなジレンマとも戦いながら有事の際のリハーサルをして無念無想の境地に到達する。
今は部員を送り出す立場だが、きっとみんな悪条件の取材に腐らず、修羅場を前向きに経験することで自信を持ち、よりステップアップしてくれると信じている。
2009年10月
東京スポーツ新聞社 編集局
写真情報システム部長 米田和生
≪いい写真とは≫
仕事柄、「いい写真を撮りたい」とか、「いい写真を撮れ」とか言うが、それでは「いい写真とはどんな写真?」と考えることがある。知人に「これはいい写真だね」と話しかけた時、「ええーっ?!」と否定的な反応もあれば、「そうね」と同意される時もある。
一般的に写真の「いい悪い」は、人の感性が判断の基準なのだろうか。個性的な芸術作品ならば「感覚の差」で片付けてそのままにしておけるが、我々が携わっている新聞写真を含む報道写真はそういうわけにはいかない。記録性に加え、ニュースを読者に伝える役割が大きいので、「写真も自己表現の一つ」として内容が伝わらなくてもいいや、と済ませるわけにはいかないのだ。かといって中味が伝われば絵柄はどうでもいいというわけでもない。そこが難しい。
その点スポーツ写真は分かりやすい。記録性はもちろんだが主な基準は「迫力がある」か、「美しい」か、で決まり、「いい悪い」がすぐに分かる。写真を見れば競技名も分かるし、構図もきれいなものを選んで出稿するので、極端な話をすれば、100点か0点の場合が多い。
反対に事件、事故などは、記録性、証拠性という要素が入ってくるので、その要素が強ければ強いほど構図や絵柄が悪く、迫力がなくてもボツにしない。少々ピントがあまくてもそれしかなければ使用する。この手の写真は「証拠写真」と呼んでいた。これはこれで必要な新聞写真で、テレビドラマの裁判シーンで使われる殺人現場の写真を想像すると分かりやすい。現場を忠実に写すことを目的にしているので証拠能力は高いが写真表現としての構図の遊びなど、取材者の個性、感情は出ていない。
かつて取材した米価審議会の答申取材は、答申が出る時期が分からず、農水省の別館で張り込んで大臣に答申を手渡すだけの数秒のセレモニーを撮った。これこそ答申が出たという「証拠写真」の極みだ。当時はデスクに「生産者が掲げる『むしろ旗』が並ぶ写真のほうがよくないですか?」と売り込んだ。なぜむしろ旗を推したのか。それは答申場面よりも生産者が生活の実情を訴える言葉を書いたむしろ旗のほうが「絵」になっていたからだ。この「絵」になっていることが「いい写真」の条件の一つではなかろうか。
米価審議会答申は双方の顔が見える場所を確保するための技術は必要だが撮影そのものは高度な技術がとくに必要というものではなく、モチベーションは上がらなかった。図柄もただ答申を渡しているだけで感動も与えない。紙面で見せられている読者も「答申が出た」という記号として何気なく見ていたのではなかろうか。ニュース写真として「絵」になっていなかった。
写真撮影は技術が必要だ。写真の意図を正しく伝えるにはそれなりの技術がないと写真表現はできない。では技術で「絵」にすればそれでいいのだろうか。
以前、この道何十年の撮影歴があるプロ、アマ写真家の作品の中にたった1日、コンパクトカメラを渡された小学生たちが自由に写した作品を展示した写真展があった。そのベテラン写真家たちには申し訳ないが、子供たちの写真の方がよかった。写真家の風景写真は構図などしっかりしていて「絵」になっていた。逆にこどもたちの写真はそれなりの構図であまり「絵」になってはいない。だが感じるまま素直に撮っているのか人物の表情がいいし、身近な風景の色などがとてもよかった。
なぜそう感じたのだろうか。違いは撮影時の感受性や感動の度合いだと思う。子供たちは感動しながら写真を撮っている。「きれい」、「おもしろい」と思えばそれらをストレートにとらえていた。写真家は技術に頼りすぎて感動の表現を置き忘れていたような気がした。
いい写真の条件が少しわかったような気がしてきた。同レベルの写真家が一つの被写体を撮った場合、構図、シャッターチャンスが同じなら「いい写真かどうか」の分かれ目は、自分が感動して撮影しているかどうかが分かれ目になるのではなかろうか。つまり被写体への入れ込み具合で写真に差が付く。感動して撮影するとなぜか見る人にそれが伝わっていく。
報道における「いい写真」の条件とは記録性があり、しっかりした技術に支えられた表現で、見る人にニュースを的確に伝え、感動を与える写真と定義されるのではないだろうか。見る人にいい写真と感じてもらうには最後の味付けとして、自分が感動して撮影したかどうかがキーポイントになると思う。
しかし、まだまだ「いい写真とは」の思考は続く。
時事通信社写真部長 渡瀬啓一郎
「安全の押し問答」
「なぜ取材をさせないのか、理由は?」「おたくの社の希望にはそえません!」。その日、私は港区にある東京都中央卸売市場食肉市場の正門前で、都の職員と1時間にわたって押し問答した。
2001年9月に千葉県内で発生した得体の知れない牛の病気、牛海綿状脳症(BSE)に国内の畜産農家は頭を抱えた。人間に感染する可能性もあるとの海外事例もあり、消費不振が極まり牛肉価格は大暴落、市場取引も中止になった。
国はこの事態に対応するため、国内の牛をすべて検査する緊急対策に乗り出した。当時、取材記者だった私は、「検査済みの牛肉のせりを再開する」との内容の東京都の会見に出席した。せり場を記者に見せ、別室で市場長が概要を説明し「検査済みの枝肉には安全の判を押します」と発言し、会見は終わった。
この内容をデスクに伝えたところ、「判を押した枝肉の写真をすぐに送稿しろ」との指示。「撮影の時間は設定されていませんでした」と答えた後は、電話口からお定まりの言葉が飛んできた。「ばかもん、何とかしろ」。ここから都の職員と押し問答が始まったのだ。こちらは牛肉の安全性をアピールする原稿と写真を撮りたい一念。しかし、頑な都職員の態度は覆らず。「もういい。頼まん。自分で何とかする」と一撃をかまし、知り合いの仲卸業者に直談判。「そうゆうことなら、力になるよ。ついてきなさい」と市場内の冷蔵庫に案内され、同行の写真部記者(現・福本卓郎写真部次長)が快心のショット。これに「安全の太鼓判」の見出しを付けて、紙面に掲載することができた。このカットはこの年の報道写真展で展示されたことは記憶に新しい。
食料自給率が4割を切る日本。国産、輸入物を問わず、食の安全は全国民の願いだ。生産、流通、消費の一連の流れを、カメラで追い続けていきたい。
2009年7月
日本農業新聞社 写真部長 大石雅敏
「オレにできるかなあ?」
「大丈夫ですよ。教えた通りやればいいんです」
「でもなあ…」
「じゃあ、お願いしましたよ。よろしく」
忘れもしない。06年10月3日深夜、広島、流川通りの入り口にあるデイリースポーツ広島支社での私とSカメラマンの会話である。当時の私は支社の編集部長だった。その夜は翌日に山口・下関球場で開催される秋季高校野球・中国大会準決勝の打ち合わせをするはずだった。地元の広陵が山口・宇部商とセンバツ出場権を賭けての大一番である。
しかし、突発的なアクシデントが起こり、Sカメラマンは取材をキャンセルすることになった。打ち合わせは急遽、“急造カメラマン”養成の場となった。
私も若い頃はカメラ片手(もちろん、コンパクトカメラ)に取材に出向いたことはあるが、大型の望遠レンズを使い、ましてや観客席からの撮影は経験したことがなかった。支社は一人が何役もこなさなければならない。幸運かそれとも不運か、私にはそれまで機会が回ってこなかったのだ。
翌日の下関球場。記者席でスコアをつけずに、50歳の記者は肩にずっしり食い込むカメラとともに、内野席をウロウロしていた。ピントを合わせて、エエッとばかりにシャッターを押す。カシャカシャカシャッ。機械音が響く。記者席と内野席を往復する。狙いは絞った。絞るしかない。エースの野村祐輔だ。(そうです。明治の野村です)1イニングが実に長い。広陵が2点リードのまま、試合を終えてゲームセット。「ベンチ前のナインの表情を撮った方がいいかな」と思いつつ、ベンチ裏で喜びのナインを取材する。ついでに野村にボールを持たせてポーズを取らせる。中井監督も押さえておいた。
宿舎に帰って写真をチェックし、何枚も送る。これがまた、時間がかかる。なのに、写真部のデスク曰く、「使えるのが少ないですねえ」と冷たい一言。さらに付け加える。「ついでに試合後のヤツもお願いします」
結局、高校野球が1面となる。ギョッ、明らかにピンぼけだ。ありゃ、試合後の写真も使っているではないか。赤面の至りではあるが、なんとか1面を張れたという充実感と同時に、肩の荷がスーッと降りた。
「だから言ったでしょう。なんとかなるって」
「ああ、そうだな」
5日夜、支社内で再び2人の会話。そう、私は彼にこう言ったことがある。「最近はカメラの性能が上がって技術よりも、使い慣れる方が大事らしいな」
彼は黙っていたが、私はこの憎まれ口を悔やんだ。確かに性能には助けられたが、結局、ものをいうのは写真を撮る人間のセンスであり、技術だ。それにやる気だ。「やる気はあってもセンスはどうかな。ないわな」東京本社に帰って、机の中に大切にしまってある当日の新聞を眺めながら、私はつぶやくのである。
009年6月24日
デイリースポーツ東京本社
編集局次長兼写真部長・菊地 順一
「1948(昭23)年、後楽園球場で行われたプロ野球東西対抗でグラウンドにあふれた観客」
社内事情のはなしで恐縮です。先日、昭和21年の創刊以来ストックされているネガフィルムとベタ焼きアルバムの引っ越しを行いました。恥ずかしながら、弊社編集局はここ10年頻繁に引っ越しを行い、そのたびにネガフィルムなども移動を余儀なくされてきました。このたびやっと“安住の地”を得られ写真資料を余裕あるスペースにまとめることができた、というわけです。弊社でもアナログからデジタルへの移行は以前から進めているのですが、その元となるフィルムなどは保存しています。これらを見ることはとても楽しい作業です。その時代を過ごしたわけでもないのに懐かしさを覚えたりしています。写真からは昭和という時代を感じることはもちろん、スポーツ界、芸能界などの変遷なども読み取れます。デジタル世界で生かされている身にとっては、どれも新鮮です。
また、歴代の先輩カメラマンが残された作品を見てつくづく、味があるな〜、と感じます。選手の表情が生き生きしていたり、写真のきりとり方が斬新です。今、味のある写真がどれほどあるのかといえば疑問符がつくばかりです。より速く現場写真を紙面に反映することができる今の仕組みに文句をつけるつもりはありませんが、手であわせていたピントがオートフォーカスになり、暗室作業がフォトショップになって以降、何かが抜け落ちた感覚があります。無駄を省いたことによって無くしてしまったものがあるような気がします。今後、カメラマンを取り巻く環境はさらに変化するでしょう。もちろん時代が求める変化に対応しなければいけませんが、忘れかけているかもしれないカメラマンとしての矜持は大切にしなければなりません。撮影という行為が単なる作業で終わってしまえば、見る側の共感は得られないはずです。写真資料室を見渡し、歴史を振り返りながら何となくそんなことを考えていました。
2009年5月
日刊スポーツ新聞社編集局写真部長 福永 力
新聞記者になって30年近く、20年弱は取材記者、その後の10年ほどはデスクなどを務めました。ペンの記者として写真記者とはタッグを組んで、いくつかの仕事をしてきました。ここに掲げた写真は、その中でも強く印象に残る1枚です。
もう今から15年も前、当時の日曜版のフロントページに大きく掲載されました。撮影したのは同僚の清水隆君(現在は大阪写真センター)です。
この写真とともに掲載した私の文章はざっと次のような内容でした。
ケニアの首都ナイロビ郊外の路上に、へその緒がついたままの赤ちゃんが捨てられていた。その子は拾われ、孤児院に運ばれた。まったく泣かないので調べるとエイズに感染していた。「すぐに死んでしまうだろう」とみんなが思ったとき、その孤児院の一人の女性看護師がこの子を抱きしめ続けた。数ヶ月して泣き声、そして笑い声が聞こえだした。懸命に生きようとしている。この看護師は、難しい子どもをこうして何人も救ってきた。その力の源泉はどこにあるのか。
写真は看護師と、この赤ちゃんが見つめ合う姿をとらえています。「一番大切なことは何か」という私の質問に、彼女は「アイ・コンタクト」と答えました。清水君は、その言葉が形になる瞬間を逃さなかったのです。文句なく、すばらしい写真です。
記事にはさまざまな反響がありました。NHKの「中学生日記」という番組でドラマの題材となり、教師がこの写真を使って授業をしているシーンを記憶しています。
思えば、このときは別の取材も含め、清水君とは1ヶ月以上一緒に旅をしました。出かける前、旅の最中、私がどんな取材をしてどんな記事を目指しているのか話し、語り合いました。以心伝心とまでは言いませんが、ペンで表現しようとしていることとカメラの呼吸がぴったり合うと、とても気持ちがいいものです。
昨年秋、東京写真センターの一員になり、この欄を担当するにあたって、そんなことを思い起こしました。
2009年4月
朝日新聞東京本社編集局写真センター
マネジャー・写真部長 山川 富士夫
日本が見事にWBC連覇を達成した。決勝戦の相手は、今大会5度目となる韓国だった。これは敗者復活戦が組み込まれるダブル・エリミネーション方式の弊害だったが、主催者側からすれば狙い通りの集客をもたらした。前大会のように失点率で順位が決まるリーグ戦は、見ている側からすれば分かり難いかも知れないが、色々な国の対戦が見られて楽しいと思う。
試合は延長10回5−3。頂点を決定する試合にふさわしい好ゲームだった。試合を決めたのはやはりイチロー。一夜明けの会見で「本当に美味しいところをいただきました。ごちそうさまでした。」と本人が言っていたが、報道するこちらも「あなたが決めてくれて、本当にごちそうさまでした。」と言いたい。試合直後には新聞各社が号外を出し、テレビ各局の報道番組は“侍ジャパン連覇”を大々的に放送した。そして翌日は、新聞各社が即売を増刷し、テレビ各局は朝からワイドショーで視聴率を稼いだ。
イチローの活躍は我々マスコミ以外にも2人の男を救った。1人は民主党・小沢一郎代表。この日、政治資金規正法違反の罪で、小沢氏の公設第1秘書で陸山会会計責任者の大久保容疑者が起訴された。小沢氏は党本部で行われた会見で、涙を流しながら代表続投を表明した。もう1人はお笑いタレントの陣内智則。女優藤原紀香と正式に離婚し、都内で会見した。会見の冒頭で、離婚の原因は自らの女性問題と頭を下げた。もし、侍ジャパンの連覇がなければ一般紙は小沢氏を、スポーツ紙は陣内を大々的に報道していたに違いない。
2大会連続のMVPに輝いた松坂は、試合後のインタビューで「明るいニュースを日本に届けられてよかった。」と言っていた。100年に1度の大不況、紙媒体の低迷の中で本当にうれしいニュースである。スポーツ紙的には、この勢いのまま4月3日のプロ野球開幕、4月6日(現地時間)のMLB開幕、そして石川遼が出場する4月9日(現地時間)開幕のマスターズと盛り上がってくれる事を期待したい。
2009年3月
スポーツニッポン新聞社写真部長
森沢 裕
(北の大地 寄り添ってチュ(08年12月28日の毎日新聞朝刊1面)
日本橋三越で開かれた08報道写真展には、3万人を超える来場者があったそうです。たくさんの感想の中で、朝日新聞の天声人語(08年12月23日付)からは「愛機に添えた指先から、世界を震わす1枚が生まれる。筆にはまねできない一瞬の技、うらやましくもある」とわれわれ写真記者には励みになる一文をいただきました。また、毎日新聞写真記者が撮った秋葉原無差別殺傷事件の空撮写真も高く評価していただき感謝します。大不況、そして新聞を取り巻く閉塞感の中で、少し元気を取り戻しました。私が感じる閉塞感は部数減などの問題の他に、新聞が世間からうっとうしがられているのではないかという不安感からきています。
たとえば紙面に家族の写真が載ると、昔は記念にプリントが欲しいと電話がありました。でも今は「なぜ勝手に撮ってネットに載せたんだ」というお叱りの電話やメールがほとんどです。以前は歓迎された取材先にもたくさんの規制が課されるようになりました。人権意識の高まりなど社会状況が変化していることも原因でしょうが、どうも新聞が嫌われているんじゃないかと思えてなりません。
部員からこんな話も聞きました。サヨナラ列車の出発セレモニーで、大勢の鉄道ファンが報道用に仕切られたスペースになだれ込み、取材現場が大混乱したというのです。インターネット時代を迎え誰もが情報の発信者になりました。もうマスメディアに特権的な待遇は認めないぞ!ということなのでしょう。
花井事務局長の年頭あいさつにもありましたが、読者が好む写真とわれわれが重視する写真にも、だいぶズレが出てきたように感じます。最近、毎日新聞で一番反響があった写真はエゾフクロウのスケッチ写真です。酷寒の森で暮らすつがいのフクロウに、自分たち夫婦の姿を重ねあわせて、お便りをたくさんいただきました。殺伐とした世の中で、読者が求めているのは、生々しい現場写真ではなく「癒やし」なのかもしれません。
「新聞に未来はない」とさんざんいわれています。しかし、ネットでも新聞でも媒体はなんであろうとニュースを責任持って取材する部門は不可欠です。地震、津波、戦争、事件、スポーツ、ファッション・・・国会まで、オールマイティに取材でき、世界中どこからでも迅速に写真電送できるノーハウと経験があるのは各社の写真部だけです。いろいろな面で厳しい時代ですが、新聞が愛され信頼されるメディアであり続けるため、日々の取材に真摯に取り組みたいと思います。
2009年2月
毎日新聞東京本社写真部長
佐藤泰則
1981年6月17日、梅雨入り前のカラッとした晴れわたる下町の商店街で、男が通りがかりの母子や児童など6人を殺傷、そのまま通行人の女性を人質に中華料理屋に立てこもっていた。テレビ局は現場からの生中継を始めていて、写真部に配属以来2か月間、朝から夕までを暗室内で過ごしていた私も、所轄の警察署での取材を命じられた。署に着くやいなや、先輩が使い古したぼろぼろのフィルムカメラで、署に出入りする人物や車を手当たり次第に撮り始めていた。当時はフィルムを本社にオートバイ便で送らなければ現像処理できなかったので、写真説明用紙に何をいつ撮ったかは記入していたものの、回りの雰囲気にのまれて何回シャッターを押したかはまったく気にしていなかった。無線機で「殺害された母子の夫が署に入った」とデスクに連絡、しかも「私しか撮っていない」と宣言してしまったあと、カメラのフィルム巻き上げクランクに手を添えて頭がカーッと熱くなった。クランクが何の抵抗もなく回ってしまったのだ。冷たい汗が一筋背中を流れた。今でもあのときの「バカ野郎!撮れるまで帰って来るな」という無線機が壊れてしまうのではないかというデスクの大きなしゃがれ声が耳に残る。男はその後突入した警官隊に逮捕され、下着一枚で報道陣の前に現れた。人質も逃げ出して無事だった。
恥ずかしながら、今から25年以上も前、私の入社直後の大失敗。連続殺傷事件が繰り返されるたびに頭をよぎる。どなり続けていたデスクの声がまた聞こえ、簡単に命を奪う理不尽な犯行や「誰でもよかった」などの容疑者の勝手な言い分への憤りを倍加させるような気になる。
08年の東京写真記者協会加盟の新聞、通信社カメラマンの最優秀作品を決める協会賞は、毎日新聞写真部小出洋平記者撮影の「秋葉原ホコ天で凶刃に倒れる男性」。生々しい現場で救命措置を受ける男性をヘリコプターから撮影したスクープだ。1枚の写真が伝える事実は重い。
現場の最前線から写真ジャーナリストとして事実を皆さんに冷静にきちんと伝えたい。使命感に基づいた熱意をもって仕事にあたりたい。決して仕事に失敗したから憤るが増えるという理由をつけずに。
2009年1月
読売新聞東京本社写真部長
池田 正一
あけましておめでとうございます。
まず年頭に東京写真記者協会会員の皆様方のご健康とご活躍をお祈り申し上げ、さらにホームページを見てくださっている方々のご多幸をお祈りします。
のっけから自身のことで恐縮ですが、私こと花井尊は、昨年11月から事務局長に就任いたしました。国民の知る権利に応えるべく東京写真記者協会の発展に微力ながら寄与し、協会の運営を公平公正に運ぶ所存です。どうぞよろしくお願いします。
昨年暮れ、日本橋三越本店で開催した「2008年報道写真展」は、朝日新聞「天声人語」や各紙コラム等、また日本テレビ「ズームイン!SUPER」を始め各局で放映され、さらに麻生首相来場の効果もはたらき、会場入り口のカウント数が2万4千人を超えました。出展数が255点で会場が左右2か所になり、実際見ていただいた方々は約3万人を軽く超えたでしょうと三越側の話です。報道展実行委員をはじめ協力いただいた方々に厚くお礼申しあげます。
その報道展で、自由に感想を書いてもらうノートを置いたところ、満開のカワヅザクラ、花火などのスケッチ写真に多くの関心と問い合わせをいただきました。自分としては正直言って意外でした。これまで新聞社で「ニュース写真で勝負」と粋がっていた自分にとって、反応に若干のずれを感じたのです。
事件事故はもとより四季折々のスケッチ写真も読者に対する大切な情報提供です。報道カメラマンは現場に一番近いジャーナリストです。もちろんニュース写真が王道であり、ジャーナリストとしてさらに真実を追求していくことは当たり前のことです。しかし、混沌たる世の中で恐らく読者はどこかでホッとするもの、季節を肌で感じる写真をわれわれ以上に多く求めているのかも知れません。
さて、昨年は北京五輪、日本人4人のノーベル賞と沸いたニュースもありましたが世界金融危機、無差別殺傷事件、福田首相突然の退陣などおもわしくないニュースが続きました。今年は皆さんがどんなニュースを時代の目撃者として追うことになるのでしょうか。黒人のオバマ米大統領誕生、ワールド・ベースボール・クラシック開幕、裁判員制度がスタートします。しかし何といっても総選挙の年です。そして政界再編はどのような形を見せてくれるでしょうか。目が離せません。
ジャーナリストとして、恐れず、ひるまず、一枚の写真を通して社会の発展、希望あふれる年になるよう寄与していただきたいと期待しています。
2009年元旦
東京写真記者協会
事務局長・花井尊