コラム | 東京写真記者協会 TOKYO PRESS PHOTOGRAPHERS ASSOCIATION

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コラム

4月のコラム


(産経・早坂)

「レジェンドを求めて〜ヒマラヤから平昌まで〜」

2013年5月、エベレスト登頂を目指してアタックを開始した三浦雄一郎さん

2013年5月、三浦雄一郎さんのエベレスト登頂に備えて近くの山の上でテントをはる筆者

2013年5月23日、三浦雄一郎さんのエベレスト登頂風景

2018年2月、平昌五輪でジャンプの競技開始を待つカメラマン

2018年2月10日、平昌五輪・スキージャンプ個人ノーマルヒルを飛ぶ葛西紀明


「あー、本当に寒い・・・」。

 メダルラッシュに日本中がわいた2018年の平昌五輪。アルペンスキーやスキージャンプなど山岳地域で行われる競技の担当として、現地に赴いた。レジェンド♀巨シ紀明の出場で注目を集めたノルディックスキー男子個人ノーマルヒルは強風の影響で競技も何度が中断。スキージャンプ台の横で寒さに震えながら再開を待つ間、ふと「この寒さには覚えがある」と思った。かつて体感したマイナス15度以下の寒さは2008年と2013年に訪れた標高5600mのエベレスト・ベースキャンプだった。

 ジャンルを問わずさまざまな場所で取材をする新聞社のカメラマンのなかで、取材機会の少ない「山岳」現場。私は富士山の山開きや、大型連休中の穂高連峰・涸沢のテント村など定番の「山もの」取材をはじめ、厳冬期の長野県・八ケ岳連峰の冬山登山や富山県・剣岳周辺の氷河調査などさまざまな山岳現場を経験している。

 「大学時代は登山部だったのか?」と質問を受けたこともあるが、実は登山を始めたのは入社してからだ。大阪本社時代に、山に強い記者と組んで本格的な山岳企画を何本か行ったことをきっかけに山の取材が増えた。その記者とともにヒマラヤへ飛んだのは2008年と2013年のことだ。それぞれ75歳、80歳でエベレスト最高齢登山を目指したプロスキーヤーで冒険家のレジェンド℃O浦雄一郎さんに同行するためだ。

 約80日間の登山生活。疲労と高山病と戦いながら、標高5600メートルのエベレスト・ベースキャンプ目指して山道を3週間以上歩き、氷河の上に立てたテントで50日近く生活する。夜には氷点下20度を下回り、分厚いダウンのジャンパーとズボンが手放せない。標高8000メートル以上は酸素濃度が地上の3分の1の「死の世界」。登山家ではないわれわれはベースキャンプより上部への同行はしなかったが、6000メートルほどの丘の上にテントを張り直し、少ない酸素と寒さに耐えながら三浦さんの登頂を写真に収めた。

 今回の平昌五輪は近年の冬季五輪でもっとも寒かったといわれ、寒さに対する準備をしていた2度のヒマラヤ取材と比べても平昌のジャンプ台は本当に寒かった。いい撮影ポジションを求めて、重い機材を背負ってジャンプ台を上り下りするのはまさに登山そのもの。しかし、大きなため息をついても、酸素が少なくて肺が苦しくなることはなかった。

 「ヒマラヤ並みに寒いけど、空気がたっぷりあるだけましか・・・」と思い直して、冷えた指をカイロで温めながらレジェンドの出番を待った。


2018年4月
産経新聞写真報道局 早坂洋祐



1月のコラム


(事務局・池田)

 年末恒例となった「2017年報道写真展」は、東京・日本橋三越本店(17年12月19日〜25日)、静岡伊勢丹(12月27日〜18年1月3日)を終え、1月13日(土)から3月25日(日)まで横浜市中区の日本新聞博物館で開催中です。東京写真記者協会加盟各社の写真記者が現場で写真に切り取った報道写真で1年を振り返る報道写真展は58回目を迎えました。

 今回の写真展に展示した作品は340点ほど。加盟各社の実行委員が2か月に1回会議を開き、撮影社名を明らかにしないで審査し絞り込んだ写真です。対象になった作品は各社から計8000枚を超えます。ニュース価値で審査枚数は変わるものの、単純に計算すれば24枚に1枚程度しか展示できないことになります。しかも写真パネルや写真説明の作成リミットとなる17年12月第2週までの報道写真が展示できるよう努力しました。12月18日に関係者に公開された上野動物園の「シャンシャン」も超特急で写真パネルを写真弘社に作成してもらい、19日開幕当日に間に合わせました。

 写真展会場に置かれた感想ノートには「毎年来場し、その1年を振り返っている」(70代女性)や「写真は真を写すとあるが本当か。誤解を招くことはないのか。写真を見る側の眼も求められる」(50代男性)との書き込みがあり、伝える側の我々にとってシャッターを切る時に忘れてはならない指摘として受け止めました。東日本大震災のコーナーをご覧になった方は「震災後の現状を伝えてもらって記憶の引き出しをまた開けてみた」と書き込んでいただきました。いずれの書き込みも写真報道に携わるものとして身の引き締まる思いです。写真記者は現場の最前線で被写体となる方との見えない絆を感じながらも、冷静な眼で写真を撮り続けます。

 日本橋三越本店の開幕ゲストにはプロゴルファーの畑岡奈紗選手(森ビル所属)に来場いただきました(写真@、A=共同通信提供)。最強の女子ゴルファーを決める日本女子オープン2016年大会をアマチュア、最年少として制覇、プロ入りした17年も連覇し、18年の米ツアー出場のための予選会を首位通過、海外でもこれからの活躍が期待されるニューヒロインです。静岡伊勢丹には世界陸上ロンドン大会の400メートルリレーで銅メダルを獲得した静岡県出身の飯塚翔太選手(ミズノ所属)と川勝平太静岡県知事がゲストでした。

 東京写協は2018年で創立70周年を迎えます。連合国の占領下だった1948年、連合国軍総司令部(GHQ)新聞課の指導で組織されました。それ以降、加盟社の写真記者はカメラを通じた「時代の目撃者」として、戦後のニュース活動の一翼を担ってきました。先人たちが実践してきた「自主取材を原則に、人権を尊重し、良識ある公正な取材活動」を堅持していく覚悟です。

 3月にはスポーツ写真に特化した報道写真展と、平昌冬季五輪の速報写真展を都内で開催予定です。詳細はまた改めてお知らせします。2018年が皆様にとっていい年となるよう願っています。

2018年1月 
東京写真記者協会事務局長・池田 正一


12月のコラム


(共同・酒井)
「スピードスケートからオオサンショウウオまで」

「小平、500で20連勝」 スピードスケートW杯第2戦・女子500b 37秒07で優勝した小平奈緒。この種目で国内外での20レース無敗となった。左は韓国の李相花=11月18日、ノルウェー・スタバンゲル(撮影・金刺洋平)

「岐阜・長良川に恋の季節」  長良川の支流・板取川の川底を移動するオオサンショウウオ=9月4日、岐阜県美濃市(撮影・染谷宗秀)

「岐阜・長良川に恋の季節」  長良川の支流・板取川で呼吸のために水面に浮上し、反転して巣穴に戻るオオサンショウウオ=9月4日、岐阜県美濃市(撮影・染谷宗秀)


 11月も半ばを過ぎ、東京写協で恒例の報道写真展や協会賞の候補作品を選ぶ作業が続いた。私は共同通信の担当デスクとして、この一年間、自社のカメラマンらが撮影・出稿した写真の中からいわゆる「いい写真」をピックアップし、審査会に持ち込み、加盟各社の委員の皆さんと共に優れた1枚を選び出す作業を行ってきた。一方社内では、間近に迫った韓国・平昌冬季五輪に向け、担当カメラマンが本番想定の速報態勢でビュンビュン送ってくるウィンタースポーツの写真を受ける毎日となっている。今はカメラに専用の無線機を搭載する「最速モード」で臨めば、画像をパソコンで開くことなく、撮ったその場から写真を次々と送れるようになった。

 カメラマンにコマを選んでボタンを押す短い時間と余裕さえあれば、競技の1〜2分後には、いや競技中でも、本社のサーバーに送られてくる。つい先日も欧州であったスピードスケートW杯で小平奈緒選手が優勝し、昨季から続く国内外無敗記録を20にまで伸ばしたレースで、優勝の速報記事が流れる前に、小平選手の滑走写真(写真1)が送られてきた。それも「ライバル置き去り、500b無敵の小平」などといった翌日の見出しを予見したかのような、見事な競技の「絡み」写真を。速報、ここに極まれり、といった感じだ。こんな時はデスクは右から左に流せばいい。しかしいまひとつ写真が決まらず、カメラマンが選択に迷って(これだけ急ぎであれば無理もないことだが)たくさん送信してきたような時には、短時間にコマを選び、最適な形で出稿するのは受けたデスクの役割だ。

 しかし、どんなにスピード化が進んでも、いつの時代も変わらない大切なことがある。それは当たり前だが、優れた写真であるかどうかだ。インターネットで速報され、翌日に新聞で読まれ、場合によっては年末の報道展で展示されても訴求力を失わない写真は、報道における究極の「いい写真」だろう。そこでいつも思うのが、いい写真とそうでない写真を分けるものは何かということ。デスクとして直感的に迷うことなく選び出し、当たることはもちろんある。それが仕事だから、そうあるべきだとも思っている。しかしいつも間違いなくそれをピックアップしているだろうか。審査会に参加してきて、これが実はなかなか難しいことだと感じている。自信を持って持ち込んだのに全く賛同が得られなかったり、迷いながら持ち込んだものが高く評価されたりすることがしばしばだからだ。報道における「いい写真」とはニュースを的確にかつ雄弁に伝え、迫力・臨場感にあふれインパクトもあり、多くの共感・関心を集める写真。この定義に異論は少ないと思う。が、ある個別の写真がおもしろいか、インパクトがあるかとなると個々の感覚によるものだけに、いつも一致するとは限らない。

 ここに、今年、自社が出稿した数多の写真の中で、私の印象に残っている、ある写真を紹介したい。上のスピードスケートが究極の速報スタイルなら、こちらはその対極。「オオサンショウウオが繁殖期を迎え、水中を忙しく泳いでいる」という話題ものだ(写真2と3)。9月、岐阜県の長良川の支流で染谷宗秀カメラマンと西澤幸恵カメラマンがチームとなって潜水撮影した。ニュース性はさておき、私はつくづく「いい写真」だなと思った。説明するのは野暮な気がするが、敢えて言うなら意外性か。オオサンショウウオというとなんだかのんびり、ぼてっと川底や水槽でじっとしているか、せいぜいゆっくり這っているイメージだが、ここではなんと軽やかに泳いでいることか。体長1メートルを超す巨体を揺すって、澄んだ水の中を浮遊している。テレビで映像を見たことはあったが、スチル写真で見せられるとインパクトが違う。そして光がいい。逆光の方はライティングだが私には気にならない。水の質感や量感、冷たさまでもが伝わってくるようだ。これをものにするためにかなりの準備をしただろう。生態を調べ(普段は夜行性だが、繁殖期前の8月末から9月にかけては昼間も活動するらしい)、よく知る人に聞き、撮れないかもしれないという不安を押して企画し、機材を準備し、冷たい川に潜って、出現を待ち、動きに合わせて、撮る。涙ぐましい努力の結晶だと思うと余計にすばらしく思えてくる。これらは加盟の地元紙や全国紙を含む数紙に掲載された。後の審査会での反応はそれほどでもなかったが、速報写真とは趣の違う、私には味のある、印象に残る写真だった。

 大きな水害が多発し、国内外の政治が動き、残酷な事件が起き、人々に愛されたスポーツ選手の引退など、今年もいろいろなニュースがあった。カメラマンの伝えたいという思いが伝わってくる、たくさんのいい写真に出合ったことを、年末を前にあらためて思った。


2017年12月
共同通信デスク・酒井直樹


11月のコラム


(毎日・平田)
「心に残る写真」

帰省客で混雑するホームで、出迎えの親類に駆け寄る女の子 (1998年12月、JR名古屋駅で)

 新聞に掲載された自分の写真を整理した古いスクラップを見返した。今更ながらよくもこんな下手な写真を撮ってきたものだと思うが、不思議なもので一枚一枚、覚えているし、当時の情景を思い出す。
 その中でも心に残る写真がある。年末の帰省風景を伝える一枚だ。新聞業界で写真を撮っている人なら一度は必ず撮った経験があるだろう。この写真のエピソードを書こう。

 日付は1998年12月29日、場所はJR名古屋駅の新幹線ホーム。当時、私は名古屋駅前に本社がある毎日新聞中部本社写真部に所属して10年に満たない若手カメラマンだった。年頃のせいか、年末は連日仲間と遊び、議論した。その日もどこかで外泊をして昼前に会社に行ったはずだ。デスクから帰省ラッシュの取材を依頼されて、眠い目をこすりながら徒歩数分の名古屋駅に向かった。

 ホームへの階段を上り、まずは帰省取材の王道であるホームが混雑する様子を撮影しようと脚立に乗って中望遠レンズを構えた。その時、東京方面からきた新幹線がタイミング良く到着した。ホーム上には大勢の帰省客に混じって初老の男性が立っていた。新幹線の扉が開いた。次の瞬間、車内から一人の女の子が両手をいっぱいに広げて勢いよく初老の男性に駆け寄った。あっという間の出来事。とっさに3コマ、シャッターを切った。撮影を始めてまだ数分だ。使用しているニコンのカメラには36枚撮影できるフィルムが入っていたので、取材を切り上げるには早い。でも、なんだかいい写真が撮れている気がして、急いで会社に戻った。現代のデジタルカメラならその場で写真を確認できるのだが、その頃はそうはいかない。シャッターが作動している瞬間は、一眼レフカメラのミラーが上がっているので、フィルムに結像したイメージは厳密に言えば、現像するまでわからないのだ。

 会社に戻り、ソワソワしながらフィルムを現像した。長いロールフィルムのまま、ルーペで確認すると、女の子が祖父に向けたなんともいえない笑顔が写っていた。
 写真は東京本社発行の新聞にも掲載された。東京の写真部でも同じ目的の取材で東京駅にカメラマンを数人派遣していたのにも関わらずだ。当時のデスクがそれらをボツにして私の写真を使ってくれた。

 掲載後、「この写真を見て元気が出た」という内容のお便りをたくさんいただいた。写っている女の子と同じ年頃の孫を持つ方からのものが多かった。
 その後の私のカメラマン人生はというと、俗にいう歴史に残る瞬間に取材者として何度も立ち会い、撮影をしてきたつもりだ。だが、本当に心に残る写真は、会社から1キロも離れていない徒歩で行ける場所での写真なのである。


2017年11月
毎日新聞社写真映像報道部長 平田明浩


10月のコラム


(時事通信・山本)
「ノーベル文学賞」

自宅の庭で記者団の取材に応じる日系英国人作家のカズオ・イシグロ氏=10月5日、ロンドン(EPA=時事)

ノーベル文学賞に選ばれたカズオ・イシグロ氏の本=10月5日、東京都新宿区の紀伊国屋書店新宿本店

カズオ・イシグロ氏に決まったことを知って喜ぶ「ハルキスト」=10月5日、東京都渋谷区

軍事パレードに登場した新型とみられる大陸間弾道ミサイル(ICBM)=4月15日、北朝鮮・平壌(時事)


 今年のノーベル文学賞が日系英国人作家のカズオ・イシグロ氏に授与されることが決まりました。自然科学系3賞で受賞者が出なかったこともあり、紙面では「日本人受賞者」として微妙な盛り上がりを見せました。

 イシグロ氏は長崎市で日本人の両親の元に生まれ、5歳のときに英国に移住。幼いころの日本の記憶を描いた「遠い山なみの光」で王立文学協会賞、第二次世界大戦前後の英国貴族に仕えた執事の半生を描いた「日の名残り」で英文学界最高の栄誉とされるブッカー賞を受賞しています。
文学にはあまり縁がありませんが、2006年に日本で発行された「わたしを離さないで」は、出版社の宣伝に乗せられて読んだことがありました。映画化もされ、日本では綾瀬はるか主演でテレビドラマ化もされています。
 この作品は臓器提供のためにクローンとして生まれ、ひっそりと暮らす若者たちの話というSFです。老人のように命に限りがある若者たち。あまりにはかない物語が静かに語られ、残酷な真実が明かされます。イシグロ氏もこうした設定に日本人的な意識を感じているようです。
英国籍なのだから日本のマスコミが騒ぐのは恥ずかしいという声もありますが、ノーベル財団は国籍ではなく出生国によって、イシグロ氏を3人目の「日本の」文学賞受賞者としてリストアップしています。あながち的外れな騒ぎでもありません。

 文学賞といえば毎年、村上春樹氏の名前が候補に挙がります。2006年にノーベル賞に一番近いといわれているフランツ・カフカ賞を受賞したのがきっかけです。発表の日には「ハルキスト」が集うブックカフェにカメラマンを出すのが恒例でした。今年は村上氏がデビュー前にジャズ喫茶を営みながら住んでいた東京・千駄ケ谷の神社がパブリックビューイングの場所となりました。
発表の瞬間、またしても会場からはため息が漏れました。今年も無駄足かと思いきや、イシグロ作品を評価する声が意外に多く、まるで村上氏が受賞したような喜びよう。「村上さんは慌てなくてもいずれ受賞できる」と冗舌に話す人もいて、もはや宗教なのかといぶかしんでいたら、実はイシグロ氏と村上氏は互いに「ファン」を公言し、同時代の作家としてリスペクトし合っているのだとか。ハルキストもよく知っているのですね。失礼しました。
 ついでに書き添えると、昨年の文学賞を受賞したボブ・ディラン氏については、「13歳のときから私の最大のヒーロー」で、ディラン氏に続く受賞を「ものすごく光栄」と喜んだそうです。文学の世界はいろいろつながっています。

 受賞決定後に再放送されたNHKの番組で、イシグロ氏は「フィクションとしての小説に価値があるのは、異なる世界を作り出すことができる」からで、「その中に入り込むことで、私たちは現実世界のものも想像から作り出されたことを思い起こす」と述べています。
 ノーベル賞の公式広報部門「ノーベル・メディア」のインタビューには、「西欧世界の価値観について、われわれがこれほど不確かだと感じたことはない」とし、その上で探求し続けるテーマとして、満足感や愛を探すための「個人の領域」と、それと不可避的に交差する「政治や暗黒世界すら広がる大きな世界」の二つを「私たちがいかに同時に生きているか」を挙げました。移民問題をめぐって西欧諸国が血肉としてきたはずのリベラルな価値観が揺らいでいることを指しているのでしょうか。

 ひるがえって日本では、安倍首相が衆院を解散し、選挙戦の真っ只中です。野党の分裂、再編で選挙の様相はがらりと変わり、憲法改正や安全保障などで3極が争う構図になりました。政策の詳細ははっきりしていませんが、ある意味、有権者には分かりやすい構図となり、私たちは選択を迫られています。
 国際情勢に目をやると、北朝鮮への軍事攻撃の有無が職場で話題に上るほど、日本人はこれまでにない危機を意識させられています。北朝鮮に核放棄させるにはどうすればいいのか。戦争が現実になったら私たちの生活や家族はどうなるのでしょうか。
どういう状況になっても、それは私たちの想像が生み出したのだとすれば、イシグロ氏の言葉がリアルに響いてきます。


2017年10月
時事通信社映像センター写真部長 山本 浩


9月のコラム


(日刊スポーツ・松本)
「宮里藍さん、お疲れ様でした」

高校時代…2013年10月7日、プロ転向会見した東北高・宮里藍(中央)は、ゴルフ部の同僚から拍手で祝福され照れ笑い

日の丸…2011年7月24日、エビアン・マスターズを制し、優勝カップと日の丸を手に笑顔を見せる宮里藍

父と抱き合い…2011年7月24日、優勝し父・優さんと抱き合う

涙…2011年7月24日、優勝インタビューで涙を流す


 スポーツ界では次から次へとニューヒーローやニューヒロインが誕生し、そして一線から退いていく。応援する多くの人たちは選手たちの成長、挫折など数々のドラマに自身を重ねたり、共感したり、夢を見る。同じ時代に活躍を見られたことを心底うれしく思うこともあるほどだ。

 日本女子プロゴルフ界のパイオニア的存在も、2017年シーズン限りで現役引退する。小柄ながらゆったりとした大きなスイングから繰り出される正確なショットで優勝を積み上げた宮里藍。きょうだいゴルファーの末っ子、ハキハキとした受け答え、人懐っこい笑顔から「あいちゃん」の愛称でゴルフファンだけでなく多くの人たちにもその存在を知られている。モチベーション維持の難しさや体調面からの引退決断だが、03年に史上初女子高生プロゴルファーとなってから現在の女子ゴルフ人気を牽引し、海外女子ゴルファーからも一目置かれるだけに、今後活躍を見ることができないのは寂しいの一言に尽きる。

 ゴルフ取材は片手で数えられるほどしか経験ないが、思い出深いのは2011年7月のエビアン・マスターズ(13年から5番目のメジャーに昇格し、現在はエビアン選手権)での涙の優勝だ。同年3月に高校時代過ごした仙台を東日本大震災が襲った。帽子には「負けるな日本」のバッジをつけ、仲間のゴルファーに声を掛けて募金活動なども行った。被災者のためにいいニュースを届けたいとの思いが裏目に出て好成績を収められずもがいた時期もあった。優勝後のスピーチでは自然と感極まって涙がこぼれた。幼少から時に厳しく、時に優しく指導してくれた父優さんと抱き合って喜んだ。日の丸を掲げて満面に笑みを浮かべ、ストレートに感情を表現する姿に人間臭さを感じた。

 現役引退が選手たちの終わりではない。宮里藍さんを含め、後進育成など第2の人生での活躍にも関心は高まる。これからもファインダーを通してアスリートの喜怒哀楽や人間模様を切り取っていけたらと思う。


2017年9月
日刊スポーツ新聞社編集局写真部 松本俊



8月のコラム


(東京・星野)
「失った過去を省みて」

華やかなトップ女優が表紙を飾った「週間東京」。(左から)原節子、津島恵子、若尾文子

工事中の渋谷駅前の国道246号。後方に東急文化会館に完成したばかりのプラネタリウムが見える(市村孝さん提供)

 2020年東京五輪・パラリンピックを控えて、アーカイブの活用や倉庫に眠っていた写真、映像の発掘による企画が新聞やテレビで目にする機会が増えましたがうらやましい限りです。

 東京新聞は日本プレスセンター(千代田区内幸町)が建つ場所に本社がありましたが、大戦で焼け崩れて多くの写真を失っています。戦後、社屋を再建しましたが、中日新聞社との経営統合による品川駅前(港区港南)への移転。そして2006年に現在の日比谷中日ビルへと移転を繰り返しました。引っ越しの際、段ボール箱に入ったままの大量のフィルムや資料部に保存されていたプリントは扱いに困り、やむなく一部を廃棄してしまったのです。

 東京新聞のカメラマンが撮影した戦中戦後、そして平成に至る貴重な写真の大半は失ってしまいましたが、写真部歴代の担当者によって整理されたフォルムがわずかながら残っています。中でも貴重なのは、1955年に発行した週刊誌「週間東京」の表紙を飾った女優のカラーポジです。原節子や若尾文子など映画全盛期のスクリーンに登場したトップ女優が、写真部員が撮影した6×6のポジフィルムに納まっています。当時はポジも社内の暗室で現像しており、大女優を相手に緊張して撮影した後に、絶対に失敗の許されないポジ現像は相当気を使ったことでしょう。若干色あせたフィルムが残っているのは、その苦労を知る後輩たちが必至に守り続けたからだと思います。

 東京新聞でも5月から「東京写真遺産」の連載をスタートさせました。家庭に眠っている東京の街や風俗などを撮影した写真を読者投稿の形で募り、現在の風景と並べて掲載する企画です。社にネガやプリントが残っていないための苦肉の策でもあるのですが…。初回に登場したのは、ちょうど60年前の1957年に撮影した渋谷駅付近の写真です。国道246号は工事中で路線バスが土ぼこりを上げて走り、かっぽう着姿の女性が歩いています。撮影から7年後の東京五輪の年にこの道路上に首都高速道路が開通し、渋谷はビル街に変貌していったのです。古い写真に並べて掲載している現在の風景は、投稿者を訪ねて使用したカメラやレンズなどを調べ、可能な限り当時と同じ場所で撮影していますが、その変貌ぶりには驚かされます。

 新聞を取り巻く環境は大きく変わり、新聞の速報性は失われたと言われて久しいですが、ネット展開による生中継&タの巻き返しはたいしたものだと、個人的には思っています。一方で垂れ流しのようにアップされては消えていく…の繰り返しを見ると、報道写真のもう一つの役割である記録性について改めて考えてしまいます。アーカイブを利用した各紙の企画やテレビ番組を見るにつけ、その価値の高まりを感じてしまうからです。

 東京五輪・パラリンピックに向けて東京が動いています。その移り変わりを地上と空撮でカメラに納めています。そして、本番の大会では数え切れないほどのシャッターを切るでしょうが、大切なのはその1枚1枚を未来に残すことだと思います。最初の東京五輪が開催された昭和という時代と、現在では保存技術に雲泥の差があり、物理的にも容易になりました。貴重な1枚を失った過去を省みながら、日々生まれる写真の将来に思いをはせています。



2017年月8月
東京新聞写真部長・星野浅和



6月のコラム


(産経・内藤)
「富士山の山開き取材今昔」

富士山頂でご来光を拝もうと多くの登山客がヘッドランプをつけて夜の山道を登る姿が見られた=2016年6月30日(78秒露光)

富士山頂でご来光に万歳する登山客ら=2016年7月1日(写真上、下いずれも福島範和撮影)

 毎年7月1日は富士山の山開き。通常、我が社では入社したての新人写真記者と山開き取材の経験がある若手をペアで出張させる。安全面や新人教育の観点から、未経験者と経験者の組み合わせは有効だと考えている。

 行程は多くの登山者同様、前日の昼すぎに5合目をスタート、登山風景を取材しながら8合目の山小屋に夕方到着。素早く夕食を済ませて機材を手に再び登山道へ。ライトをともして暗い山道を進む登山者の光跡をカメラに収め、1日付朝刊用の写真を本社にパソコンで送信する。デスクのOKが出たら布団に入り仮眠、1日午前零時過ぎには山小屋を出て頂上を目指す。そこで、日の出の時間を迎えた登山者の感動的シーンを取材、夕刊用の写真をその場で送って、後は自分のペースで下山する。

 これが富士山山開き取材の流れだ。

 ところが、何年か前までは今と比べて随分と大変だった。山頂で携帯電話が使えず、写真記者は取材後、電波が通じる5合目まで速やかに下りて画像を送っていた。本社との連絡用に無線機を携帯していた。

 更に遡って、写真がデジタル化される前のフィルムカメラ全盛期。写真記者は山開き当日、山頂付近で撮影後は登山道を小走りで5合目まで戻り、待機するプレスライダーにフィルムを手渡していた。プレスライダーは「オートバイさん」と呼ばれたバイクで輸送を行うプロ。新聞社ではフィルム運びが重要な業務だった。社旗が付いた大型バイクを自在に操り、東京本社まで高速道路をひた走る。本社に届けられたフィルムは、すぐに現像されて使用する写真をデスクが選択、プリントして出稿された。今では信じられないほど、多くの人手と手間が紙面化までにかかっていた。

 山開きの時期、登山道の出発点、5合目は晴れていれば夏のよう。歩くとすぐに汗だくになる。しかし、標高が上がるにつれ空気が薄くなり気温も下がる。3千メートルを超えると7月でも夜明け前は凍えるような寒さ。防寒対策をしていても体が震え、ガチガチと歯が鳴ることもある。

 頂上付近に雲がかかり、日の出の瞬間を撮れるか微妙なケースでは1人が8合目で待機し、1人が山頂に登り、2人の撮影ポジションに標高差を付けて、成功の確率を上げる工夫も。それでも、ご来光を拝めないことも少なくない。「一度、昇ったらもう勘弁」、「富士山は見る山。登る山ではない」…。ネガティブな感想をもらす局員がいる一方で、「日本の最高峰に立つ感動」、「山頂から見るご来光は素晴らしい」、「太陽に照らされ徐々に体が温まるのが驚き」などと、魅力を強調する声も多い。

 局員全体では、「辛かった」と言いつつ、楽しそうに思い出を語る記者が多数派といったところだろうか。

 今年の山開きももうすぐ。取材班は富士登山に何を感じて、どんな思い出を残すのか。土産話を聞くのを楽しみにしている。


2017年6月
産経新聞写真部長 内藤博



5月のコラム


(デイリースポーツ・村中)
「新入社員教育」

1993年5月7日、若乃花の熱愛を報じるデイリースポーツ1面

 この4月、久しぶりにカメラマンとして新入社員が入った。他部署からの異動などで若手が配属されたことはあったが、いわゆる大卒すぐの新入社員は十数年ぶりになる。その新入社員は、大学で特に写真の技術を学んだわけでもなく、趣味で写真を撮っていたわけでもない、カメラに関しはいわゆる素人。育てるのは大変だ。何を隠そう、私もカメラの経験がなく入社してすぐに写真部に配属された。当時の上司はかなり苦労されたことだろう。

 そんな新入社員の働きぶりを見ながら、当時のことを思い出してみた。年のせいか、あまり多くのことは思い出せないが、絶対に忘れられないことがある。自社(デイリースポーツ)の1面を飾ったことだ。そう書くと、格好のいい話かと思われそうだが、実はかなり恥ずかしい話なのである。

 私が入社したのは1993年4月。その年の5月6日、写真週刊誌が大関・若乃花(現タレント・花田虎上さん)と美人美容師の熱愛を報じた。当時は空前の若貴フィーバーで、間違いなく1面ネタだ。すぐに記者会見が行われることになった。しかし、会社を見渡すとカメラマンは私しか残っていなかった。「行ってこい」。デスクが仕方なさそうに私を指名した。

 会見場に到着すると、ものすごい数の報道陣が集まっていた。知っているカメラマンはいない。訳も分からず、何とか脚立の上から隙間を見つけ、とりあえずシャッターを押しまくった。初ロマンスだけに、笑顔のアップを狙い続けフィルム数本分を撮影した。何とかなるだろう、そう思いながら会社に帰った。

 現像されたフィルムを見てひと安心した。今思えば当たり前のことだが、笑顔の若乃花が写っていた。デスクに見せて何枚かをプリント、紙面ができあがった。自分の撮った写真が1面を飾っている。新聞を大事に家に持って帰った。褒められはしないかもしれないが、特に問題なく業務終了―のはずだった。

 翌日、駅売店に並んだスポーツ他紙を見てがくぜんとした。全紙の1面になんと、若乃花の会見を弟の貴乃花がニヤニヤしながら会場の端から見ている写真が載っているではないか。若乃花の表情ばかりを狙っていた私はまったく気付かなかった。もちろん、他のカメラマンの動きなど見えているはずもない。頭が真っ白になりながら出社すると、デスクに大目玉をくらったことを覚えている。

 あれから二十数年、部員を指導、教育する立場になった。それはとても難しいと感じている。しかし、今年配属された新入社員に、少し偉そうにこれだけは言っておいた。

 「取材をするときは周りをしっかりと見るんだぞ」と。
 
2017年5月
デイリースポーツ編集局東京報道部写真担当部長 村中拓久



(報知・矢口)
「『一瞬』にこだわる」

 10年以上、スポーツ新聞のカメラマンとして現場で取材に臨んでいるが、一瞬を切り取ることは撮影の前の準備から始まっていると思う。必要なのは競技や被写体に関する知識をしっかり頭に入れること、そして被写体をよく観察することだ。競技を理解して選手の性格やフォームなどの特徴を掴まなければ、次に起こりうることの予測や自分が撮影したい絵になるシーンをイメージすることは難しい。

 2011年8月 に韓国・大邱で行われた世界陸上を取材した。男子100メートル決勝の大本命は世界記録保持者のジャマイカ代表、ウサイン・ボルトだった(写真@)。私は1位でゴールをかけ抜けた後の表情を狙おうと正面で300ミリのレンズを構えていたが、スタートでボルトがまさかのフライング。肩を落としながらトラックを後にするはるか遠くの世界最速の男を追い続けたが、持っているレンズでは焦点距離が足りなさすぎた。1位でゴールした後のボルトの派手なパフォーマンスをうまく撮影することで頭が一杯で、スタートで失敗することまで想定できていなかった。そして、まさかの出来事こそニュースとなるわけで、その大会のハイライトはボルトのフライングになってしまった。
 このときの私は陸上の国際大会の取材が初めてで、経験が少な過ぎた。反省を生かそうと翌12年のロンドン五輪男子100メートル決勝では300ミリのほかにスタートも狙える600ミリのレンズを持参して撮影に臨んだ。今度はアクシデントもなく、下馬評通りにボルトが優勝し、私の苦労は完全な徒労に終わった。だが、経験を積み競技全体の流れや起こり得ることが分かってくると、様々な状況に備えた準備が可能になる。

 現場に早く行って状況を確認するのも大事だ。体操などあらかじめ決められた演目を大会で披露する競技では、試合前の練習を見ないと細かい位置取りを決められない。ターゲットとする選手の応援団の位置を確認すれば、選手が歓喜のガッツポーズ繰り出す方向の予測が立てられる。それらの準備こそが、他のカメラマンと違う、より優れた一瞬を撮影するための最も確実な方法なのだろうと思う。

 一つの試合や大会にはふさわしい一瞬がある。ハイライトとも言い換えられるそれを切り取るためには、被写体のバックグラウンドを十分に理解することが重要となる。
 私がプロ野球の巨人担当カメラマンになって初めての2013年にドラフト1位ルーキーとして入団したのが、いまや日本代表にも選ばれ、チームの絶対的エースとして君臨する菅野智之だった。東海大4年の時に日本ハムの1位指名を受けたが、叔父の原監督(当時)が率いる巨人への憧れが捨てきれず1年間浪人した右腕。プロ入り初勝利は同年4月6日、東京ドームの中日戦で訪れた。調子自体はよくはなかった。8回4失点は黄金ルーキーにとって、本来なら不本意な内容で勝利を素直に喜べなかったのかもしれない。でも、この試合に関しての勝利は菅野にとって違う意味を持っていた。その他のルーキーたちの初勝利に比べても、である。

 東海大学に在学しての浪人生活は大学野球の規定で対外試合に出場できなかった。目先の目標のない1年を本人は「心が折れそうだった」と振り返る。巨人への強いこだわりを楽天・星野監督、DeNA・中畑監督(いずれも当時)から批判されることもあった。それらを大々的に報じるマスコミに対して不信感を覚えたこともあったはずだ。菅野にとっては自分自身の選択を正しかったと証明するための負けられない試合だった。

 本拠地で初めてのヒーローインタビュー。私は菅野の右手に握られたウイニングボール延長線上に菅野の顔が入る正面やや左の低い場所に潜り込んで撮影すると決めた。特別な意味を持つウイニングボールと一瞬の表情を同時に写し込みたかったからだ。
 最初の質問で初勝利の気持ちを尋ねられた菅野は「本当に最高です」とつぶやき、ほんの一瞬、右手のウイニングボールに視線を落とした(写真A)。長い苦しみと大きなプレッシャーから解放された嬉しさや安堵だろう。様々な思いから目が潤んでいた。縦位置で構えて待っていた私は反射的にシャッターを切った。そのとき以外、負けん気の強い右腕が心の内を覗かせることはなかった。その試合のハイライトはほんの一瞬だった。試合前の準備を怠っていたら、きっと撮り逃していただろう。

 被写体のバックグラウンドを知ること。被写体と直接コミュニケーションをとりながら性格を掴むことも、行動を予測するための有効な手段となる。その上で自分が切り取りたい一瞬をイメージすることが大事だ。その結果として切り取ることが出来た写真はどんな説明や文章よりも被写体の気持ちを雄弁に物語ることがある。そして何より、自分の頭の中のイメージと実際に撮影した写真が重なることがカメラマンとしての大きな到達点なのだと思う。

 オートフォーカスや画素数などといったデジタルカメラの性能が急速に進歩し、誰でもシャープな写真を撮影することが容易になった。弊紙でも、ペン記者がスマートフォンで撮影した写真が何度も大きく紙面を飾っている。そのような状況の中でプロカメラマンに求められるのは被写体に対する、一瞬に対する執着心なのではないかと思う。競技に対する知識を身につけ、様々な状況を想定して重い機材を持参する努力。被写体のことを知り、行動を予想しながら撮りたい写真をイメージして頭の中でシミュレーションを繰り返すこと。撮影の前から始まる、1枚にかけるこだわりこそがアマチュアとプロを分ける最大のポイントとなるのではないだろうか。それは基本的なことだけれども、プロカメラマンの経験を積めば積むほど、おざなりになりがちなところでもある。シーンをおさえることに追われて忘れてしまうこともあるし、現場の慣れもある。各新聞社ともインターネットでのニュース配信が当たり前となった今では写真の繊細なクオリティーを差し置き、顔の見えるだけの写真を早く送信することが重要視される風潮もでてきた。

 今回は、自分に対する戒めも含めて書いたつもりである。キャリアを積んでも、常に謙虚であり続けること。時代が進んでも自分なりの撮影のイメージを常に持ち続けること。そしてそれを写真として形にするための準備を怠らないことが大事だ。
 1日で現場を掛け持ちしなければならない多忙な日々でそれを続けていくのは大変なことだ。しかし、イメージ通りの一瞬を切り取ることが出来たときは、苦労した分、喜びも大きい。プロカメラマンとして取材の現場で働く醍醐味なのだと思う。

2017年5月(日本新聞協会発行「新聞研究3月号」掲載より)

報知新聞写真部・矢口亨
 

4月のコラム


(読売・吉村)
「新聞社写真部の将来は…?」

橘 薫(入社3年目) 「御巣鷹山慰霊登山の前日に行われた灯籠流し」
川を渡り、対岸から撮影。遺族を撮るにあたって色々考えさせられた。
亡くなった人を思いながら、今まさに手を合わせようとする様子が印象深かった。

「東京ホットぷれいす『都内水路でのカヤックツアー』でのメーン写真」
2人乗りカヤックの前に乗せてもらい、後ろを向きながら魚眼レンズで撮影。
都内のシンボルである「東京スカイツリー」を入れたくて、水面を移動しながら場所を探した。


大石健登(入社2年目) 「優勝が決まり、写真記者室で報道陣に囲まれる豪栄道」
豪栄道の大関昇進が決まり、写真記者室で撮影に応じる豪栄道親子です。
母の沢井真弓さん、おいの流ちゃんも一緒です。

「インタビューに答える菅義偉官房長官」
菅官房長官の単独インタビューで、笑顔を見せる本人です。


 今年の4月は、1日と2日が土曜、日曜だったために、多くの企業で月曜日の3日が入社式となりました。街を行き交うピカピカのスーツ姿の新人たちにこちらも気が引き締まる思いがします。

 この時期は、将来のジャーナリストを目指す大学生らと話をする機会も増えます。「聞きたいことがあれば、なんでもどうぞ」なんて先輩面をして言ってしまうと様々な質問が飛んできます。そんな中に、「新聞社の写真部の将来はどうなのか?」というのがあります。質問者たちはおそらく、将来に不安を抱いているのでしょう。

 これに対する私の答えは明快です。「将来は明るい」ということです。
世はビジュアル時代。これを先導するのは写真です。新聞紙面も華やかさが大事になっています。これを支えているのが写真です。インターネットニュースの世界でも、写真がないとなかなか記事まで読んでもらえません。動画も増えていますが、写真のように一瞬で心をとらえるような芸当はできません。

 読売新聞でも、写真の重要度が日に日に増しています。公共の場に掲示する大型写真や報道写真展などの引き合いは増え、ネットの記事には写真が必須となっています。「写真は何枚あってもいいから」とネット担当者にせかされる「爆買い」状態に陥っています。この旺盛な需要に応えるため、4月1日付で写真部内にコンテンツ班を新設しました。写真の配信や利用を進めるチームで、一挙に二桁の部員を投入しました。

 この一方で、現場を支える写真記者は枯渇状態が続いています。毎年入ってくる新人部員は順調に育ってくれてはいますが、それでも足りません。街でカメラを持っている若者を見かけると、思わず「ウチに入らない?」と声をかけたくなります。部員にも「写真記者希望者を探せ」と指示しています。このような状態なので、写真部を志望する若者は、将来を心配する必要はありません。

 さて、今回掲載した写真ですが、この4月で入社2年目と3年目を迎えた読売写真部員の自信作です。本人が付けた写真説明も記載しておきます。将来の報道写真界を背負って立つ人材と期待しています。新聞紙面やネットニュースで2人の名前を見かけましたら、「どんな写真を撮るようになったのだろう」と注目していただければ幸いです。



2017年4月
読売新聞東京本社写真部長 吉村秀男



3月のコラム


(サンケイスポーツ・薩摩)
「キャンプ取材は危険がいっぱい」

レンタカーの周囲に集まる報道陣

割れたレンタカーのフロントガラス

右翼席後方の防御ネット

サンケイスポーツの女性カメラマンに謝るギャレット選手


 沖縄や宮崎などで2月に行われるプロ野球の春季キャンプ。
取材者は、仕事とは言え1年で最も寒い時期に暖かな場所へ行けて、少しはリゾート気分も味わえて良いこともあるのですが、本社で留守番をしている担当部長にとっては、気の休まることのない1か月となります。

 プロ野球の取材には、打球の直撃や、逸れた送球がカメラ席へ飛んでくることもあり、当たり方によっては大きなけがになる場合もあります。最近では、取材席でヘルメットを着用して撮影するカメラマンも目につきます。公式戦が開催される球場であれば1塁3塁に常設の取材席がありますが、各球団がキャンプで使う球場には取材席がなく、練習試合やオープン戦では、選手と同じグランドレベルに折りたたみ椅子を並べて各社のカメラマンが撮影をするので、仮のネットで囲まれてはいても、公式戦以上に注意して取材しなくてはなりません。また、宿舎から球場や取材場所へはレンタカーを使うことが多くなります。普段から部長に「くれぐれも運転には注意するように」とは言われてはいるのですが、連日の取材やデスクからのプレッシャーで疲労が溜まってくると通いなれた道での運転は注意散漫に陥りやすく、事故を起こす可能性が増してきます。気の利いた部長ならタイミングをみて「大丈夫か。疲れてないか。取材で問題はないか。車の運転には気を付けてや」と取材者に電話をして注意を即すなどとても気を遣う事もします。

 それでも、キャンプ期間中には、夜中や休みの時にでも本社の当番デスクから部長の携帯電話へ連絡が入ると「何かあったのでは」と悪い事しか考えず緊張してしまいます。今年の春季キャンプでも、沖縄の巨人キャンプ取材者から緊急の連絡が入ってきました。各紙で掲載されたのでご存知の方も多いと思いますですが、ギャレット・ジョーンズ外野手がフリー打撃で放った特大の場外弾が右翼席後方の防球ネットを超えてサンスポのカメラマンが駐車場に停めていたレンタカーを直撃したのでした。

 本人の話によると「最初は、何が起きたのか分かりませんでしたが、右翼側にいたカメラマンたちが猛然とダッシュする姿が見えました。大事件でも起きたのかと思って走っていってみると「車だ」、「サンスポだ」の声が聞こえ、自社で借りているレンタカーを各社のカメラマンが取り囲んでいるのが見えました。近づいてみると打球は見事にフロントガラスのど真ん中に着弾して、蜘蛛の巣状にヒビが入っていました」と現場の状況を説明してくれました。その後は、レンタカー会社の係員に近隣交番から3人の警察官らが駆けつけ、カメラマンは練習取材をそっちのけで事後処理に追われました。

 警察官からは「走行中なら事故だし、駐車中でもイタズラなら事件だが、本塁打には悪意はない」と駐車中の出来事として事件、事故扱いにしてもらえませんでした。最悪は全額負担となる事態も想定されましたが、フルカバーの保険に加入していたのとレンタカー会社が球場側と対応を検討する事で10万円以上するフロントガラスの修理費を免除してくれたのは幸いでした。練習後には、大ホームランを打ったギャレットが「車を壊してソーリー」と気遣いの言葉をかけてくれたらしく、シーズンに向けて選手との関係づくりが出来た事はラッキーでした。その上に、この一連の騒動が翌日のサンスポ紙面に「サンスポ車破壊弾 ギャーレット」として大きく掲載されていました。けが人もなく大きな事故にもならなかった上に紙面にニュースを提供し編集作業に貢献できた事は本当の「大当たり」でありました。

 まっ、とにかくにも今年の春季キャンプは、各社とも大きな事故やけがもなく無事に取材を終え、カメラマンが真っ黒に日焼けした笑顔て帰ってきてくれたことが留守番をしていた担当部長たちにとっては一番のお土産なのであります。



2017年3月
産経新聞写真報道局 局次長兼サンケイスポーツ担当写真部長・薩摩 嘉克



2月のコラム


(東京中日・佐藤)
「稀勢の里 横綱昇進」

横綱昇進の伝達を受け、口上を述べる稀勢の里
=1月25日、東京・内幸町の帝国ホテル
東京中日スポーツ・神代雅夫撮影


「日本生まれの横綱は19年ぶり。そういった重圧というものはありますか」   
横綱伝達式での代表質問で、稀勢の里が一瞬固まった瞬間だった。その質問に一呼吸置いた。そして「慎重」に言葉を選んだ。
「先場所の九州場所、(今回の)初場所から気持ちの部分でも落ち着いて相撲がとれた。これからも平常心で落ち着いた相撲を目指したい・・・」と。

 この記者会見をテレビで見たとき「質問と答えが合っていない」と思った。心の内はよく分かる。先輩の横綱力士が押し並べて外国人力士だ。質問に正確に答えることを避けた。この稀勢の里の謙虚さが、ある意味「日本人」だと思った。遠慮であり配慮だと。

「日本人として自分がなんとかしなければ、という思いもあったのでは」
代表質問がたたみかける。
「そういう気持ちもあったけれど・・・。1日一番をしっかりやるようにしたい」。稀勢の里の目元は、下を向いたままだった。

「口上」について問われ、ようやく上を向いた。人間性が見えた瞬間だった。現場のカメラマンが、このあたりの心の動きを感じたかは分からない。翌日の紙面は「ファクト(事実)」は伝えているけれど、「マインド(心の内)」は表現されていなかったように思う。新聞は常に事実としての結果が求められる。しかしその背景にあるもの。「なぜ」と問うことも必要だ。

 日々、写真部デスクとして仕事をこなしている。受けデスクとして大量のサムネイル画像を見る。しかし「フィールド(現場)の空気感」は推し量れない。唯一の頼りはこれまでの経験だったり、今回のようなテレビのライブ中継だったりする。

 だがもっと大切なもの。なんだろう。わたしは「理解力」と「想像力」だと思う。それが「直感」として瞬時に把握できれば・・・。だが難しい。「現場のカメラマンもデスクも、求められる資質は同じなのかもしれない」と自分に問いかけた。かつて現場に出ていたころの自分を振り返るかのように。



2017年2月
東京中日スポーツ写真課長・佐藤哲也



1月のコラム


(事務局長・池田)
写真@

写真A

写真B


2017年になりました。今年も有意義で幸せな一年であるように願っています。
 ニュースの一瞬を切り取った報道写真でその年を振り返る報道写真展は57回目を迎えました。今回は2016年12月14日から25日まで三越日本橋本店、27日から2017年1月3日まで静岡伊勢丹で開催させていただきました。1月7日から3月26日まで横浜市中区の日本新聞博物館で開催しています<写真@>。

 三越日本橋本店のオープニングにはリオデジャネイロオリンピック、パラリンピックのメダリストをお招きしました。オリンピアンはカヌー競技で日本人初の銅メダルを獲得した羽根田卓也選手です(写真A左、読売新聞提供)。パラリンピアンは車いすラグビーメダリストの池崎大輔選手(同右)にゲストとして来場いただきました。

羽根田選手はすらりとしたイケメンです。細身の体ですが、鍛えられた筋肉が五輪ユニフォームの下に隠されていると感じるアスリートでした。池崎選手はハンディキャップを負いながらも、自己の能力の極限を目指そうとする強い意志がメガネの奥から伝わりました。

 静岡伊勢丹には卓球の伊藤美誠選手(写真B左)ボッチャの杉村英孝選手(同右)に来ていただきました。14歳192日で卓球世界選手権女子シングルスベスト8入りするという日本人最年少記録を更新、来場する直前の世界ジュニア選手権女子団体ではチームの一員としてライバル中国に完勝、6年ぶりのチャンピオンとなる原動力になりました。明朗快活、ものおじしない自信にあふれる姿にこちらが元気づけられました。来場いただいたアスリートの皆さんは、2020年東京大会でも活躍が期待されています。
 
 2016年報道写真展のメインテーマはリオデジャネイロオリンピック・パラリンピックです。会場に置いてある感想ノートには「初めてこの写真展に来た。スポーツ選手からは勇気をもらい、地震や災害など忘れてはいけない出来事を思い出した。」「写真だけが伝えられるパワーがある。改めて写真の持つ力を感じた」などと感想を記していただきました。
 「東日本大震災」や「熊本地震」のコーナーでは「報道写真展は活字より写真で訴えるものが多く参考になる」と伝え続けている災害報道にも評価を頂きました。
また「写真は紛れもない真実を写すが、誤解を招くことも。報道写真を見る私たちにも物事を冷静にみられる眼が必要」と指摘される方もあり、現場で取材する記者は心に留めなくてはなりません。

 2017年はどのような年になるのでしょうか。
 東京写真記者協会加盟の新聞、通信、放送(NHK)の記者は、事件事故、災害の時には現実を冷徹な目で見つめ、1枚の写真に記録することでしょう。被写体となる人たちへの温かい気持ちを忘れずに取材を続けるはずです。
 スポーツではベストを尽くすアスリートの姿への感動がその1枚から伝わる写真で表現するでしょう。写真記者は最前線で現場を見つめます。
そして時代の目撃者として「時代の証言」となる1枚の写真を次の世代への記録として残します。



2017年1月
東京写真記者協会
事務局長 池田 正一



12月のコラム


(共同・藤田)

忘れたころにやってきた「裏焼き」3題

 誠に申し訳ないことに、今月のコラムは写真がない。コラムの執筆もほぼ終わり、あとは写真を用意するばかりの段階になって初めて気が付いたのだが、表題にもある3枚はいずれも外電だったり美術館からの提供写真であり、勝手にHP上で使用する訳にいかない写真だった。異例中の異例ですがご勘弁を!

 で、フィルム時代の遺物とも言える裏焼き≠ニいう言葉。デジカメ世代の若い方にはなじみのない方も多いのでは。簡単に説明すると、写真のフィルムには表面と裏面があり、プリントやスキャンの際に、表裏を間違ってしまうと、左右が逆となり鏡に映った状態の画像になる。当然、事実と異なる写真なので、発覚すればすぐに写真を取り消し、正しい写真を再送する。私もその昔、締め切り間際に届いたフィルムから裏焼きプリントを作成。配信直後に気付いたので事なきを得たが、デスクからこっぴどく叱られた経験がある。自分が撮影した写真であれば、人の向きや動きなど画像の記憶が残っているため、まず間違えることはない。裏焼き≠ヘ決まって他人が撮影した写真を処理する際に発生する。
デジカメ時代に入り、最近はほとんど死語と言っても良いくらい遭遇することもなかったが、この10月からの2カ月間に、何と3度も出くわすこととなった。

 ひとつは「関西美術展案内」用に使用した振袖を広げた写真の裏焼き=B入社2年目の校閲記者が写真説明にある「松桐鳳凰文様振袖」の文字をHPなどで確認中に、柄が左右反転していることに気が付いた。このコラムで写真をお見せできないのが、もうホントに残念だが、柄の違いはほんのわずか。提供元の美術館に問い合わせると、ポジフィルム(スライド)をスキャンする際に、表裏を誤って取り込んだためとわかった。校閲記者の大ファインプレーに感謝しまくり、校閲部長賞を授与していただいた。

 2つ目はビートルズ元メンバーのジョン・レノンさんが生前、ポール・マッカートニーさん夫妻に送った手紙の下書きが競売にかけられた話題用の顔写真。外国通信社から当日配信された写真を転電したが、ある加盟社から「過去に何度か配信されたモノと比べると、明らかに向きが逆だが…」との問い合わせがあった。レノンさんは髪を頭の中央で分けており、トックリセーターの胸にマークはなく、首回りのアクセサリーも左右対称で、確認のしようがない。すぐに写真の使用差し止め配信先に問い合わせたが、時間がかかりそうなので結局写真を取り消した。その後説明があり、「アーカイブにある別の写真には、マイクにNBC、Channel7といった文字が写っており、その写真との相違から裏焼きと断定した。原因はフィルムスキャンしてアーカイブ登録する際に表裏を間違えたようだ」とのことだった。ここまでの2件は、いかにも起こりそうなスキャン時の事故だが次の原因は凄い。

 ノーベル物理学賞の授賞者発表会場のスクリーンに映し出された3人の受賞者のうち、1人の顔写真が裏焼き≠セった。共同は外電が配信した中から顔写真にトリミングしたものなど3種を配信したが、深夜に、やはり加盟社から「都内紙のサイトには左右逆で出ている」との指摘があった。ノーベル財団のHPに出ている写真も髪の分け目が逆だった。すぐに使用を差し止めたが、これまた裏焼きと断定できる見込みがないため、結局3枚を取り消した。次の日の夜、スウェーデンの王立科学アカデミーから回答があり、「受賞者3人の組写真の見栄えを良くするために、意図的に1人の写真を反転させて公表した」とあっさり認めた。つまり左端の人物が左向きで外を向いてしまうため、右向きになるよう反転させたとのことだった。「誤って」ではなく「意図的に」だと。これには驚いた。われわれの感覚ではちょっと信じられない。もしかしたら裏焼き≠ナ大騒ぎするのは日本人だけか…。

 写真部から暗室やカラーネガ自動現像機がなくなり、完全デジタル化されて10数年。すっかり耳にすることもなくなった案件だが、時々思い出すのではなく、常に意識していないと痛い目に遭う。皆さんも、特に古い時代の提供写真やアーカイブ作成時にはご注意を。

2016年12月
共同通信社ビジュアル報道局次長
藤田尚人



11月のコラム


(スポニチ・田中和也)

「仕事とボディビル」

 (2015年の東京オープン65キロ以下級で。筆者は右端)

 非常に個人的な話で恐縮だが、昨年、46歳にしてボディビルデビューした。
 一昨年、現場のカメラマンから社内勤務のデスクになり、運動不足解消と気分転換にと通っているジムで始めてみたのだ。

 ボディビルはトレーニングと食事での増量と大会に向けての減量で肉体を作りあげる。所属のゴールドジムのトレーナーに相談し、まずはベテラン選手に弟子入り。大会に向けての“いろは”を教わった。大会4カ月前からの減量方法、脂肪を落とすための有酸素運動、規定7ポーズの練習、筋肉のメリハリを見せるための日焼け(タンニング)など盛りだくさん。多くの時間をボディビルに費やすことになった。減量中は仕事での集中力を切らさないようにするため、忙しくなる夕方にだけ、炭水化物を摂取するようにした。深夜2時過ぎまでの勤務の時には、24時のおやつに“さしみこんにゃくプロテイン20グラムかけ”を食べた。

 (見た目はわらび餅?さしみこんにゃくチョコプロテイン風味)

 「これを機に、心身ともに鍛え直してみよう」
 ボディビルは、精神の限界を自分で試すスポーツでもある。減量に耐えながらの仕事、トレーニング、生活。甘い食べ物の誘惑、ストレス。逃げ道、言い訳はたくさんできる。いかに自分と向き合っていけるかが勝負。そう思ってバーベルを握り続けた。
事前に立てたメニューを粛々と遂行していた矢先の大会2週間前、左足の小指をぶつけて骨折してしまった。これも修行なのか。松葉杖をつきながら会社とジムへ通った。会社では机の下でアイシングをして炎症を抑えながら仕事をした。

 (骨折した左足小指)

 ドーピング検査があるので、鎮痛剤も控えた。大会2日前から塩と水抜きを行うと、大会当日の予選直前のパンプアップで足が同時に5カ所痙攣。これも修行か〜!?脂汗か冷や汗かわからないものに包まれた。下半身が全く動かず、水を2リットル飲み干してなんとか歩けるようになった時にはお腹はチャポチャポ。あえなく予選敗退となった。
夜の打ち上げでは食べ過ぎたのか、翌朝には6キロも増えていた。直後のトイレでは力み過ぎて痔になり、専門医で全治2カ月と診断された。しばらくの間、会社では椅子に座るのが辛いデスクワークとなった。46歳、苦過ぎのボディビルデビューであった。

 1年目の反省点を生かして臨んだ今年の東京オープンではマスターズ40歳以上級で3位になった。胸、背中、肩、脚の4分割、週4トレーニングを1年間休むことなく続けたご褒美だったのかだろうか。

 (2016年東京オープン マスターズ40歳以上クラスで3位入賞)

 貴重な出会いもあった。
 同じ大会に出場したお笑いタレントのオードリー春日だ。
「肉体づくりをしてる春日のインタビューって面白いんじゃない?」と芸能担当記者と企画し、大会当日に掲載されるようインタビューを行った。そこには自らカメラマンとして取材に行かせてもらった。記者も含めて同じゴールドジム所属。3人でトレーニング談義に花を咲かせた。その後ジムでも顔を合わせ、「調子はどうですか?」など言葉をかわした。

 (2015年5月10日付スポーツニッポン掲載)

 また、同じジムのなかやまきんに君は春日と同じ75キロ級で今年の大会は2位に輝いた。ジムでトレーニング後はいつもラップに包んだ蒸したささみをちぎりながら食べている。「大会後もストイックですね」と話しかけると、にっこり笑い返してくれた。2人とも芸能の不規則な仕事をしながらのトレーニングで肉体づくり。立派である。

 (2015年東京オープン75キロ以下級決勝で並んでポーズを決める)

 今夏メダルラッシュの柔道男子日本代表のフィジカルコーチとしてリオ五輪に帯同していた日体大の岡田隆准教授はブラジルから帰国して2週間後の社会人選手権で初出場、初優勝の快挙を成し遂げた。五輪期間中のトレーニングや減量などは思うようにできなかったはず。先日、話す機会があったので聞いてみたら、帰国後に減量をしながら朝と夜にトレーニングするダブルスプリットで仕上げたという。これこそ精神力が表れた結果だろう。さすが筋肉博士だ。
 (2015年社会人選手権一般の部で優勝した岡田隆)

 そういえば西武ライオンズ担当時代、平尾博嗣選手が言っていた。
「田中さん、最後は気持ちなんですよ」

 スポーツ選手の気持ちが少しわかったような気がした。
 仕事も趣味も、“気持ち”を大切にしたい。
 
2016年11月
スポーツニッポン新聞社
写真部次長
田中和也



10月のコラム


(朝日・大野 明)
熊本城でドローンを操縦するカメラマン(左写真)、
リオ市街で3D360度VR撮影の準備をする五輪チームのカメラマン

 「新聞社のカメラマンはどういった写真を撮るのですか?」という質問をたびたび受けます。一番伝わりやすいのは、事件・事故の現場に駆けつける、いわゆる「報道カメラマン!」的なイメージでしょうか。

 私はよく「新聞に掲載されるすべてのジャンルの写真」と答えていました。その中には、スポーツや芸能・文化人の取材、季節のスケッチ写真、天文写真、商品撮影、そして、大がかりなスタジオ撮影(本欄2015年1月でお伝えしています)などもあります。かなり広いジャンルにわたって撮影するため、新聞カメラマンはオールマイティーな技量が必要になります。

 そして、デジタル時代を迎えたいま、「新聞に掲載されるすべてのジャンルの写真」は、「紙面とデジタル媒体を含めた、すべての映像コンテンツ」という定義にかわりつつあります。もう、すでに多くの新聞社で、スチールカメラマンは動画撮影も同時にこなしています。カメラマンのマルチタスク化です。

 私たちの現場には次々と新しい技術が導入されて、取材方法やコンテンツのありようも変化しています。ドローンは撮影位置の自由度を大きく広げ、VRコンテンツは多くのユーザーに現場の臨場感をあますところなく伝えます。

 朝日新聞のカメラマンも通常の取材に加えて、例えば熊本地震半年にあたっては熊本城をドローンで撮影し、リオ五輪では現地の雰囲気を3D360度VRで伝え(3Dは一部イベントでゴーグルを着けて体感してもらいました)、銀座のリオ五輪・パラリンピックパレードではライブ中継を手がけました。
※熊本城ドローン撮影 http://www.asahi.com/articles/ASJB65QKCJB6TIPE02P.html
※リオ五輪VR動画 http://www.asahi.com/olympics/2016/vr_panorama/

 2016年5月から朝日新聞社は「写真部」の名称を、「映像報道部」と改称しました。あらゆる映像コンテンツに対応していく方針を、名称に反映しました。とはいえ、コンテンツの中心はやはり、写真です。どんな媒体でも、デバイスでも、一番簡便に、そしてストレートに伝えられる「写真」というコンテンツにしっかり向き合いながら、新しい表現や技術に挑戦していきます。

 私たちの仕事が広くシェアされる仕組みのひとつとして、遅ればせながらインスタグラムのアカウント( 朝日新聞映像報道部 @asahi_photo )も開設しました。ぜひご覧ください。

朝日新聞映像報道部長 大野 明



7月のコラム


(夕刊フジ・奈須 稔)
上空から撮影したパナシナイコ競技場。1周330メートルのトラックにはヘアピンも =2004年、ギリシャ・アテネ

アテネ五輪のマラソン女子で金メダルのゴールテープを切る野口みずき =2004年、パナシナイコ競技場
来年の東京マラソンのゴールはここです。3万6千人のランナーが東京駅を背にゴールします =皇居外苑(いずれも筆者撮影)



「フォトポジション」


 「東京駅をバックにしたゴールは絶対に絵になる」。
 今年3月29日、会見で記者団を前に胸を張り、「東京マラソン」のゴール地点の変更を発表したのは、舛添要一前東京都知事です。
 首都東京を駆け抜ける東京マラソンは、2007年に始まり、今年2月に第10回大会をむかえました。参加ランナーは約3万6千人で、2013年からは「ワールドマラソンメジャーズ(WMM)」の仲間入りを果たし、世界のトップランナーが出場する大会に成長しました。

 東京マラソンは産経新聞と読売新聞などが共催しています。両社が隔年で代表撮影などの幹事業務を務めており、2020年の東京五輪イヤーは産経新聞が担当します。幹事社は、取材を希望する報道各社が滞りなく取材できるように、東京マラソン財団の担当者らと話し合いを重ね、撮影場所(フォトポジション)の変更など調整を繰り返しています。

 「舛添さん、簡単に言ってくれるよなあ…」。ゴール地点の変更を知らされたときの率直な感想です。
 マラソンと車いす、市民ランナーらが、同じコースを走る東京マラソンは、フォトポジションの設定も複雑です。特にゴール地点は、ゴール後の減速エリアが必要な車いす競技と、マラソンとで、ベストな位置も異なるのです。
 東京・大手町の産経新聞本社から、東京駅前のゴール予定地点までは歩いて10分ほど。産経では私がこの7年担当しており、すでに東京マラソン財団の方々と現地打ち合わせを重ねています。

 スポーツ写真に限らず、少しでも良いフォトポジションを確保することが成功の秘けつ。どんなに高価な機材を用意しても、撮影場所の差で負けるケースは少なくありません。
 これまで夏冬6大会のオリンピックを取材しましたが、マラソン競技に限って言えば、2004年のアテネ大会(ギリシャ)が最も印象に残っています。マラソンのゴールは、1896年にアテネで行われた第1回近代五輪でメーンスタジアムとして使用された「パナシナイコ競技場」でした。

 上空から見るとU字型の競技場で、スタンドは総大理石造りです。アテネ郊外の街「マラトン」から42・195キロの距離にあります。歴史的なスタジアムで取材できたことはカメラマン冥利につきるのですが、フォトポジションは決して褒められたものではありませんでした。限られたスペースに何十人ものカメラマンがすし詰めとなり、五輪の聖地≠生かした写真を収めることはおろか、ゴール写真を撮影するのがやっとでした。ただ女子マラソンでは、野口みずき選手が金メダル獲得の快挙。東京の本社からのオファーは笑顔のゴール写真。野口選手に助けられました…。

 東京駅をバックにゴールするランナー。
ベストポジション≠ェ設定できればすばらしい光景となるでしょう。政治資金の問題で都知事を辞職した舛添さんですが、これが唯一の?功績となるのかもしれません。
 来年2月の東京マラソンでゴールのシャッターを押すのは私ではありません。しかし、パナシナイコでの経験を胸に、報道各社のカメラマンがすばらしい写真を撮れるよう汗をかいています。



2016年7月
産経新聞東京本社写真報道局
夕刊フジ写真部長 奈須稔


6月のコラム


(日本経済新聞・鈴木 健)
被爆者の森重昭さんと抱き合うオバマ米大統領(5月27日、広島市中区の平和記念公園)

オバマ米大統領が小中学生に手渡した折り鶴(5月27日、広島市中区)



「運も実力のうち」


 オバマ米大統領が広島を訪れた5月27日午後。歴史に残る1枚を撮ろうと、報道各社のカメラマンはそれぞれのポジションで来たるべき時を待った。

 舞台となった平和記念公園は厳しい規制が敷かれ、一般の人たちは立ち入り禁止。カメラマンの人数もかなり制限された。重要なポイント3カ所はプール取材=代表撮影となり、いわゆる各社取材になったエリアは1カ所だけ。それも1社2名に限定され、撮影位置を決めるための抽選が行われた。わが社のOカメラマンはくじ運悪く順位は最下位。だが実際に撮影の瞬間を迎えてみないと、そのポジションがほんとうに良くないかどうかは分からない。献花を終えたオバマ氏が被爆者の代表に歩み寄り言葉を交わす場面では、7段脚立の上で600_の超望遠レンズを構え、冒頭の写真をものにすることができた。

 一方、献花ポイントの取材からあぶれたAカメラマンは周辺取材にまわった。カメラマンの数が少ない日経の場合、かけ持ち取材は当たり前。被団協記者会見の取材を終え、次はオバマ氏がサインした芳名録の撮影に向かったが、資料館に着いたときには撮影順は最後の方になってしまっていた。撮影が終わってカメラマンも残り少なくなり情報収集のために残っていると、急きょオバマ氏が小学生に手渡した折り鶴を撮影できることになった。残り物に福、とはこのことか。すぐに写真を本社に送信、朝刊紙面用に準備するとともに電子版の公式ツイッターにも投稿。リツイートが3000を超える大きな反響があった。

 事前に情報を集め可能なら下見を重ね、どんな取材でもできるかぎりの準備をして写真記者は現場に臨む。今回の広島のような現場にそれぞれの社を代表して取材するのならなおさらだ。実際にうまく撮影できるかどうかはまた別の話でもあるが、ベストの準備をつくしていればこそ、運も味方してくれるというものだろう。それが大きなスクープ写真につながれば言うことなし。そこまではなかなか、うまくはいかないが…。



2016年6月
日本経済新聞社写真部長
鈴木 健


4月のコラム


(東京スポーツ・細島)


写真@ 1995年6月、新大阪駅ホームで偶然出会う巨人の桑田と西武の清原。
写真A 2001年4月、東京ドームの巨人戦で観戦に訪れたプロレスラー小川直也と握手する清原。
写真B 2001年4月、ナゴヤドームでの試合前、本紙を手に笑顔の清原。



「堕ちたヒーロー」
 覚醒剤取締法違反(所持、使用)の罪で起訴された元プロ野球選手清原和博被告が3月17日、逮捕から44日ぶりに警視庁本部から保釈された。その姿をとらえようと多数の報道陣が警視庁前に集結。行き先を報道するために、各社ヘリやオートバイでの追っかけ取材も敢行された。
我が社も8人のカメラマンを投入し、何とか清原被告の姿を撮影できないものかといろんな方法で試みるものの、結果は無残。いまだにその姿はとらえられていない。

 あの甲子園のヒーロー、プロ野球界のスーパースターがこんなことになるとは…いまだに信じられない。この私もカメラマン時代に何度か清原被告を取材したのだが、清原被告に対し、他の方々とは異なった印象を抱いている。
高校時代から多数のカメラマンに追っかけられ、プロ野球界に身を投じてからも常にフラッシュを浴び続けてきた。そんな彼は新聞社や雑誌のカメラマンに対して横柄な態度で接してきた。時には「うるさい!ハエ!!」とハエ呼ばわりしたという話も聞いたことがある。西武ライオンズに入団して輝かしい実績を積み、誰もが認める球界のスターとなった清原被告。1992年のあるプロゴルフの大会で初めて取材した。ハワイ・マウイ島で行われていたエキシビション競技にプロとアマが参加する大会を、その日、同島でキャンプを行っていた西武の選手4〜5人を連れて清原が観戦に来たのだった。キャンプ休日で極秘に訪れたのか、西武担当の記者、カメラマンは一人もいなかった。その時彼らに気づいたのは私と某社のカメラマン2人だけだった。エキシビション競技だったため報道陣にはカートが一人に一台与えられていたので「誰のプレーを見たいの? カートに乗せてあげようか?」と私が声をかけると、清原被告は「青木功さんが見たいです。乗せて行ってください」と答えた。そして青木功や王貞治現ソフトバンク会長(当時は野球解説者でアマチュアとして大会に参加)と記念写真を撮ってあげると「ありがとうございました。後で写真頂けますか?」と予想外の受け答えで、今まで聞いていた印象と違い、普通の礼儀正しいスポーツ選手だと感じた。後日球場でその写真を渡すと「ありがとうございます。うわ〜めっちゃくちゃうれしい!」とこちらの方が恐縮するほどの喜びようで、その後も私の顔を見つけるたびに「こんにちは!」とあいさつしてくれた清原被告。この場面を見た他社カメラマンに「清原がカメラマンにあいさつするのを初めて見ました」と驚かれもした。

 こんなこともあった。95年巨人担当だった私が巨人選手の移動を新大阪駅で取材中、ケガで戦線離脱して一人で帰京中の清原被告とバッタリ。この時も早めに駅に着いていた私一人だけで、少し会話した後「向こうに巨人の選手がいるよ。桑田もいるから一緒に写真撮ろう!」と言うと「ええですよ。ちょっと待っていて下さい、弁当買ったら行きますから」と、このころでは珍しいグラウンド外でのツーショットが実現したのだった。桑田も前日の登板でケガをしていたため「“傷心の”帰京KKが新大阪駅でバッタリ」の見出しで写真雑感として掲載された。

 そして翌年96年に清原被告はFA移籍騒動。担当だった私は当然、清原被告をハエのように追っかけまわすことになる。連日のように繰り返される追っかけや張り込み取材。ある日銀座の街中を報道陣から逃げるように歩く清原被告を「悪いな、これも仕事だからさぁ」とフラッシュを浴びせる私に「人の道を捨ててますね」と怒りをぶつけてきた。今思えば、どっちが人の道を捨てているのか…。
これで良かった関係も終わりだなと、当時は少し落ち込んだ。

 そして清原被告は巨人にFA移籍。無視されてもあたりまえ。しかし、彼の態度はそれほど変わらなかった。あいさつすれば答えてくれるし、写真を持って行けば「ありがとうございます!」と笑顔。格闘家が球場を訪れ、一緒に写真を撮りたいと言えば「ええですよ」と即答。一度、東スポらしい1面で格闘家の体に清原の顔を合成してファイトする写真を載せたことがあった。この写真を見て喜んでいたと人づてに聞いた。その新聞を持って写真を撮らせてと頼むと「ええよ」と自らグラウンドに出て東スポを広げた。巨人に来ても、私にとって清原和博は怖い存在ではなかった。
 
 しかし、数年後世間には怖い存在に変貌していく。私も巨人担当から離れ、清原被告を取材することもなくなった。耳にするのは悪い話ばかり。さほど仲が良いわけではなく、一緒に食事したわけでもない。こんな私でさえ、ピアスをした清原被告の変わりようには落胆した。子供たちが憧れるスーパースターの姿ではなかった。チーム首脳陣との確執や若手への悪い影響などが報道され始めたのもこのころだったと思う。相次ぐ故障に成績不振。そして憧れてやっとたどり着いたチームからの戦力外通告。オリックスへ移籍しても復活することはなかった。
 
 覚醒剤の噂が流れた時、耳を疑った。私が取材の際に接した清原は番長のイメージはなく、ちょっとやんちゃな優しい人。昨年9月本紙カメラマンが張り込んで撮影した足の入れ墨の写真を見た時、噂は本当かも…と失望した。
週刊誌には足だけではなく、体にまで入れ墨をした写真が掲載されていた。これでは球界復帰はおろかメディア復帰も難しいだろう。せめて2人の子供たちのために人間らしい道を歩んでほしい。
栄光への道は捨ててしまったけれど、人としての道は外さないでほしい。



2016年4月

東京スポーツ新聞社
写真情報システム部副部長
細島啓輔



3月のコラム


(時事・山本)



 先月、元フジテレビアナウンサーの岩瀬惠子さんが進行役を務めるラジオ日本の朝のニュースワイド番組に出演させていただく機会があった。弊社の部長や記者が最新ニュースなどについて解説するというコーナーだが、なぜか次は写真部長にとお鉢が回ってきた。「30分ぐらいだからあっという間だよ」と担当の編集局デスクに言われ、つい生放送の出演依頼を受けてしまった。
 一体何を話せばいいのか考えあぐねた末、ネット展開を見据えた組織改編で変わり行く写真部といった漠然としたレジメを作り、ドローンを使った撮影の裏話などを交えて話すという段取りになった。

 そして放送当日。最近の業界事情などを説明して前半が終了。天気予報やニュースが流れる間のブレイクとなり、マイクがオフになった。岩瀬さんと入社年次が近かったことから、昔の失敗談などを話していると、「後半は山本さんの思い出話で行きましょう」と突然の予定変更。そして、出されたのは「一番心に残っている写真は何ですか?」という質問だった。

 傑作と胸を張るほどの写真はないし、失敗作ならいくらでもあるのだが。生放送なので口ごもっているわけにもいかず焦ってしまった。慌てて頭の中で記憶の巻物をさっと広げると、駆け出しカメラマンだった25年前の雲仙普賢岳の噴火災害が蘇ってきた。
「目の前に迫る大火砕流を撮ったことがあります」。報道関係者や消防団員など40人以上が命を落としている。岩瀬さんも当時の記憶は鮮明だったようで、私が話し始めるとにこやかだった表情にやや険しさが走った。

 1991年6月3日午後4時ごろ、梅雨の雨雲が低く垂れ込め、普賢岳の様子を伺うことができないまま、私は土石流が度々発生していた水無川沿いで上流を見詰めていた。毎日新聞の加古カメラマンと出くわし世間話をしているところへ、同社の石津カメラマンが車で通り掛かかり、上流へ様子を見に行くから一緒にどうかと誘われた。数日前に先輩に紹介されて面識があったので声を掛けてくれたのだろう。しかし、5月29日に発生した火砕流が各社の撮影ポイントだったいわゆる「正面」と呼ばれる場所の間近まで迫ったこともあり、上流には行かないと決めていた。そのため、加古カメラマンとその場に残って見送ったその直後だった。

 雨雲の中から火砕流が現れた。それは何回か見たものと同じ黒い煙の塊だったが、すぐに何かが違うと直感した。遠くに見える川沿いの民家を次々と飲み込み、止まる気配を見せない。「これは逃げられんばい」と加古カメラマンがつぶやいた。私は咄嗟に2枚ほどシャッターを切って走り出した=写真。
 そのあとはよく覚えていない。川沿いではなく横へ逃げようと、トウモロコシだかタバコだか分からない葉をかき分けて、畑の中を夢中で走った。加古カメラマンともいつの間にかはぐれていた。ふと振り向くと火砕流は凶暴な輪郭をうっすらと消しつつあり、頭上では火山雷が鳴り響き、火山灰でドロドロの雨粒が着ていたカッパを叩き始めた。
 見覚えのある道に出たとき、地元テレビ局の取材車が私の前で止まり、火砕流が襲った現場へ向かうので乗らないかという。近くでは興奮した消防団の男性が「行ったらみんな死んでしまう」と叫んでいる。私は無言で首を横に振った。火砕流がまた来るかもしれない。

 雲仙普賢岳の災害では報道関係者の火山災害に対する知識の欠如や専門家がパニックを恐れてしっかり警鐘を鳴らさなかったことなど様々な問題点が指摘されたが、25年後の現在、その教訓はどこまで生かされているのか。
 編集とは切り離した安全対策だけを考える部署を作った社もあると聞く。そこがダメといえば編集デスクが何を言ってもダメなのだそうだ。強制力はありそうだが、自分の身は自分で守るのを基本に考えたい。
昨年の常総市の鬼怒川決壊では、現場に向かった記者、カメラマンがドライバーの運転する車ごと増水してきた水に浸かって身動きできなくなる事態が発生した。近くの民家に避難させてもらい夜を明かしたが、並行して流れる小貝川の堤防脇だったため、万が一その堤防も決壊したら大変なことだった。部長として取材を命じる側になり、カメラマンの安全をどう守ればいいのか改めて考えさせられた。

 マイクに向かって話しながら頭の中でそんなことを考えていたら、岩瀬さんがちらちらと視線を時計に向けている。見るとあと30秒ほどしかない。「ドローンが使えれば、いずれ安全に取材できるようになりますね。山本さん、どうもありがとうございました」。本当にあっという間だった。

 このコラムが掲載されるころには東日本大震災から5年目の「3・11」を迎えているだろう。安全についてのみならず、災害から何を学ぶか。被災者に寄り添って取材したカメラマンたちも自問自答しているに違いない。


2016年3月

時事通信社写真部長
山本 浩



2月のコラム


(東京中日スポーツ・田中)



 2020年夏季五輪・パラリンピックの開催都市が東京に決定して、2年半近くが経とうとしている。あの歓喜の瞬間は、もうずいぶん前のことのように感じるが、その間には新国立競技場の建設費やエンブレム選考の問題など競技以外のことが注目を集めてきた。しかしリオ五輪の開催を半年後に控え、ようやく選手や競技に関する話題が紙面やテレビをにぎわすようになってきたと感じる。不透明な問題は早く解決して、アスリートの活躍を応援できる環境を整えてあげたい。

 私にとってのオリンピックの記憶は72年の札幌冬季五輪に始まる。64年の東京五輪は幼すぎて、残念ながら記憶にない。札幌五輪当時、小学生だった私は、トワ・エ・モワが歌う大会テーマ曲「虹と雪のバラード」を口ずさみ、日の丸飛行隊と呼ばれたジャンプ陣の金銀銅独占を喜んだ。フィギュアスケートの妖精ジャネット・リンの笑顔には、子どもながらにときめいた。スポーツと言えば野球ぐらいしか知らない子どもが、ノルディックスキーやボブスレーなどの未知の競技に驚き、食い入るようにテレビ観戦したことを覚えている。

 その後、縁があってこの世界に入り、プロ野球を中心にスポーツ取材にあたったが、運良く五輪取材にも行かせてもらった。観客の興奮が入り交じる開会式の熱気や、アスリートが見せた歓喜の表情や悔し涙は、自分にとっても忘れられない貴重な財産となった。世界最高レベルの競技が繰り広げられる五輪の舞台は、カメラマンにとっても大舞台。五輪取材が決まったカメラマンは、数年前から五輪種目の取材を重ね、ベストのアングルやシャッタータイミング、そして選手や競技の細かいルールなどについて学ぶのである。経験を積んで撮影技術を磨くことも重要だが、選手の名前や顔、そして経歴や選手が持つ特別なストーリーを知ることによって取材する楽しみが増す。こうして自分も選手のファンになり競技が好きになることで、より良い写真が撮れるようになる。残念ながら現役を離れて久しい私は、もう五輪取材に行くことはあり得ないが、写真を編集する立場としても選手や競技を知ることはとても重要だ。そして近年は五輪競技に新しい種目が次々と追加されているのでなおさらだ。

 そんな中で最近私が注目しているのは、リオ五輪から正式種目に追加される女子7人制ラグビーで、出場を決めたサクラセブンズ(愛称)だ。恥ずかしながら私は女子ラグビーを見たことがなかった。しかし男子ラグビーの活躍によってか五輪最終予選のテレビ放送があり、すっかりファンになった。7人制ならではの素早い展開とスピード。そして男勝りの激しいプレーを見せたかと思うと、ノーサイド後にはさわやかな笑顔が待っていた。翌日の紙面では、世界一の猛練習で知られたラグビー男子のエディー・ジャパンより、自分たちの方が走り込んでいると自負する記事が目についた。何とも頼もしいではないか。彼女たちも脚光を浴びるまでは長い苦難の道を歩んでいる。アジアの頂点に立ち、そして世界の頂点を目指す彼女たちの夢が、花開く日を期待してやまないのである。そして、さらに東京五輪では、野球・ソフトボールの復活のほかに4つの新しい競技が採用される予定だという。楽しみが増えた分、しっかりと予習をしておきたいと思う。

2016年2月
東京中日スポーツ写真課長 田中 健


1月のコラム


(写協・池田)


1.
2.


 2016年を迎えました。今年も皆様にとって実りある幸せな一年であるよう願っています。
 報道写真でその年を振り返る報道写真展は56回目になり、2015年12月16日から24日まで三越日本橋本店、26日から2016年1月3日まで静岡伊勢丹で開催させていただきました。
 三越のオープニングには、レスリング世界選手権女子48`級で3連覇、リオ五輪でも活躍が期待される登坂絵莉選手に来場いただきました。<写真@ 報道陣を前にレスリングのポーズをとる登坂選手(右)12月16日、東京新聞提供>小柄ですが、秘めたるパワーを横に立つと感じるアスリートでした。初の五輪出場でも最高の結果を残してくれるに違いありません。

 伊勢丹には卓球の伊藤美誠選手に来ていただきました。<写真A テープカットする伊藤選手(左から2人目) 12月26日>14歳192日で卓球世界選手権女子シングルスベスト8入りという日本人最年少記録を更新した選手です。明朗快活でものおじしない自信にあふれる姿に、逆にこちらが元気づけられました。最良の結果はおのずからついてくると信じています。
今年はアスリートの活躍に期待しましょう。
 
 2015年報道写真展には「戦後70年」の特別コーナーを設けました。毎回、会場においてある感想ノートには「やはり戦争はむごい」「写真の迫力や伝える力に圧倒された」などと感想を記していただきました。
「東日本大震災」コーナーでは「その後を報道することで記憶を留めさせることができ、今の様子も伝わった」「毎回、展示される写真に感動している。頑張れ、報道カメラマン」と伝え続けている大震災被害にも評価を頂きました。

 2016年はどのような年になるのでしょうか。
 東京写真記者協会加盟の新聞、通信、放送(NHK)の記者は、事件事故、災害の時には現実を冷徹な目で写真に記録します。どんな場面に遭遇しても、被写体となる人たちへの温かい気持ちを忘れずに取材を続けます。『Cool eye, but Warm heart.(冷静な目でしかし温かい気持ちを忘れない)』というわけです。
 スポーツではベストを尽くすアスリートの姿への感動を1枚1枚の写真に込めて表現するでしょう。2016年はリオ五輪の年。日本中がアスリートの活躍に沸く瞬間が何度もあるはずです。
写真記者はニュースの最前線で取材を続けその時代の目撃者として「時代の証言」となる記録を残します。

 なお恒例の日本新聞博物館(横浜市中区)での報道写真展は、同館がリニューアル中でありません。

2016年1月

東京写真記者協会

事務局長 池田 正一





12月のコラム


(共同通信・藤田尚人)


ラグビーW杯 南アフリカ戦の後半、PGで狙いを定める五郎丸

南アフリカに勝利し、大喜びの日本フィフティーン

南アフリカ戦に出場した23選手とヘッドコーチ
(1列目左から)三上、堀江、畠山、トンプソン、大野、リーチ、
(2列目左から)ブロードハースト、ツイ、田中、小野、松島、立川、
(3列目左から)サウ、山田、五郎丸、木津、稲垣、山下、
(4列目左から)真壁、マフィ、日和佐、田村、ヘスケス、ジョーンズ・ヘッドコーチ
いずれも9月19日 英・ブライトンで

《ラグビー大好き》
 私が高校2年生の春ことだ。体育の最初の授業で担当教官が「ことしは1年間ラグビーやるから」と言った。冗談だろうと思っていたら、本当に丸々1年間、週2コマの授業はラグビー漬けとなった。男子校で一クラスは45人。まず背の高い順に3列に並ばされ、あっという間に15人ずつの3チームができあがった。背の高い奴はロック、一番背の低い奴はスクラムハーフ、体重がある奴はフォワード、足の速い奴はバックスと、背番号まで決まってしまった。最初はタックルされた際の受け身の練習ばかり。雨の日は教室でビデオを見ながらルールや戦術を学んだ。夏休み前になってようやくボールを持ち、パスやキックの練習が始まった。2学期になるといよいよ実戦形式のゲームが行われるようになり、その頃になると、なぜ背の順に並ばされたのか、ポジションごとの役割みたいなものも分かってきた。3学期には11クラス対抗のラグビー大会も行われた。

 それ以来40年近くのラグビーファンである。今でも、年に2、3回だが、たまの休日にわざわざチケットを購入してまで競技場に足を運ぶのはラグビーぐらい。で、今秋のW杯イングランド大会だ。まさかこんな日を迎えるとは夢にも思わなかった。何たって日本は91年大会でジンバブエに勝って以来、24年間勝ったことがなかった。W杯での通算成績は1勝21敗2分。一方の南アフリカは優勝2回、3位が1回、通算成績は25勝4敗で、勝率世界NO.1の大国。

 その夜は、しこたま酔っぱらって深夜に帰宅。テレビを付けたら、まさにキックオフの直前。「おお、そうだった。南ア戦だ」。不覚にもすっかり忘れていた。「前半の前半ぐらいで勝負が決まるだろうから、そしたら寝よう」と観戦をはじめた。最初は「なかなかやるじゃん」と思って見ていたが、なかなか引き離されない。後半の途中からは、チンタラやっていた南ア選手もようやく本気モードに。「凄い!歴史に残る大善戦だぁ…」。その後の展開は皆さんご存じの通り。「大善戦」どころかまさかの「大勝利」。酔いも手伝って一人大騒ぎをしていたようで、勝利の瞬間には、家人からは「何時だと思ってるの、うるさくて寝られやしない!」と怒られる始末。なまじっかラグビーのことを知っているつもりの人間にとっては、これは想定をはるかに超える信じられない出来事だった。

 スポーツ界にはいろいろな「奇跡的勝利」があるが、私にとっては最上位にランクされるゲーム。しかも生中継で見ることができ、最高に幸せだった。ラグビー好きで本当に良かった。今では名前はおろか、顔も思い出せない高校時代の体育教官に感謝、感謝。


2015年12月
共同通信社ビジュアル報道局 写真部長
藤田尚人



11月のコラム


(日刊スポーツ・小堀 泰男)





 女優の川島なお美さんが9月24日、54歳で亡くなった。その月の7日、ご主人と仲良くイベントに出席した際に、黒いドレスからのぞく二の腕のあまりの細さに関係者はもちろん、取材した我々も心配していた。ただ、ご本人は翌日からスタートする舞台への意欲を笑顔で語っていただけに、わずか17日後の訃報を信じられない思いで聞いた。
 
 編集局に情報が伝わったのは午後10時すぎ。すぐに1面の切り替え作業が始まった。整理部からリクエストされたのは、7日のイベント時の写真だった。しかし、写真部の担当デスクはこう主張した。女優としての生き方を貫いたのだから、美しく華やかな姿で彼女を送ってあげたい−。議論の末、最後はこの考えが認められた。9月25日付最終版1面のメーンになったのが、ここに紹介する写真。2007年11月、大好きだった赤ワインのグラスを手にほほえむカットだった。

 考え方、選択肢はいろいろあっただろう。でも、僕はあの日のような新聞づくりを大事にしていきたいと思う。自分たちの思い、願い、狙い、意図といったものは、紙面を通じて必ずや読者に届くはずと信じるからだ。川島さんを思いやり、優しさを込めて写真を選択したデスクの気持ちを理解してくれた人がたくさんいたはずだと信じたい。それがネットでは表現できない、紙ならでは温かさだと思う。

 僕自身もうれしかった。大学進学で田舎から上京した直後、安アパートで楽しみに聴いていたのが川島さんのDJ番組だった。女子大生アイドルの先駆けのキュートな笑顔に「頑張って青学に行けばよかった」と本気で後悔したことを思い出す。同世代の、あこがれていた女性を優しく、温かく見送ってくれたことが、本当にうれしかった。


2015年11月
日刊スポーツ新聞社編集局写真部長 小堀 泰男



10月のコラム


(東京新聞・星野浅和)



濁流にのまれた民家から自衛隊ヘリに救助される住民=2015年9月10日、茨城県常総市で(東京新聞ヘリから)

<新聞は読者にやさしいメディア>
 9月上旬、大学生を対象にしたインターンシップが東京新聞で行われ、記者志望を含む若者が編集局を駆け回った。政治部や社会部、整理部などでの研修は2週間に及び、結構ハードな日程だ。

 写真部ではテーマを決めた撮影を実地で行い、部内の端末で画像処理や写真説明の入力などを体験してもらった。あいにく、写真部志望はいなかったが、新聞社は記者も撮影をするのが当たり前。「書けて撮れる記者」が求められていると話すと、急に目の色が変わった学生もいた。

 ディスカッションの中で男子学生から、世界報道写真展(世界報道写真財団など主催)では、遺体が写った写真を展示しているが、日本の写真展では展示がないと指摘され、その理由を尋ねられた。日本の写真展とは、年末恒例の東京写真記者協会主催「報道写真展」を指し、この学生は毎年訪れているそうだ。

 「報道写真展」に展示する写真は、新聞社の紙面に照らして選ばれている。社によって基準に差はあるが、各社のデスククラスから選出された写真展実行委員が話し合いで結論を出している。遺体写真の扱い方について、日本の新聞社は「基本的に掲載しない」でほぼ一致しているため、展示されることはまずない。

 掲載基準があると書いたが、実は東京新聞には明確なものはない。掲載するかどうかのニュースに直面した時に、写真部や整理部のデスクと編集責任者らが話し合って結論を出している。当然、多様な意見が出るが、遺体に限らず、むごたらしい写真を掲載する必要性や、それを目にした読者の気持ちなどを考慮して、「掲載しない」が東京新聞の基準≠セ。

 別の女子学生からは、欧州の主要紙が掲載して話題となった難民のアイランちゃんのケースはどうかと質問が出た。この写真は、シリアを逃れ、ギリシャを目指して家族と乗り込んだ船が沈没。地中海沿岸のトルコの浜辺に突っ伏して倒れていた男児(3つ)の姿を撮影したものだ。この痛ましい写真が欧州の新聞に掲載されると、消極的な難民受け入れに非難の声が高まり、欧州各国の政策に大きな影響を与えた。

 日本の新聞は、一枚の写真が持つ影響力を報じる形で掲載したが、警察官に抱きかかえられた顔が見えない別カットを選択した社が多かった。東京新聞はどちらも掲載を見送り、笑顔が愛らしい生前の写真を掲載した。掲載後も議論は続いたが、少しでも異論があれば掲載すべきでないとの判断によるものだ。

 インターンシップの最中に茨城県常総市を中心とする豪雨災害が発生した。テレビ中継に映し出された民家からの救出シーンをはらはらしながら見守ったが、「もし、最悪の結果が写ったら」と、生中継の怖さを感じた。インターネットにも決定的瞬間があふれる時代に新聞社の自主規制は意味があるのかと言う声もある。「目をそらしていいのか」と、ジャーナリズムとの間で迷うカメラマンや記者も当然いる。質問した学生たちが納得できる答は持ち合わせていないが、「家庭にも届けられる新聞。やさしいメディアであろうと努力している」には大きくうなずいてくれた。



2015年10月
東京新聞編集局写真部長 星野浅和




9月のコラム


(報知新聞社 関口俊明)



仙台女子プロレスの道場を訪ね、宮城倫子ら所属レスラーの練習を取材する中学生記者たち(2015年7月)



第1回(2012年)中学生新聞の最終面。初年度はタブロイド判ではなくブランケット判4ページの紙面を作成。



第2回(2013年)の最終面。岩手初の女性プロボクサー・佐藤由紀さんを大々的に取り上げた



第2回(2013年)の中面



第3回(2014年)の最終面。仙台女子プロレス・里村明衣子代表の練習を取材し、トレーニングを体験



第3回(2014年)の中面



第4回(2015年)の1面。クライミング日本代表の三浦絵里菜さんを取材しボルダリングも体験した。



第4回(2015年)の中面


<もうひとつの楽しみ>
 通常の現場取材業務とは別に行っている楽しい活動がある。「中学生新聞制作ワークショップ(主催・読売新聞東北総局、報知新聞社東北支局、宮城県読売会、仙台市教育委員会)」という宮城・仙台市内で毎年7月下旬に開催する5日間のイベントだ。私はそこで主に写真担当の講師を務めている。支局長として東北支局に赴任していた2012年にスタートし、今年が第4回となった。第1回は写真に加え、記事の指導も行っていたが、翌年4月に東京本社写真部に戻ったため、第2回からは後任の支局長の「お手伝い」として参加している。

 仙台市内の9つの中学校から2人ずつ、計18人の中学生たちが参加。記者になって現場でインタビュー、写真撮影などの取材をして記事を書き、タブロイド判12ページの本格的な新聞を作るという内容だ。記者の取材に同行する「記者体験」はあるが、編集、販売のプロ8人の講師が指導し実際に新聞を発行するまでのイベントは数少ないだろう。毎年9月初旬に完成する約7万部の新聞は市内の中学校、宅配の新聞折り込みなど多くの人々に無料配布している。

 当時、雑談の席で「総局、支局、読売会(販売店の会)が同じビルの中にいるのだから何か一緒にイベントができないものか」と皆で盛り上がった事がきっかけだった。経費、取材用のカメラ、取材先、レイアウト担当、印刷、教育委員会の説得など問題は山積み。当然、私の大きな役割はカメラ機材を集める事となった。長期に渡り弊社でメンテナンスなどを担当して頂いているキヤノンに相談したところ、20台のショートズーム付きカメラと望遠ズームレンズ10本を用意できるとの回答を受けイベント実現を確信。大いに感謝したことは一生忘れられない。  
 
18人の中学生は6人ずつ3班(読売2、報知1)に分かれる。制作する新聞は読売が7ページ、報知が3ページを担当し、子供たちの取材風景写真を入れたドキュメント面と取材後記などを含めた12ページで構成される。意図的に1面から一般紙、最終面からスポーツ紙という面割りにし、写真の扱い方、見出しの付け方など大きな違いが瞬時に分かるような工夫も施している。自主性を重んじ、掲載写真、新聞の名前、見出しなどは子供たちが意見を出し合って決定。記事原稿に関しては「デスク」として我々大人の手が多少加わることになる。

 参加の中学生たちは基本的に午前10時に総局会議室に「出勤」し、班ごとに各取材先に出向いて「帰社」、午後5時に「業務終了」する。毎年、イベントの初日は講師4人の座学講座。私の担当する写真講座では、良い写真例を見たり、シャッタースピードと絞りの相関関係など基礎知識を教えた後、近くの公園で撮影講習会を行っている。たまたま通りかかった犬をローアングルから撮影する方法や流し撮りなどを教えると、子供たちは新しい発見をしたかのように撮りまくる。4年間を通しても一眼レフカメラでの撮影経験者はほぼゼロ。ゲームのコントローラーと同じ感覚なのだろうか、始めはカメラの操作に戸惑っているが、最終日にはいつの間にか使いこなしていることにいつも驚かされている。

 報知班の取材先は地元スポーツ&エンタメだ。仙台女子プロレス、女子プロボクサー、バスケットボールbjリーグ・仙台89ERS、クライミング女子日本代表、宮城テレビアナウンサー、アイドルなど紙面が明るくなる女性にこだわって取材をお願いしている。各班とも3〜5件ほどの取材先に出向くがどこでも子供たちを歓迎。たどたどしい質問にもしっかり耳を傾け、撮影にも非常に協力的だ。
感動したのが第1回で取材した仙台女子プロレス。私の熱意が通じたのか、レスラーでもある里村明衣子代表は「取材が本気ならこちらも本気でやりますよ」と中学生の取材のためだけに主力選手2人による「無制限一本勝負」を敢行してくれたのだ。8分30秒にも及ぶ実践さながらの激しい戦いを悲鳴を上げながらリングサイドで撮影、インタビューする充実した取材となった。

 活字離れが進む若い世代にイベントを通じて新聞に親しんでもらうのが大きな目的で、長い目で見た新聞販売促進なのだが、参加した子供たちと心をひとつにして新聞を作りあげて行く過程は本来の目的を忘れてしまうくらい楽しい。子供たちに良い取材をさせたい、良い紙面を作らせたいという気持ちは、睡眠時間を削って取材の下準備や後処理などを完璧に行ってしまうほどの本気パワーを生み出す。

 実社会を肌で感じた子供たちから「仕事の大変さが分かった」、「挨拶、時間、我慢など親や先生に普段言われている意味が分かった」、「貴重な体験は楽しいことや学べる事が沢山あった」という感想を受けると、単なる新聞制作イベントというだけではなく、未来を担う若者たちの人間形成にも多少の影響を与えられている事に達成感を感じる。

「今回のイベントを終えて、新聞記者やカメラマンになりたいなぁと思った人はいるかな、手を挙げて〜」と尋ねると、いつも反応は無し。弁護士や医者になりたいとのことだ。嘘でも手を挙げないところはやはり現代っ子なのかなぁと最後に大笑いしてイベントは終了する。


2015年9月
報知新聞社編集局写真部 専門委員 関口 俊明




8月のコラム


(産経新聞・芹澤)



ロンドン五輪の陸上競技男子100mを取材するカメラマン=2012年8月5日、五輪スタジアム



組閣の記念撮影を待つ写真記者ら=2010年6月10日、首相官邸



昭和基地に近い南極大陸周辺をヘリコプターから取材する筆者。機内は凍てつく寒さ。写真記者は現場がすべてだ=2011年2月6日


【写真記者を目指すあなたへ】
 うだるような暑さが続く8月、昨年より4か月遅れて就職試験が解禁になり、マスコミを志望する学生らの就職活動も佳境に入った。新聞社や通信社の写真記者を目指して、文字通り汗を流している人もいることだろう。活字媒体の長期低迷が取り沙汰される中、あえて挑戦する人がいるのはうれしい限り。お節介と知りつつ、将来の同僚にひと言―。

 あなたは、写真記者という職業にどんなイメージを持っているだろうか? 好意的な見方では、色々な現場に行ける▽さまざまな人に会える▽派手な感じ▽面白そう―などがあるだろう。そんな側面があるのは確かだ。が、取材の多くは政治、社会、経済、外信、運動、文化など各出稿部からきた撮影依頼をこなすこと。基本的には「受け身」の仕事が多い地味な仕事である。だが、開き直って考えると楽でもある。仕事は山ほどあり漫然と写真を撮るだけで日々は過ぎていくからだ。

 しかし、それは表面的な部分でしかない。今は携帯電話に高画質のカメラが内蔵され、誰もがカメラマンという時代。自然災害、事件事故などの現場をいち早く記録するのは、ほとんどの場合マスコミ関係者ではなく、そこに居合わせた人になっている。

 それだけに写真記者には、ただ現場を写す技術だけでなく「ニュースを見る目」や「世の中を読む目」が求められている。デスクに指示されたから写真を撮るのではなく、その被写体にどんな意味があり、どんな視点でシャッターを切るべきなのか。たまたま現場にいただけの人には伝えられない部分を「自分の目で的確に切り取る」のだ。

 「ニュースの根幹を見極めないと事の本質は写せない」。これを肝に銘じてほしい。
 その上で、「自分の視点で企画取材ができないか」を常に意識しながら、あらゆる事象と向き合ってみる。身の回りで起こったこと、耳に入ったニュースなどに「本当?」「それでいいの?」など、素朴な疑問を持つことが、はじめの一歩。ただ、新たな視点でニュースを取材し紙面化するのは容易ではない。ベテランの先輩は物分かりがいいような事を言いながら、頭が固いケースが少なくない。キャップやデスクを説得するだけでも大変だろう。

 しかし、多くのハードルをクリアして結果を出せば一気に世界が広がる。誰も知らない隠れた事実や問題点を写真で読者に伝えることこそが、写真記者の究極の仕事だと信じたい。近年の新聞紙面を見ても、写真記者主導の企画は確実に増えている。

 写真記者が技術だけで評価された時代は遠い昔に終わった。逆にいうと、写真を専門に学んでいない人も心配無用だ。写真記者に対する真摯な気持ちさえあれば不利なことは何もない。念願かなった皆さんと、どこかで会える日を楽しみにしている。


2015年8月
産経新聞東京本社写真報道局写真部長
芹澤 伸生




7月のコラム


(デイリースポーツ・松森)



家族とともにオープンカーに乗ってパレードする具志堅用高さん。沿道からは「ヨーコー」コールが響き渡った(米ニューヨーク州カナストータ)



具志堅用高さんは会場近辺のあちこちでサインを求められ続けた(米ニューヨーク州カナストータ)


【ボクサー・具志堅用高】
 ボクシングの元WBA世界ライトフライ級王者である具志堅用高さんのことを「おもしろいおじさん」、「天然ボケの人」などと言う人が多い。勘違いしているのではないだろうか。正確に言えば「おもしろいおじさん」ではある。計算しているのかどうか分からないほど「天然ボケ」であるのも否めない。それでも、断じて違うと言いたい。若者は知らないだろうが、具志堅さんはすごいボクサーだったのだ。

 それがきちんと評価された。昨年末に国際ボクシング殿堂入りが決まり、6月14日には同殿堂がある米ニューヨーク州郊外のカナストータという小さな街で表彰式が行われた。デイリースポーツで長くボクシング評論をお願いしている縁もあって、米駐在記者を取材に派遣した。
同時選出された故・大場政夫さんとともに日本人では4、5人目の殿堂入りという快挙。日本記録の13回連続防衛などの偉業を成し遂げた具志堅さんをカナストータはリスペクトして迎えた。

 写真は、表彰式前に行われたオープンカーでのパレードの1コマ。取材した記者によれば「ヨーコー」、「ヨーコー」のコールが沿道から鳴り響いたという。具志堅さんもこぶしを突き上げてノリノリ。同乗した日本から同行の長男、長女も笑顔が絶えない。孫はまだ理解していないかもしれないが、あと数年もしてこの写真を見たときにはきっと、誇りに感じるだろう。
アメリカだな、と思う。ニューヨークから車で移動すれば5時間ほどかかる田舎街は、毎年6月の第2週はお祭りムード一色だという。殿堂ウィークには表彰者らを招いたレセプション、ゴルフ大会など行事が毎日あり、日曜日の午前中のパレード、午後の表彰式でクライマックスを迎えるそうだ。

 具志堅さんは大好きなゴルフの大会にも参加して、連日、雰囲気を堪能したという。週末には街の人だけではなく、いわゆるカードマニアのようなコアなファンがカナストータに集まり、お宝≠収集しつつ、殿堂入りしたレジェンドに敬意を払う。引退して34年になる具志堅さんは「みんなが僕のことを知っていた。ボクシングを一生懸命やってきてよかった」と感激した。

 厳かな雰囲気の表彰式で、具志堅さんはいつもの具志堅さんだった。スピーチではたどたどしいながらも英語で一生懸命、甲高い声を張り上げた。殿堂入りの証しである指輪をもらって席に戻ると、隣りに座った元統一世界ヘビー級王者のリディック・ボウ氏(米国)から「見せてくれ」と言われて手渡したまま、返してもらえず、戸惑ったような表情を浮かべた。会場がどっと沸き、やがてまた拍手と歓声が具志堅さんを包んだ。

 洋の東西を問わず、具志堅さんは「おもしろいおじさん」なのかもしれない。もっと言えば、そのタレント性はひょっとして世界でも通用するのではとも思った。もちろん、そんなふうに心地よく感じるのも、背景にアメリカらしいリスペクトの念があるからだろう。日本にもこんなイベントがあればいい。そう考えさせてくれたのも、具志堅さんが偉大なボクサーだったからにほかならない。


2015年7月 デイリースポーツ編集局東京報道部写真担当部長
松森 茂行



6月のコラム


(読売新聞・秋山)


上半身をウェーブするように潜る。力が抜け不思議と息が苦しくならない
(2009年、御蔵島で)

潜る人自身がリラックスし余裕があると、イルカも近寄ってくる
(2009年、御蔵島で)


移植され70センチほどに育つアマモ。貝殻島のコンブに比べればスケールは小さいが、魚たちのゆりかごとなり、光合成も行うため生物資源の増加に貢献する
(2010年、横浜市金沢区で)


小笠原父島の約35メートルの海底に沈む旧日本海軍の駆潜艇(くせんてい)と、水中取材中の読売新聞写真部潜水取材班。太平洋戦争の痕跡が、ほぼ原型のまま戦後70年も残っていた。長さは50メートルほどある
(2014年12月)

1966年2月、東京湾羽田沖に全日空機ボーイング727が墜落。 発見された機体を読売写真部の2人のスタッフが水深約20メートルまで潜り撮影した。3枚の機体の写真とともに社会面にはルポが掲載された。透明度は悪く、駆潜艇の写真ほど離れた距離からの撮影は不可能だった。垂直尾翼の「ALL NIPPON AIRWAYS」の文字をどうにかとらえることができた。

 ◆ ◆ ◆

 写真記者の取材領域は陸上に限りません。昨年秋、戦後最大の火山災害となった御嶽山の水蒸気噴火では、山頂付近へのアクセスは自衛隊、消防、警察などによる捜索・救助活動に限られ、メディア各社はヘリからの取材でその様を連日伝えました。

 一方、四方を海に囲まれ、川や湖とともにその資源の恩恵に多くをあずかる日本では、珍しい水中の生物や自然環境の様子も多くの人々の関心事です。また生活や活動の拠点は水辺にも多く、自然災害や事故が発生することもあります。読者にその現場を伝えるためにも、水中取材のできるスタッフの養成が欠かせません。安全に潜る技術の習得
とともに、業務として行うためにも潜水士の国家試験にも合格しなければなりせん。

 私は1982年の入社ですが、2年後に異動となった初任地の北海道で、素潜りから習い、スキューバ潜水免許と潜水士免許を取得しました。その資格は単に写真を撮ることだけに生きたのみならず、海洋やその環境、生物全般に興味を向けてくれたと、今も大変感謝しています。特に素潜りの経験は、その原点だったのではないかと強く感じているこのごろです。その背景とともに、潜水のあれこれをお話ししましょう。

 札幌赴任から1年以上たった1985年6月、当時のソ連が「領海」と主張する納沙布岬沖の貝殻島周辺海域で読売独自の水中取材が許可され、取材班に加わることができました。毎年6月の数日間、同島周辺でコンブ漁が解禁されるのにあわせ島周辺での水中取材も行ないました。

 灯台のある周辺は霧に包まれることが多く、水深は5メートル程度。流れも早い上に水温は6度しかありません。しかしプランクトンが雪のように目の前を絶え間なく流れ、長さ10メートル
にも育ったコンブが真横になびきます。ハナサキガニやクリガニがコンブから飛び出す様は、サンゴの海とも明らかに違います。資源の豊かな北の海を象徴するその光景は今も忘れることができません。

 海洋環境への興味を抱いた原点は、スキューバダイビングのライセンス取得をする前に習った素潜りに見いだせます。当初、息を長く持たせようとしても、すぐに苦しくなり浮上してしまいます。そこで石狩湾でホッキ貝を探す練習をしたりしました。

あれから30年。先月、東京・新木場の25メートル室内プールで、イルカのような動きの素潜りを学ぶ教室に6年ぶりに参加しました。そこで初めて、25メートル先の壁までごく自然に泳ぎ切ることができたのです。
 この泳ぎは、先生を務める知り合いのフリーカメラマン、作山孝司さん(45)が長年のドルフィンスイムから学び、独自にあみ出した泳法です。普通のシュノーケリングと同様、3点セットの水中マスク、シュノーケル、足ひれを付けます。異なるのは手を前方に広げ、潜行する点です。このままお尻を突き上げ、上半身を意識してウェーブさせる――。すると自然に前に進み出すのです。
 
 ドルフィンキックとも違い、下半身には力を入れない。雑念を排し水との一体化を意識すると、不思議と息が長く続くのです。余計な力が入らないからでしょう。さらに2人一組でコース内で手をつなぎ、一人が目を閉じ、目を開けているもう一人と一緒に同じ動作を試みると、一人では苦しくなって水面に浮上した時がうそのように、25メートルの距離も苦にならなかったのです。

 自然のイルカと一緒に海でふれあう「ドルフィンスイム」を初体験しようとする人たちが、この教室に来ます。親子で来る方もいらっしゃいます。私は6年前、この自然体の潜りを初めて経験し、神奈川県内でのアマモ移植で浅場の資源回復を試みる現場の潜水取材をしました。ハウジングカメラを所持しても素潜りの息が長く続き、効果を実感できました。スキューバダイビングによる取材でも、必ず生きてくると思いました。

 スキューバダイビングは圧縮空気を吸えることで長時間、より深い水深の現場に行くことができます。新聞や通信社、テレビ各社の写真部や映像部の中でも、読売新聞は、早くから取材に取り入れてきた会社の一つです。現在は若手が少ないですが、昨年暮れには小笠原諸島の父島で、戦後70年も水深35メートルの海底に横たわる、南洋で貨物船の護衛任務にあたった旧日本海軍の駆潜艇(くせんてい)の撮影に40歳代中心のスタッフで臨むなど、企画を中心に潜水取材を行っています。

 読売新聞は1964年から70年代にかけて深海潜水作業船「よみうり号」を所持し、日本各地や豪州などでの海洋調査にも力を入れてきた歴史もあります。事故で沈んだ航空機や船舶の水中取材にも果敢に挑んでいます。1966年2月の全日空機羽田沖墜落事故では、海上自衛隊の協力を得て、大先輩の写真記者が連日、東京湾羽田沖の海底に沈んだ機体の独自取材を行い紙面化しています。この事故では札幌雪祭り観光帰りの方が多数亡くなりました。

 50代後半にして改めて「自然体で行う潜水」を学び、〈柔(じゅう)よく剛(ごう)を制す〉の言葉を思い出しました。これからも様々な分野の写真報道でこの精神を忘れず、広い意味で水中一般に関心を向けてくれる部員の育成に務めていきたいと思っています。



2015年6月 読売新聞東京本社写真部長
秋山哲也



5月のコラム


(サンケイスポーツ・薩摩)






 突然のご挨拶で失礼いたします。この5月からサンケイスポーツ写真部長を仰せつかりました薩摩嘉克と申します。産経新聞社に入社してから25年以上になりますが、これまでは大阪本社で取材、デスク、部長を経験してまいりました。東京での仕事、生活は全く初めてのことなので分からないことばかりではありますが、皆様からのご教示ご指導のほどよろしくお願いいたします。

 ずいぶんと以前の話にはなりますが、平成9年から大阪本紙で月1回、カラー紙面1ページを使った写真企画「にっぽん原風景」の連載が始まりました。担当カメラマンに指名された私は、全国に懐かしい風景、古い景観を求めて北海道から沖縄まで撮影に走り回ることになりました。日本人が「原風景」と思い描く景観は、山深い寒村であったり、離島だったりと足場の悪い場所が多く、苦労の多い旅でもありました。連載が5年を過ぎた頃に、それまで訪れた地域を確認してみようと取材ノートを見返したところ、全国で1都1道2府42県にも及びました。「まったく様々な場所へと取材へ行ったものだ」と思っておりましたが、不思議なことに茨城県だけは一度も訪れていない事実に気が付きました。何度かは取材候補にあがった事もありますが、その後の10数年間も何故か茨城県だけは訪れることはありませんでした。

 今回の東京本社転勤を機会に、訪問できていない茨城県へと行こうと決め、5月のゴールデンウィークを利用して、上野発の常磐線特急「ときわ」で水戸へと向かいました。乗り心地の良い特急列車での1時間17分ほどの短い旅ではありましたが、大きな感慨を持って茨城県の土地を踏みしめることがやっと出来ました。水戸市内で偕楽園を散策(写真@)した後は、レンタカーを借りて国道51号線を太平洋に向けて走りました。大洗磯前神社(写真A)から国営ひたち海浜公園(写真B)、東海村などを訪ねてまわりました。ゴールデンウィークの大渋滞とネモフィラを見に集まった観光客の多さには辟易とさせられましたが、美しい景観、美味しい料理とフルーツに温かな人情の素晴らしい土地であることを知りました。個人的な感想ですが、どうして茨城県が「都道府県魅力度ランキング」で最下位になるのか全く理解できません。

 とにかくも、東京に着任して最初の仕事が、個人的な全国47都道府県の制覇と日本三名園鑑賞という大きな仕事になったことをご報告させていただきます。


2015年5月 サンケイスポーツ東京本社写真部長
薩摩 嘉克




4月のコラム


(毎日新聞・山下)





 《新聞社による動画ニュースと写真》

 新聞各社がウエブサイトでニュース報道を行うようになって20年ほどになります。毎日新聞社がニュースサイトを作ったのもその頃でした。当時ニュースにおいてビジュアルというと写真が主体でした。全国紙が新聞の一面写真をカラー化してそれまでより大きめに扱うようになったのがその数年前の出来事。ところが、最近数年の間にデジタルメディア内の動画の普及スピードは止まるところを知りません。ネットでは、ユーチューブやニコニコ動画だけでなく次々と動画を配信するサービスが誕生しています。

 新聞社も数年前からニュースサイトに動画を取り入れるようになってきました。しかし、多くの新聞社には、プロのビデオカメラマンがいるわけではありませんからテレビ局に比べたら、全く素人同様のところからスタートしています。とはいえ、新聞社には新聞社の視点や、取材ネットワークなどテレビ局にない可能性も秘めています。
 インターネット上の動画配信サイトの特徴は見る方と動画の作成者が同じレベルでどちら側にもなることができます。ユーチューブなどでは、閲覧者が見たいものを自分で検索したり、あらかじめチャンネル登録したりでき、誰もが閲覧数を知ることもできます。これによって起こることは、今どういうものがよく見られているのかということを、世界中の人がリアルタイムで知ることができるのです。紙の新聞では考えられない双方向の情報の流れがデジタルメディアの中で行われています。もちろん、テキストのニュースでこのようなことは、数年前から指摘されてきましたが、それが今、映像の世界にも浸透してきたと言えると思います。
 
 新聞社において動画の撮影をこれまで写真を撮ってきたカメラマンが担うことも多くなってきました。先に記したように新聞社の動画はまだまだこれからですが、大きな可能性も秘めていますのでこれからどうなっていくのか大いに楽しみにしていただきたいと思います。だからと言ってニュース写真の可能性が狭まっているわけでは決してありません。それと同時にこれまで培ってきた写真の技術を生かしてさらに写真の価値を高めていくことも引き続き重要です。報道機関のデジタルメディアは、動画と写真が互いに補完しながらニュースの受け手に対してよりわかりやすく、世の中の問題や人間や自然の素晴らしさを伝えて行けるようになることを目指さなければならないと思います。

 例に漏れず、この4月1日より毎日新聞東京本社写真部は部署名を「写真映像報道センター」と改め動画撮影も行うようになります。この場を借りて東京写真記者協会ホームページ読者の皆様に伝えさせていただくことをお許しください。これまで長く親しんだ「写真部」という名前が変わることに寂しさを感じていますが、新たな組織もよろしくお願い申し上げます。


2015年4月 毎日新聞編成編集局写真映像報道センター 
写真映像報道部長 山下 浩一



3月のコラム


(スポーツニッポン・高橋)





 12球団のプロ野球キャンプも終わり、オープン戦からペナントレースへ。いよいよ我々スポーツ紙にとっても球春到来だ。2月のキャンプは弊社からも12球団に16人のカメラマンが張り付き現地で取材。毎日10`〜20`ほどの機材を担いで、球場とブルペンを行ったり来たり。朝の監督散歩から若手の夜間練習まで15時間密着マーク(たまにはさぼることもあるが…)なんて日もあり、肉体的にはきつい時もある。しかし、夜には地元の泡盛や焼酎が待っていると思うとやる気もパワーも出る。

 キャンプ期間中は、ライバル社と「呉越同舟」になることも。南国の開放的なムードに身を任せ、ついつい時間が過ぎるのを忘れてしまう日も少なくない。ここに載せた一枚は、2月19日付けの紙面を飾った写真。大リーグから8年ぶりに古巣・広島に復帰した黒田博樹投手(40)が沖縄2次キャンプに合流し、ブルペンの投球練習で背番号「15」を披露した時のものだ。200人を超える報道陣が集まり、カメラマンたちも火花を散らしながらファインダーを覗いている(写真@=篠原岳夫記者撮影)。

 我々の場合、出張が長期間の特にキャンプ中は各社ほぼ同じ行動パターンになることが多い。もちろん仕事だから写真の善し悪しや紙面での「勝ち」「負け」はあるのだが、実は自分の会社の先輩や後輩といる時間より長くなるから、他社から教わることも多いのだ。新人は特に監督や選手との接し方や挨拶に始まり、休日ごとに球団に頼んでやらせてもらう企画写真のポーズの作り方、そしていかに撮りこぼしがないように動くかまで、私自身ライバル社から教えてもらったことは多かった。そして何よりも若手カメラマンにとって他社の先輩から学ぶことは、お酒の飲み方。スポーツ紙流に言うと「鬼飲み」とも…。今も徒弟制度が残るこの業界では、カラオケや芸の一つもできなければ昼間の「授業」も受けられない。他社の先輩から技術を得るには、夜の振る舞いが大切なのだ。(写真A=巨人・原監督と記念写真に納まる各社カメラマン)

 今は東京で内勤中心のこちらとしては、電話口の向こうから聞こえる沖縄民謡のBGMがうらやましい限りだ。せめて南国の香り?だけでもと思っていたら、出張している優しい先輩や同僚からみかんやアイスクリームが届いた。そんな人情とパワーあふれるスポーツ新聞を今シーズンもどうぞよろしくお願いします。

2015年3月
スポーツニッポン新聞社東京写真部 
高橋 雄二



2月のコラム


(朝日・樫山)





 社会面や文化面など、新聞にはいろいろな面があるように、新聞社や通信社で働くカメラマンの仕事も様々です。よくイメージされる事件や事故現場の取材はもちろん、国会や経済、スポーツまであらゆる分野の撮影をこなさなければなりません。
 ポートレートなどのフィーチャー写真も大事な仕事の一つです。この写真は時津剛カメラマンが正月の特集用に撮ったAKB48の写真です。朝日新聞社の地下にある写真スタジオを使って撮影されました。風船が空中に浮いているように見えるのは、背景を飛ばすことによってひもの部分が背景に溶け込んでいるからです。ジャンプしているメンバーと風船が真っ白な光の中を飛んでいるような写真になりました。朝日新聞出版の写真部にも在籍したこともある時津カメラマン、さすがです。
 彼のアレンジで先日、写真部員のためにスタジオ撮影の研修が行われました。なかなか触れる機会のないスタジオ機材の説明に始まり、実際にストロボを設置して撮影の実習をしました。
 カメラも日々進歩しており、新しい技術も吸収していかなければなりません。得意な分野についての情報を伝え合ってレベルアップしていけるのが理想だと思っています。

2015年1月

朝日新聞東京本社写真部

樫山晃生




1月のコラム


(写協・池田)






新年が明けました。2015年が皆様にとって実りのある幸せの多い一年であるよう願っています。

 前任の花井尊に代わり1月より事務局長に着任した池田正一です。よろしくお願いします。東京写真記者協会では、年末にその1年を報道写真で振り返る「報道写真展」を開催しています。2014年も12月13日からの12日間、日本橋三越本店の催事場をお借りして開催しました。会期中に5万人を超える入場者がありました。日本橋三越本店での開催は今年で10回目。都心の老舗デパートとはいえ、2005年の「報道写真展」には1万5000人の入場しかなかったことを考えると、報道写真展が広く認知され、1年間の報道写真でその年をふりかえる方が多くなったといえるでしょう。

 会場の感想ノートには「写真展は私の1年の締めくくり」(60歳女性)、「1年間の月日の重みがよみがえる。感動をもらった」(男性)などの書き込みがありました。大正11年生まれの92歳のお年寄りは重い足を引きずりながら今年も来たと書き始め、「激動の瞬間をとらえた写真記者の健闘に敬意を表します」と激励の言葉をいただきました。

 「一瞬を切り取った1枚にそれぞれのドラマがあった。それが写真の魅力。とても素晴らしい」(男性)、「涙なくして見られない写真やアスリートの姿に力をもらった」(73歳女性)など、現場で取材する写真記者の励みになる言葉もいただきました。東日本大震災の大津波被災地や福島第一原発事故の放射能汚染地区を継続して取材している加盟社の作品には、「一瞬の写真も、震災以来撮り続けている写真も伝える力があった」(男性)と評価していただきました。

 東京写真記者協会加盟の新聞、通信、放送(NHK)の記者は、事件事故、災害の時には目の前の現実を冷徹な目で写真に切り取ります。つらい場面では被写体となった人たちへの温かい気持ちを忘れずに取材を続けるはずです。スポーツではベストを尽くすアスリートの姿への感動を1枚1枚の写真に込めて表現するでしょう。2015年はどのような年になるのでしょうか。写真記者はニュースの最前線で真摯に取材を続け、「時代の証言」となる記録を残します。

 報道写真展は1月10日(土)から3月29日(日)までの約2か月半、横浜市中区の日本新聞博物館(みなとみらい線「日本大通り」駅下車)に場所を移して、同じ写真パネルを展示しています=写真。ご来場お待ちしています。

2015年1月

東京写真記者協会

事務局長 池田 正一




12月のコラム


(共同・藤田)



【写真】2014年秋の都心上空。かなりアンダー目に手を加えたテスト写真。12年ぶりの空撮は、いきなりのナイトフライトで大慌ての連続だった。

《久しぶりの現場は…》

 11月16日付で小原前常任幹事の後任となりました。よろしくお願い致します。その2日後の18日、東京写真記者協会事務局長の花井尊さん(満66歳)が急逝されました。その翌週には、次期事務局長の池田さんとの業務引き継ぎが予定されており、私もいろいろ教えていただこうと考えていた矢先の出来事で、目の前が真っ暗になり呆然とするばかりでした。在りし日のお姿を偲び、心からご冥福をお祈りいたします。

 さて、前任の小原からの引き継ぎで最初に言われたのは「写協HPに『コラム』欄があって、毎年12月は共同の番だから、まずはそこから…」。とんでもない時期に交代したものです。「もう、締め切りが過ぎておりまして…」と申し訳なさそうな畑中事務局員をこれ以上困らせる訳にもいかず、とにかくチャレンジさせていただきます。

 この秋、ちょっとした事情があって、ヘリコプターで空撮する機会があった。最後に乗ったのがデスクになる直前の2002年ごろだから、実に12年ぶりだ。しかも夜間フライトときた。当然、通常の機材では太刀打ちできないので、部員から最新鋭機材を拝借して撮影に臨んだ。普段使用しない機材を自在に扱うのがそう簡単でないことは分かっていたが、ほとんど訓練する間もなく本番を迎えてしまった。

 悪い予感はすぐに的中した。日没後の薄暮のなか機体に乗り込んだが、少し旧型の機体だったので、私が座る後部座席には照明がなかった。外はまだうっすらと明るいが、機内はすでに真っ暗でカメラの裏蓋にあるボタン、スイッチ類の位置が分からない。確か、暗所用にファインダー内を照らすライトがあったはずだが、そのスイッチの位置が思い出せない。現役時にはカメラバッグに必ずペンライトを常備していたが、バッグまで借り物ではそれもない。テスト撮影のため、東京タワーを遠巻きに1周した後に現地へ向かうことにしていたが、ドタバタしているうちにとっくに都心上空に着いており、すぐにパイロットさんの「窓開けていいですよ」という声が聞こえた。「そうだ!」とスマホの電源を入れカメラにかざすと、これが結構明るくて、何とかボタン類の位置は分かるようになった。あれこれ悩んでいる暇はない。「エイッ!」とばかりにシャッター優先のオート撮影モードにしてシャッターを切り都心上空を後にした。ところがテスト撮影のモニターを見ると何だか明る過ぎる。完全にオーバー露出のコマも散在するではないか。よくよく調べると、露出補正が「+1」になっている。オート撮影はこれがあるから恐ろしい。現場までさらに30分、真っ暗な中、悪戦苦闘して調整を終え、なんとか本番には間に合い無事に撮影を終えた。今度はきちんと写っている。

 しかし苦難の道はまだまだ続く。パソコン本体のスロットで読み込めばいいやと思っていて、高速で読み込むカードリーダーを持参して来なかったのだ。いきなり「(読み込み終了まで)残り時間27分」の表示。これではヘリポートに戻るまでの間、何もできない。普段から「早く、早く! 急げ、急げ!」と号令を出す自分が気恥ずかしくてたまらない。現場の苦労が改めて身に染みる。ああ、万事休す。

 パイロットさんによると、この季節にしては、かなり視程は良いらしい。確かに関東平野の半分は見渡せるのではないか。足元から千葉、神奈川方面まで、びっしりと電球の絨毯を敷き詰めたようだ。着陸までやることが無くなってしまったからしょうがない、ここは滅多に見ることができない絶景を楽しむことにした。往きは余裕がなかったが、都心まで戻って気が付いた。「そうだ、国立競技場はどこだ」。新宿御苑から赤坂の東宮御所に続く細長い暗闇の中央部にうっすらと国立競技場が確認できた。新しく生まれ変わり、5年半後、ここで開催される五輪の開閉会式では当然花火も上がるだろう。無理は承知で、是非、この位置から見てみたいなと思った。


共同通信社ビジュアル報道局 写真部長
藤田尚人



11月のコラム


(報知・本戸)



【写真】スノーボード男子スロープスタイル予選前練習で、ソチの大空を飛ぶ角野=2014年2月6日


【写真】右足のボレーシュートでゴールを決めた柴崎=2014年9月9日

《機材の進歩》

 自分が現場で取材していたころは、フィルムカメラだった。1本のフィルムは36コマしか撮れない。残りの枚数を頭の中で数えながら撮影したものだ。
 今のデジタルカメラは記録メディアがあれば何コマでも写真が撮れ、画像をその場で確認、消去もできる。便利な時代になったものだと思っていたが、最近デスクが部員に「写真撮り過ぎ」、「写真送り過ぎ」と指導しているのをよく耳にする。何故かと考えると、フィルム時代からデジタル時代になり、取材現場でカメラマンが使用する機材(カメラ、画像送信機)の性能が、驚くほどの進歩を遂げているからではと思う。今はピント合わせはAF、連写もでき、フィルム時代の職人技術が無くても良い写真が撮れ、瞬時に画像を本社に送れる時代なのだ。

 2月に開催されたソチ冬季五輪で本紙記者が撮影したスノーボードの連続写真は、ジャンプ台を回転しながら飛んでいく選手の連続20コマ写真だ。撮影前に連続写真を並べるフレームを決め、ジャンプ台を飛び出した選手をシャッター押しっぱなしで撮影。パソコンで画像を処理し、約1時間で本社に送信したそうだ。この写真は撮影機材の能力を最大限に生かした良い写真だった。フィルム時代のカメラの秒間シャッター回数は5コマが限界。このような連続写真を作るのは、ムービーカメラの様な特殊カメラ(アイモ改造機)で撮影し、長巻フイルムからプリントした画像を1枚ずつ切り貼りし、それこそ1日がかりでの制作だった。

 スポーツ紙のカメラマンが1年で一番多く取材するスポーツの現場は、プロ野球だ。プロ野球の撮影では、瞬時にレンズを向ける方向を決めなければならない。投手が投げたボール、打者が打ったボール以外の場所に、カメラを向けなければならないケースが多々ある。走者が進塁、打者が打撃の後にガッツポーズなど、状況において瞬時の判断が要求される現場なのだ。自分が取材していたフィルムカメラ時代は、ピント合わせが優先、タイミングは二の次。息を止め、必死にピントを合わせたものだ。現在はカメラのAF機能が格段に向上し、目標を確実に捕捉できればピントを気にせずシャッターを切ることができ、連写も可能となった。

 「写真撮り過ぎ」と部員を指導したデスクに理由を聞くと、プロ野球を取材した部員の撮影方法を指導したそうだ。一般的にプロ野球取材者が1試合で切るシャッター回数は、約1000ショット以上だ。その部員は日頃からシャッターを切る回数が多く、打者が打った瞬間から走りだして塁に到達するまでシャッターを押しっぱなしで撮影したり、投手が投球動作に入った瞬間から撮り続けたり、という撮影をしていたようだ。ベストのタイミングはなく、ただシャッターを押しっぱなし。その結果として自分で狙ったタイミングがなく、同じような写真ばかり撮ってしまい、本社に送る写真の選択に時間がかかったというわけだ。

 カメラのシャッターユニットはシャッターが切れる限界回数が決まっている。本紙カメラマンが使用しているキヤノンEOS Mark X で40万回。ユニット交換が約5万円かかる。野球担当者のカメラはシャッターユニットがわずか1年で交換になる。今年に入ってシャッターユニットの交換が多発し、さすがに私も若い部員達にシャッターの使い方を指導した。

 フイルム時代の写真送信は、写真送信専用機で電話回線を使い、カラー写真1枚を本社に送るのに20分かかった。現在はパソコンに画像を取り込み画像ソフトで処理、送信ソフトを使ってネット回線で送信、1枚の写真を送信するのに10秒とかからない。「写真送りすぎ」とデスクの指導を受ける部員の特徴は、撮りすぎで書いたように同じ様なコマを撮りすぎ、選択に迷い、多くのコマを送信してしまう。瞬時に送信出来るので、肝心の写真が撮れていない時に、それをごまかすために多くのコマを送るなどだ。

 最後に、本紙カメラマンのこれぞ決定的瞬間写真をお見せしたい。9月9日、サッカー日本代表対ベネズエラ代表の試合で、柴崎選手がボレーシュートを放つ瞬間を見事に捕らえた写真だ。サッカーの撮影ではピントを合わせる対象の前に障害になる物が多く、ピントボタンを押しっぱなしでは撮影できない。選手の配置やボールの上がる方向などからシュートを放つ選手を瞬時に判断し、対象選手を把握してピント合わせを開始しシャッターを切る。この写真はカメラの機能を見事に使い切った写真だと思う。このタイミングの写真が翌日の紙面に掲載されたのは、本紙だけだった。

 取材で使う機材の性能は飛躍的に高性能化してきたが、その機能を完全に使いこなすところまで到達していない部員もまだまだいる。いろんな現場を経験し、取材機材を有効的に使いこなしてもらいたいと思う。

 とは言うものの、現場を離れてかなりの年数がたつ私も、高性能を使いこなす自信はない。


報知新聞社 写真部長
本戸 辰男



10月のコラム


(サンスポ・佐藤)



【写真】川崎球場でのプロ野球最後の試合は2000年3月26日、横浜‐ロッテのオープン戦。試合後に地元の小学生らが「ありがとう」の人文字を作った=本社ヘリから撮影


【写真】2014年4月に「川崎富士見球技場」に名称を変更。アメリカンフットボールの関東の聖地に生まれ変わり、社会人・Xリーグや関東学生リーグの熱戦が繰り広げられている=2013年11月撮影  

《追憶の川崎球場》

 昨年の秋、アメリカンフットボールの観戦で川崎球場(神奈川・川崎市)へ足を運んだ。息子が所属するチームの大学リーグ戦だったが、球場がアメフトの試合会場に使用されているのを長い間知らずにいて、偶然の「再訪」となった。フィールドの外は観客スタンドの改修工事が行われていた。「いつ以来だろう、ここへ来るのは」―。記憶の中の風景とはだいぶ違って見えたが、懐かしい気持ちがこみ上げてきた。

 昭和の時代、プロ野球観戦は何ものにも勝るエンターテイメントだったと思う。小学生の頃、町内会のソフトボールチーム(子ども会)で行く川崎球場のナイター観戦は夏休みの恒例行事で、家族旅行に次ぐ楽しかった思い出として心の奥底に焼きついている。対戦カードは巨人対大洋ホエールズ(現:横浜DeNAベイスターズ)と決まっていた。座席も毎回レフト上段の外野席で、スター選手が打席に立つ姿がいつも遠くてがっかりしたが、満員のスタンドに鳴り響くファンの大歓声に胸を躍らせたものだ。眩しいほどに輝く照明灯が照らし出すグラウンドの土や芝の色、スタンドから眺めた薄暮の夕景を、今でもはっきりと覚えている。あの頃の野球選手はヒーローで、男の子ならば将来なりたいもののトップだった。スーパースターの王・長嶋の活躍、漫画「巨人の星」の影響で、圧倒的に巨人が人気球団だったが、私が生まれ育った街は当時、大洋漁業(現:マルハニチロ)の工場群があった土地柄か、ホエールズファンも多かったと記憶する。大洋球団が川崎球場を本拠地にしていた頃(55−77年)は、日本に勢いがある時代だった。61年生まれの私にとって、幼少期から思春期にさしかかる時期と重なる。無邪気で、夢にあふれる日々だった。

 サンケイスポーツでは日本プロ野球80周年を記念し、今年4月から「追憶のスタジアム」という大型企画を連載している。プロ野球や球団の歴史に欠かせないのが、その舞台となる球場だ。昭和のプロ野球史を彩り、今では姿を消した名球場を月1回、資料写真をふんだんに使い、そこで繰り広げられた名勝負や秘話を関係者の証言をもとに、ノスタルジーたっぷりに紙面で紹介している。川崎球場も連載の第3回(6月24日付)に登場するが、その中で、「王貞治(巨人)が初の一本足打法を披露して初本塁打と通算700号をマーク」、「張本勲(ロッテ)のプロ野球史上初の通算3000本安打」、「落合博満(ロッテ)が3度の三冠王達成」、「大洋、三原魔術で奇跡の日本一(60年)の舞台に」等々のドラマティックな出来事を満載している。一方で、晩年は衛生面の問題や観客の少なさを揶揄され、選手やファンの評判が徐々に芳しくなくなる。ガラガラの外野スタンドでのキャッチボールや傾斜を利用した「そうめん流し」が話題になるなど、今風に言えば「痛い」イメージもついた。面白くも哀しいエピソードにも事欠かない名物球場だった。

 90年代に入ってからは社会人や学生アメフトが盛んに行われるようになるが、老朽化した内外野スタンドの解体、撤去(2000年)を経て、野球場跡地を長方形の競技場に整備した。2014年4月には、「川崎富士見球技場」に改称し、「アメリカンフットボールの関東の聖地」をスローガンに掲げ、多目的のスポーツ球技場として生まれ変わった。旧一塁側には2000人収容のメインスタンドが完成、バックスタンドも現在建設中で、周辺一帯は市の緑地公園として開発計画が進んでいる。

 プロ野球史に燦然と輝く川崎球場は追憶とともに消え、その姿を変えた。ナイター観戦に胸をときめかせた日から四十数年の歳月が流れた。人生を振り返るにはまだ早いが、五十路を過ぎて、折に触れて楽しかった少年の頃に思いを馳せることがある。今年の秋も、息子のアメフトチームを応援しに行こうと思う。新設のスタンドに座り、少しの間、昔の思い出に浸りたい。


産経新聞社写真報道局
サンケイスポーツ写真部長 佐藤 一典



9月のコラム


(東京・吉原)


《靖国神社に想うこと》

 昨年12月26日午前11時30分。東京・九段北の靖国神社の上空は報道機関のヘリコプターが飛び交い、ふだんは静かな年の瀬の神社周辺は喧騒に包まれた。モーニング姿の安倍首相が拝殿から本殿に向かう途中の姿を上空からとらえたテレビの中継映像に思わずくぎ付けとなった。わずか20分ほどの電撃参拝。中国や韓国の反発に加え、同盟国の米国が異例の失望感を表明したのはちょっと予想外だったが、首相の靖国参拝に対する中韓の反発は1985年の中曽根康弘元首相の公式参拝以来、幾度となく繰り返される光景だ。そんなこともあって、今年の終戦記念日も内外から注目を集めた同神社だが、表面的な静かさとは裏腹に周囲の環境は大きく様変わりしたようにも思える。

 政府与党は7月1日、これまでの憲法解釈を変更し、歴代内閣が行使できないとしてきた集団的自衛権の行使を容認する閣議決定に踏み切ったからだ。将来、戦闘地域に派遣された自衛隊員の中に「戦死者」が出ることも予想される。そうなれば、靖国神社へ戦死自衛官の合祀も論議されるであろう。第一次世界大戦中、同盟関係にあった英国などからの要請を受けて海外に派兵した陸・海軍の戦死者を合祀した前例もある。この時、地中海に派遣された日本海軍の第二特務隊は、ドイツの潜水艦からの無差別攻撃にさらされた同盟国の英仏の輸送船などの護衛という「限定」目的だった。

 戦後、陸・海軍省が解体され、国家の管理から離れた靖国神社は一宗教法人となったが、終戦時点で未合祀のままとなっていた200万人超の太平洋戦争や日中戦争などの戦死者の合祀を旧厚生労働省などの協力を得て進めてきた。

 また、1968年、公務中の交通事故で殉職した自衛官が山口県護国神社に合祀されたというケースもあった。このケースでは自衛官の遺族が合祀の取り消しを求めて訴訟となったが、最高裁は遺族の訴えを認めた控訴審判決を破棄し、同護国神社への合祀を認めた。その他にも、護国神社への殉職自衛官の合祀はあるという。

 しかし、戦争放棄をうたった日本国憲法下で戦後初の「戦死者」が生まれ、靖国神社に合祀されるという事態ともなれば、その意味合いは決定的に違ってくるだろう。日本が戦後、二度としないと誓った戦争に突入し、長かった「戦後」の終わりを意味するからだ。国家間の戦争状態での戦死者であり、平時における殉職自衛官の護国神社への合祀とはわけが違う。靖国神社への合祀となれば、首相が戦死自衛官を合祀する儀式に参列することも検討されるだろう。これまで自衛隊が戦闘地域に派遣されていないため、戦死者を出さなかっただけにすぎないが、これからは政府の方針で戦地に赴く以上、戦死者は国家の殉職者となるからだ。

 もちろん、戦死自衛官を合祀するか否かの決定権は靖国神社側にある。事はそれほど簡単ではないようにも思えるが、同神社のこれまでの在りようからすれば、意外とすんなりと合祀されるかもしれない。しかし、凡人には未来のことは全く予想できない。

 小泉純一郎元首相が公約通り、靖国神社を参拝した2006年8月15日の終戦記念日、私は同神社の境内にいた。当時担当していた「こちら特報部」の終戦記念日恒例の「靖国ルポ」の取材だった。一日で外国人を含め老若男女約25万人が参拝に訪れ、境内は異様な熱気と興奮に包まれた。元首相の予告参拝があったとはいえ、この熱気の正体は一体、何だったのか。その答えがナショナリズムであるならば、一触即発も伝えられる尖閣諸島の問題を含め冷静に報道していかなければならないと思う。

 今年は第一次世界大戦から100年。そして、来年は戦後70年目となる。戦争の世紀であった20世紀とどう向き合い、写真で何をどう伝えていけばいいのか。自問自答はしばらく続きそうだ。


東京新聞写真部長
吉原 康和



8月のコラム


(デイリー・佐藤)




《ゴッド・ハンド》

 国立競技場、正式名称「国立霞ヶ丘陸上競技場」が2014年7月から2015年10月にかけて解体され、2019年3月には現在の約5万4000人収容から8万人収容の全天候型ドームスタジアムに生まれ変わる。

 現在の競技場は1958年3月に竣工し、1964年に開催された東京オリンピックのメインスタジアムとして使用された。以後、陸上、サッカー、ラグビーなどで幾多の名勝負がこの場所で繰り広げられてきた。

 その中で、カメラマンとして忘れることができないのが1991年に開催された東京世界陸上だ。当時私は30歳で、先輩のベテランカメラマンと後輩の3人で大会を取材することになった。陸上競技を撮影するのは初めてといってよいほど。期待と緊張で胸が高鳴ったのを覚えている。

 大会は8月23日に開幕し9月1日に閉幕するまでの10日間。競技は朝から晩まで行われ、交代で取材に当たった。近接する東京都体育館に報道陣の控室があり、休憩時には皆そこで雑魚寝した。その風景を「マグロの打ち上げみないだな」と表現した人がいて、うまいことを言うなと感心した。

 この大会では男子100b、400bリレー、男子走り幅跳びの3種目で世界新記録が誕生したが、私はそのうち2つの現場に立ち会うという幸運に恵まれた。物語はそのうちの一つ、8月25日の日曜日、男子100b決勝だ。
この年の全米陸上で9秒90の世界新を樹立したリロイ・バレルと、ロス五輪、ソウル五輪の金メダリスト・カール・ルイスの世紀の対決だ。バレルは24歳、ルイスは私と同じ30歳だった。

 ゴール延長線上にあるスタンドで400mm/F3.5(だったと思う)を構えた。ニコンF3だったかF4だったかは失念したが、カメラボディーを握る手が震えていた。各ランナーたちと同様に大きく深呼吸した。
 19時5分、ピストルが鳴った。5コースのルイスが出遅れた。スタートは悪かった印象があるが、このレースもそうだった。3コースのバレルは下馬評通り飛び出した。ぐんぐんと加速し、30bでトップに立った。50b、ルイスはまだ6、7番手だ。このままバレルが世界新記録でゴールするはずだった。しかしルイスはここから風になった。残り5bで一気にバレルを抜き去った。
「9秒86」 
世界が揺れた!奇跡の世界新記録だった。そして2位のバレルから6位のスチュワートまでもが9秒台をマークした。私には9秒86が1秒間か2秒間の出来事に思えた。

 ある会社に伝説のカメラマンがいて“ゴッド・ハンド”と崇められていた。「ピントは眼で合わすんじゃない。手で合わすんだ」というのが口癖だった。異名はそこからきている。ゴッド・ハンド氏は陸上100bで撮影した36コマすべてにピントがきていたそうだ。氏の社の後輩カメラマンが教えてくれた。このレースが終わった時、それがいかに神業に近いかがよく理解できた。
36コマも押せないのだ。ピントを戻している(ニコン製レンズ)うちにレースは終わってしまった。

 私がかろうじてシャッターを切ったのが18コマ。そのうちピントが合っているのがわずか4、5コマだった。デスクも困った表情をしていたが、怒りはしなかった。申し訳ないとは思ったが、これが実力だった。ゴール直後のルイスがメーン写真となり、1面を飾った。(=写真)ピントがきている4コマを2面でレース展開用に並べた。

 この翌年にバルセロナ五輪が行われ、その大舞台で雪辱を果たそうと思ったが、“出場”はかなわなかった。あの日を最後に100bを撮影することはなかった。私が“ゴッド・ハンド2世”と呼ばれることもなかった。


デイリースポーツ写真部長
佐藤 厚



7月のコラム


(日本農業・福本)




《思い出のドーム米》

 農業に関わるニュースや話題を写真で追い続けて25年。このたび異動を命ぜられ、写真の仕事から離れることになった。ちょっぴり寂しく、これまで撮影してきた被写体を振りかえった。今でも印象に残るワンショットがある。1996年2月、三重県四日市市の農家を取材した時、撮影したものだ。

 これまで見たことがない大きなドームがライトアップされていた。まるで、満月のうさぎの餅つきのように見えた。中は暑く、まさに夏。ドームの中で、農家が稲の補植作業に追われていた光景をパチリ、パチリと連写していった。日本一季節外れという付加価値を高めようとした米づくりの不思議な光景だった。採算が取れないのは、素人目でも分かった。1993年の冷夏で、各地で米不足になったことを受けて、あるメーカーが農家に委託して試験的に栽培した。

 温度管理もばっちり、天候の影響が少ない。真冬でも栽培できる。当時、私は取材するものすべてが新鮮に感じた。まさに夢の栽培方法だと幻想≠抱きながら、幻想的な光景に思わず興奮。今もその時の刺激を覚えている。気が付けば、同じようなカットを、フィルム10本分ほど使い、上司から「同じアングルを何枚撮ったら気が済むのか」と無駄遣い的撮影方法≠叱られたのを思い出す。

 しかし私にとっては今でもお気に入り≠フ1枚だ。ライトアップした「ライスドーム」に農家のシルエットが映し出され、文字通り幻想的な写真原稿に仕上がった。    
このコラムが掲載される頃は、たぶん仙台に向かっている。新たなスタート、東北の地を楽しみたい。
 東京写協の皆さん、お世話になりました。

日本農業新聞社編集局写真部長
福本卓郎



6月のコラム


(東京中日・星野)



【写真】大阪球場:南海の本拠地・大阪球場。正式名称は「大阪スタヂアム」


【写真】西宮球場:阪急の本拠地・西宮球場。1987年には首位争いで満員

《球団数の拡大−現実は厳しい》

 間もなくサッカーW杯ブラジル大会が開幕する。日本が予選リーグを突破し、決勝トーナメントで強豪国を打ち破って勝ち進む…。眠い目をこすりながらも楽しくて幸せな時間。根っからのサッカー好きとして今からわくわくしている。

 列島がW杯に夢中になっている間、話題の横に置かれそうなのがプロ野球だ。そのプロ野球に球団数の拡大構想が浮上した。政府の成長戦略に対する自民党の日本経済再生本部がまとめた提言で地域活性化策の一環だという。プロ野球全体の有り様については、大いに議論すべきだが現実は厳しい。

 今回の構想は本拠地がない北信越や静岡、四国、沖縄に球団を設けて、球団数を12から16に増やすというものだ。しかし、球団の運営には多額の費用が必要で、現在の全球団が厳しい経営に直面している。1試合あたりの入場者数はセ・パの平均で約25000人だが、今回あげられた都市や地域にそれだけの市場があるとは思えず、ことは簡単でない。球団数の増減、いわゆる球界再編につながりそうな動きは過去に何度かあった。近鉄がオリックスとの合併を発表し、チーム数を減らして1リーグ制移行の動きに発展。選手会のストライキを経て、ようやく新球団楽天が誕生した騒動≠ヘ記憶に新しい。

 今回の構想が進んだ場合、再編に乗じた球団の身売りなどが起きる可能性は十分にある。オリックスの前身「阪急ブレーブス」がオリエント・リースに身売りされた1980年代の後半、筆者は大阪支社に勤務していた。世はバブルで、社屋の真ん前にある北新地やミナミの華やぎは絶好調だった。大阪に本社を置く大企業が関東の球団を買収するといったうわさ話も多々あった。しかし、球団の親会社も余裕のある時代で、身売りなどは非現実的な話だと思っていた。

 しかし、1988年、球団創立50周年を迎えた「南海ホークス」が、水面下で進めていた身売りの動きが表沙汰になると、いよいよ現実として受け止められた。シーズン途中の9月には親会社が正式に発表したが、身売り先がスーパーマーケットのダイエーで、本拠地を福岡に移すと聞いて仰天した。南海は難波の大阪球場を本拠だったが毎試合閑古鳥が鳴いていた。球団が発表する観客数は、毎試合決まって1500人。販売済みの年間シート数をカウントしたとしても実体と離れすぎていた。ある日、取材の合間に実数を調べたことがあるが、どう数えても500人以下だった。門田博光やドカベン香川伸之など名選手や甲子園をわかしたアイドルを擁しながら厳しい現実だったのだ。

 一方、阪急の身売りは寝耳に水だった。移転反対運動など球団の内外に混乱が生じていた南海を、阪急は反面教師にしてその動きを漏らさず、一気に正式発表にこぎ着けたのだ。阪急も観客席の光景は南海を笑える立場ではなかった。

 「広大な北海道にはもう1球団」「北陸新幹線開通で便利になる金沢にもあっていい」「野球が盛んな四国は外せない」。居酒屋でのんきに話すだけなら簡単だ。しかし、預かり保証金やスポンサーなど資金面、球場建設やアクセスなど新球団設立のハードルは実に高い。プロ野球がない都市や地域にとっては歓迎ムードもあるようだ。球団誘致構想を公約にして当選した東海地方のある市長周辺では追い風と期待する。しかし、市議会では慎重論があり、成長戦略となるか懐疑的な議員も多いと聞く。現実を見れば真っ当な反応だろう。様々な問題をクリアして球団数が増えるとチーム間の戦力均等化を図るためにトレードが盛んに行われるだろう。ベンチウォーマーだった選手の出場機会が増え、2軍でくすぶっていた逸材に光が当たるチャンスになるかもしれない。

 しかし、不本意なトレードに涙する選手も出るだろうし、BCリーグなど独立リーグへ余波が及ぶことは避けられない。南海を買収したダイエーは本拠地を移したが、福岡行きを拒んだ門田は阪急にトレードされた。阪急を買収した会社は社名を変更して球団名も同じオリックスに。チームの顔だった山田久志と福本豊は、そのまま現役引退を決断した。球団の都合が選手の人生に影響を与えた事例だが、楽天の誕生時にも同様の事態があった。

 1958年(昭33)から半世紀以上続く、現行の2リーグ、12球団制。日本国民に大きな夢と影響を与えるプロ野球だからこそ、再編や構想などは、プロ野球に身を置く経営者と選手、そしてファンが考えるものではないか。庶民の娯楽であるプロ野球の新球団設立を政府や行政が主導することには違和感を覚える。プロスポーツの世界にはトレードはつきものだが、そこに政治家の思惑がからんだとなれば選手やファンの心情はいくばかりか。政治と行政は後方支援に徹してほしい。

東京中日スポーツ写真課長
星野浅和



5月のコラム


(夕刊フジ・齋藤)



【写真】Jリーグ開幕″送ァ競技場で盛大に行われたJリーグの開幕セレモニー


【写真】ドーハの悲劇<鴻Xタイムで同点にされ、W杯初出場を逃した日本選手ら=齋藤撮影

《歴史を変える瞬間を》

 4年に一度の祭典、サッカーワールドカップ(W杯)ブラジル大会が来月12日、開幕する。現在は本田や香川、長友や岡崎など、多数の日本代表選手が海外のクラブで活躍。W杯出場が当たり前になり、むしろ本大会でどのような成績が残せるか、に注目が集まっている。今から21年前の1993年5月15日、地域密着の理念を掲げ日本のプロサッカー「Jリーグ」が始まった。開幕カードは国立競技場で行われたヴェルディ川崎対横浜マリノス戦。サッカーの取材経験がほとんどなかった私は、新鮮な気持ちで現場に立ったことを記憶している。独特な緊張感の中、ゴール前は特に集中しながら選手にレンズを向けた。

 同じ年の10月、サッカー日本代表が今一歩のところでワールドカップ初出場を逃す「ドーハの悲劇」が起きた。この歴史的な瞬間にも「取材」という形で立ち会った。中東のカタールで行われたW杯最終予選。日本以外の出場国はサウジアラビア、イラン、北朝鮮、韓国、イラク。日本の指揮官はハンス・オフト監督だった。

 初戦のサウジ戦は0−0で引き分け。第2戦のイランには1−2で敗れた。この時点で日本は最下位に転落し、絶体絶命のピンチに陥った。しかし、第3戦は北朝鮮に3−0の勝利。第4戦で韓国を1−0で下す快進撃で首位に立ちW杯出場に王手をかけたが、残り1試合で北朝鮮以外の5カ国が勝点1差にひしめく大混戦。どの国にも出場のチャンスが残されていた。日本はイラクに勝利すればW杯初出場。引き分けの場合は得失点差で微妙、という状況にあった。

 イラクとの最終戦、前半5分にカズのヘディングで先制し、試合を有利に進めた。しかし後半はイラクのペースで、10分に同点ゴールを決められる。しかし、24分にゴンこと中山雅史選手が勝ち越しゴール。この瞬間、「勝てるかもしれない! W杯に行ける」と誰もが思った。私も信じていた。しかし、今に思えばこの1点で浮足立ったような気がする。選手は地に足がついていなかった。「W杯初出場」が頭をよぎり、私自身も試合を追えなくなっていた。ただただ、幕切れを待ち焦がれ、勝利の瞬間、喜びにわく日本代表の姿を狙ってカメラを構えていた。

 しかし、ロスタイムにショートコーナーからまさかの失点。2−2の引き分けで試合は終わり、最後の最後でW杯はするりと日本代表の元から去っていった。ホイッスルが鳴った時、グラウンド上には顔を覆い、横たわって動けないカズの姿があった。あっけなかった。今、自分の脳裏に残る記憶はネガに残された瞬間だけ。頭の中が選手同様、真っ白になっていたことは想像に難くない。

 あれから21年。あの日の屈辱から這い上がった日本サッカーは、プロ化されて20年の成人式≠ェ過ぎ、「大人の仲間入り」も果たした。代表チームはブラジルでどんなパフォーマンスを披露するのだろうか。できれば「歴史を変える瞬間」を見せて欲しい。

産経新聞写真報道局
夕刊フジ写真部長代理 齋藤良雄


4月のコラム


(NHK・村越)


《生放送の力》

 年明け早々の1月7日、横浜地検川崎支部から集団強姦や強盗などの疑いで逮捕勾留されていた容疑者の男が逃走する事件が発生しました。凶悪犯が逃げたことで、地域住民の不安も一気に高まりました。各社は、身柄確保に向けて逃走した横浜地検川崎支部での24時間態勢の張り込み取材を始めます。

 カメラマンにとって、この季節の張り番はとても辛いものです。寒さに震えながら、不意の出頭にも備えるローテーションを切れ目なく続けることになりました。

 事態が大きく動きはじめたのは、1月9日の昼前のことです。NHK横浜放送局から、「横浜市郊外の団地で警察が集結している」との情報が入りました。
 この一報を受け、ニュースセンターの映像取材デスクは、地検周辺の取材クルーを各社に気づかれないように少しずつ動かします。また、東京ヘリポートからは取材ヘリコプターも離陸し、現場から距離を置いたみなと未来地区で前進待機します。

 午後1時前、現場周辺のカメラマンから「動きがある!」との情報が映像取材デスク席に入りすぐさま、待機していたヘリを向かわせました。およそ5分後、ヘリの搭載カメラは、大勢の捜査員に囲まれた容疑者の姿を捉えます。

 この瞬間から、逃走犯の身柄確保を生中継で伝える前代未聞の特設ニュースがはじまりました。ヘリ搭乗のカメラマンは、手錠や腰縄などが映らないように、サイズに気を配りながら撮影に当たります。身柄の確保から、パトカーへの乗り込み、白バイの先導による横浜地検川崎支部への護送まで、ヘリはリアルタイムで、伝え続けました。

 そして、地検では、長い張り番を務めてきたカメラマンがパトカーから降ろされる容疑者を狙います。容疑者の顔をアップで捉えた映像も臨場感いっぱいの生中継映像で、茶の間に届けられました。
テレビの強みは、同時性や速報性とよく言われます。一昔前まで原稿が無ければ、映像が出ないことさえありました。それが今では、生の現場映像が入った瞬間に特設ニュースがはじまるケースも多いのです。最近の災害報道などでは、取材ヘリコプターが被害の実態を次々と明らかにしています。

 映像取材から伝送・編集・放送という流れが大きく変わっています。現場カメラマンは、初めて目にした現場でも短時間に状況を把握して撮影に臨み、時には生中継でリポートする能力が求められています。そして、取材指揮に当たる映像取材デスクには、より先を読んだ采配や高度な判断力が必要とされ、現場の緊張感は高まるばかりです。

 その一方で、カメラマンが現場到着の一番手とは限りません。スマートフォンなどの普及により、緊急報道では視聴者からの映像投稿が急増しています。ユーチューブやツイッターにアップされた視聴者映像を一報として、カメラマンが接写する機会も増えています。

 昨年、私にも業務用のスマートフォンが貸与されました。先日、自宅近くで濃い霧が発生したため、スマートフォンの動画機能を使って撮影し、弊社へ投稿しました。影響が少なかったため採用には至りませんでしたが、カメラマンを指揮する責任者として少しは“自らの撮影”で貢献したいという思いはあります。

 入社の季節、挨拶ばかりが多くなるこの頃ですが、報道カメラマンとしてのセンスが錆びつかないよう自らチャンスを狙うとともに、撮影にチャレンジする醍醐味をこの世界に入ってくる若手にしっかりと伝えていきたいと思っています。

NHK
報道局 映像取材部長
村越 聡


3月のコラム


(産経・芹沢)


【写真】震災から丸1日経った3年前の3月12日、南極海のしらせ船内で新聞を食い入るように見る観測隊員ら


《震災3年で思うこと》

 東日本大震災から3年。その瞬間、私は南緯61度、東経149度の南極海にいた。第52次南極観測隊の同行取材。観測船「しらせ」は、昭和基地を離れ海洋観測を行いながら、オーストラリアのシドニーに向かっていた。

 金曜日だった。自衛艦の「しらせ」では毎週金曜の昼食はカレーと決まっている。長引く船内生活で鈍った曜日間隔を呼び起こすのが狙いだ。3月20日に下船する観測隊員にとって、11日のカレーは航海中に食べる最後のカレーだった。

 昼食後、しばらくして私の部屋に「しらせ」の副長がやってきた。
 「日本で大きな地震があったようです。何か聞いてます?」。唐突な言葉だった。今、昭和基地と日本国内は、衛星回線で結ばれインターネットが利用可能。情報はリアルタイムで入ってくる。しかし、しらせ船内にネット環境はなかった。

 衛星電話に飛びつく。意外と早く東京の本社につながった。「結構、揺れました。でも、細かいことが分からない。東北がひどいようで津波の情報も入っています」と当番デスク。「本当だったんだ…」。仕事の邪魔にならないよう早々に電話を切り、とりあえず観測隊やしらせ乗員などに日本の状況を知らせた。さらに詳しく聞こうと、しばらくしてかけ直したが、東京への通話は全くつながらなくなっていた。

 何とかつながったのは群馬の実家。年老いた一人暮らしの母の言葉に絶句した。「群馬もかなり揺れた。津波の中継をテレビでやっていて、車や家が飲み込まれている。気分が悪くなって見るのをやめた。怖い」。東京と群馬が同時に大きく揺れて、東北沿岸に大津波…。そんな広範囲で地震が起こるものなのか?
この時ほど、情報に飢えたことはなかった。

 それでも、地震発生から丸1日が過ぎると、未曽有の災害の全貌が船内でも明らかになってきた。社から新聞各紙を写真に撮ってメール添付してもらった。衝撃的な写真が大きく掲載された紙面の数々。街全体が炎上するカット、津波で消滅した市街地…。初めて見る現場に息をのんだ。すぐに、プリントアウトして船内で回し読みしたが、観測隊員もしらせ乗員も言葉を失っていた。

 このとき、「写真の情報伝達力」を実感すると同時に、自分の想像を超えた「現実」は、写真で見せられても簡単に受け入れられないことも知った。もちろん、この時の写真が「真実を写していた」のは疑う余地がない。大ニュース発生時に地球上でもほとんどない「情報過疎地」にいて、こんな形で「写真の威力」を実感したのは寂しい限りだった。

 死者・行方不明者18000人超、関連死約3000人。改めて犠牲になった方々の冥福をお祈りいたします。

産経新聞東京本社写真部長
芹沢 伸生


2月のコラム


(毎日・山下)


@ 写真=ヤンゴンの自宅で笑顔のアウンサンスーチーさん。民主化運動のシンボル「闘う孔雀」の旗が掲げられている
=1995年11月1日



A 写真=登山客が雪崩により遭難した現場で、遺体収容にあたる捜索隊員ら
=1995年11月13日


《ミャンマーからヒマラヤへ1995年》

 昨年4月、ノーベル平和賞受賞者のアウンサンスーチーさんが毎日新聞東京本社を訪れた。毎日新聞が長く連載している「ビルマからの手紙」に対する感謝も兼ねて、日本を訪問した際に是非毎日新聞社を見学したいと言っていただいたのだった。この連載の筆者はスーチーさん本人で、自宅軟禁されていた期間の中断を挟んで1995年から現在に至るまで続いている。連載を通して彼女の言葉を世界に発信し続けて来た。

 連載が始まる前の1995年10月末、当時現場カメラマンだった私は連載用にスーチーさんやミャンマーを紹介する写真を撮るため外信部編集委員とともにヤンゴンへ向った。彼女はその年の7月に6年に及ぶ最初の自宅軟禁から解放されていたが、軍事政権下で当局の監視対象である事に変りはない。本当に本人に会って撮影が出来るのか、不安を抱えての出発だった。カメラやノートパソコンの持ち込みなどにはかなり気を使って入国した。事前に取得する予定だったビザも東京では何度大使館に通ってももらえず、見切り発車。タイのミャンマー大使館で行った申請があっさり通って事なきを得た。入国後は事前の心配をよそにスムーズに取材にこぎつけ、様々な場面を撮影できた。

 当時スーチーさんの邸宅では、支持者が集まる集会が毎週開かれていた。邸宅に面した道路に数百人が集まり、国民的英雄のアウンサン将軍の娘でもあるスーチーさんの演説に熱狂的に耳を傾けていた。その様子も邸宅の塀に登らせてもらうなどして撮影することが出来た。連載開始当初は週1回、年間を通して掲載する計画だったため、わずか10日ほどの滞在期間中に50回分以上のカット写真が必要だった。彼女にもいろんなポーズをとってもらって、湖に面した広い邸宅のいろんな場所で本人の撮影を行った。自宅前で開かれていた集会は翌年、当局の妨害で開催が出来なくなり、2000年に再び軟禁されている。

 自宅内で行われる野党国民民主連盟(NLD)幹部との会合を取材した際は、会議の冒頭だけの約束で撮影を開始したのだが、誰も止めようとはしないので調子に乗って撮影を続けていると、それまで和やかに撮影に応じてくれていたスーチーさんが「撮影はもう充分だと思います」ときっぱりとした口調で言い渡された。彼女の意思の強さを感じた一幕だった。彼女の手料理もごちそうになる事もあった。国民的英雄の娘であり、反体制のリーダー、ノーベル平和賞受賞者にして、とても家庭的で魅力あふれる女性でもある。報道カメラマンが撮影する対象としてこれほど魅力的な人物はいないだろう。この取材が出来た事は、私の一生の思い出であり、誇りでもある。
 彼女の取材を終えた後もミャンマー国内の自然や風俗、人々を紹介する写真を撮るため地方にも出かけた。どこに行っても立派なパゴダがあり、人々もおおらかで充実した撮影行となった。ミャンマーがとても豊かで魅力的な国である事を痛感した。

 2週間ほどのミャンマーでの取材を終えた私は、帰国の経由地である隣国タイのバンコクに出国した。その夜、ほとんど思い通りの取材が出来た私はこの取材にも関わったバンコク駐在の外信部記者と祝杯をあげていたが、ホテルに帰った私に飛び込んだのが、「日本人登山客多数がヒマラヤで雪崩により遭難」というニュースだった。その報に接したものの、私がまさかそのままネパールに飛ぶことになるとはそのときは思いもしなかった。熱帯にあるミャンマーへ出張する私は当然ながら、高さ約4000bもの山岳地帯で取材するような準備は全く無かった。その上、当時ネパールの首都カトマンズへは日本からの直行便も出ていたからだ。

 ところが、ホテルへ帰った私に日本からメッセージが入っており、会社に電話すると、すぐにネパールへ行って欲しいと言う。たとえ自分がどんな体制でも会社から行けと言われれば行かざるを得ないのがスタッフフォトグラファーの宿命だ。海外の災害取材などでは、現金がものを言う。ミャンマー取材を終えた私は手持ちの現金も乏しかったためバンコク支局で借りる事に。それから慌てて翌日のバンコクからカトマンズ行きのチケットを抑えようとしたが出来ず、翌朝キャンセル待ちの列に並ぶはめに。運良くエコノミー料金で空いていたビジネスクラスに乗ることが出来、ネパールに飛んだのだった。

 なんとかして現場で取材出来る装備をそろえなければならない。幸いカトマンズにはたくさんの登山用具店があり、比較的安価で販売されていた。防寒着などを買いそろえ、救難ヘリに同乗させてもらいヒマラヤの遭難現場へ向った。

 日本を出る時は半袖しか持っていなかったが、遭難の取材を終えて帰国する私のスーツケースは、厚手のフリースやダウンジャケットでパンパンにふくれあがっていた。

毎日新聞東京本社編集編成局
写真部長 山下浩一


1月コラム 年頭挨拶


(事務局・花井)

 あけましておめでとうございます。今年も皆さまにとって実りある一年でありますよう、お祈り申し上げます。

 さて、東日本大震災から早いもので3回目の正月を迎えます。発生年の2011年の報道写真展では、大震災関連の写真の出展は約120点でした。これに対し、2013年報道写真展では約40点。多いか少ないか議論が分かれるところですが、災害復興の現実、被災者の人間模様など作品の中身は濃く、会場では目頭を押さえる来場者の姿があったこともご報告しておきます。

 毎年のことですが、報道写真展の開催は在京15社の実行委員の皆さんの一年に渡る努力の結晶です。応募写真は年間ざっと5,000枚。2カ月に1回の審査会で各社から寄せられた写真を一堂に並べ、実行委員が悩みながら選んでいきます。今回は最終的に事件事故、スポーツ、文化芸能、皇室、企画など約250点(企画ものなどはパネル複数枚でも1点と数える。パネル枚数だと約300枚)が残りました。オープニングセレモニーでは、プロ野球読売巨人軍の長嶋茂雄終身名誉監督がテープカットを務めてくださいました。長嶋さんの輝くようなオーラは健在で、会場がひときわ明るくなったような気がしました。会期半ばには安倍晋三首相も来場。こうした映像がテレビを通してお茶の間に流れた効果もあったのか、11日間の来場者は4万人を超えました(三越調べ)。

 12月に入って、特定秘密保護法成立、猪瀬直樹東京都知事辞任、安倍首相靖国神社参拝など重要ニュースが相次ぎましたが、報道展では会場入り口に「速報」の看板を出して、一部についてA4プリントを張ったのが精いっぱいでした。それらの写真は、横浜の日本新聞博物館で今年1月11日から3月30日まで行われる「2013年報道写真展」にパネルにして展示されます。

 2014年は、ソチ冬季五輪(2月7日開幕)、サッカーW杯ブラジル大会(6月12日開幕)、仁川アジア大会(9月19日開幕)など華やかなスポーツ・イベントが目白押しです。その一方、4月からの消費増税で国民の暮らしはどうなるのか、隣国の中国、韓国との関係は改善されるのか、そして先に述べた特定秘密保護法がわれわれの報道活動にどのような影響をもたらすかも気になるところです。

 いずれにしても写真記者たちは、地道に、謙虚に取材対象の全体像を凝視してシャッターを押すしかありません。相手の発しているメッセージをどう切りとってどう伝えるのか、先を見通す構想力、想像力を持って、ひるまず前進して頂きたいと願っています。

2014年1月、東京写真記者協会
事務局長・花井 尊


12月のコラム


(共同・小原)

【写真】ハンセン、棒高跳びを制す
東京五輪大会で延々9時間も続いた棒高跳びの激闘。夕闇の中でハンセン(米)が5メートル10を跳び優勝した=1964(昭和39)年10月17日、国立競技場


《五輪取材今昔》

 弊社の社史「共同通信社50年史」に1964年東京五輪の取材態勢が記されている。「写真チームはデスク12人、カメラマン47人のほかに、加盟紙12社からカメラマン12人の応援を要請、さらに暗室要員としてアルバイトを含む25人を確保、総勢96人の陣容になった」とある。デジタル化され通信手段が格段に進歩した現在と、一概に比較はできないが、破格の人員を投入したことがうかがえる。

 「自社だけでなく大会組織委員会から委託されたプーラー取材もこなした」との記述もある。プーラーは一般カメラマンが決められた撮影席でしか取材できないのに対し、各競技場で選手に接近して撮影できる有利な条件が与えられた。「共同は写真要員の19人を充て、AP、UPIの外国プーラーと肩を並べて撮影した」と、国際通信社と対等の立場に立てた取材ぶりを誇らしげに書いている。

 五輪史に残る、棒高跳び決勝のラインハルト(ドイツ)とハンセン(米)の8時間を超す激闘の報告もある。「1人でカラー写真取材を担当したカメラマンはスタンドから狙った。当時のカラーフィルムはISO100の感度しかなく、スタンドの照明だけで写すのは無理だった。『何とか物にしたい』という執念から、ハンセンがバーをクリアするとき、一瞬ながら静止する瞬間を狙って15分の1秒でシャッターを切った」。渾身の1枚は真っ暗な夜空に舞うハンセンの姿を見事に捉えていた。

 共同がカラー配信を始めたのは64年東京五輪が始まり。カラーフィルムによる夜間のスポーツ撮影は、当時としては画期的だった。現在の写真・映像記者が持つカメラは、感度をISO6400まで上げることが可能で、夜間でも高速シャッターで容易に連続写真が撮れる。20年までにはこれまで以上のスピードで、高画質化が進むはずだ。

 ロンドン五輪でAP、ロイター、AFP、ゲッティは遠隔操作できるロボットカメラを各競技会場の天井に設置し、成果を挙げた。卓球や柔道、レスリングなどを真上から撮影した新鮮な視点の写真は、加盟紙にも大きく扱われ、評価も上々だった。期間中、計46台が稼働したという。

 64年当時のカラー化に匹敵するような写真の新しい流れが、7年後に生まれるだろうか。進化する五輪写真取材に興味は尽きない。

共同通信社ビジュアル報道局 写真部長
小原 洋一郎


11月のコラム


(スポニチ・佐藤)


《メークドラマ》


 1996年巨人担当2年目だった私は、巨人・長嶋茂雄監督の名言となった「メークドラマ」に身をもって体験する年となった。この年は4月の「ロケットダッシュ」に失敗すると、7月6日の時点で首位広島に11.5ゲーム差をつけられ自力優勝は早々と消滅。誰もが「絶望」と思っていたときに巨人の快進撃が始まった。

 7月9日の札幌・円山球場で行われた広島戦で2回二死から打者9人の連続安打で一挙7点を奪って勝利する。当時の円山球場は年に2試合しかない平日開催の巨人戦を見るために、学校を休んで見に来る子供たちがいるほどの人気カード。担当2年目の私は先輩2人とともに取材していたが、当然のごとく先輩2人は内野のカメラマン席で私は外野でお客さんに囲まれて撮影する席だった。円山球場の外野にカメラマン席などなかった。お客さんたちに埋もれながら、時にはトイレに行く人たちがレンズの前を横切るは、おばあさんが三脚につかまりながら歩くなど、とても撮影に集中できる環境ではなかったのをほろ苦く覚えている。

 外野センターカメラマンの役目は一球も撮り逃すことなく全球シャッターを切るのが当たり前。そんな環境の中から9連続安打全打者の写真を紙面掲載できてほっとしていた自分がいたのが「メークドラマ」のスタートだった。そして11.5ゲーム差から93日目ついに「メークドラマ」が完結する。10月6日のナゴヤ球場、来季からはナゴヤドーム使用が決まっていて最後の公式戦だった。当時の公式戦は130試合制で、巨人129試合目での完結である。午後6時開始の試合は3時間20分、5−2で巨人が勝利して優勝となった。

 巨人担当2年目とはいえ、野球取材自体が2年目の私は優勝時の監督胴上げを撮ったことがなかった。私はナゴヤ球場三塁下のカメラマン席での取材で、当時は36枚撮りのフィルムにオートフォーカスなどなくマニュアルでの撮影。そこで長嶋監督自身の「メークドラマ」を撮ることとなる。

 優勝が決まり選手、監督、コーチがマウンドに集まり、三塁下の私の位置からは長嶋監督の居場所が分からなくなる。次の瞬間33番の背中が上がる。「あれ!?監督の背中が…」胴上げ写真を撮影する者として33番の背中は見たくなかった。ところがその後、当時還暦の60歳とは信じられない長嶋監督の軽やかな身のひねりで監督の笑顔がこちら向きに…。7回舞った中でジャイアンツファンのいる三塁へ自分の体を向ける長嶋監督の「メークドラマ」のおかげで胴上げ写真がばっちり撮影できた。

 胴上げが終わり、長嶋監督みずからレフトスタンドのファンにあいさつして最後に三塁側スタンドのファンの前で突然帽子をとって満面の笑みでバンザイ!。胴上げ撮影を終えていた私はほっとしたのかフィルム交換を忘れていて、400_レンズ縦位置いっぱい、いっぱいのフレーミングで懸命にピントを合わせてシャッターを切るも3コマ切ってモータードライブが止まる音…。当時先輩からは30枚を撮らないうちにフィルムチェンジするように厳命されていた。長嶋監督の満面の笑みが頭に残りつつ不安の中巨人の祝勝会を取材して名古屋総局に戻った。当時のMデスクから一言「3コマのうちピントが合っていたのはひとコマだけだ。それもフィルムカウント36のあとのEのコマ、36枚撮りきるバカがどこにいる!!」

 もっとものお言葉に何の反論もできなかったが、翌日、満面の笑みの長嶋監督が紙面の1面に10段で掲載された。当時の優勝決定時の紙面は「胴上げ写真」が定番であったが、Mデスクの押しにより定番写真ではない一味違う満面の笑み写真が掲載され、監督の軽やかな身のひねり胴上げ写真は小さく付ける紙面展開となった。野球担当2年目での巨人「メークドラマ」は自分自身にとってもフィルムカウントEの「メークドラマ」だった。

スポーツニッポン新聞社 編集局写真部長
佐藤 雅裕


10月のコラム


(読売・梅崎)

【写真】世界水泳・男子400メートル個人メドレーで金メダルを獲得した瀬戸(8月4日、バルセロナで=金沢修撮影)

《デジタルとハトと》

 この夏の熱帯夜、バルセロナの世界水泳と、それに続くモスクワの世界陸上をテレビ観戦しながら始終ハラハラしていた。新星・瀬戸大也の400メートル個人メドレー金メダルに手に汗を握った? “人類最速”ボルトの記録更新を期待して? ・・・そうではなく、日本人選手が上位に食い込んだり、好記録が出たりするたびに、「朝刊に写真は入っただろうか」と気になってしょうがなかったのだ。

 バルセロナの夏時間と日本との時差は7時間、モスクワとのそれは5時間。ヨーロッパで行われるスポーツの大会ではしばしばあることだが、日本では最終版の締め切り間際に注目競技の決勝レースを迎える。未明に写真部に電話をして「入った?」と尋ねたいのをぐっとこらえ、朝、新聞を開いては「おぉ、入っている」「うーむ、○紙には載っているのに・・・」と一喜一憂。そんな日々だった。

 「読者はそこまで細かく見ているだろうか」という疑問がちらっと頭を掠めつつも、同じ種目でも準決勝より決勝のレース、決勝ならレース中よりゴール直後の表情を、と要求はエスカレートするばかり。8月5日朝刊の一面に、電光掲示板を見た瀬戸大也が「よし」とばかりに拳を握りしめた写真が載った時はうれしかったなあ。ゴールしたのが日本時間の午前1時23分。締め切りまで、あと数分という時間だったからだ。

 デジタルカメラの時代、写真は環境さえ整っていれば、地球の裏側からでも撮影してほんの1分で送信できる。海外のスポーツや事件・事故の現場では、決定的瞬間を狙うだけでなく、写真をスピーディーに送るために無線LANや衛星回線などの通信手段を確保することも写真記者の重要な仕事だ。東京の本社で受信するデスクも、紙面のレイアウトを決める編成部も、その写真を紙面に載せるべく万全の準備をして待ち受ける。

 1960年代初めまで、写真を遠方から送る一番の手段はハトだった。日本新聞協会編『新聞カメラマンの証言』によると、各新聞社はそのころ、200〜300羽ものハトを飼っていた。写真記者は現場に出かけるときにハトを5、6羽入れたカゴを持っていく。写真を撮ると2、3羽のハトにフィルムを丸めて入れた写真筒を背負わせ、別の2羽には写真説明を入れた通信筒を脚に付ける。何もつけない残りのハトが一隊を先導して本社に向かったという。

 優秀なレースバトは1000キロの距離を半日で飛ぶそうだが、いつも無事に帰ってきて特ダネ写真が紙面を飾るとは限らない。山の中でハヤブサに襲われた、他社のハト小屋に飛び込んでしまった、などという話も数多く伝えられている。ハトレースを主催する新聞社も多かったが、社会貢献のためより、少しでも速く飛べるハトを飼い、戻ってくる確率を高めるのに愛好家の知恵を借りたいという必要性に迫られてのものだったろう。

 1回の取材で何千回もシャッターを切れるメモリー容量、ほんの少し光があればフラッシュを使わなくても撮影できる超高感度・・・。デジタル機器の普及は報道写真の世界を一変させたが質も高めたのかどうか、とはよく言われることだ。通信手段もまた然り。ハトが命がけで届けてくれた写真と数十秒で地球を半周してきた写真、どちらが、より真に迫っているかとはまったく別の話だ。

 そんなことはわかっちゃいるが、締め切りぎりぎりの写真を入れたいという気持ちは抑えられない。「ちゃんと戻ってくれよ」と祈るようにしてハトを放す記者や、本社屋上のハト小屋の脇でじりじりしながら飛んでくる方向を見つめるデスク。その心持ちは半世紀を過ぎたいまも変わりない。


読売新聞東京本社写真部長
梅崎隆明


9月のコラム


(東スポ・米田)


《築地のうなぎ屋から早28年。いや苦節28年》

 私が報道写真に興味を持つきっかけになったのは、実家にあった「読売報道写真集1962」と小学生のころ購読していた「少年朝日年鑑」だった。小学校の社会科クラブで小型カメラの「オリンパス・ペン」を手に史跡を手書き新聞にしたのが初取材だった。
 
 高校のころ、テレビドラマ「池中玄太80キロ」に影響され、報道カメラマンに憧れた。専門知識は皆無なのに、大学の写真部に入部。先輩の後釜として始めた、広島市民球場でスポーツ紙のカメラマン助手をするアルバイトが人生の転機となった。締め切り時間に合わせ、撮影済みのフィルムを原付バイクで支局に持ち帰り現像・送信する。絶対に失敗できない緊張感でいっぱいだったが、間近で接したカメラマンの仕事ぶりや人柄、日々変化に富み、仕事後はノーサイドで飲み交わせる職場に惚れ込んだ私は、無謀にもバイト先の九州スポーツのグループ会社、東京スポーツ新聞社の一般試験を受けた。
                          
 しかし、世の中そううまくはいかない。不採用の通知が届く。気力も失せ、実家でぼんやりしていた夕刻、突然、家の電話が鳴り響いた。受話器越しに「おい!お前!やる気はあるのか?」といきなり写真部長の野太い声。「やる気があるなら都合のいい時に一度会社に来てみろ!」と。カメラマンの募集はなかったのに希望職種に太字でカメラマン志望と大きく記入した事が写真部長の目にとまったのか、愛用カメラバックを肩にその日の寝台特急に飛び乗った。  翌朝、写真部長よりも早く本社に着いた。写真部長は即上京した心意気を大変気に入ってくれた。「よーし!このまま1週間ほどここでやってみろ! しばらく仮眠所で寝泊まりしろ!」といった具合で早速、実地試験が始まった。アルバイトをしていたおかげで要領だけは良かったのか、1週間後、築地のうなぎ屋で私の合格″は告げられた。
 
 先輩のお古のなめし革のように使い込まれた「マスミ」のカメラバッグ。汗の染みた自社腕章。豪快なシャッター音の一眼レフ「ニコンF2」。時折「ポンッ!」と暴発して怪しい煙が出るストロボ「P−5」を貸与された。東京写真記者協会の身分証と「PRESS」と彫られたバッジだけは新品でいただいた。今ではすっかり無くなったけど、暗室作業などの内勤を徹底的に教え込まれた。エプロンを着け薬品溶きや先輩のお手伝い、朝から晩まで掃除に始まり掃除に終わる。カメラを手に仕事といえば、複写か来社したアイドルの撮影がたまにあるくらい。自主的に早めに出社する通称「巨人時間」(V9時代のONが練習開始時間の1時間以上前にはスタンバイしていた事から)、電話は1回で取る、早メシ、早グソ、言われる前に先読みして気が付け! と教え込まれた。
 
 取材デビューは先輩に連れられて行った公開収録現場。良いショットが撮れたと思いきやフィルム装填されていない凡ミスデビュー。いきなり目で撮ってしまった。
                                 
 後楽園ホールで行われた女子プロレス。ダンプ松本対長与千種の髪切りデスマッチが行われていたが、あろうことか試合中にテレビクルーと私がささいなことで乱闘に。場外デスマッチは観客を大いに湧かせたが、負傷し後楽園球場の医務室に。医務室には巨人の投手=ルイス・サンチェスが水虫治療の最中、その医師がすぐに手当てをしてくれた。
                          
 猪木対マサ斎藤の巌流島決戦では本紙初のヘリ取材を敢行。福岡空港から飛び立った先輩が乗り込んだのは形がまん丸の農薬散布ヘリ=上の写真。撮影のためのホバリングが思うようにできず急上昇急降下を何度も繰り返し、リングの周りにありとあらゆるものが舞い散った。リング周辺で取材していた私は砂埃で「見えませ〜ん!」と何度も絶叫した。
 
 海外出張デビューは薬品を溶いた水が炭酸水と気付かず、現像したフィルムが気泡だらけのほろにがデビュー。英国エジンバラ空港ではスーツケースと別の大きなバッグに小さなビーグル犬が吠えまくった。別室に連れて行かれ、見るからに頑固そうな係員が無言でバッグを開けるとたくさんの小分けされた白い粉が。暗室道具と2か月分のフィルム現像用粉末薬品が入っていたのだが、説明も通じず、大物売人確保!とすでに興奮を抑えきれない様子で完全に犯人扱い。駆けつけた護送車に乗せられ連行、一晩勾留された。結局、連れの記者が会社に連絡し大使館も救出に手を貸してくれて翌日には自由の身になったが、薬品はすべて開封され使用不能になった。                                
 別の年、また英国で。全英オープン最終日だった。デジタルカメラがまだ数百万円と超高価だった頃、プレスルームでほんのちょっと目を離した隙にすべての機材を盗まれ傷心の帰国。バルセロナ五輪では非公開の開会式リハーサルを隙間からこっそり撮影していたらマシンガンを持った警官に捕まりパスポートと取材ID没収、またしても勾留された。
                       
 命の危険を感じたのが当時参議院議員でプロレスラーの大仁田厚氏に同行したアフガニスタンだ。大仁田氏の早朝散歩に同行し、路地裏を撮影しながら歩いていたらいつの間にか迷い子に。ふいに現れたタリバンを名乗る2人組に大きなナイフをペタペタ当てられ脅されたがとっさに笑顔でハグして窮地を脱した。別の日の散歩では爆弾の穴があちこちに開いている丘に登り、帰りは近道しようと斜面を一緒に駆け下りた。いくら電流爆破デスマッチで慣れている大仁田氏とはいえ、不発弾や地雷だってあるかもしれない斜面をよくもまあ無邪気に駆け下りられたものだと、思い出すたびにぞっとする。邪道″恐るべし。
 
 ノルマもはっきりした答えも無く、予測不能な現場に投げっぱなし″で派遣される報道カメラマンには撮影以外のエピソードがつきものだと思う。先輩方も私に負けず劣らずおっちょこちょいだったが、時に厳しく、時に優しくこの業界で必要な事をいろいろ教えてくれた。同時代をご一緒させていただいた同業他社の仲間にも恵まれ、うなぎ屋から28年、様々なドジを乗り越えながら運よくこの職業を続けられている事を本当に幸せだと思う。


東京スポーツ新聞社
写真情報システム部 部長・米田 和生


8月のコラム


(朝日・山之上)

《スケッチ写真の裏側》

 駆け出しの新聞記者だったころから、人を取材することが多かった。聞き取った話や集めた情報に加えて、相手の気持ちや表情を伝えたい。心のひだを描きたい。その思いが先走るとつい、こんな言い回しで記事を締めくくろうとする。
 「……」といって笑顔を見せた。唇をかみしめた。うつむいた――。
 ある日、デスクの声が飛んできた。「ありきたりの表現だなあ。紋切り型の文章を書くな」。喜んだとか、悔しがったという言葉を避けただけでは工夫が足りない。安易な書き方で逃げるな、と手厳しい。
 手垢のついた文章は、もちろん自分でも書きたくない。ただ、表現の引き出しをどれほど持っているか。そこが問われてくるから、頭でわかっていても一筋縄ではいかない。

 原稿って難しく、奥が深い――。そう感じ続けてきた自分がいま、写真部に身を置いている。文末の一行もさることながら、今度は新聞各紙に載る写真が気にかかる。どんな瞬間をカメラにおさめたのか。同じテーマをどう撮っているか。ほかとは違う独自の写真を、どれだけ紙面に載せているか。そこを日々問われるカメラマンの仕事もまた、奥が深く、一筋縄ではいかない。

 夏の盛りを迎えたある日、デスクが部員に声をかけていた。「今日は猛暑日になりそうだな。『ああ、暑い』っていう写真を撮ってきてよ」
 強い日差しが朝から照りつけ、気温はぐんぐん上がっている。写真の狙いははっきりしている。でも、撮りに行くカメラマンにとっては、意外にハードルが高そうだ。なにせ暑いのは今日だけではない。昨日も一昨日も列島は猛暑に見舞われた。公園で水を浴び、はしゃぐ子の姿も、都心の「逃げ水」も海辺の景色も、すでに紙面を飾っている。じゃあ、今日はどこで、何にレンズを向けるのか。どんな情景を切り取ることで、うだるような暑さを伝えるのか。
 腕の見せどころ、というのは簡単だけれど、撮り手は苦労するだろうなあと実感する。

  新聞記者であれば常に、表現の幅が求められる。取材の経験や撮影の技術、それぞれのセンスと知恵。日ごろからどんなアンテナを張っているか。情報への感度を上げておくことも欠かせない。
 そういえばかつて、「紋切り型」の原稿を突き返されたとき、デスクに言われたことを思い出した。「忘れてはいけないのは好奇心。磨くのは観察力」。人を、街を、世の中を、とにかく細かく観察する。「へえ」と感じる何かを、一つずつ見つけていく。そこを具体的に書けば文章に個性が出る、自分の発見を記録しなさい、というのである。
 結局のところ、写真であれ、記事であれ、新聞記者は観察することから出発するしかないのかもしれない。
 そんなことを考えていたら、「暑さ」の取材に出かけた若手部員が、汗だくになって戻ってきた。さて、どんな場面を撮ってきた? 思わず声をかけた。


朝日新聞社 写真部長
山之上 玲子


7月のコラム



(産経・藤原)


《偉大な二人と・・》

 私がこのコラムを書くのは、今回で3回目となりました。今回は国民栄誉賞を受賞した長嶋監督のエピソードについて書きたいと思います。
 1999年2月、私は後輩カメラマンと2人で巨人宮崎キャンプを取材していました。当時、サンケイスポーツが新雑誌「週間ゼッケン」(休刊)の発刊を準備中で、フロントグラビアの目玉にON特集を企画していました。グラビア用にデスクが私たちにリクエストした写真は長嶋監督の「手相」でした。王監督の手相と比べたいそうです。
 
 しかし、常に大勢の記者や関係者に囲まれている長嶋監督に、我々カメラマンが直接お願い出来るタイミングはなかなかありません。そこで、巨人軍広報に取材を要請しましたが、OKが出ませんでした。仕方なく、我々2人はキャンプの期間中、長嶋監督の「顔」ではなく「手のひら」を写真に収めることを最大の目標にしました。監督に密着し、望遠レンズで手のアップを狙いました。時には背後に回りこみ、後ろに組んだ「手のひら」を撮影しました。きっと長嶋監督は背後から聞こえるシャッターの音を不思議に思ったことだと思います。しかし、努力の甲斐なく、ハッキリと手を開いた写真を撮ることは出来ませんでした。
 
 そしてキャンプ最終日の朝、思いもよらない申し出が広報からありました。監督と直接交渉する機会をくれるというのです。それも練習開始早々、グランドのど真ん中で・・・。
 いつものように、グランドをランニングする選手。
 マウンド付近で腕組みし、選手を見守る長嶋監督。
 スタンドを埋めた大観衆。大勢の報道陣。
 そんな中、私一人が広報に背中を押し出されてマウンド付近へ・・・。緊張からか足が震え出しました。マウンドで待っているのはあの長嶋監督です。
 大観衆の中、ミスターと二人きり・・。勇気をふりしぼり、何とか声を出しました。「監督、手相の写真を撮らせてください」と。
 
 すると、あの甲高い声で「うーん・・手相は撮らせたことないんだよねー」
 「それよりここを撮ってよ!」と前かがみになって自分の顔を指しました。
 「いくらでも撮っていいよ。ねっ!」と笑顔でウインク・・・。
 あ・・やっぱり気にしていたのですね、背中からのシャッター音。すみませんでした。でも、思いもしなかったミスターの笑顔に癒され「どうもありがとうございました!」と深く一礼し、退散いたしました。さすがミスターです。
 
 後日、「王監督の手相を撮れ」という指令が出ました。早速福岡ドームへ出張し、試合前、王監督に手相の写真をお願いしました。NGかと思いきや、「あーいいよ」「これでいい?」と言う感じで拍子抜けするほど簡単に写真を撮らせてくれました。さらに翌日は、私の顔を見るなり、「今日は何かあるの?」と、逆取材されてしまいました。すかさず、デスクからリクエストのあった「腕時計」の写真撮影をお願いしました。本当にありがとうございました。
 
 お茶目なミスターと飾らない王さん。子供の頃、テレビの中にいた偉大な二人と、初めて、お話しをさせていただいた時の、ちょっぴりハズカシイエピソードです。後日、「ゼッケン」のグラビア企画は「手相」ではなく、「手形」に変更になりました。長嶋監督、王監督(会長)、本当にお騒がせしました。


産経新聞社写真報道局 写真部長
藤原 重信


6月のコラム


(夕刊フジ・芹沢)


【写真】海氷に集うペンギンと氷山。3枚組みでの受賞だったが、この写真は日の目を見ることはなかった
【写真】報道写真展のポスターになった潜水艦「なだしお」。しかし、写真集発行中止で表紙になることもなかった

《報道写真展などとの微妙な関係》

 新聞社に勤めて29年目。写真記者(=カメラマン)以外にも取材記者、見出しを付け紙面を組む整理記者、取材の指揮や編集を行うデスク、Web写真ニュースの編集などを経験したため、写真取材の現場にいたのは9年余に過ぎない。ところが、現役カメラマン生活は短くても、東京写真記者協会(東京写協)が行う写真展や贈賞の際に、なぜか、自分の写真が想定外の扱いを受ける事態が続いた。同じような経験をしている写真記者はいるのだろうか?

 東京写協が行う大きなイベントに、毎年12月、日本橋三越本店で開催する報道写真展がある。加盟各社の写真記者の作品で1年を振り返る恒例行事。写真展に合わせ、優れた写真には東京写協から賞も贈られる。展示作品と受賞作を選ぶのは、作品に関しては報道写真展実行委員16人のデスク、賞は在京写真部長15人だ。一連の作品は毎年、写真集にまとめられる。その表紙は、毎年作られる写真展のポスターをベースにデザインされることが多い。会場には、受賞作品▽1〜12月まで月ごとの出来事▽五輪などの大きなイベント−などのコーナーが設けられる。展示スペースの関係から厳選した写真をさらに絞り込むことも珍しくない。

 駆け出しのころ「写真展に選ばれたい。いつかは賞も」と願っていた。写真記者になって2年目。意外と早く機会は訪れた。1988年7月、神奈川県横須賀沖で起きた潜水艦と釣り船の衝突事故を撮った1枚が写真展に選ばれ、ポスターにも採用されたのだ。取材ヘリコプターから潜水艦前部の傷と全景を写した1枚で、先輩から「写真集の表紙にもなる」とも告げられた。

 多くの犠牲者が出た事故の現場写真。胸中は複雑だったが写真集を心待ちにしていた。ところが、いつになっても刷り上がってこない。しばらくして聞いた先輩の言葉には耳を疑った。「今年だけ写真集はありません」。詳細は不明だが金銭的な理由だったと記憶している。今も社の本棚に1988年の写真集はない。私の表紙デビュー≠ヘ幻に終わった。

 それから7年後の1995年3月、「地下鉄サリン事件」が起きた。日比谷線神谷町駅に駆けつけた私は、救急隊より早くホームに降りて多くの人が倒れる惨状を撮影。写真はニューヨーク・タイムズやワシントン・ポストにも掲載された。ただ、自分もサリン中毒特有の症状「縮瞳」が出て救急病院へ運ばれ、被害者の1人に。体を張った写真は同僚3人が撮影したカットとともに、この年の「一般ニュース部門賞・国内の部」を受賞した。

 この時、私の写真には事件の犠牲者が写っていた。卑劣なテロを伝える紙面に掲載できても写真展には使えない。同じ理由で写真集からもはずされた。受賞者に名を連ねたものの、自分が撮った決定的な写真は事件発生当日の新聞以外で、ほとんど人目に触れることはなかった。

 その後はデスク業務に就くなどして撮影の機会が減少。現場から遠ざかるばかりだった。進化するデジタルカメラに「ついていけない…」と感じ始めた3年前の春、南極出張が決まった。日本新聞協会代表取材者として観測隊に同行する長丁場。写真記者初の「2度目の南極代表」だった。2010年11月から130日間、極地へ出向き、雄大な自然や観測隊の仕事ぶり、日常などを取材、写真と記事を送り続けた。

 帰国後の一昨年12月、意外な知らせが。「ペンギンと氷山」「オーロラ」「蜃気楼(しんきろう)」の3枚組み写真が「奨励賞・特別賞」に入ったとのこと。代表写真の受賞はあまり例がなく幸運だった。被写体が極地の自然だったこともうれしかった。しかし、ここでも想定外の事態が…。写真展に飾るカットが2枚に絞られたのだ。ボツになったのは気に入っていたペンギンの写真。写真集掲載も2カットになり、3枚組みで受賞した痕跡はなくなった。

 このほか、取材班の一員として関わった組み写真が「特別賞」をいただいた際も、仲間が撮ったカットも含めてほとんどの写真がお蔵入りだった。「組み写真で枚数が多い」との理由だけでなく、さまざまな事情で写真展の展示や写真集掲載に至らないカットは少なくない。とはいえ、肝心な部分で足跡を残せないケースが2度ならず3度に及ぶとは…。


産経新聞社写真報道局 夕刊フジ写真部長
芹沢 伸生


5月のコラム


(日農・永井)
【写真@】インド最大の商業都市ムンバイ近郊のスラム街に住む母子。政府の配給食料で飢えをしのいでいた(2000年3月)
【写真A】インドの穀倉地帯パンジャブ州南西部での塩害農地。白い塩がふき、「作物は何も育たない」と農民は嘆く(2000年3月)


《インドの大地 2000年取材》

 悠久のインド。死生観をも変えてしまうという摩訶不思議な地に、ずっと憧れ、一度は行きたいと思っていた。
 
 その念願が42歳にして、2000年にかなった。日本農業新聞の年間キャンペーン報道「アグリ世紀」の一環で、取材記者として、インドの大地をめぐるチャンスがやってきた。インドはこの年に人口が10億人に達した。「アジアの巨像」といわれる同国は人口爆発が続くが、食料自給を果たして続けられるのか――。世界、そして日本の食料確保にかかわる大テーマだった。
 
 でも、この取材は13年も前のもの。記憶は徐々に薄れ、日々の忙しさにかまけ、インドは忘却の彼方にいってしまっていた。
 
 それがどういう因果のめぐり合わせか、取材カメラマンを未経験なのに昨秋に写真部長兼務となり、当コラムを書く順番が来てしまった。さて、どんな写真にまつわるコラムにしようかと思案。その挙句に思いついたのが、インドだった。本紙にも縮刷版があり、当時の「インドの大地 〜食料自給の苦闘」の連載記事をめくっていくと、にわかにインド取材の感触が蘇ってくる。
 
 3月。生暖かい風がまとわりつく。デリー空港の到着ロビーに出ると、見知らぬおじさんの手がすっと伸びてきて、親切にも重いスーツケースを黙って転がしてくれる。迎えの車のトランクに入れるやチップをせがまれ、やっと「施し」の意味が分かった。その後も手荒い洗礼は容赦なかった。それでもインドはどれだけ好奇心があっても足りず、圧倒的におもしろかった。
 
 農村での写真撮影。農民にカメラを向けても嫌がらない。それどころか俺をどんどん撮ってくれ言わんばかりに、カメラのレンズを覗き込むようにポーズをとる。だから、「カメラ目線の写真ばかりだな」と困る。まごまごしていると、いつのまにか人だかりに囲まれてしまう。物珍しさからか、人が湧いて出てくる。ボロ着の子どもたちの物乞いは凄まじい。這う這うの体でチャーターの車に乗り込んで逃げ出すのが常だった。
 
 その車(カブトムシのようなインド国産車)も毎日故障しては、途中で修理工場に寄った。その都度、急ぎの修理費を払わされた。本当に故障していたかどうかは定かではない。きっと騙されていたと思う。
 
 狙っていた写真がある。インド北西部ハンジャブ州での「塩害農地」。農民が「死の粉」と恐れる白い塩がふいた農地のことで、作物はまともには育たない。インドの食料生産を危うくする大敵で、近代農業のあだ花というべきものだ。
 
 少々解説すれば、ここパンジャブ州は1960年代後半からの「緑の革命」による稲・小麦の高収量品種の導入で、食料増産体制が整い、国内一の穀倉地帯になった。ただ、この「奇跡の種子」にはセットとなる化学肥料、農薬が不可欠。さらに、稲・小麦の増産には灌漑(かんがい)水が必要で、地主農民は借金してでもせっせと深い井戸を掘り、地下水のポンプアップにしのぎを削る。「水は金なり」で、大地を潤す水さえあれば稲・小麦の増産で大儲けできる。しかし、そのしっぺ返しはまた大きい。灌漑水は再び地下に潜り、土中の塩類を溶かしながら標高の低い同州南西部の農地に集まる。そして、雨期に塩分の濃い地下水で水浸しになる農地が増加。その水が乾期に蒸発するたびに、農地に「死の粉」の塩が残されるというわけだ。
 
 その不毛の塩害農地を見つけ、困り果てる農民を入れた写真を簡易デジタルカメラで撮影。記事を書き、写真も携帯送信機をつかって現地から送稿。大国インドの近代農業の陰を伝えるもので、本紙1面トップで掲載された。というものの、写真送稿には苦労した。小さな田舎町の電話所からは幾度試しても国際回線につながらない。結局、車を夜通し走らせてデリーに戻り、大きなホテルに頼み込んでやっと送ることができた。その簡易デジカメは、インド南部の農村取材中に紛失(盗まれたと思う)。一矢報いるべき、帰りのデリーの空港で警察に「空港内で盗まれた」と方便し、フライト直前まで粘って盗難証明書を渋々書いてもらった。海外旅行保険の保証金で、写真部にはカメラ紛失をかろうじて許してもらった。
 
 「俺はお前をだます。だから、お前も俺をだましてもいい」「俺はお前を差別する。だから、お前は他の者を差別すればいいじゃないか」――そんな妙なインド流にちょっと馴染んでしまったかも知れない。儒教の国では理解できないことだが、人間のあるがままの本質に寛容で実は自然なことなのかも…。そんな禁断の想いまで、思い返してしまった。


日本農業新聞
編集局長兼写真部長 永井考介



4月のコラム


(時事・入江)


《1997年リマの記憶》

 毎年桜が散った今頃になると、両肩がうずくような気がする。仕事柄いろんな所へ行ったが、それは日本から一番遠い所で私が体験したことが原因であり、それまでの日常からかけ離れた記憶は、今でも私の心のどこかに刺さった棘になっている。

 1996年12月17日に発生した「日本大使公邸人質事件」取材のため、南米ペルーの首都リマに到着したのは、翌年の2月6日。公邸内に当初600人以上いた人質は徐々に解放されて70人余りになっていたが、獄中の仲間の釈放を求める犯人のトゥパク・アマル革命運動(MRTA)側とフジモリ大統領率いる政府側の交渉は難航していた。帰国までの2カ月あまり、到着直後から始まった国際赤十字やカトリックのシプリアニ大司教が仲立ちした双方の直接交渉などを取材しながら、高い塀に囲まれた大使公邸を見下ろせる16階建て高層マンションの最上階にある撮影「定点」で張り番生活を続けた。

 リマのサン・イシドロ地区という高級住宅街にあるマンションの「定点」は奇妙な部屋だった。階下に住むオーナーが投資のため、これから内装工事をしようとしていたワンルームを日本の新聞・通信数社が借りて、各社が使う窓1つごとにペルー人の平均月収をはるかに上回る家賃を払っていた。ニュースカメラマンに張り番は付き物だが、これ程長い時間他社の人々と一緒に過ごしたことはない。大晦日にMRTAのセルパとの会見に成功して有名人になっていたH氏や、当時はストリンガーで地元の散髪屋の女の子の追っ掛けが居たO氏、夜通し一睡もせずゴルゴ13のように公邸を見続けるA氏など今や各社の重鎮たちの若き日を、扉のないトイレを共用した同居人として鮮やかに思い出す。また、フジモリ政権に人質の人権を無視した武力突入をさせない抑止力として、自分たちは常に見守る使命があるんだという、日本人としての連帯感も部屋にはあったと思う。

 H氏と公邸でセルパを一緒に取材した山本カメラマンの帰国後、時事のカメラは若い宮田カメラマンと私2人だけ。16階「定点」ベタ張りの空中勤務と、直接交渉や大統領会見を取材する遊軍の地上勤務を、日没を境に24時間交代ですることにした。「定点」での食事は現地のスタッフに運んでもらい、撮影の邪魔になるためガラスを取り払った窓脇の折り畳みベッドで、睡眠を取った。雨が降らないリマで夏だから出来たのだと思う。地上勤務の時にやっと、写真電送用に近所に借りたマンションのベッドで手足を伸ばして眠れた。そして公邸から2キロ離れた邦人民宿に開設された臨時支局との連絡や、買い物や洗濯などの身の回りのことは、地上勤務の合間に済ました。24時間ベタ張りにこだわったのは、当時すでにトンネル工事が行われている情報があり、ゲリラたち同様に政府側の夜襲を一番警戒していた。後から思えば、私が居た2カ月余りはトンネル掘りや特殊部隊訓練のためにフジモリが時間稼ぎしていた時期で、昼は突然キューバのカストロと会見したりする彼お得意の政治パフォーマンスに、夜も結局は見えない敵に振り回されただけだった。

 物悲しいMRTAの革命歌で目を覚まし、電気が止められている公邸の窓に映るろうそくの明かりが消えると一日が終わる単調な日々が続いたが、時にはゲリラが前夜の嵐で倒れたMRTAの旗を直しに公邸屋上に出て来たり(=写真、3月5日)、公邸の庭に埋められた地雷が暴発して、地響きとともに住宅街の鳥たちが一斉に飛び立ったりした。そして3月には宮田と後任の渡部カメラマンが交代。4月に入って石原カメラマンがリマ到着。私は現地でたまった代休を数日消化して帰国することになった。

 学生時代にスペイン、ポルトガルを旅してラテン系の楽天的な生き方に惹かれた私にとって南米はあこがれの地である。人質になった人々を思えば不謹慎ではあるが、帰国直前に3日間のクスコやマチュピチュのインカ遺跡、ボリビアとの国境にあるチチカカ湖への地元ツアーを申し込み、その出発前日は疲れていたのでリマ市内で過ごすことにした。そして、プライベートな写真は白黒で撮ることにしていた私は、カメラを私物のマニュアルピントのもの1台だけにして、取材でも行った港町カヤオへ向かった。

 日系移民が初めて上陸したという古い街並みでスナップ撮影を続け、あるカテドラルの前に立った時だった。険しい目付きの男性が寄って来て、身分証の提示を求められた。私服の警察官だった彼は、フジモリ政府発行の記者証を一瞥すると「ここは危ないから立ち去れ」と言う。陽はまだ高かったが、翌日の旅行を考え引き揚げることにした。そして昨日までの張り番生活を思えば、遊んでこのまま帰るのも気が引けて、最後に港の端にあるMRTAの幹部ら政治犯を収容する監獄の資料写真を撮ろうと思ったのが間違いだった。

 地元スタッフが教えてくれた治安の悪い地区を迂回して海岸へ出ようとしたが、スラムに入ってしまった。大勢の大人が路上にたむろし皆がこちらを見ている。アジアのスラムを経験している私の中で警戒音が鳴った。落ち着けと自分に言い聞かせ、近くに居た身長190センチはあるアフリカ系の若い男性が人懐こそうな目をしていたので、海の方角を聞いた。私が指差した方を見た彼は驚いて首を横に振り、「シュッ!」と言って首を掻き切る仕草をした。このまま進めば命が無いということか。

 見るからに気の良い兄ちゃん然とした彼が手招きして来いという方向が、私の頭の中の安全地帯である大通りの方向と重なったので付いて行った。そしてその大通りに出ると、礼を言ってタクシーを拾おうとする私の肩をたたき、彼は1ブロック先の交差点を指差した。スラムから離れたその通りを行けば安全に海岸に出られるらしい。途中で友人と笑顔であいさつしたりする彼にすっかり騙され、馬鹿な私は海辺の土手まで誘導されてしまった。土手を登ると確かにそこは海だったが目的の監獄は岬に阻まれ見えず、目の前に広がる砂浜は何と危機を避けたと思ったスラム裏のゴミ捨て場だった。

 後ろから突き倒され、両肩をがっしり押さえ込まれた。途中であいさつした仲間に連絡が取れたのか、ボロ布を手に巻いてワインボトルや角材を持った7〜8人の少年から青年が私を取り囲んだ。抵抗しても多勢に無勢でカメラが真っ先に盗られ、旅行用に支局から借りたドル札が何枚も入っている札入れが抜かれ、ペルーで買ったばかりのスニーカーとジーンズが脱がされた。これで終わりかなかあと思いつつ、誰か聞いてくれと「POLICIA!」と声が枯れるまで叫んだ。そして不注意でこんな所まで来てしまった自分の情けなさを、妻と娘に詫び続けた。カメラマンジャケットが破られ、Tシャツが胸まで脱がされかかったところで突然、彼らの手が止まった。私服警官に提示させられた後、首から下げていた記者証を皆が見ている気配がする。その時一瞬、私の両肩を押さえ込んでいたバナナのように太い黒い指の力が抜けたように感じられた。右手が動いたので、とっさにそのバナナの房の中でも一番大きい中指をつかんで、全身の力を込めて折った。鈍い音がしてバナナは手の甲に付いたように見えた。

 体が自由になった私はこの機を逃さず、顔の脇に落ちていたツルがひしゃげて片方のガラスだけになった眼鏡を拾い、全力で走り出した。土手脇の家から子どもを抱いた女性が見ていたので、もう一度「POLICIA!」と叫んだが、激しく首を横に振って大通りの方を指差した。十分過ぎる戦果を挙げたせいか彼らは追って来なかったが、Tシャツとパンツ、靴下だけの日本人は大通りまで走り続けた。その格好でタクシーを止め、またもや記者証のおかげで民宿までたどり着いて部屋の鏡で自分を見ると、押さえられた時に付けられたバナナの房形の内出血がタトゥーのように両肩に付いていた。

 2カ月間の滞在中に首都リマとシプリアニ大司教に付いてアヤクーチョという街に行っただけだったが、極端な貧富の差のせいかペルーの印象は暗く感じられた。チェ・ゲバラの肖像が至る所に描かれたスラムと、一辺数百bもコンクリートの高い塀が続き、監視カメラと私兵に守られた富豪の家。事件後このままの印象で帰国するのは悔しいので、翌日からのツアーはキャンセルせずに強行した。警察への盗難届けが夜中までかかり、睡眠不足でクスコに着いたためひどい高山病はなったが、結果から言ってその成果は十分得られ、私はまたペルーが好きになれた。

 最終日に訪れたチチカカ湖にはアシで出来た浮島がたくさんあり、先住民族系の人々が住んでいる。その島の1つに国内のマイノリティーに人気があるフジモリ大統領博物館が出来たらしい。ツアーのコースには無くてこの目で確認出来なかったのが心残りだが、「彼が援助物資として送った小型自動車を走らせたら島が沈み始めたので、使うのを止めて博物館にした」と、英語の先生の資格を持つ通訳が笑って教えてくれた。現地の実情に合わないバラ撒き政策を揶揄しているようにも取れるが、仕事が無く観光客の通訳で生計を立てている彼女は、フジモリ政権が力を入れた教育の機会均等政策を高く評価していた。「これからよ」と。

 4月10日、桜が終わったばかりの日本に着いた。そして22日、フジモリ大統領はペルー軍特殊部隊に大使公邸の突入を命じた。その時刻は私もゲリラも油断していた午後だった。後に「リマ症候群」という心的相互依存症が報じられるほど、人質にゲリラも心を開いていた結果なのかも知れないが、MRTAのメンバー14人全員と人質1人、兵士2人が死亡し、発生から127日ぶりに事件は武力解決した。繰り返し放送されるその瞬間のTV映像を見ながら、ついこの間まで目の前で見ていた日常の延長なのに、私にはひどく遠い世界の出来事に感じられた。やっと事件が終わったことを認識しながらも、地球の裏側まで行ってたいした仕事もせず、暴力に対して全く無力だった自分が、最終的に相手の中指を折る暴力を行使した記憶が強過ぎた。出来るだけ早く全てを忘れたかった。

 そんな私が事件解決の翌日、ペルーのあの日常に引き戻された映像があった。それは、ゲリラとフジモリ大統領に何度も直接対話を呼び掛けたシプリアニ大司教の記者会見だった。平和的解決に全精力を使った彼が、17人も死者を出した自分の無力を嘆き眼鏡を外して目頭を押さえた瞬間、私の中で何かが弾け、私は泣いた。

 あれから16年、世界中持てる者と持たない者の差はよりいっそう開き、持たない者はテロという暴力で、持てる者と刺し違えることが増えた気がする。お金を払ってどちらも死なない日本的な超法規的解決という選択も、国際的に難しくなった。フジモリ大統領の失脚後、ペルーは日本人にとって少し遠い国になった気がする。通訳の彼女が望んだ未来はどの程度実現出来たか分からない。今年1月にアルジェリアで起こった人質救出作戦に比べれば、はるかに成功したフジモリの武力解決だったとは思う。しかし、その解決法は持てる者が持たない者に行使する暴力には違いなかった。あのバナナが折れる鈍い音は、一生私の心のどこかに刺さった棘のまま終わるかも知れない。


時事通信社 写真部長
入江 明廣


3月のコラム


(日刊・首藤)


【写真】嘉数高台展望台から見える普天間基地にはオスプレイが数機羽根を休めていた(写真上)。
そこから左へ目を移すと約3`先には宜野湾の東シナ海が広がる。
(13年2月18日、いずれも花井尊撮影)


《沖縄の青い海を見て考えたこと》

 2月に沖縄を訪れた。東京写真記者協会の部長会で、プロ野球の春季キャンプと米軍基地などを視察した。  巨人のキャンプを見学した翌日、宜野湾市内の高台に上がった。終戦直後に建設された広大な普天間飛行場と、その向こうに広がる東シナ海が一望できる。じっとながめていると、つい静かな青い海に視線が吸い込まれてしまう。その時、ふと、プロ野球創生期を支えた巨人軍の伝説の名投手のことが脳裏をよぎった。

 第二次世界大戦の戦況が悪化していた1944年(昭19)12月1日、15隻の船団を組んだ日本の輸送船が門司港を出発した。翌2日午前4時頃、屋久島沖西方の東シナ海で米国の潜水艦の攻撃を受けた。2隻が沈没し、2100人が命を落とした。その中に剛速球で一世を風靡(ふうび)した巨人軍の沢村栄治がいた。27歳だった。

 私は記者時代に沢村の直球人生を、丹念にたどったことがある。戦争という時代が、刻々と偉大なエースの「栄光の右腕」をむしばんでいく。取材をしていて、悲しくて、空しくて、やり切れなくなった。そして、最後に強い憤りが込み上げてきたことを思い出した。

 沢村栄治を知らない世代のために、彼の人生を簡単におさらいしたい。
 まだ日本にプロ野球が誕生する前の1934年(昭9)11月20日、静岡・草薙球場。全日本チームの投手として17歳の沢村が、来日した米大リーグ選抜との第9戦に先発した。初回1死から4者連続三振を奪う快投で、2日前の第8戦で21点をたたきだした強力打線を沈黙させた。本塁打王ベーブ・ルース、三冠王ルー・ゲーリックら超一流のバットを、剛速球とストンと落ちるカーブでクルクルと空転させた。7回にゲーリックに本塁打を浴びて0−1で敗れたが、当時の実力差からすると奇跡的な快挙だった。
 36年(昭11)に日本職業野球連盟が発足した。巨人軍に入団した沢村はプロ野球初のノーヒットノーランを達成するなど日本一の立役者になる。翌37年の春のシーズンでも2度目のノーヒットノーランを成し遂げて、24勝4敗、防御率0・81で最優秀選手賞を受賞した。しかし、沢村の右腕が輝きを放ったのは、このシーズンが最後だった。この年の7月、日中戦争が勃発した。
 38年1月、入隊した沢村は戦地に赴く。ボールの3倍以上も重い手榴弾を投げ続けて右肩を痛めた。頑丈な体もマラリアに冒された。40年に巨人に復帰したが、剛速球がよみがえることはなかった。現役最終年の43年の成績は登板4試合で0勝3敗。防御率10・64。左足を顔の位置まで上げる豪快な投球フォームは、ぎこちない横手投げに変わっていた。

 あの忌まわしい戦争の終結からまもなく70年を迎える。国内唯一の地上戦の舞台となり、地形が変わるほど激しい砲撃を受けた沖縄は、巨人をはじめとするプロ野球球団の春季キャンプでにぎわっていた。ぜいたくなほどの施設が完備された練習場で選手は汗を流し、地元の子どもたちは色紙を手に人気選手に群がる。「野球がしたい」という純粋な夢さえもかなえられない時代があったことを知る人は少ない。
 そんな和やかな光景を目で追いながら、私はあらためてスポーツを満喫できることの幸福をかみしめた。そして、青い海を見ていて、ふと答えのない問いが頭をよぎった。この近海の底に眠る沢村は、どんな思いで今の沖縄をながめているのだろうか……。


日刊スポーツ新聞社
写真部長 首藤正徳



2月のコラム


(日経・矢後)

【写真説明】津波で大勢の児童・教職員が犠牲となった大川小学校近くの草地に、
一輪の小さなヒマワリが咲いていた(2012年8月19日、宮城県石巻市)
=「記憶 忘れてはいけないこと5」より


《手作りの写真展》

 震災発生から間もない2011年4月、東京本社で始めた、東日本大震災報道写真ギャラリー「記憶 忘れてはいけないこと」が5回目を迎える。現在、3月1日開催に向けて慌ただしく準備を進めているところだ。当初は、写真プリントを展示パネルに貼りつける慣れない作業に四苦八苦しながら、部員と社内ボランティアがカッター片手に格闘した。1000通近い案内葉書の宛名書きもあえてプリンターに頼らず、今でも手書きにこだわっている。文字通り「手作りの写真展」なのである。

 試行錯誤の連続だが、心がけていることがある。それは、説明的で押しつけがましい写真はできるだけなくそうということだ。被災者のふとした表情や、被災地の何気ない光景。その場の雰囲気をすくい取るような、温かなまなざしが感じられる一枚を大切にしている。一方で、被災地の厳しい現実に目を向けることも忘れない。写真によっては、もう少し深い背景や被災者の心情を伝えたいものがある。そういう時には、部員が取材した長目のメモを添える。押しつける気はないが、さらっと見て終わりというのも残念だ。その辺りのバランスの難しさをいつも痛感している。

 写真展を続けてきてよかったのは、来場者の生の声を聞けることだ。昨年10月に4回目を開いた時、一点一点食い入るように写真を見ていた中年の男性が受付にやってきた。聞けば、広告写真を撮りながら、被災地に通っているという。「この写真展にはぬくもりがある。ぜひ続けて欲しい」と励ましてくれた。日頃、多くの読者に情報を届ける仕事に携わっていながら、読者との接点が極めて少ない身にとっては、グッとくる一言だった。

 震災直後と比べ、世間の被災地への関心が薄れてきているのは否めない。しかし、気の遠くなるような原発事故の処理や復興への取り組みは始まったばかりだ。この写真展を通して、ひとりでも多くの人に被災地の今が伝わればと願っている。


日本経済新聞社編集局写真部長
矢後 衛



1月コラム・年頭挨拶


(事務局・花井)


 あけましておめでとうございます。今年も皆様のご多幸を願っています。東日本大震災が発生してから二度目の正月を迎えました。今なお苦しみを抱えながら避難している方々が多くいらっしゃることを私たちは忘れてはなりません。 
 
 昨年の「2012年報道写真展」は、ロンドン五輪のボクシングミドル級で金メダルを獲得した村田諒太選手と女子レスリング48kg級の金メダリスト、小原日登美選手にテープカットをお願いしました。写真パネルは五輪関係で約50点、そして東日本大震災関係もほぼ同数展示して総数は約250点でした。また1月11日から3月3日までは、横浜の日本新聞博物館でも開催されます。
 
 感想ノートには、「震災の写真、涙とまらず。忘れてはならない」「被災地の現在の写真をみて震災を思い出しました。一日一日一生懸命に生きる姿に勇気をもらいます」「東日本大震災のすさまじさ、そしてロンドン五輪の感動がよみがえってきました。ガンバレ日本 K.H」「毎年この展示を心待ちにしています。いろんなことがありすぎて忘れてしまっている事を改めて思い出させてもらう反省の日でもあります。静岡・S」
 
 楽しい話題も多くありました。ロンドン五輪のほかに山中伸弥京大教授にノーベル医学生理学賞、東京スカイツリー開業、国内で25年ぶりに金環日食を観測など。一方で、大津いじめ事件、中国で反日デモ激化、笹子トンネル事故で9人死亡など暗いニュースもありました。昨年の極め付きは、年末の総選挙で民主党が惨敗、自民党中心の政権に戻りました。
 
 今年も7月に参院選挙がひかえています。国民がどう判断するのか、日本はどこに向かっていくのか。誰しも権力に対してはしっかりチェックが必要だし写真記者は、地道な活動で少しでも人々に感動を与える魂が入った写真を撮っていただきたい。そのためには、スポーツでも芸能でも事件事故でも同じように緊迫感がないと撮れません。みなさんの活躍を今年も期待しています。


2013年1月、東京写真記者協会
事務局長・花井尊



12月のコラム


(共同・小原)

【写真】蘇州の日本料理店を襲う、暴徒化した反日デモの参加者=9月15日 


《北京カメラマン》

 9月15日、日本政府による尖閣諸島国有化に抗議し、中国各地で「反日デモ」の嵐が吹き荒れた。デモ隊は日本の取材陣にも憎悪の牙をむいた。

 北京の日本大使館前では、カメラマンめがけて植木や卵、ペットボトルが飛んできた。投石が当たり、うずくまる記者もいた。江蘇省蘇州では、暴徒化した一部がゴルフクラブを振り回し、次々に日本料理店を破壊した。日本車は蹴飛ばされ、ひっくり返され火を付けられた。

 殺気立ったこの騒ぎの渦中で、東京写真記者協会に所属する共同通信中国総局(北京)の写真・映像記者らが撮影した「中国各地で反日デモ」が協会賞をいただいた。

 受賞作品を見ていて、写真家ロバート・キャパが後輩に残した至言を思い出した。「君の写真が傑作にならないのは、あと一歩、被写体に近づいていないからだ」。報道カメラマンは身を危険にさらすのと引き換えに、起きたことを世界に伝える。撮影する「位置」はプロ魂の発露でもある。

 5枚の写真に共通するのは、被写体に肉薄する「位置取り」だ。買い物に使うエコバッグに広角レンズを付けたカメラを入れ、デモ隊に紛れ込み、至近距離から表情を捉えた1枚。石が飛び交う日本大使館前で、バリケードを乗り越えようとする群集に恐怖を感じながら、素早く身を隠すために武装警察隊のすぐ後ろで撮った1枚。写し取られたデモ隊の怒りの表情からは「反日」だけでなく、中国政府や世の中に対する不満が読み取れた。いずれも最前線で体を張ったプロの仕事だった。

 中国総局カメラマンの陣容は現在3人。本社から赴任して約半年の写真・映像記者Y君、中国生活約15年で外国通信社のストリンガーを経た契約カメラマンI君、写真の腕を日々磨く同総局3年目の助手S君だ。

 中国の面積は日本の約25倍。写真取材のカバーエリアは途方もなく広大だ。3人は当局の取材規制にもひるむことなく、超大国の素顔を今日も写し続けている。


共同通信社ビジュアル報道局写真部長
小原 洋一郎



11月のコラム


(毎日・佐藤)

【【写真】魚釣島沖の接続水域を並走する中国監視船と海保の巡視船=9月18日
【写真】魚釣島沖の接続水域を並走する中国監視船と海保の巡視船=9月18日


《尖閣取材》

 ロンドン五輪では日本選手団が史上最多38個のメダルを獲得し日本中が盛り上がった。その最中に、尖閣諸島や竹島をめぐる領土問題が急浮上した。終戦の日を前に韓国大統領が竹島に上陸し、8月15日には香港の活動家らが魚釣島に上陸した。そして中国の海洋監視船が尖閣諸島周辺に頻繁にやって来る状態が続いている。

 9月14日、共同通信社との合同航空取材機「希望」は、魚釣島の北東沖を並走する中国監視船と海上保安庁の巡視船の姿をとらえた。同17日、中国のラジオが1000隻の漁船が尖閣諸島を目指して出港したと伝えた。同18日、尖閣周辺に漁船は現れなかったが、中国監視船団と海保の巡視船団が接続水域を並走した。=写真

 撮影したカメラマンによると「18日の夕方、午前中に引き続き魚釣島を中心に中国の漁船団を探したが見つからない。このままでは何も撮れないと焦り始めたとき、パイロットが「魚釣島沖約27キロに船団がいる」との情報をキャッチした。現場に近づくと、ぼんやりと3隻ほどの船影が見えてきた。しかし何か様子が違う。異常にでかい。漁船がいるものだと思っていたが、それは海保の巡視船と中国の海洋監視船「海監」だった。巡視船6隻と海監10隻が、先頭から約10キロにわたり隊列を組んで並走する様はまるで映画のワンシーンのようで、機内は一機に緊張感に包まれた」という。

 またパイロットは「尖閣付近は視程の悪い事が多くレーダーで探して肉眼で確認する。中国監視船や海保の巡視船が多数隊列をなした18日は、船の影が重なり細長い帯になって見えた」と話している。そして同25日には、尖閣諸島の日本領海内で日本と台湾の巡視船が放水しあう事態も発生した。遠い南の洋上で何が起きているのか?これらをとらえた写真や映像は、現実に起きていることを読者に伝えた。

 2010年9月尖閣沖で海保の巡視船に接触する中国漁船の映像は公表されず、海保内部から動画投稿サイトへの流出によって公になった。もし、内部流出がなければ未だに映像が世の中に出ることはなかったかもしれない。そういう意味では、今回は報道機関としての役割を果たせたと思う。

 その一方、五輪も領土問題もナショナリズムを刺激する。一部のメディアによる「すわ戦争だ」のような報道には危惧するが、報道そのものがナショナリズムを煽っているという批判も耳にする。過去の苦い歴史も踏まえ、この問題には慎重にそして冷静に対応したいと思う。



毎日新聞東京本社写真部長
佐藤 泰則



10月のコラム


(東京中日・星野)

【写真】完全防備でビールかけを取材する各社のカメラマン(東京ドームホテル)


《どこまで伸びるか…プロ野球1試合の撮影枚数》

 例年、この時期は「プロ野球のペナントレースもいよいよ佳境で…」と言った決まり文句が、業界のあいさつ代わりだが、セ・リーグは21日、巨人の優勝が早々に決まってしまった。スポーツ紙としては、最後の最後まで競り合ってもらい、ファンが盛り上がったほうが、面白い紙面を作りやすいし、売り上げも期待できる。
 
 パ・リーグが小差の戦いをしてくれているのがありがたい限りだが、ファンの関心がクライマックスシリーズや日本シリーズに移ってしまっているのは否めない。巨人と2位・中日、さらに3位・ヤクルトまでが約20ゲーム差(9月27日現在)で臨むクライマックスシリーズとなるが、あらためてシリーズの意味合いなどを考えてしまう。
 
 原監督や主将の安部捕手など巨人ナインが歓喜に包まれた祝勝会。「ビール掛け」と称する祝宴の取材は、カメラマンにとっては、四方八方から飛んでくるビールや日本酒との戦いでもある。カメラやストロボをラップやビニール袋などでぐるぐる巻きにして防水対策をするのだが、なかなか完璧とはいかない。
 
 締め切りが迫っている場合、嵐のような状況下でカードを抜いて、電送しなければならない。しかし、ビールまみれの手でカメラやカードに触るのはご法度なので、ラップ巻きのカメラを数セット用意して、カメラごと電送要員に渡す方法をとっている。

 写真部員が使用しているCFカードは大容量。コマ数を気にしないで撮影できるので、「ビール掛け」などカードの交換にリスクを負う取材では非常に助かる。フィルムカメラの時代は、ラップ巻きのカメラが何台あろうとも、1セットで撮影できる枚数は36枚。肝心なシーンにコマの残りがなく、悔しい思いをしたこともある。
 
 気になって、祝勝会当日の撮影枚数を調べてみた。選手の近くで、ビールまみれなりながら撮影できるカメラマンは1社1名に限定。弊社の某女性カメラマンが撮影した枚数は、カメラ2台で計902枚。約30分弱の宴の間に36枚撮りフィルムにして約25本分を消費したことになる。フィルム時代はせいぜい3、4本だったので、これぞデジカメの威力だろう。
 
 では、プロ野球1試合で、どれほどの枚数のシャッターを切るのか。ちょっと古い話で恐縮だが、延長15回と日本シリーズ史上、まれに見る熱戦となった2010年のロッテ―中日第6戦の取材データが残っている。カメラマン7人で、なんと1万2362コマ。1人平均1766コマ、フィルムに換算すると343本。1取材での撮影枚数の写真部記録として社内で話題になった。
 
 カメラの性能が上がり、メモリーカードの容量もぐんと増えている。今年の日本シリーズの対戦カードは未定だが、人気球団同士の好ゲームとなれば、カメラマンのテンションモも上がって、シャッターを切りまくる。「そんなに撮ってどうするの!?」とデスクは悲鳴を上げるだろうか、旧人類には目もくらむような枚数の新記録誕生を密かに期待している。


東京中日スポーツ写真課長
星野 浅和



9月のコラム


(デイリー・佐藤)



《五輪はカメラマンにとっても一生に一度の夢舞台》

 日本全国を寝不足にしたロンドン五輪が閉幕した。日本選手団は金メダルこそ7個と目標の15〜16個には届かなかったが、総数ではアテネ五輪の37個を上回る史上最多38個のメダルを獲得した。勇気と感動を与えてくれた選手たちに拍手を送りたい。

 五輪で表彰台のトップに上るのはアスリートにとって最大の栄誉だが、カメラマンにとってもその現場に立ち会えるのは最大の幸運である。五輪は4年に1回。複数の人間を写真取材に派遣する他紙とは違い、デイリースポーツは恥ずかしながら1人のみ。一生に一度経験できるかどうかの夢舞台といっていい。その舞台に立つには、選手が国内での代表争いに勝ち抜くのと同様に、まずは社内での競争に勝たなければいけない。

 筆者もバルセロナ五輪(1992年)“出場”をひそかに狙っていたが、あえなく予選敗退。その後夏季五輪はアトランタ、シドニー、アテネ、北京、ロンドンと5回を数えたが、二度とチャンスは巡ってこなかった。その後はデスク、部長として“五輪代表”を選考する側に回ったが、五輪への思い入れは人一倍強いつもりだ。

 選考基準として筆者が最優先したのは「俺に行かせてくれ。五輪を撮るのは俺しかいない」という強い自負心を持っていることだった。極限のプレッシャーと闘うには自分が選んだ道なんだという意識が必要だ。

 以上に加え、アグレッシブさに豊富な経験、タイトな日程に耐えられる体力が求められる。理想をいえば30代前半から中盤、入社10年から15年の最も脂が乗りきった世代が適任と考えた。

 そしてもう一つの条件として挙げたのは、業界用語でもある“引きの強さ”だ。「被写体が期待に応え、金メダルを獲る」のではなく「被写体に金メダルを獲らせる」のだ。時にはアクシデントまで発生させてしまう。そしてその瞬間を確実にとらえる。それが“引き”だ。強運を生まれ持っている人間はいる。だが“引き”はカメラマンの執念が引き寄せるものだと思っている。

 以上の条件をすべてクリアし、社内での競争を勝ち抜いた人間をロンドン五輪代表に選考した。取材の中心はなでしこジャパンだったが、合宿地とロンドンの各会場を片道2時間かけて移動し、柔道や体操、レスリング、水泳、陸上も体力の続く限りカバーした。柔道女子の松本薫、体操男子個人総合の内村、女子レスリングの小原、伊調、男子レスリングの米満。日本が獲得した金メダル7個中、5個はカメラマンが“獲らせた“と勝手に思いこんでいる。

 締め切りの関係でほとんどが号外、WEBでの対応となったが、多くの人に感動を伝えることはできたと思っている。カメラマンに贈られるメダルはなかったが、8月20日に行われた銀座パレードでメダリストが乗るバスに同乗、50万人からの歓声を浴びることができた。

 2016年・リオデジャネイロ、2020年・東京?カメラマンの五輪代表争いはすでに始まっている。


デイリースポーツ写真部長
佐藤 厚





8月のコラム


(日刊・飯田)
ポロリ・山崎安昭撮影

ノック・野上伸悟撮影


《この瞬間とあの瞬間》

 カメラマンじゃなくて良かった。写真部長になるまで記者一筋だった者にとって、やり直しや追加取材のできないシビアな世界で生きていく自信はない。
 写真は一瞬、一瞬が勝負で、カメラマンは決定的瞬間を追い求めてシャッターを切る。試合展開を見ながら「今だ」という瞬間だけならいい。やっかいなことに、後から「あの瞬間」を、という状況がしばしば出てくる。
 
 今年5月8日の巨人×DeNA戦で「あの瞬間」が起きた。巨人が2点差に迫られた9回2死二塁、巨人阿部は捕ればゲームセットになる捕飛を落球した。その後に同点とされ、勝利は消えた。カメラマンは落球の瞬間を撮っていた。よしよし。のはずだったが、元巨人の篠塚和典氏による、まさかの評論家原稿が待っていた。
 
  阿部の落球には、3時間前に伏線があったという。試合開始直前のシートノックで、勝呂守備走塁コーチが、最後に打ち上げる捕飛を数回ミスした。ベンチに引き揚げかけた皆を阿部が押し留めるようにもう1回要求。勝呂コーチは完璧な捕飛を打ったが、阿部は笑いを取ろうと思ったのか、打球も見ずにベンチに向かって歩いていた、という内容だった。こうなると、3時間前の決定的瞬間がほしい。これが「あの瞬間」である。
 
  カメラマンなら試合前練習は当然撮っているだろうと思う。ところが、シートノックの時間帯は取材陣にとってスキの出やすい時刻にあたる。試合開始が迫り、腹ごしらえの時間となる。気持ちも目の前の練習よりも、試合へ向けた戦闘態勢モードに入る。記者もカメラマンも脇が甘くなる。現役時代に2度首位打者に輝いた名選手とは違い? 3時間後、言い訳のできない厳しい状況を突きつけられる。
 
  記者ならば対処の仕様がある。後からいくらでも取材ができる。ところが、カメラマンはそうはいかない。撮っていなければおしまいである。幸いにも、当日のカメラマンは3時間前の「あの瞬間」を撮っていた。「普通ですよ」との言葉にカメラマン魂が漂う。もし、私がペンではなく、カメラを持たされたら「普通ですよ」と言えるだろうか。写真部に異動して1年4カ月。記者で良かったと思う日々を過ごしている。


日刊スポーツ新聞社 編集局写真部長
飯田 玄





7月のコラム


(朝日・渡辺)
世界報道写真コンクールの表彰式後、表彰状とメダルを手に喜ぶ(左から)千葉康由さん(AFP)、手塚耕一郎さん(毎日)、恒成利幸さん(朝日) 【写真説明】 世界報道写真コンクールの表彰式後、表彰状とメダルを手に喜ぶ(左から)千葉康由さん(AFP)、手塚耕一郎さん(毎日)、恒成利幸さん(朝日)
=2012年4月21日、オランダ・アムステルダムで、渡辺幹夫撮影



≪写真って何だ!≫
 写真って何だろう――。最近、よくそう考える。物事の真実を紙面を通じて読者に伝えるのが使命だ。とりわけ、報道に携わるわれわれの世界は、この数十年で劇的な変化をした。フィルムを化学反応で現像してプリントをつくって送る世界から、電気的な信号で映像を表現できて瞬時に送稿できるデジタル時代にめまぐるしく変革した。

 日本で、新聞に写真らしきものが最初に登場したのは、手書きによる「絵」だった。1888(明治21)年、読売新聞社が会津磐梯山の噴火を報じる日本最初の「写真画」で試み、掲載した。当時は写真をそのまま印刷する技術がなかったので、写真家が撮影した写真を模した銅版画にして印刷した。これが日本における報道写真の事始めといわれる。朝日新聞に初めて写真が載ったのは1904(明治37)年9月30日とされる。時代は日露戦争のまっただ中。世の中の関心時だった戦地の様子を伝えた写真で、従軍していた記者が遼陽戦で撮影した。「九月一日シヤオシヤンズイ高地占領後の光景」と説明がつき、塹壕のふちに3人の日本兵が立ち、日章旗が見えている写真だ。撮影から約一カ月後の掲載だが、歴史に残る一枚となった。

 その後、新聞における写真は「目撃者としての責任を果たす」という新聞記者の仕事の核心を担う重要なツールとして進化してきた。最近は写真のメッセージ性の高さや魅力が再認識され、新聞における写真の重要性が見直されてきた。だが一方で、改めて報道写真の意味や、報道に携わる者の倫理性が厳しく問われている時代を迎えている。近年、「写真は新聞の顔」ともいわれているが、紙面のビジュアル化はまだ歴史が浅い。今日も記者は、どうしたら世の中のことを、よりリアルにわかりやすく伝えられるかを工夫して写真撮影している。

 しかし、最近の紙面はどうだろう。パソコンそしてグラフィックソフトの進化で、よりわかりやすく事象を説明するためにと、インフォメーション・グラフィックス(以下インフォグラフ)が台頭している。写真もその一つのパーツとして使われることも多くなった。ここで生半可な論を展開するつもりはない。
しかしながら、現実的に文字が大きくなった紙面では、既視感のある従来型の写真を掲載する紙幅がなくなってきているのも事実だ。さらに写真取材の取り巻く環境も厳しい状況に陥っている。だがどうだろう。ひとたび大きな事件事故、災害などが起きれば、報道写真の存在価値は高まる。東日本大震災でもそうだったように。

 今年、オランダの世界報道写真財団が主催する報道写真コンテストで、日本のわれら同人3人が栄えある賞を受賞した。そのすべてが東日本大震災での写真だったが、世界から送られた10万点を超える写真のなかから選ばれたのは栄誉なことであり、これらが代表するように被災地の現状を伝える写真が世界の人たちに感動を与えたことは間違いない。

 6月10日付けの天声人語で「ジャーナリズム本来の『追う仕事』に忠実なのは。フリーを主とする報道カメラマンだろうか。名声と正義、生活のために、彼らは体を張る」と記された。

 われわれの報道写真も同じだろう。写真を通じて人々の感動を呼び起こしたり、独自のメッセージを送ったり、新たな使命感を模索しつつ、その可能性を追求しなければならない時代に突入した。最近、その思いを強くしている。


朝日新聞社報道局写真部長
渡辺幹夫





6月のコラム


(NHK・下垣内)



≪六四に思うこと≫

 毎年6月になると思い出す「六四」と浅田飴。「六四」とは、1989年6月4日の未明、民主化と腐敗一掃を求め、北京市の中心部にある天安門広場に全国から集結した学生たちを、武力によって強制排除したことで、市民を含む多数の死傷者を出した「天安門事件」のことです。

 当時、北京支局の特派員だった私は、その時、天安門広場でテレビカメラを持ち取材に当たっていました。猛スピードで長安街を東から突進してきた装甲車が、天安門の前を通り過ぎようとした時、ガードレールを利用して築かれていたバリケードに阻まれ、立ち往生しました。次々と火炎瓶が投げつけられ、瞬く間に装甲車は炎に包まれました。私は一部始終を撮ろうと駆け寄りました。
 炎上した装甲車から兵士が脱出しようとした時、周囲から「叩き殺せ!」という声と、「殺すな!」という声が飛び交いました。いわゆる事件後政府が暴徒と呼んだ集団と、兵士を守ろうとした学生の間で、明らかに違う行動が起きていたのです。

 結局、負傷してぐったりした兵士を学生らが抱き抱え、駆け付けた救急車で病院へ運びました。後日、病院で聞いた話では、事件当時、兵士を運んだことで救急車が暴徒の標的になり、燃やされたりして大破したとのことでした。

 広場の中心にある人民英雄記念碑の前では、学生たちが革命歌「インターナショナル」を肩を組み合唱していました。号泣しながら歌う学生。心の中で無事を祈りながら、ただ、すべてを撮らなければとの一心で取材を続けました。

 やがて長安街には続々と銃を水平に抱えた人民解放軍の兵士が現れ、やや斜め下に向けた銃口から、火花が散る様子が見えました。その瞬間、道路上の多くの学生や市民が逃げ惑いました。威嚇射撃だと思っていましたが、目の前にいた女学生が急に腹部を押さえて座り込み、地面には血が広がりました。撃たれたことが分かりました。

 支局は広場から長安街を東におよそ3キロ行ったところにあり、流れ弾が街路樹の葉をバサッバサッと落とす音を聞きながら、這々の体で何とか天安門広場で取材したテープを支局まで無事持ち帰りました。

 取材した映像素材は、通常はCCTV中国中央電視台から衛星伝送していましたが、4月15日の胡耀邦元総書記の死をきっかけに、北京市内では民主化を求める学生デモが連日繰り広げられ、政権への批判が日に日に激しさを増しました。5月19日、ついに首都北京に戒厳令が敷かれました。その後CCTVからの伝送はできなくなり、空路で東京に持ち帰るか、内戦状態を恐れて帰国する邦人に運んでもらうしか方法はありませんでした。

 日本に送る部分の編集を終えると、テープを解体し、編集済みのロール部分だけを何かに入れて乗客に渡すことを考えました。空港でのチェックを恐れ、できるだけカセットテープの原型を留めたくなかったからです。さて、何に入れるか。当時、のどが痛い時によく嘗めていた浅田飴。その缶がちょうどいい大きさであることに気が付きました。空にした缶の底にロールを置き、中敷きの紙、そして、飴を並べました。缶は、その日の臨時便で帰国する男性に託し、成田空港で待ち受けたNHK職員の手に渡りました。未明に撮影した天安門事件の映像は、十数時間後、当日のニュース7で放送されました。

 あれから23年。中国は日本を抜いて世界第2位の経済大国に成長し、将来第1位になることが予測されています。今や海外旅行や海外の不動産投資に走る富裕層が目立つ中国ですが、果たして、国民は豊かになっているのでしょうか。なくならない権力闘争や汚職、増殖する知的所有権の侵害、人権侵害問題等々、疑問は多く残ります。

 先月19日には、中国の人権活動家・陳光誠氏が中国を出国しアメリカへ渡りました。また、天安門事件の後、国外に亡命した学生運動指導者のウアルカイシ氏は、家族との再会を理由に、ワシントンの中国大使館に帰国の申請に訪れましたが門前払い。集まったメディアを前にして嘆きました。

 結局、何も変わっていないと思わずにはいられませんが、悠久の歴史からすると、この23年はほんの一瞬なのかもしれません。さまざまな現場で「瞬間」を記録する若いカメラマンには、これからもファインダーを通した実像を根気よく撮り続け、歴史の証人としての活躍を願うばかりです。

日本放送協会 報道局映像取材部長
下垣内 真





5月のコラム


(夕刊フジ・清藤)





《五輪取材》

 今年はオリンピックイヤー。ロンドン五輪が7月27日に開幕する。
去年の9月になでしこジャパンが早々と五輪出場を決め、今年4月には競泳の北島康介が100m平泳ぎに続き、200m平泳ぎでも五輪代表に決まった。今大会のメインどころとなるのは間違いないだろう。

 20年前に取材したスペイン・バルセロナ五輪で金メダルの期待がかかったのは、何といっても、柔道。男子の古賀稔彦、吉田秀彦、小川直也らの錚々たるメンバー。女子では “ヤワラちゃん”こと田村亮子(現在は、巨人の谷佳知選手夫人で参議院議員)だった。注目度は抜群。当時16歳の女子高生だったヤワラちゃんは、髪留めリボンがトレードマーク。勝負の時は、ピンク色だったか。初戦が始まるのは日本時間の夜中、朝刊の締め切りぎりぎりの時間だ。コダックが出したデジタルスチルカメラの出番となった。モノクロで、画質も、現在のデジタルカメラと比べたら、雲泥の差。それでも、撮影後すぐに電送できる画期的なカメラだった。

 順調な勝ち上がり。決勝の相手は、フランスのセシル・ノワック。効果2つを取られ、2位となった。呆然とするヤワラちゃん。その傍らにはガッツポーズで喜ぶノワック。カメラマン席からはため息がもれた。銀メダルの表彰台でも笑顔は見られない。翌日の1面の写真は、涙をこらえた表彰台ではなく、決勝戦で果敢に攻める写真に決まった。それが上の写真。勝負が決まった瞬間ではなく、私自身も忸怩たる思いの写真だった。

 全日本選手権4連覇を達成したばかりの95キロ超級の小川直也は、もっとも金メダルに近い選手だった。目の前で金メダルが見られる。そう確信していた。柔道会場のカメラマン席は、ほとんどが日本の報道陣。一回戦に臨む小川が、待ち構えていた日本人カメラマンの「TATAMI(畳)A」だか「B」だかの前を通り過ぎる。慌てて場所移動する日本人カメラマン。通信社のカメラマンは「何事か!」と驚き、私たちに尋ねる。こちらは得意げに「日本のチャンピオンだ!(気持ち的には金メダルの第一候補だよ。と言ってやりたかったが、なにぶん英語が…)」。彼らも移動せざるを得なくなった。順調に決勝まで勝ち上がった小川の相手は、予想を覆してEUNのハハレイシビリ。開始25秒で技ありを取られ、焦った小川は、強引に相手のふところに入ろうとして、なぎ倒された。合わせ一本の負け。小川は、ハハレイシビリの足元で倒れこんだまま、しばらく立ち上がれなかった。

 なぜ、いまさらこんな写真2枚を上げたのか?というと、ロンドン五輪を前にちょっと反省したからだった。またもや金メダルを過剰に期待している自分がいる。W杯で優勝した女子サッカーや、アテネ、北京で100mと200m平泳ぎで連続2冠の北島康介には相当のプレッシャーがかかっていることだろう。他にも、ハンマー投げの室伏広治。女子レスリングの吉田沙保里、伊調馨らに連覇の期待がかかる。彼、彼女らのガッツポーズが見たい。いや、たとえ敗れようと、堂々とした日本人の姿が見たい。五輪を見る楽しみは、選手の一所懸命なプレーだ。

 ロンドンで行われる五輪の決勝タイムは、連日未明の時間帯。当時のデジタルカメラと違い、格段に性能アップした最新機種で、その感動のシーンを活写してくれる各社のカメラマンの皆さん。心に焼き付く写真を“期待”しています。(敬称略)

産経新聞写真報道局
夕刊フジ写真部長・清藤 拡文





4月のコラム


(東京・吉原)



《「祈り」の日》

 東京新聞に月1回掲載されている読者のフォトコンテスト「東京写真館」。毎月200点前後の応募がある。新米部長がみても毎回、入選作品のレベルの高さに目を見張るばかりであるが、4月の「東京写真館」(第182回)に入選した作品の一枚には、思わずうめき声をあげてしまった。
 
 「妻の祈り」と題された応募作は、コタツの上に置かれた新聞に思わず手を合わせる女性の一瞬を捉えた。よくみると、本紙3月11日付朝刊である。年齢を感じさせる手の動きやバランスのとれた全体の画面構成も見事である。だが、何よりも新聞に手に合わせる写真など、これまでみたことなどない。「一体、何事か…」と、思わず応募票のコメント欄に見入った。
 
 撮影した埼玉県久喜市の山中三郎さんは、今回を含めて3回の入選歴のあるコンテストの常連。「(3月11日付)朝刊を見て思わず大きな声で妻を呼んで『素晴らしい写真が載っているよ、早く』と、この祈りの写真を目の前に出したら、妻はコタツの所へ座り手を合わせた。私はこの瞬間を逃してなるものかと撮りました」とあった。そう、手を合わせた対象は新聞ではない。新聞に掲載された写真であるが、いずれにしても、ありがたい話ではある。
 
 11日付朝刊の写真の撮影時間は、今年3月4日午前9時35分。写真部の嶋邦夫記者が、真っ白に雪が積もった仙台市若林区荒浜の海岸で、太平洋から迫る波に向かい、祈りをささげる僧侶を撮影したものだ。
  
 東京新聞では、3月11日付朝刊一面に、作家の伊集院静氏に依頼した詩を掲載する予定で、その詩のテーマにふさわしい写真を撮影するというのが、写真部に求められたミッションだった。震災からの1年を象徴するような写真を大胆に狙ってほしい、という指令だ。しかし、「3・11」に向けた編集方針が固まった2月下旬時点では、詩を依頼したばかり。肝心の詩がいつ完成するからは分からない。詩の完成を待っていては、写真が間に合わないかもしれない。取材を先行することに決め、嶋記者を3月1日から前日の10日までの10日間、太平洋岸の岩手、宮城両県を中心とした被災地取材に派遣した。以来、文字通り、地をはうような取材の中から撮影したのは1750カット。その写真の中から最終的に選ばれたのが、荒浜での祈りの写真だった。
 
 手前みそな話の続きで恐縮ですが、新聞掲載日直後から読者から手紙やメール、FAXなどで多くの反響が寄せられた。本社読者応答室によると、3月11日付朝刊の写真に関して寄せられた声は27日現在で、36件にのぼった。
 一部を紹介すると、「波の音とお経が聞こえてくるようだ。1年前のあの日を忘れない深い悲しみが伝わってきた」、「100行の記事より一枚の写真とはよく言ったものだ」、「無常観と鎮魂の気持ちがあふれた写真」、「祈りをささげる僧侶の姿に胸が震えた」、「カメラマンがいたのは知っていたが、まさか新聞に掲載されているとは」(僧侶本人)など…。
 
 大半が称賛の声であったが、「あの美しい海が牙をむき、大勢の命をのみこみ、私たちの悲しさ、祈りを、あの坊さんにお願いしたいと思います」という意見が印象的だった。あの日から1年を迎えた朝、人々は祈りの場所を求めていたのかもしれない。そう思えば、冒頭のコンテストの応募写真も「さもありなん」と納得する次第である。
 
 ペン記者の現役時代、数少ない特ダネ記事を執筆した時でも、読者からほめられたことなど、ほとんど記憶にない。写真の訴求力、インパクトの強さの神髄であろう。「100行の記事より1枚の写真」。言い尽くされた感のある言葉だが、あらためて実感する昨今である。

東京新聞写真部長
吉原 康和





3月のコラム


(読売・梅崎)



《託されたもの》

 冒頭から自分の会社のコンテストの話で恐縮だが、新米の写真部長として出席した1月28日の「よみうり写真大賞」の表彰式のことから始めたい。
 審査の対象は昨年1年間に読者から投稿してもらったり、紙面掲載されたりした3万点余の写真。言わずもがなのことだが、報道写真の部門や「ありがとう」を課題にしたテーマ部門では東日本大震災を素材にしたものが目立ち、入賞作品は例年にも増して力作ぞろいだった。いつもなら和やかな雰囲気の中、笑顔が行き交う表彰式になるのだろうが、今回は少々様子が違った。
 
 「今にして思えば、私がビデオで撮っている間、この津波におばといとこが流されていたんです」と壇上で嗚咽(おえつ)したのは、宮城県女川町で津波の映像を撮り、グランプリに選ばれた男性だ。彼は家族や知り合いに避難を呼びかけてから職場に戻り、観光施設の屋上で何時間もビデオを回し続けた。ビデオには「うわー、何もできねえよ」という男性の悲痛な声も入っている。津波で男性の自宅は全壊し、今も仮設住宅で生活している。
 
 「元気になりました」というタイトルで、被災地でテント暮らしをする夫婦らの笑顔を写した岩手県宮古市の男性は「皆さまからの励ましを強く感じました。立ち上がることができました・・・」と話したきり、絶句してしまった。町が津波にのまれる光景や、家族を亡くして嘆き悲しむ人の姿を目の当たりにし、「写真なんか撮っていていいのか」と自問自答を続けてきたのだろう。大震災のまがまがしいまでの現実と受賞の晴れがましさとの落差に、気持ちの整理がつかないようにも見えた。
 
 そんな人たちに向かって、「亡くなっていった人はカメラやビデオを通して皆さんに託したんだと思います。多くの人に知らせてほしいと」と、審査委員の大石芳野さんが語りかけた。
 
 大石さんは日本における女性の報道写真家の草分けだ。40年以上も単身で紛争地や戦場を駆け巡り、カンボジアではポル・ポト時代の大虐殺を生き延びた難民、ベトナムでは「枯れ葉剤」の影響で障害を負って生まれてきた子供たち、ウクライナではチェルノブイリ原発事故の健康被害に苦しむ人々の姿を撮り、世界に発信してきた。大震災の被災地にもたびたび足を運び、原発事故で故郷を追われた住民らの苦悩を撮り続けている。
 
 シャッターを押すのをためらったのは新聞社の写真記者も同じだ。入社4年目の記者は、焼けただれた幼稚園バスの前で園児一人ひとりの名前を呼びながら手を合わせている女性を撮ろうとしたが、「女性を傷つけてしまうのではと怖くなって、指が動かなかった」と話していた。
 
 撮らなければ伝えられない。しかし、大災害や事故の現場で過酷な現実を写しとった写真は、刃物のように生身の撮影者を傷つけることもある。背負った重荷の中に「託されたもの」があると信じられれば、幾分かでも荷が軽く感じられるのではないか。そう思いながら、大石さんの言葉を胸に刻みつけた。

読売新聞東京本社写真部長
梅崎隆明





2月のコラム


(サンスポ・佐藤)

気仙沼 【写真】気仙沼

サッカー日本代表戦 【写真】サッカー日本代表戦

東京・丸ノ内の夜景 【写真】東京・丸ノ内の夜景




《後世に残すパノラマ写真の挑戦》

 東日本大震災からまもなく1年が経とうとしています。この間、報道各社は総力を挙げて大勢の記者やカメラマンを現地に派遣し取材を続けてきました。家屋を飲み込んで押しよせてくる津波、壊滅した街、かけがえのない家族を亡くし、途方にくれ肩をおとす人々…。被災した方々には辛く悲しい記憶ですが、私たちが取材・報道した多くの写真や映像は、「記録」として残り、未来に語り継ぐ災害史の貴重な資料となるはずです。
 
 ネットの出現により、ここ数年、新聞各社は従来のスタイルとは異なるウェブサイトでの速報や映像報道に力を入れ始めています。東日本大震災の報道では、紙面で収容しきれなかった写真や動画を大量にアップすることができ、各社とも多角的に未曾有の大災害を伝えることができたと思います。紙数の都合で掲載できなかった写真も、今ではサイト上で幅広く展開できる時代になりました。
 
 産経新聞写真報道局ではマイクロソフト社とともに、写真の持つ力と新しい映像表現に挑戦し、写真好きの人たちと交流の場をつくろう、との思いから2011年1月に『産経フォト』を立ち上げました。サイト運営は、産経新聞やサンケイスポーツのデスクを長く務めた経験豊富なベテランたち。ネットに舞台を移し、紙媒体とは違う視点や感覚で自社取材や通信社の配信する良質な写真を選択し、ニュース、トピックス、フォトエッセイなどのカテゴリーに類別編集し、「魅せる・語る・読む写真」としてユーザーに発信しています。また、フリーの写真家に発表の場を提供し、アマチュアカメラマンのために写真コンテストを企画するなど、写真に特化したユニークなサイトを目ざしてコンテンツの充実に努めています。
 
 サイトの立ち上げから熱心なユーザーの間で評判になっているのが、マウスで自由に視点移動ができてパソコン画面上で360°すべてが見られる球体写真のシリーズ企画「パノラマ写真館」です。産経フォトでは震災報道においても被災地の360°パノラマ写真を積極的にアップし、国内だけでなく世界中からも注目を集めました。これまでに瓦礫に覆われた被災地、避難所、福島第一原発から1キロ地点、被災地の変化をとらえた定点観測など130枚以上を公開してきました。臨場感ある被災地のパノラマ写真は、アメリカやロシア、シンガポール、ドイツ、インドなど各国のMSNサイトが転載し、ドイツのシュピーゲル誌やオーストラリアのヘラルド・サン紙など有力な外国メディアも自社サイトにアップするなど大きな反響を呼びました。
 
 実はこの震災パノラマは、当初現場の取材者には抵抗感がありました。マウスで自由に視点移動し「遊ぶような感覚」で画面を見るパノラマ写真は、「被災現場にはそぐわない。不謹慎なのでは」との声が局内の一部に上がり議論になったからです。しかし、非難どころか「現場に立っている感覚だ」、「現地の被災状況が本当によくわかる」という好意的な多くの声を頂いたのは、通常の紙面取材の合間を縫ってパノラマ撮影を続けたカメラマンたちの大きな励みになりました。静止画の新聞写真だけでは伝えきれない震災パノラマは、ネット時代に生きる写真記者が後世に残す貴重な記録になると信じています。
 
 Webサイト  http://photo.sankei.jp.msn.com/ または『産経フォト』で検索
 産経フォトでは「硫黄島の壕の中」や「組閣取材時の首相官邸」、「ジャンボ機のコックピット」、「東京スカイツリー」、「しんかい6500の船内」、「南極」など硬軟取り混ぜたさまざまなジャンルのパノラマ写真を700枚以上公開しています。

産経新聞社写真報道局
サンケイスポーツ写真部長・佐藤一典





1月コラム・年頭挨拶


(事務局・花井)



 新しい年があけました。今なお東日本大震災で被災され、苦しみ、不自由な生活を続けている方々に心よりお見舞い申し上げます。
 
 展示の約4割を占める東日本大震災写真を中心に約300点を展示した「2011年報道写真展」(日本橋三越本店11年12月16日〜25日)は、大勢の人たちに見て頂きました。日本橋三越調べでは、昨年より1万人多い約5万人を超える人たちが入場しました。連日あまりの多さに大震災がいかに高い関心事であるか、またこの報道写真展が多くの皆さまに受け入れられ、定着したと改めて感激しました。受付に置いた「ユニセフ募金」には、期間中に、何と36万円もの募金を頂きました。感謝に堪えません。全額を日本ユニセフ協会に寄付させていただきました。
 
 報道写真展開場式のテープカットには、新大関琴奨菊関と「なでしこジャパン」の丸山桂里奈選手をお招きしました。新大関は今年のさらなる活躍を約束し、丸山選手はケガを直して一線に戻り、がんばりたいと抱負を語っていました。この報道写真展は、今年1月14日(土)から4月15日(日)まで、横浜市の日本新聞博物館に会場を移して展示されます。
 
 昨年、報道写真展について取り上げた朝日新聞の「天声人語」に「私たちは指先ひとつで、ある一瞬に永遠の命を授けることができる。写真の話しである。シャッターが切られ、ひとたびフレームに納まった表情や景色は、時計の針と同じ速さで遠ざかりながら、過去を語り続ける」。最終章に「被災者らが自筆のメッセージを掲げる『読む写真』がある。子どもたちの小さな決意に、深くうなずいた。『もらった命 たから かんたんに失わないようにがんばって生きよう』。写真は時として、未来も語る」とありました。なるほど。
 
 会場に置かれた「感想ノート」には、さまざまな意見、感想が書かれていました。@毎年見に来ています。今年は東日本大震災ばかりのニュース。来年はロンドンオリンピック、楽しみにしています(男性)A心が痛むほどの写真に心の中で手を合わせました。私も3カ月後、被災地を訪問、写真で見る以上のものでした。カメラマンの心に感謝。B写真の力を実感しました。命懸け一心に撮影された皆様有難う御座います。(高2、女子)C東日本大震災が起きた時の写真を見て私たちも何かできることをして、被災地が復興できたらいいなと思いました。(13歳、中学1年生)D写真はリアルに私達に問うて訴えている。何とかしたい。寒さの中で、さぞ大変と思います。頑張って下さい。応援します!E写真はすごいです。人がその中にいます。すべてを語っている1枚の写真の力はすごいと改めて思います。F写真が伝える現実に胸をうたれた。1日も早く、大好きな東北へ。あの時の三陸へ今、行く決心がようやくつきました。力になれるかわからないけど、行くぜ東北!G写真を業とする者です。最初の「ままへ」の写真を見て、平静を保つので精一杯でした。H朝日の社説で展示会を知り、仙台から参りました。ありがとうございます。自身で見た光景と同じです。I映像では伝わらない瞬間を切り取った報道写真は、胸に迫るものがあり、1枚の写真に涙が出ました。=感想143点から10点の抜粋です。
 
 「歴史が動いた年」と言われた09年、「混迷の政権運営」と言われた10年、「未曽有の大震災」に見舞われた11年、12年は世界同時恐慌危機とか、財政危機、超円高、北朝鮮の行方、福島第一原発の放射能汚染問題など明るさが見えてきません。またロシア、アメリカ、フランス、韓国の大統領選関連、中国の国家主席継承、ひょっとしたら総選挙など「選挙の年」でもあります。その中で、明るい話題としては5月、東京スカイツリーの開業、7月、期待されるロンドン五輪があげられます。
 
 今年も、写真記者たちは「国民の知る権利」に応え、記録して伝える――愚直に、真摯に、忘れることなく続けることが大切だと思います。その記録は「時代の証言」です。権力チェックと同時に弱い立場の人たちの代弁者でもあります。また、質の高い企画ものに見られるように、ひとりの表現者として写真の中から今年も多くのメッセージを発信してくれることを期待しています。

2012年1月   東京写真記者協会
  事務局長・花井尊


12月のコラム


(共同・上妻)

被災直後と3カ月後、半年後の状況。現在との比較写真



《震災取材のフォロー》
 
 先月25日の東京写真記者協会賞の選考会では予想通り、グランプリの協会賞、一般ニュース部門賞、企画部門賞と新聞協会賞を受賞した毎日、NHKの2社は震災関連作品の受賞だった。
 
 今回の災害の大きさは各社とも、発生から定期的に現場や被災者の現状を紙面で大きく取り上げたことにもうかがえる。協会賞に選ばれた読売の「ままへ」も5月に写真ニュースでフォローしている。
 
  共同でもその都度定点で、被災直後と3カ月後、半年後の状況。現在との比較写真を節目に送信した。岩手県大槌町大民宿に乗り上げていた観光船「はまゆり」。宮城県気仙沼市の市街地は地盤沈下によりいまだに冠水が続いている。岩手県大船渡市の市街地ではがれきはほぼ撤去された。宮城県女川町では津波被害を受けたビルの撤去が進んでいる、石巻市がれきが撤去され草の緑が目立つ。(写真は左下から時計回り)
 
 震災半年では「定点観測」に加え、被災直後に取り上げた住民の半年後の現状を比較した写真を連載企画として配信した。各回に写真記者が記事50行、震災直後に撮影した被災者と近況を送信した。内容は水を運ぶ少年、車中生活を続けた一家、福島県いわき市で原発事故から逃げる一家、離島に取り残された双子と再会した母親、母を亡くした女性、震災直後に出産した女性の一家。被災直後に撮影した写真記者が半年後再び訪れ、粘り強く被災者と交渉し、締め切り間際に取材を承諾していただいた方もいた。
 
 この企画を京都府の小学校では掲載された一部紙面を教材に取り上げ、“今、自分にできること、自分がどうできるか”をテーマとした道徳の授業を受けた5、6年生の子どもたちから京都新聞社を通じて手紙が寄せられた。
 「あたりまえのようにくらしている毎日がおくれず、とても悲しい時があったことを知りました」
 「今自分が学校に行けることや、自分の帰るところがあることが本当のしあわせなんだ・・」
 「被災された方が、少しずつ前向きにがんばっておられる姿を見て、私も負けられない・・」と素直な感想が寄せられ、取材者を通じて本人に届けられた。
 
 「今回の子どもたちの取り組みは学校教育での新聞記事活用から生まれ。記事を通じ社会を知る力、考える力、行動力を育てることにも大きな貢献ができたことにもなり、まことによろこばしいことと思います。」との同新聞社読者応答室長からのうれしいコメントも添えられていた。
 
 一方、一見して分かる被災地と違い廃炉まで30年以上といわれる福島第1原発をめぐる状況を来年以降も長期間伝え続ける重い課題を負ったことを忘れてはならない。
 
 共同通信社写真部長
 上妻 聖二





11月のコラム


(朝日・渡辺)

【写真】9月2日、福島県浪江町の幾世橋小学校の校庭を疾走する牛 【写真】9月2日、福島県浪江町の幾世橋小学校の校庭を疾走する牛



《写真か、動画か》
 今年5月18日スタートした「朝日新聞デジタル」の購読数が10月末、5万件を突破しました。日経そして朝日が先行した有料デジタル版ですが、来春にむけて同業他社の電子版の動きが活発になりそうな気配だといいます。明確な答えや道筋のないデジタル版ですが、従来の紙だけではなくデジタル空間でも存在感を明確にする新しい新聞社の形を目指しています。

 この朝日新聞デジタルにおいて、目玉の一つになっているのが「動画」です。動画は主に写真部員が中心に取材していますが、取材現場で「大きな変革期を迎え始めている」と実感する事例が時折あります。まさに「写真か、動画か」という命題です。ほんの数年前なら考える必要もない命題でしたが、いまは違います。現場を取材する写真記者にひとしきりの葛藤が芽生えています。

 9月はじめ、中堅の写真部員が福島第一原発から半径20キロ以内の立ち入りが禁止されている「警戒区域」への同行取材に入りました。もちろん警戒区域に設定した地元・浪江町長の許可が得られての初めての取材です。「写真も動画もおもしろい映像を撮りたい」という記者魂がうずく現場です。

 「二兎を負う者一兎を得ず」という諺どおり、ベストのシャッターチャンスは一瞬で一度だけ。前夜、取材を想定して「写真も動画もベストを撮ることはできっこない。動きがあり音声もある題材だったら、まずワンカットだけ写真を押さえ、それから即座に動画を撮ろう」と考え、取材方法を思い巡らせたそうです。

 結果は、動画撮影された映像から切り出された写真が朝刊一面に掲載されました。無人となった小学校の校庭を疾走する牛の群れは迫力満点。校庭に響くドドドドッという足音が印象的な動画がデジタル版で扱われました。取材者曰く、「計算して動画で撮ったのならば胸も張れるが、たまたま流し撮り効果で画像が止まった」といい、「牛の疾走は写真で撮るべきだったか」「写真だったらもっとクリアな映像だったはず」と反省しきり。しかしおもしろい動画が撮影できたことで、「やはり動画で正解だったのかなあ」と結論づけていました。このときは、それなりに自らを落ち着かせたものの、「今後も同様の悩みに遭遇する気がする」と最近は話しています。

 オリンピックごとにデジタルカメラは技術革新が進みます。先日、某メーカーから発表された来春発売の最新鋭機は、画素数も3割増強された高スペックなカメラに生まれ変わります。数年のちには「すべての撮影対象を動画で撮ったらいいじゃないか」との少し乱暴な意見も出るでしょう。質よりも写真の有無が問われる報道の現場では、動画からの切り出し映像を活用することも想定内になるでしょう。

 とはいえ、写真は現在も未来も一瞬を切り取る世界です。写真のもつ情報量の多さ、そして人々の感動を呼び起こす印象度や訴求力からみても、写真の優位性は揺るがないと確信します。東日本大震災から8カ月近くたち、今年はつくづくその存在の大きさを感じています。

 
朝日新聞社報道局写真部長
渡辺幹夫





10月のコラム


(日経・山田)

【写真】巡回された写真展=米原公民館で 【写真】巡回された写真展=米原公民館で



《ワスレテハイケナイコト》
 東日本大震災の取材がはじまって1週間余りたった3月20日ごろ、写真部員の一人が「写真展やりませんか」と言ってきた。連日被災地から送られてくるおびただしい数の写真。紙面に掲載する写真を選びながら、この選ぶという作業にどれほどの意味があるのか、新聞に載った写真と載らなかった写真に差はあるのか、そもそも新聞だけでこの災害を伝え切れるのか。そんな疑問がどんどん膨らんでいたときだった。

 日々の紙面を作るだけでも十分に忙しい毎日だが、部員はみな何かに憑かれたように作業をし、2週間後の4月6日には東京・大手町本社での開催にこぎつけた。展示したのは3月12日から27日までに撮った67枚の写真と8つの取材メモ。タイトルは、この災害を決して風化させてはいけないという思いで、東日本大震災報道写真ギャラリー「記憶 忘れてはいけないこと」とつけた。

 勢いだけで始めた写真展。反響があるかどうかは正直不安だった。しかし、予想以上の数の来場者があり、多くの励ましのメッセージもいただいた。その中で、滋賀県米原市の米原公民館の方から、「感動しました。ぜひ、うちの公民館でこの写真展を開いてもらえませんか」との依頼が寄せられた。そんな引き合いがあるとは思っていなかったのでびっくりしたが、喜んで写真パネルを貸し出し、大阪写真部からは設営の手伝いも派遣し、6月6日から20日にわたって無事開催された。写真はそのときに見に来てくれた親子である。

 「キオク。ワスレテハイケナイコト…」。父親が2人の子供に聞こえるように、写真展のメッセージボードを読み始めた。一字一句漏らさず語る朗読はやがて写真のキャプションに移る。途中、写真の解説も交えながらの約30分間、2人の子供の目は写真を見つめ、耳は父親の声をたどっていた。

 親から子へ、そして人から人へ。私たちの「写真ギャラリー」という小さなメッセージが、確かな言葉となってつながっていく。震災後、人とのつながりや絆を意識することが多い。そして「伝える」ことの大切さも。これらも「ワスレテハイケナイコト」なのだろう。

 
日本経済新聞社写真デザインセンター長兼写真部長
山田 康昭





9月のコラム


(産経・藤原)

毎日佐藤 【写真】日本代表合宿の本田選手(左)と長友選手



《あきらめない心で》
 最近、日本人サッカー選手の海外進出が目立ちます。イタリア・セリエAのビッグクラブ・インテル・ミラノに移籍した長友佑都を筆頭に20人前後の選手が欧州の主要リーグに所属しています。ドイツ・ドルトムントの香川真司の昨年の大活躍は記憶に新しいですし、多くの選手がレギュラーを獲得、もしくは争っています。中でもCSKAモスクワの本田圭佑は派手な言動とファッションを含めスター選手の雰囲気がありますね。ビッグクラブ移籍の噂も絶えません。欧州の移籍マーケットは8月で閉じますので、このコラムが掲載される頃には新しいチームへ移籍しているかもしれません。
 
 私が新聞社に入社した26年前、サッカーは決してメジャーなスポーツではありませんでした。海外で活躍していた選手も奥寺康彦さんしか記憶にありません。人気の高かったプロ野球の陰に隠れていたように思います。流れを変えたのは中田英寿の出現でした。彼は欧州のトップリーグ、イタリア・セリエAペルージャへ移籍し活躍しました。その後ASローマでもプレーし、“イタリアで初めて成功した日本人”になりました。しかしその後、欧州主要リーグで成功したといえる日本人は思い浮かびますが、“中田以上の選手”がいたでしょうか。
 
 ところが今年、“私的に中田以上の選手”が出現しました。それは長友佑都です。彼はセリエAのビッグクラブ・インテル・ミラノへ移籍し、驚くことにレギュラーの座を獲得しました。(今後はわかりませんが)中田英寿はカップ戦要員でしたから、私の勝手な理論で“中田以上”となるわけです。
 
 1998年、初出場のフランスW杯で私たちは世界との実力差を思い知らされました。2002年日韓大会での「思い上がり」もつかの間、2006年ドイツ大会では再び世界との差を実感しました。しかし、2010年南アフリカ大会では下馬評を覆し、決勝ラウンドまで駒を進めました。今年のアジア杯での優勝も見逃せません。8月のガチンコ対決では宿敵・韓国を3-0と圧倒しました。
 
 躍進の理由は多々あると思いますが、個人の技術向上が大きい要因だと思います。タフで技術の高い欧州の主要リーグでプレーする選手が増えたことが日本代表のレベルの底上げにつながったのだと思います。今夏、19才の宇佐美貴史がドイツのビッグクラブ・バイエルン・ミュンヘンへ移籍しました。イングランドの名門アーセナルはオランダへレンタル移籍させていた宮市亮(18才)をプレミアリーグでプレーさせるため、特例で就労許可証を取得させました。日本人選手の評価は確実に高まっているのです。
 
 7月、女子サッカーの“なでしこジャパン”がドイツで行なわれたW杯で優勝、日本に勇気を与えました。東洋人は不利といわれるボディーコンタクトの球技を「あきらめない心」で制したのです。南アW杯前「目標はベスト4」と発言した岡田武史前監督は世界から鼻で笑われました。しかし今後“中田以上の選手”が数多く出てくることで「誰にも笑われない日」は近い気がします。決してあきらめない心は日本人の大きな武器だと思います。
 
 産経新聞社写真報道局
 写真部長・藤原 重信





8月のコラム


(スポニチ・佐藤)

スポニチ佐藤 スポニチ佐藤 スポニチ佐藤
スポニチ佐藤 スポニチ佐藤 スポニチ佐藤



 この度の東日本大震災で亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに、被災された方々に謹んでお見舞い申し上げます。

 私は3月11日の地震発生時には、社内でデスク業務中。ああ地震だなと思っているうちに、揺れは大きくなり、時間も長く、ついに関東にも大きな地震がきたのかと一瞬思うほどであった。やがて震源地は東北地方であることが判明し、津波警報が発令され、ただ事ではないと私も含めて社内での認識がかわった。

 ただ、人間いざとなると地震発生時は何もできない自分がいて、さらに時間がたったからといって何かできるかというと、悲しいかなさらに何をすればよいのか分からない自分がいた。

 その日の新聞発行業務は、なんとか遂行することができたが、翌日からはスポーツ新聞としての震災被害の報道の難しさを感じる日々が、長く続くこととなる。その後、我々スポーツ新聞はスポーツ界、芸能界の復興支援活動をはじめ様々な角度から震災復興関連のニュースや話題を追いかけてきた。

 今回のコラムで紹介するのは、岩手県陸前高田市にあった県立高田高校野球部への密着取材である。(現在は県立大船渡東高校の校舎を借用中)一年間という時間をかけての取材予定で、まだ始めてから4か月目での途中ではあるが、高田高校野球部を通しての人間模様や、地元の復興の様子などを少しでもみなさんに知ってもらえればと思い、取材に派遣した高橋雄二記者の写真とともに紙面を何点か掲載させていただきます。


スポーツニッポン新聞社
編集局写真部長 佐藤 雅裕





7月のコラム


(毎日・佐藤)

毎日佐藤



 まず、大震災で亡くなられた方々のご冥福をお祈りし、被災された皆さまに謹んでお見舞い申し上げます。
 
 3月11日午後3時56分、巨大地震による津波が名取市の沿岸部に押し寄せる瞬間を手塚耕一郎がヘリから撮影した。2カ月が経った5月初旬、手塚は写真を手に現地を訪ねた。そこで写真に写っている集会所の屋根に上り助かった男性と出会う。男性は地元の人たちの避難誘導中に津波に襲われ、仲間4人と屋根の上で一夜を明かした。翌朝、周囲の水が引き男性らは股下まで泥に浸かりながら仙台空港に避難した。あの日は夕方から雪になった。屋根の上で震える男性は妻に「寒くて大変だ。助けてくれ」と携帯でメールを送る。避難して無事だった妻は警察に救助を要請するが、混乱していて取り合ってもらえなかった。そのうち、携帯のバッテリーも切れ連絡が途絶えた。 
 
 翌12日の朝、妻は避難先で地元紙に載った手塚が撮影した津波の写真(写真左)をルーペで食い入るように見ていた。夫の姿を新聞で確認しようとしたのだ。写真を拡大(写真右)すると、夫が避難した集会所はかろうじて分かった。しかし○印内の人影までは、新聞の印刷では分からなかった。その後、人づてに夫が無事でいると聞いたのは14日の午後。夫婦が再開できたのは16日になってからだった。手塚が訪ねた時、この夫妻は知り合いの家族と一緒に避難所の近くの耕作放棄地を耕して野菜作りを始めていた。
 
 沿岸に押し寄せる大津波を上空から見た手塚は、これは数千人の命が奪われると直感したという。自分が撮影したあの場所にいた人たちが、どうなったのかずっと気がかりだった。どんな反応があるのか、不安を抱えながら被災地に向かった。現地では新聞や写真集に掲載された津波の空撮写真が話題になっていて、プリントを見ながらいろいろな話を聞くことができた。夫婦の話もその一つ。
 
 被災地の避難所では新聞が重要な情報源として機能したと聞く。停電でテレビやパソコンは使えず、ラジオにも限りがあった。震災当初、写真部員は販売店から宿舎に届けられた朝刊を避難所に届けた。被災者にたいへん喜ばれたという。
 緊急時に頼られるメディアとして、一過性の報道に終わらせず「その後」をしっかりと追い続けることが新聞の使命だ。タフな取材になるが10、20、30年と地道に被災地報道を続けたい。


毎日新聞東京本社写真部長
佐藤泰則





6月のコラム


(読売・池田)

6月コラム



《昆 愛海ちゃん》
 東日本大震災で亡くなられた方が1万5千人を超えた(5月14日現在、警察庁調べ)。行方不明者も9千人を上回る。避難されている被災者は11万5千人以上だ。観測史上最大マグニチュード9.0の大地震は人々を恐怖へ落とし入れ、大津波はすべてを奪い去っていった。この震災被害を言い表す適切な言葉を私は思いつかない。

 読売新聞が3月31日付け朝刊1面で伝えた昆愛海(こん まなみ)ちゃん(5)。「ままへ。いきてるといいね。おげんきですか」覚えたばかりの平仮名で行方不明の母親あての手紙を書き、その上に頬をのせて眠っている写真は読者の大きな反響を呼んだ。震災で両親や家族を亡くした子どもたちを正面から取り上げた写真だった。写真部には援助の申し出はもちろんのこと、養女に迎えたいという電話も寄せられた。

 愛海ちゃんのこの写真を見るたびに胸を突き上げるむなしさややるせなさ。同じ思いであっただろう読者に「愛海ちゃんの今」を伝えなければと5月に入って写真グラフを掲載した。ノートには、母親への手紙の続きが書かれていた。「おりがみとあやとりと ほんよんでくれてありがと」。やさしかった父親には「ぱぱへ。あわびとか うにとか たことか こんぶとか いろんなのおとてね」と一生懸命につづっていた。

 ほほ笑む母親の写真を手に「ママ、かわいいね」とささやく愛海ちゃん。家事を手伝いながら両親と妹の帰りをまつ愛海ちゃん。その小さな背中にどんな言葉をかけたらいいのだろうか。


読売新聞東京本社写真部長
池田 正一





5月のコラム


(日本農業 結城)

【写真】神田市場=1984年撮影
【写真】神田市場=1984年撮影


結城淳
結城淳



 《ごあいさつ》         
 この度の東日本大震災でお亡くなりになられた方へのお悔やみと、被災者の皆様に心よりお見舞い申し上げます。自然の脅威とはいえ、余りにもひどい仕打ちに言葉もありません。この不条理は理解しようとも、理解できません。この世は明日何が起こるか、本当に分からないことを明晰にしてくれました。

 挨拶が遅れましたが、日本農業新聞の結城淳と申します。2月に広告部から異動してきました。若輩者ですので、皆さまにはご指導・ご鞭撻を何卒よろしくお願いします。

 簡単な自己紹介をさせていただきます。1982年に日本農業新聞に入りまして、駆け出しは「やっちゃば(市場)記者」でした。昔を知らない人は想像できないと思いますが、当時国鉄秋葉原駅北口(現在のITビル、消防署)には東京の台所、神田市場(太田市場に移転)がありました。早朝から、それは賑やかなものでした。新人だけに、びっくりしたことは、10時30分にちっぽけでそれは汚い記者クラブに入ると、まず先輩の一声は「結城やるぞ」。仕事と思いますよね。でも違うのです。「こいこい(花札)」だったのです。青果卸のギェンブル大好き叔母ちゃんも交え、12時過ぎまで「こいこい」に精進して、ようやく本番、翌日の紙面を考えます。

 この時点で、まだまっ白です。「キャベツが上げてるな。よしそれトップ」。「ミカンの低迷はひどいな。それサブ」。「片はどうする」。なんていう紙面つくりでした。今では考えられないほど、おおらかな時代でした。夜は早々18時(まだ勤務時間内です)くらいから、社内の片隅で酒の宴が始まります、その後、これも例外なく居酒屋へなだれ込みます。毎日毎日、延々午前様まで続きます。

 夏場は銭湯(風呂付のアパートに入れたのは数年後松山に転勤した時が初めてでした。今は学生も風呂付きが常識だそうで、信じられませんが)にいけずに鬼デスクに「今日くらいは12時前に帰らせて下さいよ」と抵抗したものです。デスク曰く「風呂入らなくても、死にやしねよ」。

 「やっちゃば」を4年やり、次は花の営農技術担当(何と農業専門紙、花の技術記者は初めてでした)。これは1年でちょんとなり、転勤で四国・松山で4年、戻って、くらし面、校閲、社会面、農政担当など上に嫌われていたのか、次から次へ部署が変わりました。異動にもめけず、あいもかわらず、上にモノ申していたせいか、編集から営業(広告)に飛ばされ、新会社立ち上げ準備室、6年前に名古屋で販売担当等など、経理以外あちらこちらを回り、ようやく写真部に辿り着いた次第です。

 肩書は名ばかりですが、写真部長。が、悲しいかな見せるビジュアルな絵をとれませんので、実務は少数精鋭の部員にまかせ、もっぱら雑務が主な仕事で、寂寞感を感じる日々です。

 恥ずかしい話ですが、東日本大震災の現場にまだ行かせてもらえません。そろそろ勝手にネタを拾い写真とペンで己の存在をまず身内に知らしめたいと切に思っております。被災地には連休明けには入りたいと思っております。写真は紙面には反映されない可能性大ですが…。

 一番好きな写真家は日本人初のマグナム・フォトの寄稿写真家となった濱谷浩です。昔NHKでの特集をみて、圧倒されました。雪国、裏日本、怒りと悲しみの記録など、特に人物は圧巻です。今でもこんな写真を撮れたらと最高だと思います。叶わぬ夢ですが。ただ、くらし面時代に元気な高齢者の企画(後に「輝いてときめいて」という本になりました)をやりましたが、記事より元気で生き生き見せる写真に重点を置いて取材したのが5本の指に入る思い出です。

 趣味は路上観察、人物観察です。暇はたっぷりありますが、お金がありませんので。埼玉県鴻巣市の田舎が自宅というのも幸いしてか、休日はカメラを片手にぶらぶら、ぷらぷらです。移り行く自然の変化は飽きることがありません。長くなってすいません。最後に理想の人物像は藤沢周平が描く哀歓ただよい、淡い恋心ある庶民か下級武士的存在です。映画にもなった「隠し剣 鬼の爪」で永瀬正敏が演じる片桐宗蔵には、憧れてしまいます。

 今後とも何かと大変お世話になりますが、よろしくお願い申し上げます。



日本農業新聞 写真部長 結城淳





4月のコラム


(東スポ 米田)

【写真】「持ち主は無事なのか・・・」
【写真】「持ち主は無事なのか・・・」南三陸町の被災地では、子供用のスプーンと消防車のおもちゃが形をとどめていた=前田利宏撮影、3月15日付け紙面に掲載



 《連日の新聞写真に感動》         
 本文の前に、謹んで地震災害のお見舞いを申し上げます。
 3月11日(金)14時46分、昼食後とあってまったりとしていた編集局が耳鳴りのような「ぶーん」という低周波の音の直後グラリと揺れた。
 
 「地震?」「地震だね」なんて言い合っていたのもつかの間、今まで経験した事がない揺れがやってきた。「何?」「おいおい!」「デカい!デカい!」。悲鳴こそなかったが声にならない声。窓から外を見ると高層マンションの避雷針が今にも折れんばかりに大きく左右に揺れている。三脚や脚立、レンズケースが倒れ落ち液晶テレビも倒れた。
 
 頭上からは天井の梁の部品が「バキッ」と音を立てて落ちてきた。最悪だったのは銀塩時代から使用している大きなプリンターの補給用の純水がタンクごと倒れたことだ。フロアが水びたしになり、階下に水漏れになってしまう為、揺れの中大急ぎで水をふき取らねばならなかった。
 
 テレビからはニュース速報の「ポーン・ポーン」と地震発生のテロップが一斉に流れる。「М8.8!こりゃあヤバイぞ・・・」しばし同僚とぼう然としている間にも余震が相次いだ。足元から揺さぶられて机の下に隠れる事も、何かを押さえて保護する事も一切できない。震源地に近い東北地方の惨状はこの時は想像もしなかった。ましてや原発に被害が及び、国をも滅ぼしかねない事態になるとは全くの想定外だった。
 
 とにかく東京も自宅も大変なことになったのは間違いないと感じた。部員や家族の安否、ペットはどうなっているかなどさまざまな憶測がフルスピードで駆け巡る。社屋の窓からは台場方向の空に黒煙がもくもくと上がっているのが見え災害を身近に感じた。地震発生から30分ほどすると「弊社のビルに亀裂が入った恐れあり」と全員退避の放送がかかる。
 
 今思えば、ちょうど東北地方を津波が町ごと飲み込んでいる頃だった。外に出ると小学生が防災ずきんをかぶって校庭に出ている。不気味な余震は何度も続く。しばらくして退避命令が解け、社屋に戻ってみると都内で取材中だった部員や通信社から数枚の都内の被害の写真が入り始めていた。
 
 911同時多発テロや福知山線脱線事故など目を疑うような重大事件事故の報道に携わってきたが、自分自身が大きな災害を体験したのは初めてだった。もちろん震源地付近の被害とは比べようも無いくらいのレベルだったがショック状態は続き、あえて平静を装っている自分がわかった。揺れて位置が変わったテレビからは宮城や岩手の上空ヘリからの映像が入ってきてさらにショックを受けた。現場に出ている部員とはなかなか連絡が取れない。取材の移動中、列車に閉じ込められたままの部員もいた。
 
 先の見えない政治や経済でそれでなくてもどんよりしていた「日本」だったが、更なる追い討ちをかけるがごときこの天災。ふと外を見ると台場付近の火災現場から漂ってきた黒い煙が合わさり首都東京の空は黒い不気味な空に変わっていた。小松左京原作の映画「日本沈没」のシーンや五木ひろしが歌った映画主題歌「明日の愛」のメロディーが浮かんでくる。ついさっきまで「もうすぐ開幕だね〜」「まだ寒い」「花粉症だよ」なんてのんきに過ごしていた日々だったが、一瞬で首都圏の交通をマヒさせ、食糧や電池、燃料不足、停電に悩まされる不自由な生活に180度変わった。
 
 テレビからはバラエティー番組や民間企業のCMが消え巨大地震緊急番組が連日流れ続けた。最初はメディアのヘリ映像だけでなく一般人が撮影したグラウンドレベルの津波動画にただただショックを受けぼう然とした。翌日、福島原発が爆発というショッキングな出来事がありニュースの中心が「放射能」の恐怖に変わっていった。福島原発が水蒸気爆発した際の衝撃的な映像や現場で必死に行動する自衛隊、警察、消防の姿と正反対の他人事のような事務方の会見、地震被災者の家族にあてた涙ながらの声、津波や固定カメラが記録していた地震のすさまじい揺れ・・・。動画でなければ伝わらない優位さを確かに感じた。
 
 ただ、私はこのコラムの場で動画だ、いや静止画だと競うつもりはない。静止画には静止画の良さも存分にあることは言うまでもない。報道カメラマンはどんな現場でもファインダーを覗くと、何を盛り込むのか、何を伝えたいのか考える。写真から汲み取ってほしいものをぎゅっと凝縮してキャプションを付け新聞紙面という発表の場で表現する。千年に一度といわれる未曾有の地震・津波の災害や予想もしなかった原子力発電所の事故、各社の取材写真に胸を打つものが非常に多かった。
 
 私は通常、新聞を読む時まず写真をざっと見、目で読んでから記事に目を通す癖がある。
 しかし最近は写真に釘付けになり、なかなかページをめくれない。手を止めキャプションを読み目頭が熱くなっている。さらに記事を読むと、日本語の芸術ともいえるすばらしい文章がある。もう一度写真を見つめ直す。何度も見直し、読み返し、我々のような写真を見慣れた人間にも「感動」を与えてくれる。1枚の静止画から伝わるものがこれほど多いものかと新聞報道のすばらしさ、誇りのようなものを再確認した。
 
 思い返せば平和な日々、やれ「タイミングが・・」とか「ピントが・・」とかの次元でなんとなく日々を送っていたことを反省させられた。綺麗な景色や華やかな美女の写真もいい。スポーツの決定的な写真もいいだろう。
 
 しかしながら、報道写真の真髄は単なる記録ではなく、日本人の心の奥底にあって現代社会で忘れかけているやさしさや思いやりのような「グッ」とくるものを1枚で訴えかけるところにあるのではなかろうか。撮影者が表現したい気持ちを念じなければ写せない奥深い写真。心に染みる絵本のように読んだ後でじわ〜っとくる感じ。語弊はあるけど「いい写真だ・・」とつぶやける写真。何度も読み返したくなるような「あ〜わかるよ」という含蓄のある写真だ。連日各紙の写真は心に染み入る。被災からしばらく経ち、このコラムを執筆させていただいている今も時折強い余震が続く。
 
 福島原発周辺では最悪の事態を免れようと命がけで全力の作業が続いている。9日ぶりに奇跡的に救出という明るいニュースもあった。日本中、いや世界中が固唾をのんで進展を見守っている。取材活動も困難を極めているだろう。悪条件の中、頑張っているプロカメラマンの1枚でまた明日も「グッ」とくるだろう。新聞報道写真。静止画の重みを改めて痛感した。       

東京スポーツ新聞社 写真情報システム部長    米田和生





3月のコラム


(報知・本戸)




 《思い出の紙面》         
 2月中旬の月曜日、このコラムで何を書こうかと考えながら出社すると、真っ黒に日焼けしたプロ野球キャンプ取材帰りの部員が何人かいました。その日焼けした顔を見ていると、自分もカメラマンとして現場に出ていた頃のことを思いだします。
 
 思い返せば、毎年2月には、東京にいることなどありませんでした。だいたい九州、沖縄…。どこかの球団のキャンプに出張していたものです。なかでも宮崎県、つまり読売巨人軍のキャンプ地である青島に足を運んだ機会がダントツに多かったのは間違いないでしょう。
 
 私は子供の頃からONの活躍をテレビで見て育ち、現場取材では長嶋監督を多く取材してきました。このコラムでも何人かのスポーツ紙の部長が、ミスターについて書いていらっしゃいましたが、それを読みながら自分も同じ現場にいたなぁと当時を懐かしく思い出しました。
 
 その長嶋監督が、本拠地・東京ドームでジャイアンツのユニホームを脱ぐ勇退の日。私にとって忘れることのできない一日でした。すでに現場には出ない内勤のデスクという立場になっていましたが、これも何かの縁でしょうか、その2001年9月30日、写真部の当番デスクは私でした。
 
 その日の編集会議で、当時としては斬新なアイデアが出ました。スポーツ紙の顔となるフロントページの1面を、記事原稿を極力少なくし写真を前面に押し出して作れないかという提案でした。10年前としては、かなり画期的な試みだったと思います。私にとっても思い入れのある長嶋監督の記念になる日の新聞です。いつまでも読者の心に残るような記念の紙面にしたい…との思いが強くありました。
 
 当日は、現場となる東京ドームに10人を超えるカメラマンを配置しました。
 大量のフイルムがドームから会社にバイク便で届きます。1コマ、1コマ、3000枚以上のコマをルーペで見ながら、どんな構図の写真を使ったらよいのか悩みました。頭の中には、長嶋さんが現役引退試合で見せた最後の挨拶、スポットライトが当たったなかでの正面を向いた姿が思い浮かんでいました。
 しかし、同じパターンではつまらない。どうしたものかと考えていたところ、ふと、監督の後ろ姿が頭にひらめきました。
 
 「そうだ!背中の3番で行こう」と思いたちました。締め切り時間を気にしながら、必死でネガを見まくりました。スポットライトを浴びた背中の3番と長く伸びた影。一塁側に配置したカメラマンが撮影した1コマが目に飛び込んできた瞬間「これでいけるぞ」と思ったことを記憶しています。
 
 後日談ですが、勇退の挨拶で弊社を訪れた長嶋監督が、玄関に飾られたその一面の写真パネルを見て「いい写真ですね」と言われたと聞き、撮影したカメラマンとともに喜びました。
 
 今年のプロ野球は日本ハム・斎藤佑、巨人・澤村などの注目ルーキーに加え、現場復帰した楽天・星野監督など話題が豊富です。近年は昔に比べテレビ中継も減っていて、家でプロ野球を見るような機会も減っているのが一野球ファンとしては少し残念です。テレビの代わりになるかどうかは分かりませんが、インパクトのある写真や記事を提供し、読者の心に響く紙面を届けられれば…と思っています。
 
 報知新聞社写真部長 本戸辰男





2月のコラム


(時事・大高)

【写真】Nさんが愛した佃。高層ビルが並ぶウオーターフロントのそこここに民家も残っている=2007年、筆者撮影
【写真】Nさんが愛した佃。高層ビルが並ぶウオーターフロントのそこここに民家も残っている=2007年、筆者撮影



《Nさんのこと》
 2009年5月、時事通信写真部の元カメラマン、Nさんが亡くなった。享年78。会社員生活の前半を経理部門など事務系の仕事で過ごした。その頃趣味で始めたカメラにのめり込み、アマチュア写真家として台頭。主要カメラ雑誌の年度賞を獲得するなど活躍し、その腕を見込まれて写真部に転属になった。

 Nさんの生涯のテーマは東京の下町。40年以上に渡り、浅草や佃島などにこだわって取材を続け、晩年には写真集も刊行した。N家を弔問した際、「写真のことはわからないから」と遺されたぼう大なネガの取り扱いに悩んでおられるご遺族に、「私に整理させてほしい」と申し出た。Nさんの写真の資料価値が極めて高いことは疑う余地がなかった。この話を「江戸東京博物館」(東京都墨田区)に持ち込んだところ、幸い興味を示してくれ、「どの時代のどんな写真があるのか調べてほしい」と依頼された。

 それから私は休日のたびにN家に通い始めた。Nさんの写真整理は行き届いており、すべてのネガに時系列の通し番号をふった上、それに対応するベタ焼き(コンタクトプリント)を貼り付けたアルバムを残していた。私の仕事はネガとベタを照合して、資料性の高いコマを特定し、そのリストを作ることだった。対象を「昭和期に東京都内で撮影された写真」に限定したが、それでも最終的にリストアップされたネガは2190本、コマ数にして7万705枚に達した。

 「浅草三社祭」「佃の子どもたち」「新宿フーテン族」「下町の紙芝居」―ネガには、私自身も少年期から青年期を生きた「昭和」の気配が息づいていた。感情移入して、作業の手がストップすることもしばしば。デジタル化された現在と違い、フィルム時代は36枚という制約の中で起承転結を表現する。Nさんが現場で何を感じながらシャッターを押しているか、ベタを通して追体験するような感覚にとらわれ、取材の足跡をたどる旅はスリリングだった。

 ベタを見ながら気付いたことがある。Nさんはアマチュア時代の初期、動物園などでの写真コンテストやモデル撮影会に頻繁に通っている。普通、腕を上げ、作品が認められるようになれば、こうした行事は“卒業”していくものだが、Nさんはトップアマになって以降もずっと参加している。私の推測だが、Nさんはそこで知り合った写真関係の友人知己との交流を大切にし続けたのだろう。「写真家先生」になって仲間の輪から離れることを潔しとしなかったのではないか。いい意味でのアマチュアリズムを手放さなかったのが、半生に渡って写真を撮り続ける原動力になったと思う。

 写真は続けた者が勝ち。何かを好きになって始めることは簡単だが、人間は必ず飽きる動物だ。控えめなNさんには「表現者として同時代の現実を切り取ってやろう」などという大げさな野心はなかったはず。だが、その作品群は当時の時代性を何重にもまとって底光りしている。特別な気負いや覚悟がなくても何十年と取材活動を続けられたのは、Nさんがごく自然に写真に寄り添っていたからだ。好きでい続けられるのが最大の才能だ。

 Nさんのネガは今、同博物館に移って学芸員の手で守られている。Nさんの人生は幕を閉じたが、その分身ともいえる写真はこれから新しい旅に出て、いろんな人たちとの出会いが待っているだろう。

時事通信社写真部長  大高正人





1月コラム・年頭挨拶


(事務局・花井)


あけましておめでとうございます。
今年も皆さま方のご多幸をお祈り申し上げます。

 日本橋三越本店で開かれた「2010年報道写真展」(10年12月17日〜26日)は成功のうちに閉幕しました。日本人女性2人目の宇宙飛行士、山崎直子さんと、プロ野球日本一の原動力となった千葉ロッテマリーンズの井口資仁選手のテープカットでスタート。新聞やテレビが取り上げてくれたこともあり、連日満員の盛況ぶりでした。1月8日から3月6日まで、横浜市の日本新聞博物館に会場を移して展示されます。

 昨年、報道展について触れた朝日新聞の「天声人語」に、「急ぎ足で会場を回って、政治の沈滞をスポーツと宇宙が埋め合わせた年だと思った」とありましたが、正鵠を得た指摘です。社会全体を閉塞感が覆う中、バンクーバー冬季五輪やサッカーW杯南アフリカ大会での日本人選手の活躍、オーストラリアの星空で燃え尽きた探査機「はやぶさ」の光芒は、一縷の希望を与えてくれたと言ってもいいでしょう。

 09年は政権交代で「歴史が動いた年」と言われたのが嘘のように、10年から11年の年明けにかけて民主党の政権運営は「混迷」の様相を深め、おとそ気分どころではない「一寸先は闇」の状態です。年の瀬に小沢一郎元代表が政倫審出席を表明したものの、これら諸問題がこじれれば、民主党の分裂含みで政局は一気に緊迫化するでしょう。4月には統一地方選があります。昨夏の参院選大敗以来の民主党の退潮に歯止めが掛かるのかどうかも注目されます。
 
 明るい話題としては、「ハンカチ王子」こと斎藤佑樹投手のプロ入りが挙げられます。天性のスターである彼が活躍すればフィーバーは間違いなしでしょう。また、東京都墨田区に建設中の「東京スカイツリー」が今冬に竣工予定。開業は12年春ですが、「カウントダウン」騒ぎが今から目に浮かびます。

 今年も、東京写真記者協会の写真記者ひとりひとりが「国民の知る権利」に応えるべく努力していきましょう。その記録は「時代の証言」であり、権力をチェックするとともに、弱い立場の人たちの代弁者の役割も担っています。同時に、年々レベルアップする企画ものに見られるように、ひとりの表現者として、豊かな想像力を1枚の写真の中に存分に羽ばたかせてくれることも期待しています。

2011年1月   東京写真記者協会
  事務局長・花井尊





12月のコラム


(共同・上妻)

【写真】横綱白鵬が初場所14日目に琴欧洲を下してから、九州場所初日に栃ノ心に勝って63連勝を達成するまでの全取組(左上から横に右下まで)
【写真】横綱白鵬が初場所14日目に琴欧洲を下してから、九州場所初日に栃ノ心に勝って63連勝を達成するまでの全取組(左上から横に右下まで)



《白鵬の連勝》
 大相撲の東横綱白鵬が九州場所2日目に平幕の稀勢の里に寄り切られ、初場所から続いた連勝は63でストップ、戦前に双葉山が記録した史上1位の69連勝には届かなかった。
 しかしその後連勝して優勝決定戦では平幕・豊ノ島を優勝決定戦で下して5連覇で17回目の優勝を果たした。平成18年(!)以来の日本人力士の優勝はならなかった。
 
 報道カメラマンとアマチュアとの違いのひとつは、スポーツ写真が撮れるかがポイントになる。大きな望遠レンズを自在に扱い被写体の動きの一瞬を切り取る技術は、競技、選手の知識、集中力や運動神経、運など多くの要素があるが、撮影ポジションもそのひとつだ。
 プロ野球は一塁、三塁、センターなどのカメラマン席、サッカーもゴールライン後方など決められた取材席からの撮影になる。ヨット、ボートは水上から撮影できない限り相当離される。被写体から近いほど良い写真が撮影できるチャンスが多い。では間近から撮影できるスポーツは何か?
 
 大相撲取材は制限が多いが、近くから撮影ができる。「砂かぶり」といわれる土俵の東西審判員の並びの最前列で撮影できる。12人が土俵を囲み、日替わりで取材位置がずれる。ボクシングなどの格闘技系があるが、中腰の姿勢での撮影になる。2メートルの距離でじっくり座って取材できるのは大相撲ぐらいだ。決まれば迫力のある写真が紙面に載る。しかし危険が伴う。「うっちゃり」、「寄り倒し」など土俵際でもつれる相撲は、力士が「降ってくる」のを覚悟しなければならない。カメラやストロボの破損は当たり前で、けがをする時もある。
 
 蔵前国技館で取材していた頃、腰高で投げられやすい高見山の取り組み時には緊張した。手前に力士が来たときには逃げ方を考えながら、シャッターをどこまで切るかとっさの判断をせまられた。デスクがフィルムを見ればわかるので逃げるわけにもいかなかった。白鵬の63連勝中の決まり手を見ると、「寄りきり」19回、「上手投げ」17回、「押し出し」、「すくい投げ」と続き、砂かぶりのカメラマンにとっては比較的「安全」な横綱だ。
 
 7月の名古屋場所。相撲協会は野球賭博問題の影響を受け、優勝力士への天皇賜杯を辞退した。白鵬は賜杯のない千秋楽の表彰式で涙を流した。「何回も優勝している自分でも変な気持ちになるのだから、ほかの力士が優勝したら大変な思いだったと思う。そういう意味で自分が優勝してよかった」とのコメントは素晴らしかった。
 
 九州場所で13連勝。連勝が続くと今度は、来年の名古屋場所で大記録達成になる。

2010年12月
共同通信社ビジュアル報道センター写真部長 上妻聖二





11月のコラム


(NHK・坂本)

転覆した「第一幸福丸」から4日ぶりに救助される乗組員=NHKヘリから(動画から静止画に変換)
転覆した「第一幸福丸」から4日ぶりに救助される乗組員=NHKヘリから(動画から静止画に変換)


《伝えること》
 1年前の10月28日、八丈島近海で撮影したこの映像は、新聞の複数紙が一面で掲載してくれたことから、昨年、初めて東京写協の報道展に出品させていただいた。メディアの違いについて、選考過程でさまざまな議論はあったと思うが、いろんな意味で記念すべき映像となった。こんなチャンスも、もうなかなかないだろう。
 
 行方不明となった漁船の乗組員が転覆した漁船から4日ぶりに奇跡的に救出される瞬間をとらえたものだが、とにかく、尊い命が救われた瞬間であったことが見る人を感動させたと思っている。おかげさまで、このテレビ映像は、今年度の新聞協会賞を受賞することができた。テレビの強みは映像と音。上空のヘリコプターからの空撮のため、助かった本人の肉声を聞くことはできないが、水中から日常の空間に戻ってきた瞬間、乗組員が、最初になんと発したのか、その言葉が想像される。
 
 日ごろから事件事故をはじめ、緊急報道では、早さ、正確さ、決定的瞬間を競っている各社だが、読者や視聴者の期待に応えるには、より多様な発信が必要だと感じているのは共通した意識だろう。最近、明るいニュースがめっきり少なくなった中で、久しぶりに心和らぐ話題が映像とともに地方から届いた。
 
 地方局のカメラマンが提案したリポートの内容は「飛行犬」。連日の盛りだくさんのニュースで、放送が延び延びになっていたが、先日やっと全国放送になった。
 「飛行犬?」。かつて「潜水犬」といった話題もあり、はじめは、ゴーグルでもして、パラグライダーでもするのかと思っていたら、ほんとうに飛んでいる!?
 (※残念ながら、著作権の関係で掲載はできないが、興味のある人は、一度「飛行犬」で、検索を・・・)
 
 記念写真にとどまらないインパクトのある犬の写真が撮れないか、兵庫県の地元の写真館から独立したカメラマンが、そう考えていた時にたまたま撮れたのが、空を飛んでいるかのような躍動感あるこの写真。記念写真に満足しない愛犬家たちが、全国からそのインパクトのある写真に魅せられ、集まってくる。
 
 取材したカメラマンによると、年々、口コミやネットで噂は広まり、1日に最高で30匹、年間にのべ3000匹もの犬たちが飛行犬になろうと飼い主に連れられてくるそうだ。中には、飛行犬になるには少し適齢期を過ぎた犬もいる。なんとか元気なうちに、その姿を写真に納めたいと思う主は、日ごろの運動不足もなんのその、息を切らしながら、愛犬と共に全力疾走する。その願いをプロがその技術で写し込む。時には、望遠レンズで写す秒間10コマの連写でも、成功するのはたった1枚。飼い主の切なる思いを受け、その一瞬にプロの技で応えようとする話と愛きょうのある写真に、思わずほほえんでしまった。
 
 わたくしごとだが、わが家の飛行犬候補生は、御年15歳。いまだ、独身。このニュースを見て、プロの技で・・・という気持ちもあるが、最近は持久力も衰え、果たして、飛べるのか、いや、宙に浮くのか、自信はない。
 
 1枚の写真をめぐる人々の思い、カメラマン自身が撮影するだけでなく、こうした思いを映像で伝えるのも、大切な役目だと思う。
 
 スチルとムービー、いま、その距離は確実に縮まっている。スチルカメラにハイビジョン動画撮影機能が加わり、ハイビジョン映像からは、高画質の静止画が加工できるようになった。これまでどおり、手法の違いはあれど、映像・写真で人々に感動を伝えるという思いがカメラマンの原動力となっていることに変わりはないと思っているが、このボーダレスな動きは、これから、カメラマンたちにどのように影響を与えていくのだろうか。
 
 そうしたこれからの変容の可能性とともに、ただ歴史を記録することに満足するのではなく、映像を通して、その周りにある人々の思いをどれだけ伝えることができるのか、カメラマンのカメラマンたる存在理由が、よりいっそう求められていくだろうと感じている。

NHK
報道局 映像取材部長
坂本 務





10月のコラム


(日刊・森田)

【写真】巨人・小笠原がはじき返したインパクトの瞬間
【写真】巨人・小笠原がはじき返したインパクトの瞬間


《写真力》
 ありのままを写しとること。またその写しとった像…。

 あらためて「しゃしん」を辞書でひいてみた。すると、このような文言が最初に出てくる。実は現場時代はプロ野球を中心にペンの世界が主戦場。半年前に写真へ移って以来、毎日膨大な数の写真を前に「ありのまま」の重みをかみ締めている。

 私たちが日々接することが多いスポーツも例外ではなく、この原稿を書いている9月のある1週間も、そんな思いで写真に接した。手前みそで恐縮だが、たとえば次のような写真が小紙に載った。
 ◆サッカー日本代表のFW森本がグアテマラ戦で先制のヘディングシュートを決めたシーン。タイミングがドンピシャの写真は森本と相手DF、ボールとともに、森本の頭から汗がほとばしっている様子もとらえていた。
 ◆巨人が中日に敗れ3位に転落した試合で、小笠原が中飛に倒れたシーン。バットが球をはじき返したインパクトの瞬間をとらえた写真は、バットの中央が捕手側にしなっていた。常識ではバットの先端が捕手側にしなるはずだが、球威が勝ったのか? そんな想像をたくましくさせるシャッタースピード5000分の1が見せてくれた世界。
 ◆エンゼルス松井のバットの握りが変わっていることに担当カメラマンが気づいた。構えたときの左手親指のバットへの添え方と、左ひじの角度。小さな変化だったが、並べて掲載すると一目瞭然だった。

 こうして文章にすると、私の筆力が乏しいこともあって何と分かりづらいことか! いや、だからこそ写真が求められるのだ。写真に力があれば、説明はいらない。

 そんな「ありのまま」を写しだすすごさや奥深さをかみ締めながら、写真とカメラマンの世界に引き込まれ続けている。

 もちろん、一瞬を切り取るために必要なのは技術やタイミングだけではない。担当カメラマンによれば、松井のフォームが小さなところで変化していることに気づいたのは、打撃練習を毎日望遠レンズを通して見ていたからだという。こんな話も聞いた。1シーズン、プロ野球を取材していると、投手の癖が分かるという。好、不調が顔や態度に出やすい投手もおり、そんな投手が多いチームもあるとか。

 ニュース写真以外でも、説得力が増す「ありのまま」がある。たとえば、投手がよく口にする「腕を振る」。ある投手が得意のカーブを投じた際、球が手から離れる瞬間を横からとらえると、なんと指先より球が後ろ側に写っていた。

 カメラマンにとっては、このように写真が撮れることは特別なことではないという。肉眼では知りえないシャッタースピードと望遠レンズの世界で、いくつもの「引き出し」を秘めながら、いざというときの1枚を生み出そうと格闘しているのだ。そんな魅力的な世界の仲間に入れてもらって半年。私自身、まだまだ発見をしたいし、力のある写真を読者に一枚でも多く届けたいとの思いを強くしている。

 日刊スポーツ新聞社
 写真グループ長 森田久志





9月のコラム


(デイリー・佐藤)

殺人スライディング
【写真】1992年11月、秋季キャンプでスライディングの見本を示す巨人・長嶋監督=宮崎市民球場(筆者撮影)


《殺人スライディング》
 1992年秋、ミスタージャイアンツ・長嶋茂雄の監督復帰に日本列島は沸き返っていた。私も少年時代に憧れた一人で、この商売を志したのもミスターに会いたい一心からだった。第一志望の報知新聞には書類選考で振るい落とされ、なぜかデイリースポーツに拾われることになったのだが・・・・。
 
 そしてミスターが監督として始動する秋季キャンプを取材する幸運に恵まれた。以前このコラムにサンスポ・藤原部長も書いていたが、私も毎朝5時に巨人軍の宿舎へ行ったクチだ。まだ若い盛りだから、朝まで飲み明かしその足で宿舎へ行った。結局、キャンプ中にミスターが散歩に出ることはなく、張り込みは失敗に終わった。正確に言うとキャンプ序盤に一度散歩に出ようとしたらしいが、ロビーに大勢の記者、カメラマンがたむろしているのを見て取りやめたらしい。後日ある人から聞いた。あれだけ多くの人間がいて目撃情報がまったくなかったのは、皆ロビーのソファーで眠っていたからだ。
 
 そんな狂騒曲が鳴り響くある日の昼下がり、原稿の打ち合わせで巨人担当の鬼キャップが私に言った。「今日の原稿は“殺人スライディング”で決まりだな!」目をぎらぎらさせ、かなり興奮していた。
 
 「?????」何を言っているのかさっぱり理解できなかった。「そうか、おまえいなかったな。長嶋さんがスライディングを教えたんだよ。なんだったら1枚あげようか?」やりとりを横で聞いていたSニッポンのベテラン、Kカメラマンが教えてくれた。ミスターから目を離すという最大の愚を私は犯してしまったのだ。デスクや先輩からは「ネガをもらうな!」という厳しい教育を受けている。生きた心地がしなかった。
 
 その直後、放心状態でグラウンドを見ていた私の目に、ライトポールへとダッシュするミスターの姿が見えた!私もカメラと400ミリをぶら下げライトポール目がけ追いかけた。必死だった。ウサイン・ボルト並?のスピードで走りに走った。そして何とか追いついた。
 
 カメラを構えた瞬間、ミスターが「足をカギカッコにして〜」と長嶋語を発しながら「ザザザー!」と芝生を滑った。肩で息をしながら懸命にシャッターを押した。人差し指がわなわなと震えていた。ミスターは私のため?にもう一度パフォーマンスを見せてくれたのだ。その時は本当にそう思った。とても56歳とは思えないほど格好よかった。
 
 だが“殺人スライディング”にはとても見えなかった。横にいたNスポーツのUカメラマンにおそるおそる取材した。
 「さっきの(スライディング)はどうだった?」
 「まったく一緒ですよ。今の方が絵的にはいいかも」
 
 彼は絶対にうそをつかない男だ。生き返った気がした。残念ながら1面ではなかったが、紙面に穴を開けるという最悪の事態は免れた。Kデスクに殴り倒される心配もなくなった。
 
 18年たった今でも、ミスターが夢に出てくる。派手なパフォーマンスを見せるのだが、なぜか私がカメラを持っていなかったり、シャッターが落ちなかったりする。そして目が覚める。額には脂汗が浮いている。その原体験が“殺人スライディング”にあるのは間違いない。
   
 
デイリースポーツ写真部長
佐藤 厚





8月のコラム


(東京中日スポ・星野)

日本がワールドカップに初出場したフランス大会の開幕戦でスコットランドに勝利して喜ぶブラジルのサポーター=1998年6月11日、パリ・サンドニ競技場で 【写真】日本がワールドカップに初出場したフランス大会の開幕戦でスコットランドに勝利して喜ぶブラジルのサポーター=1998年6月11日、パリ・サンドニ競技場で
(筆者撮影)


「『W杯』にちょっと違和感」
 オールスターゲームが終了して、プロ野球はいよいよ後半戦に突入しました。古くから日本人は節目を大事にしてきましたが、報道の世界も例外ではありません。ワールドカップやオリンピックなどの大イベントでは、「開幕まで一年」や「あれから一ケ月」など節目に合わせた紙面を作成します。特にスポーツ紙ではプロ野球のキャンプインやペナントレース開幕日は特別な日で、各社が独自の視点で一面を競い合います。担当カメラマンも選手と同じような高揚感や緊張感を持ってその日を迎えているはずです。オールスターゲームが終わるとシーズンの折り返し。球団、選手にとっては大きな節目で、好位置にいるチームはさらに上を目指し、下位に甘んじているチームは心機一転の巻き返しを図るチャンスです。ファンの心躍る好ゲームを展開して、一面をにぎわしてほしいものです。
 
 冒頭から「オールスターゲーム」や「ワールドカップ」「オリンピック」と記してきましたが長たらしく、さらに片仮名が多くて読みにくく感じませんか? 新聞ではそれぞれを「球宴」「W杯」「五輪」といった略表記を用いて紙面化しています。見出しや記事の字数が限られている新聞ならではの工夫ですが、文章がコンパクトになる上に、文体も滑らかで全体的に読みやすい紙面になります。今ではテレビや雑誌にも使用され、読者にも広く受け入れられている略表記ですが、「W杯」については多少論議があるようです。私の回りにも「あまり好きな言葉じゃない」という人は少なからずおり、サッカーが好きな人ほど違和感を持っているようです。
 
 「五輪」は五大陸を五色で表現したシンボルマークを由来とした素晴らしい言葉だと思います。読売新聞社の記者が考案したと言われていますが、オリンピックという壮大なスポーツの祭典を端的に表現しながら、日本語としても美しいと思います。「球宴」もまあまあでしょう。「オールスター」を直訳したわけではなく、野球をイメージしながら、華やかさとお祭り気分のような雰囲気が伝わってきます。対して「W杯」には由来や創造性がなく、肝心な世界観もありません。そもそもW=世界とするには無理があり、事務的な言葉の域を出ていません。
 
 では、どう略表記すればよいのか。「World Cup」をそのまま日本語に置き換えると「世界杯」となり、何の大会なのかわからなくなります。では頭文字を取るとどうなるか。「WC」…これはちょっと。結果として「W杯」となったのもやむを得ないような気がしますが、さらに発音も問題です。「ダブルはい」なのか「ダブリューはい」なのか。どちらにしても語感がよろしくありません。今回の南ア大会のテレビニュースを注意して聞いていたら、アナウンサーは「ダブルはい」と発音していましたが…。
 
 スポーツに限らずワールドカップを冠する催しが乱立していますが、ワールドカップと言えばサッカーのワールドカップのことを指します。その正真正銘のワールドカップを「W杯」と記すことや、「ダブルはい」と呼ぶことにファンは違和感を覚えるのでしょう。新聞紙面は略表記のオンパレードで、日々「新語」も誕生しています。むろん読者の立場に立って考えた言葉なのですが、評判の良いもの、お叱りを受けるもの玉石混合です。先ほど「南ア大会」と記しましたが、次回の2014年ブラジル大会はどう略されるでしょうか。漢字の「伯剌西爾」は馴染みが薄いので頭文字をとった「伯大会」になることはないでしょう。「ブ大会」もまさかとは思いますが、テニスのデビスカップを「デ杯」と略す新聞業界ですから少し心配です。
 
 当たり前に使っている略表記や言い換えが、実は事の本質を損なうことになっていないか。「W杯」が「絶対ダメ!」とは思いませんが、新聞を生業とする私たち自身が節目、節目に見つめ直す、考え直すことが必要だと考えます。あれこれ愚痴のようなことばかり記してきましたが、何か「W杯」に代わる素晴らしい略表記はないでしょうか。世界観があって、夢や熱気を感じられ、そして日本語としても美しい…。次大会までにどなたか妙案を!
 
 
東京中日スポーツ
写真部長 星野浅和





7月のコラム


(夕刊フジ・清藤)

速報が“命”の夕刊紙


 《速報が“命”の夕刊紙》
 夕刊紙といえば、仕事帰りのサラリーマンが満員電車の中で身を小さくして読んでいるイメージが強い。きわどい見出しで駅の売店に並んでいるアレだ。中身は政治からスポーツ、ギャンブルにゴシップ、三面記事のなんでもござれ。
 
 世のお父さんたちが酒の肴にしたりと“役立つ”?情報が満載。当然、写真も多岐にわたる。政権交代など世間の耳目を引く出来事があると、一面は政治一色。芸能スキャンダル発覚ともなると、連日追っかけまわす。
 
 元グラビアアイドルでストリップデビューしたKさんの場合がそうだった。浅草の劇場の出入り口全てにカメラマンを張り付けるライバル紙もあった。うちは朝からエース一人を投入。「Tスポ、すごい人数来てますよ。応援は(出してくれますか)?」「今はなし。スポーツ(担当デスク)に頼んで昼から出すわ。ま、それまで一人でがんばれよ」非情な命令を出さなければならない。
 
 Kさんは報道陣のあまりの騒ぎように、劇場に入るのを躊躇していたようだ。結局夕方近くに裏口から入ろうとしたKさんは100人近い報道陣に囲まれる始末。もみくちゃになりながらの“撮影会”。うちのエースもどうにか撮れたようだ。芸能ネタは、尽きない。結婚、離婚、不倫。薬物汚染なんて事件にからむこともある。
 
 覚せい剤取締法違反の罪で起訴された女優のSさんが、拘置されていた警視庁東京湾岸署から保釈されるのは夕方の4時過ぎの予定だった。通常の夕刊フジの締切り時間はとうに過ぎている。編集局長の「事件発覚後、初めて公の場に出るSさんの表情を一面に載せたい」との判断で、すでに4人のカメラマンを送り込んでいる湾岸署に写真の電送要員として写真部員を追加した。
 
 頭を下げ、神妙な面持ちのSさんの写真が本社へ送られてきたのは10分後だった。さっそく紙面が刷られ、山手線の主要駅の売店に並んだ。速報が“命”の夕刊紙ならではのドタバタ騒ぎだった。
 
 さて、夕刊紙の速報は芸能、事件ばかりかというと、そうではない。欧米で行われるスポーツイベントは、日本時間の未明から昼ごろが多い。メジャーで活躍するイチローや松井の試合はデーゲーム、ナイターで時間のずれはあるが夕刊時間帯である。今まさに開催されているサッカーW杯南アフリカ大会では、日本代表がデンマークを3対1で破り、決勝トーナメント進出を決めた試合が終わったのは朝方。朝刊各紙は号外を出さざるを得ない時間帯だ。
 
 夕刊フジも号外に負けていられないと、締切り時間を1時間以上早めて出稿。写真はリアルタイムでAP、ロイターの海外通信社や共同通信から続々と配信されてくる。もちろん産経新聞グループからも2人のカメラマンを特派員として送り込んでいる。
 
 本田だ、遠藤だ、岡ちゃんだと写真選定は盛り上がる。結局一面はAPの写真を使ったが、特派員の写真も掲載できた。このページに添付した写真は、左側が当日の夕刊フジの一面。右側は「前垂れ」というもので、駅の売店で新聞の束の前に垂れ下げ、当日の紙面の読みドコロを紹介するためのものだ。
 
 イチ押しがある場合は大きく写真を使って目立たせることもある。興味をひく写真があったら一度ご覧いただきたい。
 
 
夕刊フジ写真報道局
写真部長  清藤 拡文





6月のコラム


(報知・多田)

W杯とカズ
W杯とカズ


《W杯とカズ》
 このコーナーで何を書こうかと思い悩んでいた時、テレビニュースでカズ(三浦知良)がサッカーW杯南アフリカ大会の日本代表発表について、記者に囲まれている映像が流れてきた。インタビューに真摯に答えているカズを見ていると、今更、カズでもないだろう≠ニいうせつない思いがこみ上げてきた。それは私があの瞬間≠目撃した一人であるからだろうか。無性にカズを書きたくなった。このコーナー「コラム」にそぐわないのかもしれないが、カズのことを書かせてもらう。
 
 あの瞬間≠サれは「ドーハの悲劇」。サッカーファンのみならず、多くの日本人の記憶に刻まれた93年サッカーW杯アジア最終予選の最終試合。イラクに勝利すれば悲願の本大会初出場が決まる一戦のロスタイム、イラクのオムラム・サルランに同点ゴールを決められ、Jリーグ元年で浮かれていた、我々の夢物語は現実の世界へ引き戻され、目を覚まさせられた。
 
 当時、まだインフラが整備されていなかったカタール。衛星回線用のパラボラアンテナを持ち込んだ社もあったが、各社でカタール・テレコムに交渉に行き、何とか国際回線を確保。フィルムの時代だったゆえに40℃のカラー現像液を保つため、魔法瓶に液を入れホテルから競技場に持ち込んだ。余談だが、サポーターで来ていた岐阜・金津園のソープのかわいいお姉ちゃんたち≠ェ隣のライバル社に差し入れに来るのを横目でながめたり、試合開始前から、あわただしい1日が始まった。
 
 試合開始時間が16:15(日本時間22:15)。早版に間に合わせるためには、私は開始10分しか撮影できない。前半5分、運良くカズの放ったシュートが、ゴール裏で構えていた私のファインダーに飛び込んできてくれた。後の取材は同僚に任せ、臨時のプレスルーム(会議室)からカズの写真を送信。しかし、同じ競技場にいながら試合の経過が分からない。
 
 後半25分、東京本社でテレビを見ているデスクから中山が勝ち越しのゴールを決めたと連絡が入り、フィルムをピックアップするためにピッチに走った。洗面所で現像を終え、プレスルームに戻る途中、韓国関係者が待機していた部屋から歓声が上がった。
 
 私は不吉なものを感じながら、戻ったその時だった、目の前の電話が鳴り、「ダメだ!同点だ!」それは東京のデスクからの悲痛な叫びだった。私もとっさに「ダメ?」と大声でデスクに聞き直した。周りにいた各社のカメラマンが送信の手を止め、凍りついた。そして時間が止まり、すべてが終わった。
 
 ピッチに座り込んだ選手の中でも、日本中の期待を一身に背負っていたカズはW杯を機に世界に飛躍しようと考えていただけに、落胆ぶりは計り知れないものがあった。82年、カズは15歳で単身ブラジルに渡り、90年には「サントスFC」でレギュラーポジションを獲得した。当時、ブラジルの国民的英雄のF1ドライバー、アイルトン・セナの活躍で、F1もサッカーと並んで人気スポーツだった地元では、ウィングのカズはF1に参戦していた同じ日本人の中嶋悟と比較され、「ナカジマは全然走らないが、カズはよく走る」と称賛されていた。
 
 90年、帰国して読売クラブ(現東京V)に入団。その後の活躍は言うまでもない。カズは少年時代、周りの大人たちから「長嶋茂雄」の話をよく聞かされていた。チャンスに強く、ファンやマスコミにもサービス精神が旺盛な長嶋さん。監督時代、自らポーズを作ってくれたうえ、我々カメラマンとアイコンタクトをとり、首尾よく撮影できたかどうかを確認し、次の行動に移ってくれた。
 
 カズもまた、記者に囲まれると、次の日の見出し≠ワで考えて話してくれた。いつの日かサッカー界の長嶋茂雄≠ノなりたいと思う気持ちが、長嶋さんに会ってからますます強くなっていった。
 
 しかし、「キング・カズ」と呼ばれ、頂点に登りつめたカズだが、W杯には縁がない。98年、フランスW杯の直前合宿の地スイスで、メンバーから外された。体調が万全ではなく、プレーにも陰りが見えてきたカズだったが、日本代表を引っ張ってきた男に岡田監督は非情にも帰国命令を下した。カズを残すぐらいの余裕≠ェ岡田監督にはないものかと思ったのは私だけではなかっただろう。
 
 カズは髪を銀色に染めて帰国。長嶋さんが、自分であって、自分ではないもう一人の「長嶋茂雄」を常に意識していたように、カズも「キング・カズ」を演じなければならなかった。あの銀髪はその表れだったのだろう。
 
 今年で43歳になったカズだが幾つかのチームを渡り歩き、現役を続けている。今回の代表発表でも岡田監督の口からカズの名前は呼ばれることはなかった。翌日、テレビカメラの前でカズは、次回は母国<uラジルだから、行きたいねと話していた。母国の日の丸を背負って、母国≠フピッチに立つために、今日も走り続けるそんなカズに拍手を贈りたい。
 
 報知新聞東京社編集局

 写真部長 多田隆一





5月コラム


(東京・伊藤)


 《新聞の原点》
 写真部に着任したのは昨年6月。あの時、この部に来て、すぐに頭に浮かんだ言葉がある。それは「現場」。外へ次々と飛び出していく部員の後ろ姿を見ていて、反射的に浮かんできた。
 
 新聞の世界に入って30年が過ぎた。ずっと書き手、ペン記者の道を歩んできた。事件でも、事故でも、街だねでも、いつも現場で取材を重ねてきたように思っていた。なのに、写真部に来たら、その「現場」という言葉がなぜか新鮮だった。どうしてか。知らぬ間に、現場から遠ざかっていたような気がして、寂しく、そして恥ずかしい思いがこみ上げてきた。
 
 弊社のことでやや申し訳ないが、約6年前、横浜市の日本新聞博物館で「東京新聞創刊120年展」という催しが開かれた。タイトルの通り、さまざまな展示品によって弊社の120年の歴史を紹介する企画展だったが、当時、横浜支局にいた私は開催の数日前から博物館に足繁く通い、展示品の陳列などの手伝いをさせられた。かなりの重労働。ただ、展示する際に内容をひとつひとつ確かめるため、昔の新聞記事や写真をじっくりとながめることができた。そんな中で、ある記事に目が止まった。
 
 弊紙の前身「都新聞」の記事だった。明治時代に刺殺事件を起こした美人芸者の出獄をスクープしようと、都新聞の記者が張り込み取材する。その現場の様子をこの記者は雑感記事に仕立てていくのだが、この記事が実に生々しく、現場がにおうように書いてある。観察力の鋭さ、表現力の見事さ、現場での粘り…。明治の大先輩の文章を読んで、脱帽した記憶がある。そして、強く感じたものだ。新聞の原点は、やはり現場だと。
 
 当たり前だが、写真は現場に行かなければ話にならない。しかしながら、記事は必ずしもそうではなくなってきた。伝聞、あるいは電話取材…。現場に行かなくても、現場の様子を書き上げる二次的な手段がある。ただ、それに甘えてはいないだろうか。そんな考えがいつも頭の片隅にあったし、新聞全体が甘えの構造に浸食されていくような気がしてならなかった。
 
 通信手段の飛躍的な進歩、官公庁などの行き届いた広報体制、過度になりがちなプライバシーの保護…。そんなさまざまな要素が現場をさらに遠ざけていく。
 
 新聞がおもしろくなくなった、と以前から言われてきた。当たっていると思う。ならば、おもしろくするには…。記者が現場で苦労して撮ってきた写真に多くの手がかりがあるように思える。単純に、素直にそう思う。記事も、現場や現実にもっと肉薄しなければいけないのではないか。やはり、それが原点だろう。
 
 そんなことを考えながら、「現場」を頭によみがえらせてくれた写真部に、感謝している。


東京新聞編集局

写真部長 伊藤憲二





4月のコラム

(サンスポ・藤原)


プロ野球開幕


 プロ野球が開幕しました。我々スポーツ新聞のカメラマンにとって、プロ野球の開幕は特別な日です。選手たちと同様に私たちカメラマンもキャンプ、オープン戦で競い合い、開幕を迎えます。開幕戦は144分の1だと言う人もいますが、我々スポーツカメラマンにとっては唯一の試合なのです。
 
 カメラマンの担当競技、担当球団が決まるのは前年12月です。サンケイスポーツの場合、部長やデスクが協議して決定します。そして、忘年会の席で発表するのが恒例となっています。20代頃の私は、担当の発表前には夜も眠れず、ワクワクして発表を待ったものでした。担当球団を持つことで、1年の仕事の流れが決まるからです。
 
 担当球団が決まると、カメラマンはキャンプ地の宿を予約します。1ヵ月間過ごすのですから、宿の立地、環境はとても重要です。今年は西武ライオンズに入団したスーパールーキー・菊池雄星選手の人気が高く、キャンプ地・宮崎県南郷町の宿が報道陣で一杯になりました。担当カメラマンは宿の確保に苦労したようですね。
 
 キャンプ期間中は朝から晩まで取材の連続です。1992年、長嶋茂雄さんが2回目の巨人の監督に就任した時に、報道合戦がピークに達しました。監督が第一次政権時、未明に散歩に出かけたという情報から、私たちは警戒のために朝5時に起床し、巨人の宿舎に張り込みました。監督が宿舎をこっそり抜け出して近所の青島神社に参拝するという噂もあり、一部のカメラマンは夜明け前に神社の境内に張り込みました。賽銭箱の陰に隠れ、タバコを吸おうと点したライターの炎で他社のカメラマンの顔が暗闇に浮かび上がり、「お化け!!」と悲鳴を上げたカメラマン同士のエピソードは、今では笑い話です。
 
 夜は浜辺に三脚を立て、超望遠レンズで巨人の宿舎で行われる素振り部屋を監視しました。長嶋監督が現れて、誰かを指導したら一面です。こうして紙面に載らないところでもカメラマンの戦いは続くのです。
 
 夜間練習取材後は、決まって宿の近くのスナックで、各紙のカメラマン揃って酒盛りが始まります。実はこれにも意味があります。他社と飲む事で“抜け駆け”を防止するのです。皆が揃っていれば安心して飲めるということです。
 
 2月のキャンプが終わると、3月はオープン戦で各地を転戦します。地方でのオープン戦では予想できないハプニングも起きます。私が最も印象に残っている出来事は前橋で行われた巨人対ヤクルト戦でおきました。残念ながらゲームの中ではありません。それは試合終了後に起きました。両軍の移動用バスは珍しく同じ駐車場に隣り合わせで停められていました。バスに乗り込む両軍選手に混ざって、ヤクルト・野村監督がやってきました。そして、誤って巨人のバスに乗り込んでしまったのです。当時長嶋監督と野村監督は犬猿の仲と云われ、リーグ優勝を常に争うライバル同士でした。もちろん、試合当日も我々のいう「カラミ」(一緒に写真に写ること)はありませんでした。
 
 野村監督がバスに乗り込むと、監督席には長嶋監督が座っていました。野村監督の驚いた様子がその背中に現れていました。そして、お互い気まずそうに挨拶を交わしました。私たちはバスのフロントガラス越しに夢中でシャッターを切りました。
 
 野村監督の名誉のために付け加えますと、取り巻きの記者と話しながらバスに誘導されたための“失敗”だった気がします。もちろん、間違って乗り込みそうな野村監督を見て、我々カメラマンが「しめた!」と思ったことは言うまでもありません。
 
 こうしてカメラマンは、キャンプ、オープン戦と切磋琢磨し、デスクに怒られながら、やっとの想いで開幕を迎えるのです。選手同様「開幕一軍」を目指して・・・。



サンケイスポーツ写真報道局
写真部長 藤原重信





3月のコラム

(朝日・渡辺)


富士
 《新聞写真に思うこと》

 2月1日付けで、朝日新聞東京本社編集局の写真センターマネジャー(写真部長)に就任しました。入社以来28年間、あくせく現場を駆け回ったのが16年で、残りの12年はデスク稼業です。

 写真の原点は究極のスナップだと思っています。「写真は記録。写さなければ意味がない」とよく言われます。なにげない街角の風景やその時代を写した事象など、そこに切り取られている情報量が写真の命ではないでしょうか。

 取材現場を離れて久しいのですが、「いつでも現役復帰」との心構えでカバンのなかにはコンパクトタイプのデジタルカメラを持ち歩いています。スナップが中心ですが、変貌する都心の街並みなどを撮りためています。

 なかでもこだわりをもっているのが「富士山」です。静岡県人としての愛着もありますが、帰省の際や出張時の車窓などから機会があえば撮影しています。おととしまでの福岡勤務時代はその楽しみをさらに満喫できました。羽田発福岡行きの航路が富士山上空を飛行するコースだったからです。山梨県側からみる富士山は裏富士なのですが、その四季折々でみせる姿がなかなか美しく輝いています。早朝便のときなどは「前方左窓側」の席を事前に予約。雲間に隠れてみえないこともあれば、美しく輝く姿、伊豆半島までがくっきりみえる秀峰に一喜一憂しました。

 通常われわれがする空撮とは違い、この撮影は航空会社の機長判断しだいですので、せっかく天気が良くても山の真上過ぎて見えないときもありで、ほんの一瞬しか見ることができない富士山撮影はスリリングでなかなかの醍醐味でした。

 新聞社におけるここ二十数年の最大級の変革は写真でしょう。ものすごいスピードで技術革新が進んだ新聞写真はあっという間に取材した結果が瞬時に得られるデジタル時代に飲み込まれていきました。入社以来、さまざまな出来事に遭遇し取材してきましたが、当時はフィルム全盛のアナログ時代。先輩たちから的確で迅速な暗室処理を求められ、四苦八苦の連続だったことを覚えています。

 しかし、その手作り感のある写真プリントはとても丹念につくられていて、紙面で写真の訴求力を高める重要な役割を担っていました。デジタル化によって写真は誰もが撮れるようになったこともありますが、その表現力が若干淡泊になったような気がするのは考えすぎでしょうか。とはいえ、その速報力は絶大だと痛感していますが。

 朝日新聞に残される約480万枚の古き良きニッポンを伝えるプリント写真。この膨大な写真も順次データベース化され、公開していく予定です。デジタル化の波のなか、動画も注目されているが、個人的にはやはり人々の心に残る印象度の強い一枚の写真にこだわっていきたいと思っています。よろしくお願いいたします。


 
朝日新聞東京本社報道局
写真センター長(4月から組織変更)
渡辺 幹夫





2月のコラム

(日経・山田)

わが家に来たばかりの康平
山田康平1

現在の康平と私
山田康平2
≪まあまあのいいニュース≫

 山田康平、3歳(推定)。2007年5月、わが家にやってきた。その年の1月ころに生まれ、都内の公園に潜んでいたところを保健所に捕獲、収容された。それをドッグシェルターという団体が救い出し、里親を希望するわが夫婦に出会いの機会を与えてくれた。
 体重が4キログラム強しかなかった当時の康平は、人見知りが激しく、よちよち歩いてはすぐに私の背中の陰に隠れた。まともなものを食べていなかったのか、お腹の中にはずいぶん虫がいた。少し大きくなって外を散歩できるようになっても、車や自転車が近くを通ると体を震わせて怯え、匍匐(ほふく)前進した。捕獲、収容された経験がトラウマになっているようだ。
 犬の3歳は立派な大人だ。体重も17キログラムに増え、顔つきも凛々しくなった。外出時の匍匐前進の癖は直らないが、番犬としての役割も覚え、カラス、野良猫、不意の来客には果敢に吠える。勤め帰りの私には、激しくしっぽを振って出迎えてくれる。 
 毎朝、近所の公園までの散歩を日課としている。うれしそうに飛びついてくる康平。私はそれを両手でしっかり抱き止め、心臓の鼓動を聞き、ふさふさした毛に顔を埋め、「康平、康平」と呼びかける。最高に幸せな瞬間だ。これを康平も私も、毎日毎日、飽きもせず繰り返している。不思議なのは、何百回やってもこの幸福感が一向に色褪せないことだ。
 ナシーム・ニコラス・タレブという文芸評論家が書いた「ブラック・スワン」という本に、おもしろい記述があった。ちょっと長いけど引用してみる。

  実際のところ、幸福はいい気分の強さより、いい気分になった回数のほうにずっと強い影響を受ける。心理学者たちはいい気分になることを「ポジティブ感情」と呼んでいる。言い換えると、いいニュースはとりあえずいいニュースだ。どれだけいいかはあんまり関係ない。だから、楽しく暮らすには小さな「ポジティブ感情」をできるだけ長い間にわたって均等に配分するのがいい。まあまあのいいニュースがたくさんあるほうが、ものすごくいいニュースが1回だ けあるよりも好ましいのである。

 人間は太古から、飲んで、食べて、寝てという原始的な行為の継続にささやかな喜びを感じるように作られている、とタレブは言う。慧眼(けいがん)である。科学が進歩し、職業が多様化し、生活が複雑さを増したとしても、この原理は変わらないのかもしれない。
 そんなことを考えていると、近年の新聞報道が読者を惹き付けなくなっているのも、何となくわかってくる。一人の政治家を失脚させなければ日本はだめになると叫び、基地問題が合意通りに解決しなければ日米関係が戦争状態に陥りそうなほど悪化するとがなり立てる。小さな事実を伝えるよりも大仰な提言で一面を飾ることを好み、読者の不安と焦燥をあおる。それでなくても日々の生活は苦しいのに、新聞を読むともっと辛くなるというのでは、たいがいの人は新聞を放り投げるだろう。
 どうすればいいか。確信は持てないが、タレブの言葉を信じて、まあまあのいいニュースを、できるだけ長い間にわたって、継続的に紙面に載せる努力をするというのもありのような気がする。ということで、2010年は、記事も写真も「まあまあのいいニュース」に注目したい。 


日本経済新聞社編集局
写真デザインセンター長 兼 写真部長
山田 康昭



2010年 年頭挨拶

(事務局・花井)

 明けましておめでとうございます

 皆様のご清福を心からお祈り申し上げます。今年もよろしくお願いします。

 昨年暮れ、日本橋三越本店で開催された「2009年報道写真展」は、天皇、皇后両陛下の行幸啓を仰いだほか、09年のマン・オブ・ザ・イヤーと言える鳩山由紀夫総理夫妻が来場。また、ご自身も写真を撮影される高円宮妃久子さまも鑑賞に来られました。VIPの相次ぐ来場が影響したのか、入場者は三越調べで約4万人以上と、一昨年と比べ約1万人増となりました。50回目の節目にふさわしい活気溢れる報道展となり、開催にご尽力いただいた関係者各位に改めて感謝申し上げます。

 会場に展示された約280点の作品を一点一点頭に浮かべてみると、写真記者が事件事故、スポーツ、話題ものなどを追い求めて真摯に、中には命がけでシャッターを切った力作、労作ばかりです。写真という媒体が持つ、強いメッセージ性を再認識させられた思いです。来場者に自由に書いていただく「感想ノート」には、今年も「感動した」「思いの宿った写真に言葉を忘れた」「さすがプロカメラマン、うまい」などお褒めの意見が多く寄せられました。一方で、「皇室の写真が多すぎる」「テレビで見たものばかりだ」などとちょっぴり辛口な意見も頂戴しましたが、われわれはこうした声も謙虚に胸に抱き、成長の糧にしなくてはいけません。
 
 さて2010年は、2月にバンクーバー冬季五輪、6月にサッカーW杯南アフリカ大会と大きなスポーツイベントが控えています。後半に入ると、7月に参院選挙が予定されています。政権交代後、初の大型国政選挙であり、有権者が参院でも民主党に単独過半数を与えるか、自民党が巻き返せるかが焦点です。結果によっては、政界再編のうねりが起きかねません。また、10月にはCOP10(生物多様性条約第10回締約国会議)が名古屋で開催。地球環境問題に重きを置く鳩山政権のもと、日本のイニシアチブでどこまで有意義な枠組み作りが進むのかが注目されます。

 以上のように、今年も写真記者の出番は目白押しです。社会の隅で苦しんでいる人たちの現状を、スポーツ選手が描く伸びやかな表情を、政治家が繰り広げる人間の機微の一瞬を、写真記者たちがどう切り取って伝えてくれるのか、今から期待が膨らみます。われわれの責務は、月並みですが、読者のためにより早く、正確な、分かりやすい写真報道を心がけることです。愚直に取材対象にぶちあたっていけば道は開けてくると信じています。今年も元気印で、自然体で、やりぬきましょう。


2010年1月
東京写真記者協会
事務局長・花井 尊


12月のコラム

(共同・上妻)

土下座
≪レトロ写真≫

 11日の総会で君波昭治・前常任幹事から業務を引き継ぎました。よろしくお願い申し上げます。
 10月まで在籍した写真調査部では昔の写真を見ることが多かった。昨秋から、共同通信は自社著作物を利用した発信の視点で毎日1枚「レトロ写真−あのころ」の配信を開始し、約1年間、出稿作業を担当した。過去に起きた日付をキーワードにして、数年から数十年前の写真に100字から150字の写真説明を付けて配信するもので、社の倉庫やデータベース保存の写真を新たに発信して活用を図るのが目的。

 写真探しは手探りの状態。発掘は写真部OBの方にお願いした。資料写真の著作権の確認や事実関係の調査、画像の修復など思いのほか手間がかかる。写真は「懐かしい」「ほのぼの」がキーワード。しかし、これらの写真に説明を付けるのが大変。アルバムの日付は撮影日なのか送信日なのか。撮影場所も無いのが多い。説明はやはり当時の新聞の情報が最もあてになり各紙の縮刷版を参考に作業した。

 「だっこちゃん」「フラフープ」「月光仮面」「力道山」「街頭テレビ」など見る人を昭和へいざなうテーマも発信できたと思っている。また、歴史的な節目の「終戦の日」「ミズーリ上の降伏」など重要なテーマも取り上げた。また、全然知らなかった新発見のテーマもあった。ひそかに自分の写真も潜り込ませた。

 8月15日付「太平洋戦争が終結」の写真は、同盟通信時代の大先輩の撮影。現在手元に残っているのは35ミリフィルムで15コマのネガ。終戦の日の写真について新聞社から取材を受けたこともあり大先輩のネガをじっくり見た。これが面白かった。
撮影時間は全コマとも、昼前後、天候は晴れ。前半に兵隊か、もしくは軍服姿の集団が行進している背景に皇居・二重橋が見える。一般の人も多いが表情が暗い。しかし、座り込んでいる人は見当たらない。

 後半のコマには、正門前で座り込んでいる人、泣いている人、直立している人、歩いている人が見え、国民がいろいろな思いで終戦を迎えた事実を伝える貴重なシーンとなった。
写真はあまり被写体に近づかずに撮影されている。全体的におとなしい印象。

 一連の写真は当日加盟社に送られた記録はない。撮影した内容から見ると、脚立を使用した形跡ない。泣く人も遠くから望遠レンズでまとめている。自分だったら被写体にワイドレンズでもっと寄って撮影したいと思うが・・。おそらく翌日に紙面には絶対に掲載されない群集のシーンを撮影したのも、終戦の日に何があったかを冷静に伝えようとしたのではないだろうか。

 結果的には当時各紙に掲載された「土下座」以外の写真も残った。古い写真を見ると撮影者の「息遣い」が伝ってきて、しばし「タイムスリップ」する楽しみを味わうことができた。


2009年12月
共同通信社ビジュアル報道センター写真部長 上妻聖二


11月のコラム

(産経・佐藤)

≪時代は変われど≫

 以前、弊紙のコラム欄に、カメラのデジタル化がもたらした写真記者の仕事の変貌ぶりについて書いたことがあります。フィルムカメラ時代の取材体験を織りまぜながら、最新のデジタル技術を大いに利用し、写真表現の更なるレベルアップに努めていきたいという思いを読者に伝えました。その一方で、デジタルカメラしか知らない入社したての若手の写真部員に、普段はあまり口に出して言えないような話を、『この場を借りて』アナウンスしたいという思惑もありました。

 「フィルム世代は、どうがんばったところで36回シャッター押したらそこで一区切り。ピントは手動、露出もマニュアル。フィルム交換を計算したり、思ったとおりに撮れているか不安になったり、出張先のホテルではバスルームで現像液の温度管理をして慎重にフィルムを現像。ネガからベストショットを選んだら電話機に電送機をつないで、20分近くかけて1枚のカラー写真を送っていたけれど、今じゃ、カードでいくらでも撮り放題。画像もその場で確認できて、軽くて薄いノートパソコンで加工したら、その場からピューンといっぺんに送り放題の幸せな時代に新聞社のカメラマンやってるんだから、もっと斬新な写真を撮って紙面をもっと面白くしてくれよー!」という(かなり長い解説ですが)、熱い思いを行間に滲ませつつ、エールを送ったわけです。

 果たして、その思いが通じたのかどうかわかりませんが、コラムを読んだ、ある若手女性部員から、「昔は写真を撮った後にフィルムを現像したり、電送も、ものすっごーく時間がかかったり、本当にたいへんだったんですねぇ〜」と、慰めと哀れみが入り交じったような、なんとも名状しがたい表情で見つめられた後に、「でも、今は便利な時代になって本当によかったですねっ!」と明るく屈託のない、実にストレートな感想をもらったのですが、私はフンフンと頷きながらも、「そんなに昔かなぁ。うーん、なんかリアクションがちょっと違うなぁ」と心の中でつぶやきつつ、「まっ、そんなもんか」と妙に納得した次第でした。

 無理もないです。デジタル世代の若い写真記者に、アナログ世代が経験した職人的な技術など理解できるわけありません。二十数年前の新人時代に、先輩カメラマンやデスクから、「一枚勝負!」のような緊張感あふれる取材現場の話を聞いた時に、「そりゃ、たいへんだわ。今はモータードライブとズームレンズがあってよかったなぁー」と、ノーテンキに思った感覚に少し似ていると思ったからです。それにしても昔の写真記者って、今振り返ると思わず笑ってしまうような、「家内制手工業的」な作業が多かったような気がします。

 今、デジタル時代の最前線で働く写真記者は、アナログ世代とは性格のまったく違う職人技や苦労を背負いながら仕事をしているように思います。写真を撮る以外にパソコン上ですばやく画像を選んで的確に処理できるエディター的能力や、どんどん改良が加わるデジタルカメラや通信機器に精通した「メカを使いこなす」能力も求められます。プライバシーや肖像権の高まりで、昔では思いもよらなかったトラブルに遭遇することもあり、取材上の制約も以前に比べ増えつつあります。撮った写真が紙面に掲載されるまでの過程が劇的に進化したことで、極端に言えば、ひとりで仕事を完結することも可能です。前述の女性部員が言うように、本当に便利な時代なのですが、フィルム時代に写真記者の青春を過ごした身からすれば、仕事の流儀があまりにも変わってしまいました。

 あの頃も、写真記者は個人プレイヤーではありました。でも、取材した写真が紙面化されるまでの間に、いつも誰かが介在していたような気がします。たとえば暗室の中で、皆でワイワイ議論したり騒いだりしながら写真を批評しあったり、表現力やプリント焼きの上手な技術を学んだり、現場の失敗談を聞いたり・・・、とても感傷的ですが、「人の匂い」を感じながら仕事をしていました。
パソコンが何台も並んでいる職場では、今日も次代を担う写真記者が黙々とディスプレイに向かっています。彼らの背中を眺めつつ、あの牧歌的でアナログチックな日々を懐かしむ今日この頃です。


2009年11月
産経新聞社 写真部長 佐藤一典


10月のコラム

(東スポ・米田)

「張り込み」に思う 「張り込み」に思う

 夏休み期間中は「政権交代」の総選挙で美人候補者や当落予想でも特集しようかなぁ・・・
なんてのんきな事を考えていたら、お盆前にほぼ同時に起きた押尾学と酒井法子の2つの事件で、てんやわんやの大忙しになってしまった。毎年8月は弊社のような駅売り主体の新聞は「夏枯れ」といわれる現象に見舞われ、部数が落ちるのが常なのだが、読者のこの事件への関心の高さからか、わずかながら販売部数を伸ばしてくれた。

 ネタを拾ってくる記者ももちろん大変だが、なにより大変だったのは現場カメラマンだ。逮捕や送検で警察車両の透かし撮りは私自身も何度か経験があるが、いざ本人を乗せた車両が来る時には独特の緊迫した空気やアドレナリンが出て戦闘体制に入る。場数を踏めば踏むほど落ち着いて撮れるようになるのだろうが、最初のうちは違う人物を写してしまったりガラスにストロボが反射したり、あるいは光ってなかったり、ギラギラとした感じが目立ちすぎて警官に邪魔されたりと散々な思い出がある。

 今回の事件の中継を見ていても、規制されているエリアもあっという間に無法地帯になり、カメラマンが転んでいたり機材がふっ飛ばされていたりと、まさに昔と変わらぬ修羅場だ。ロス疑惑の三浦和義逮捕、オウム真理教の強制捜査で極寒、濃霧、悪臭、雨でぬかるむ上九一色村の張り込み。「絶対に負けるなよ!」と先輩に送り出された思い出がよみがえる。

 先日の押尾被告保釈の際には関東に接近した台風11号の影響で強風と土砂降りの雨の中、三田署や三田署以外の持ち場で保釈の時に備え、ずぶぬれになりながら張り込んだカメラマンの苦労を考えると現場は大変だとつくづく思う。もちろん取材にはもっともっと過酷なものもたくさんあるだろう。しかし現場を離れて今、記憶に残る思い出とは、こういった修羅場で同業他社の方と同じ目的のミッションに参加し小競り合いや助け合いをしたという一体感が一番の良い思い出だ。「同じ釜の飯」を食ってきた仲なのだろう。

 現場にいたものだけが撮れる写真はうそをつけない。どこの社がどこで何を撮ったかも瞬時にわかる。事件現場は、みんなが公平に撮れるわけではなく明暗が分かれる現場だ。現場にいなければ撮る権利さえないからお地蔵さんのようにどんな状況でもひたすら待つ。あるときは非情な運にも左右される。撮れたのか撮れなかったのかで疲労感は天地ほど違う。撮れれば祝杯、撮れなければやけ酒だ。

 通常の取材と違い「張り込み」は待ち時間に情報交換をしながら飛び交うデマにもざわめき翻弄される。時にはさまざまな暇つぶしをしながら自身のいろいろな事を考える時間もあるだろう。
長くいればいるほど、交代要員と交代するとすぐにチャンスがやってきそうで交代したいのに交代したくなくなる。そんなジレンマとも戦いながら有事の際のリハーサルをして無念無想の境地に到達する。

 今は部員を送り出す立場だが、きっとみんな悪条件の取材に腐らず、修羅場を前向きに経験することで自信を持ち、よりステップアップしてくれると信じている。

2009年10月
東京スポーツ新聞社 編集局
写真情報システム部長 米田和生


9月のコラム

(時事・渡瀬)

≪いい写真とは≫               

 仕事柄、「いい写真を撮りたい」とか、「いい写真を撮れ」とか言うが、それでは「いい写真とはどんな写真?」と考えることがある。知人に「これはいい写真だね」と話しかけた時、「ええーっ?!」と否定的な反応もあれば、「そうね」と同意される時もある。

 一般的に写真の「いい悪い」は、人の感性が判断の基準なのだろうか。個性的な芸術作品ならば「感覚の差」で片付けてそのままにしておけるが、我々が携わっている新聞写真を含む報道写真はそういうわけにはいかない。記録性に加え、ニュースを読者に伝える役割が大きいので、「写真も自己表現の一つ」として内容が伝わらなくてもいいや、と済ませるわけにはいかないのだ。かといって中味が伝われば絵柄はどうでもいいというわけでもない。そこが難しい。

 その点スポーツ写真は分かりやすい。記録性はもちろんだが主な基準は「迫力がある」か、「美しい」か、で決まり、「いい悪い」がすぐに分かる。写真を見れば競技名も分かるし、構図もきれいなものを選んで出稿するので、極端な話をすれば、100点か0点の場合が多い。

 反対に事件、事故などは、記録性、証拠性という要素が入ってくるので、その要素が強ければ強いほど構図や絵柄が悪く、迫力がなくてもボツにしない。少々ピントがあまくてもそれしかなければ使用する。この手の写真は「証拠写真」と呼んでいた。これはこれで必要な新聞写真で、テレビドラマの裁判シーンで使われる殺人現場の写真を想像すると分かりやすい。現場を忠実に写すことを目的にしているので証拠能力は高いが写真表現としての構図の遊びなど、取材者の個性、感情は出ていない。

 かつて取材した米価審議会の答申取材は、答申が出る時期が分からず、農水省の別館で張り込んで大臣に答申を手渡すだけの数秒のセレモニーを撮った。これこそ答申が出たという「証拠写真」の極みだ。当時はデスクに「生産者が掲げる『むしろ旗』が並ぶ写真のほうがよくないですか?」と売り込んだ。なぜむしろ旗を推したのか。それは答申場面よりも生産者が生活の実情を訴える言葉を書いたむしろ旗のほうが「絵」になっていたからだ。この「絵」になっていることが「いい写真」の条件の一つではなかろうか。

 米価審議会答申は双方の顔が見える場所を確保するための技術は必要だが撮影そのものは高度な技術がとくに必要というものではなく、モチベーションは上がらなかった。図柄もただ答申を渡しているだけで感動も与えない。紙面で見せられている読者も「答申が出た」という記号として何気なく見ていたのではなかろうか。ニュース写真として「絵」になっていなかった。

 写真撮影は技術が必要だ。写真の意図を正しく伝えるにはそれなりの技術がないと写真表現はできない。では技術で「絵」にすればそれでいいのだろうか。

 以前、この道何十年の撮影歴があるプロ、アマ写真家の作品の中にたった1日、コンパクトカメラを渡された小学生たちが自由に写した作品を展示した写真展があった。そのベテラン写真家たちには申し訳ないが、子供たちの写真の方がよかった。写真家の風景写真は構図などしっかりしていて「絵」になっていた。逆にこどもたちの写真はそれなりの構図であまり「絵」になってはいない。だが感じるまま素直に撮っているのか人物の表情がいいし、身近な風景の色などがとてもよかった。

 なぜそう感じたのだろうか。違いは撮影時の感受性や感動の度合いだと思う。子供たちは感動しながら写真を撮っている。「きれい」、「おもしろい」と思えばそれらをストレートにとらえていた。写真家は技術に頼りすぎて感動の表現を置き忘れていたような気がした。

 いい写真の条件が少しわかったような気がしてきた。同レベルの写真家が一つの被写体を撮った場合、構図、シャッターチャンスが同じなら「いい写真かどうか」の分かれ目は、自分が感動して撮影しているかどうかが分かれ目になるのではなかろうか。つまり被写体への入れ込み具合で写真に差が付く。感動して撮影するとなぜか見る人にそれが伝わっていく。

 報道における「いい写真」の条件とは記録性があり、しっかりした技術に支えられた表現で、見る人にニュースを的確に伝え、感動を与える写真と定義されるのではないだろうか。見る人にいい写真と感じてもらうには最後の味付けとして、自分が感動して撮影したかどうかがキーポイントになると思う。

 しかし、まだまだ「いい写真とは」の思考は続く。


時事通信社写真部長 渡瀬啓一郎


8月のコラム

(日本農業・大石)
安全の押し問答 「安全の押し問答」 


 「なぜ取材をさせないのか、理由は?」「おたくの社の希望にはそえません!」。その日、私は港区にある東京都中央卸売市場食肉市場の正門前で、都の職員と1時間にわたって押し問答した。

 2001年9月に千葉県内で発生した得体の知れない牛の病気、牛海綿状脳症(BSE)に国内の畜産農家は頭を抱えた。人間に感染する可能性もあるとの海外事例もあり、消費不振が極まり牛肉価格は大暴落、市場取引も中止になった。

 国はこの事態に対応するため、国内の牛をすべて検査する緊急対策に乗り出した。当時、取材記者だった私は、「検査済みの牛肉のせりを再開する」との内容の東京都の会見に出席した。せり場を記者に見せ、別室で市場長が概要を説明し「検査済みの枝肉には安全の判を押します」と発言し、会見は終わった。

 この内容をデスクに伝えたところ、「判を押した枝肉の写真をすぐに送稿しろ」との指示。「撮影の時間は設定されていませんでした」と答えた後は、電話口からお定まりの言葉が飛んできた。「ばかもん、何とかしろ」。ここから都の職員と押し問答が始まったのだ。こちらは牛肉の安全性をアピールする原稿と写真を撮りたい一念。しかし、頑な都職員の態度は覆らず。「もういい。頼まん。自分で何とかする」と一撃をかまし、知り合いの仲卸業者に直談判。「そうゆうことなら、力になるよ。ついてきなさい」と市場内の冷蔵庫に案内され、同行の写真部記者(現・福本卓郎写真部次長)が快心のショット。これに「安全の太鼓判」の見出しを付けて、紙面に掲載することができた。このカットはこの年の報道写真展で展示されたことは記憶に新しい。

 食料自給率が4割を切る日本。国産、輸入物を問わず、食の安全は全国民の願いだ。生産、流通、消費の一連の流れを、カメラで追い続けていきたい。

2009年7月
 日本農業新聞社 写真部長 大石雅敏


7月のコラム

(デイリー・菊地)
広陵  


 「オレにできるかなあ?」
 「大丈夫ですよ。教えた通りやればいいんです」
 「でもなあ…」
 「じゃあ、お願いしましたよ。よろしく」
 忘れもしない。06年10月3日深夜、広島、流川通りの入り口にあるデイリースポーツ広島支社での私とSカメラマンの会話である。当時の私は支社の編集部長だった。その夜は翌日に山口・下関球場で開催される秋季高校野球・中国大会準決勝の打ち合わせをするはずだった。地元の広陵が山口・宇部商とセンバツ出場権を賭けての大一番である。
 しかし、突発的なアクシデントが起こり、Sカメラマンは取材をキャンセルすることになった。打ち合わせは急遽、“急造カメラマン”養成の場となった。
 私も若い頃はカメラ片手(もちろん、コンパクトカメラ)に取材に出向いたことはあるが、大型の望遠レンズを使い、ましてや観客席からの撮影は経験したことがなかった。支社は一人が何役もこなさなければならない。幸運かそれとも不運か、私にはそれまで機会が回ってこなかったのだ。
 翌日の下関球場。記者席でスコアをつけずに、50歳の記者は肩にずっしり食い込むカメラとともに、内野席をウロウロしていた。ピントを合わせて、エエッとばかりにシャッターを押す。カシャカシャカシャッ。機械音が響く。記者席と内野席を往復する。狙いは絞った。絞るしかない。エースの野村祐輔だ。(そうです。明治の野村です)1イニングが実に長い。広陵が2点リードのまま、試合を終えてゲームセット。「ベンチ前のナインの表情を撮った方がいいかな」と思いつつ、ベンチ裏で喜びのナインを取材する。ついでに野村にボールを持たせてポーズを取らせる。中井監督も押さえておいた。
 宿舎に帰って写真をチェックし、何枚も送る。これがまた、時間がかかる。なのに、写真部のデスク曰く、「使えるのが少ないですねえ」と冷たい一言。さらに付け加える。「ついでに試合後のヤツもお願いします」
 結局、高校野球が1面となる。ギョッ、明らかにピンぼけだ。ありゃ、試合後の写真も使っているではないか。赤面の至りではあるが、なんとか1面を張れたという充実感と同時に、肩の荷がスーッと降りた。
 「だから言ったでしょう。なんとかなるって」
 「ああ、そうだな」
 5日夜、支社内で再び2人の会話。そう、私は彼にこう言ったことがある。「最近はカメラの性能が上がって技術よりも、使い慣れる方が大事らしいな」
 彼は黙っていたが、私はこの憎まれ口を悔やんだ。確かに性能には助けられたが、結局、ものをいうのは写真を撮る人間のセンスであり、技術だ。それにやる気だ。「やる気はあってもセンスはどうかな。ないわな」東京本社に帰って、机の中に大切にしまってある当日の新聞を眺めながら、私はつぶやくのである。 

009年6月24日
デイリースポーツ東京本社
編集局次長兼写真部長・菊地 順一



6月のコラム

(日刊・福永)
グラウンドにあふれた観客 「1948(昭23)年、後楽園球場で行われたプロ野球東西対抗でグラウンドにあふれた観客」 


 社内事情のはなしで恐縮です。先日、昭和21年の創刊以来ストックされているネガフィルムとベタ焼きアルバムの引っ越しを行いました。恥ずかしながら、弊社編集局はここ10年頻繁に引っ越しを行い、そのたびにネガフィルムなども移動を余儀なくされてきました。このたびやっと“安住の地”を得られ写真資料を余裕あるスペースにまとめることができた、というわけです。弊社でもアナログからデジタルへの移行は以前から進めているのですが、その元となるフィルムなどは保存しています。これらを見ることはとても楽しい作業です。その時代を過ごしたわけでもないのに懐かしさを覚えたりしています。写真からは昭和という時代を感じることはもちろん、スポーツ界、芸能界などの変遷なども読み取れます。デジタル世界で生かされている身にとっては、どれも新鮮です。
また、歴代の先輩カメラマンが残された作品を見てつくづく、味があるな〜、と感じます。選手の表情が生き生きしていたり、写真のきりとり方が斬新です。今、味のある写真がどれほどあるのかといえば疑問符がつくばかりです。より速く現場写真を紙面に反映することができる今の仕組みに文句をつけるつもりはありませんが、手であわせていたピントがオートフォーカスになり、暗室作業がフォトショップになって以降、何かが抜け落ちた感覚があります。無駄を省いたことによって無くしてしまったものがあるような気がします。今後、カメラマンを取り巻く環境はさらに変化するでしょう。もちろん時代が求める変化に対応しなければいけませんが、忘れかけているかもしれないカメラマンとしての矜持は大切にしなければなりません。撮影という行為が単なる作業で終わってしまえば、見る側の共感は得られないはずです。写真資料室を見渡し、歴史を振り返りながら何となくそんなことを考えていました。

2009年5月
日刊スポーツ新聞社編集局写真部長 福永 力
           


5月のコラム

(朝日・山川)
アイ・コンタクト


 新聞記者になって30年近く、20年弱は取材記者、その後の10年ほどはデスクなどを務めました。ペンの記者として写真記者とはタッグを組んで、いくつかの仕事をしてきました。ここに掲げた写真は、その中でも強く印象に残る1枚です。
もう今から15年も前、当時の日曜版のフロントページに大きく掲載されました。撮影したのは同僚の清水隆君(現在は大阪写真センター)です。
 この写真とともに掲載した私の文章はざっと次のような内容でした。
ケニアの首都ナイロビ郊外の路上に、へその緒がついたままの赤ちゃんが捨てられていた。その子は拾われ、孤児院に運ばれた。まったく泣かないので調べるとエイズに感染していた。「すぐに死んでしまうだろう」とみんなが思ったとき、その孤児院の一人の女性看護師がこの子を抱きしめ続けた。数ヶ月して泣き声、そして笑い声が聞こえだした。懸命に生きようとしている。この看護師は、難しい子どもをこうして何人も救ってきた。その力の源泉はどこにあるのか。
写真は看護師と、この赤ちゃんが見つめ合う姿をとらえています。「一番大切なことは何か」という私の質問に、彼女は「アイ・コンタクト」と答えました。清水君は、その言葉が形になる瞬間を逃さなかったのです。文句なく、すばらしい写真です。
記事にはさまざまな反響がありました。NHKの「中学生日記」という番組でドラマの題材となり、教師がこの写真を使って授業をしているシーンを記憶しています。
思えば、このときは別の取材も含め、清水君とは1ヶ月以上一緒に旅をしました。出かける前、旅の最中、私がどんな取材をしてどんな記事を目指しているのか話し、語り合いました。以心伝心とまでは言いませんが、ペンで表現しようとしていることとカメラの呼吸がぴったり合うと、とても気持ちがいいものです。
昨年秋、東京写真センターの一員になり、この欄を担当するにあたって、そんなことを思い起こしました。



2009年4月
朝日新聞東京本社編集局写真センター

マネジャー・写真部長 山川 富士夫



4月のコラム

(スポニチ・森沢)
WBC連覇


 日本が見事にWBC連覇を達成した。決勝戦の相手は、今大会5度目となる韓国だった。これは敗者復活戦が組み込まれるダブル・エリミネーション方式の弊害だったが、主催者側からすれば狙い通りの集客をもたらした。前大会のように失点率で順位が決まるリーグ戦は、見ている側からすれば分かり難いかも知れないが、色々な国の対戦が見られて楽しいと思う。
 試合は延長10回5−3。頂点を決定する試合にふさわしい好ゲームだった。試合を決めたのはやはりイチロー。一夜明けの会見で「本当に美味しいところをいただきました。ごちそうさまでした。」と本人が言っていたが、報道するこちらも「あなたが決めてくれて、本当にごちそうさまでした。」と言いたい。試合直後には新聞各社が号外を出し、テレビ各局の報道番組は“侍ジャパン連覇”を大々的に放送した。そして翌日は、新聞各社が即売を増刷し、テレビ各局は朝からワイドショーで視聴率を稼いだ。
 イチローの活躍は我々マスコミ以外にも2人の男を救った。1人は民主党・小沢一郎代表。この日、政治資金規正法違反の罪で、小沢氏の公設第1秘書で陸山会会計責任者の大久保容疑者が起訴された。小沢氏は党本部で行われた会見で、涙を流しながら代表続投を表明した。もう1人はお笑いタレントの陣内智則。女優藤原紀香と正式に離婚し、都内で会見した。会見の冒頭で、離婚の原因は自らの女性問題と頭を下げた。もし、侍ジャパンの連覇がなければ一般紙は小沢氏を、スポーツ紙は陣内を大々的に報道していたに違いない。
 2大会連続のMVPに輝いた松坂は、試合後のインタビューで「明るいニュースを日本に届けられてよかった。」と言っていた。100年に1度の大不況、紙媒体の低迷の中で本当にうれしいニュースである。スポーツ紙的には、この勢いのまま4月3日のプロ野球開幕、4月6日(現地時間)のMLB開幕、そして石川遼が出場する4月9日(現地時間)開幕のマスターズと盛り上がってくれる事を期待したい。



2009年3月
スポーツニッポン新聞社写真部長
                             森沢 裕


3月のコラム

(毎日・佐藤)
エゾフクロウ   (北の大地 寄り添ってチュ(08年12月28日の毎日新聞朝刊1面)


 日本橋三越で開かれた08報道写真展には、3万人を超える来場者があったそうです。たくさんの感想の中で、朝日新聞の天声人語(08年12月23日付)からは「愛機に添えた指先から、世界を震わす1枚が生まれる。筆にはまねできない一瞬の技、うらやましくもある」とわれわれ写真記者には励みになる一文をいただきました。また、毎日新聞写真記者が撮った秋葉原無差別殺傷事件の空撮写真も高く評価していただき感謝します。大不況、そして新聞を取り巻く閉塞感の中で、少し元気を取り戻しました。私が感じる閉塞感は部数減などの問題の他に、新聞が世間からうっとうしがられているのではないかという不安感からきています。
 たとえば紙面に家族の写真が載ると、昔は記念にプリントが欲しいと電話がありました。でも今は「なぜ勝手に撮ってネットに載せたんだ」というお叱りの電話やメールがほとんどです。以前は歓迎された取材先にもたくさんの規制が課されるようになりました。人権意識の高まりなど社会状況が変化していることも原因でしょうが、どうも新聞が嫌われているんじゃないかと思えてなりません。
 部員からこんな話も聞きました。サヨナラ列車の出発セレモニーで、大勢の鉄道ファンが報道用に仕切られたスペースになだれ込み、取材現場が大混乱したというのです。インターネット時代を迎え誰もが情報の発信者になりました。もうマスメディアに特権的な待遇は認めないぞ!ということなのでしょう。 
 花井事務局長の年頭あいさつにもありましたが、読者が好む写真とわれわれが重視する写真にも、だいぶズレが出てきたように感じます。最近、毎日新聞で一番反響があった写真はエゾフクロウのスケッチ写真です。酷寒の森で暮らすつがいのフクロウに、自分たち夫婦の姿を重ねあわせて、お便りをたくさんいただきました。殺伐とした世の中で、読者が求めているのは、生々しい現場写真ではなく「癒やし」なのかもしれません。

 「新聞に未来はない」とさんざんいわれています。しかし、ネットでも新聞でも媒体はなんであろうとニュースを責任持って取材する部門は不可欠です。地震、津波、戦争、事件、スポーツ、ファッション・・・国会まで、オールマイティに取材でき、世界中どこからでも迅速に写真電送できるノーハウと経験があるのは各社の写真部だけです。いろいろな面で厳しい時代ですが、新聞が愛され信頼されるメディアであり続けるため、日々の取材に真摯に取り組みたいと思います。



2009年2月
毎日新聞東京本社写真部長 
佐藤泰則




2月のコラム

(読売・池田)


深川事件 1981年6月17日、梅雨入り前のカラッとした晴れわたる下町の商店街で、男が通りがかりの母子や児童など6人を殺傷、そのまま通行人の女性を人質に中華料理屋に立てこもっていた。テレビ局は現場からの生中継を始めていて、写真部に配属以来2か月間、朝から夕までを暗室内で過ごしていた私も、所轄の警察署での取材を命じられた。署に着くやいなや、先輩が使い古したぼろぼろのフィルムカメラで、署に出入りする人物や車を手当たり次第に撮り始めていた。当時はフィルムを本社にオートバイ便で送らなければ現像処理できなかったので、写真説明用紙に何をいつ撮ったかは記入していたものの、回りの雰囲気にのまれて何回シャッターを押したかはまったく気にしていなかった。無線機で「殺害された母子の夫が署に入った」とデスクに連絡、しかも「私しか撮っていない」と宣言してしまったあと、カメラのフィルム巻き上げクランクに手を添えて頭がカーッと熱くなった。クランクが何の抵抗もなく回ってしまったのだ。冷たい汗が一筋背中を流れた。今でもあのときの「バカ野郎!撮れるまで帰って来るな」という無線機が壊れてしまうのではないかというデスクの大きなしゃがれ声が耳に残る。男はその後突入した警官隊に逮捕され、下着一枚で報道陣の前に現れた。人質も逃げ出して無事だった。

恥ずかしながら、今から25年以上も前、私の入社直後の大失敗。連続殺傷事件が繰り返されるたびに頭をよぎる。どなり続けていたデスクの声がまた聞こえ、簡単に命を奪う理不尽な犯行や「誰でもよかった」などの容疑者の勝手な言い分への憤りを倍加させるような気になる。

08年の東京写真記者協会加盟の新聞、通信社カメラマンの最優秀作品を決める協会賞は、毎日新聞写真部小出洋平記者撮影の「秋葉原ホコ天で凶刃に倒れる男性」。生々しい現場で救命措置を受ける男性をヘリコプターから撮影したスクープだ。1枚の写真が伝える事実は重い。 現場の最前線から写真ジャーナリストとして事実を皆さんに冷静にきちんと伝えたい。使命感に基づいた熱意をもって仕事にあたりたい。決して仕事に失敗したから憤るが増えるという理由をつけずに。

2009年1月
読売新聞東京本社写真部長
池田 正一


年頭挨拶

(事務局・花井尊)


あけましておめでとうございます。
まず年頭に東京写真記者協会会員の皆様方のご健康とご活躍をお祈り申し上げ、さらにホームページを見てくださっている方々のご多幸をお祈りします。


のっけから自身のことで恐縮ですが、私こと花井尊は、昨年11月から事務局長に就任いたしました。国民の知る権利に応えるべく東京写真記者協会の発展に微力ながら寄与し、協会の運営を公平公正に運ぶ所存です。どうぞよろしくお願いします。
昨年暮れ、日本橋三越本店で開催した「2008年報道写真展」は、朝日新聞「天声人語」や各紙コラム等、また日本テレビ「ズームイン!SUPER」を始め各局で放映され、さらに麻生首相来場の効果もはたらき、会場入り口のカウント数が2万4千人を超えました。出展数が255点で会場が左右2か所になり、実際見ていただいた方々は約3万人を軽く超えたでしょうと三越側の話です。報道展実行委員をはじめ協力いただいた方々に厚くお礼申しあげます。
その報道展で、自由に感想を書いてもらうノートを置いたところ、満開のカワヅザクラ、花火などのスケッチ写真に多くの関心と問い合わせをいただきました。自分としては正直言って意外でした。これまで新聞社で「ニュース写真で勝負」と粋がっていた自分にとって、反応に若干のずれを感じたのです。


事件事故はもとより四季折々のスケッチ写真も読者に対する大切な情報提供です。報道カメラマンは現場に一番近いジャーナリストです。もちろんニュース写真が王道であり、ジャーナリストとしてさらに真実を追求していくことは当たり前のことです。しかし、混沌たる世の中で恐らく読者はどこかでホッとするもの、季節を肌で感じる写真をわれわれ以上に多く求めているのかも知れません。
さて、昨年は北京五輪、日本人4人のノーベル賞と沸いたニュースもありましたが世界金融危機、無差別殺傷事件、福田首相突然の退陣などおもわしくないニュースが続きました。今年は皆さんがどんなニュースを時代の目撃者として追うことになるのでしょうか。黒人のオバマ米大統領誕生、ワールド・ベースボール・クラシック開幕、裁判員制度がスタートします。しかし何といっても総選挙の年です。そして政界再編はどのような形を見せてくれるでしょうか。目が離せません。
ジャーナリストとして、恐れず、ひるまず、一枚の写真を通して社会の発展、希望あふれる年になるよう寄与していただきたいと期待しています。


2009年元旦
東京写真記者協会
事務局長・花井尊