熊本城でドローンを操縦するカメラマン(左写真)、 リオ市街で3D360度VR撮影の準備をする五輪チームのカメラマン |
「新聞社のカメラマンはどういった写真を撮るのですか?」という質問をたびたび受けます。一番伝わりやすいのは、事件・事故の現場に駆けつける、いわゆる「報道カメラマン!」的なイメージでしょうか。
私はよく「新聞に掲載されるすべてのジャンルの写真」と答えていました。その中には、スポーツや芸能・文化人の取材、季節のスケッチ写真、天文写真、商品撮影、そして、大がかりなスタジオ撮影(本欄2015年1月でお伝えしています)などもあります。かなり広いジャンルにわたって撮影するため、新聞カメラマンはオールマイティーな技量が必要になります。
そして、デジタル時代を迎えたいま、「新聞に掲載されるすべてのジャンルの写真」は、「紙面とデジタル媒体を含めた、すべての映像コンテンツ」という定義にかわりつつあります。もう、すでに多くの新聞社で、スチールカメラマンは動画撮影も同時にこなしています。カメラマンのマルチタスク化です。
私たちの現場には次々と新しい技術が導入されて、取材方法やコンテンツのありようも変化しています。ドローンは撮影位置の自由度を大きく広げ、VRコンテンツは多くのユーザーに現場の臨場感をあますところなく伝えます。
朝日新聞のカメラマンも通常の取材に加えて、例えば熊本地震半年にあたっては熊本城をドローンで撮影し、リオ五輪では現地の雰囲気を3D360度VRで伝え(3Dは一部イベントでゴーグルを着けて体感してもらいました)、銀座のリオ五輪・パラリンピックパレードではライブ中継を手がけました。
※熊本城ドローン撮影 http://www.asahi.com/articles/ASJB65QKCJB6TIPE02P.html
※リオ五輪VR動画 http://www.asahi.com/olympics/2016/vr_panorama/
2016年5月から朝日新聞社は「写真部」の名称を、「映像報道部」と改称しました。あらゆる映像コンテンツに対応していく方針を、名称に反映しました。とはいえ、コンテンツの中心はやはり、写真です。どんな媒体でも、デバイスでも、一番簡便に、そしてストレートに伝えられる「写真」というコンテンツにしっかり向き合いながら、新しい表現や技術に挑戦していきます。
私たちの仕事が広くシェアされる仕組みのひとつとして、遅ればせながらインスタグラムのアカウント( 朝日新聞映像報道部 @asahi_photo )も開設しました。ぜひご覧ください。
朝日新聞映像報道部長 大野 明
上空から撮影したパナシナイコ競技場。1周330メートルのトラックにはヘアピンも =2004年、ギリシャ・アテネ
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アテネ五輪のマラソン女子で金メダルのゴールテープを切る野口みずき =2004年、パナシナイコ競技場
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来年の東京マラソンのゴールはここです。3万6千人のランナーが東京駅を背にゴールします =皇居外苑(いずれも筆者撮影)
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「フォトポジション」
「東京駅をバックにしたゴールは絶対に絵になる」。
今年3月29日、会見で記者団を前に胸を張り、「東京マラソン」のゴール地点の変更を発表したのは、舛添要一前東京都知事です。
首都東京を駆け抜ける東京マラソンは、2007年に始まり、今年2月に第10回大会をむかえました。参加ランナーは約3万6千人で、2013年からは「ワールドマラソンメジャーズ(WMM)」の仲間入りを果たし、世界のトップランナーが出場する大会に成長しました。
東京マラソンは産経新聞と読売新聞などが共催しています。両社が隔年で代表撮影などの幹事業務を務めており、2020年の東京五輪イヤーは産経新聞が担当します。幹事社は、取材を希望する報道各社が滞りなく取材できるように、東京マラソン財団の担当者らと話し合いを重ね、撮影場所(フォトポジション)の変更など調整を繰り返しています。
「舛添さん、簡単に言ってくれるよなあ…」。ゴール地点の変更を知らされたときの率直な感想です。
マラソンと車いす、市民ランナーらが、同じコースを走る東京マラソンは、フォトポジションの設定も複雑です。特にゴール地点は、ゴール後の減速エリアが必要な車いす競技と、マラソンとで、ベストな位置も異なるのです。
東京・大手町の産経新聞本社から、東京駅前のゴール予定地点までは歩いて10分ほど。産経では私がこの7年担当しており、すでに東京マラソン財団の方々と現地打ち合わせを重ねています。
スポーツ写真に限らず、少しでも良いフォトポジションを確保することが成功の秘けつ。どんなに高価な機材を用意しても、撮影場所の差で負けるケースは少なくありません。
これまで夏冬6大会のオリンピックを取材しましたが、マラソン競技に限って言えば、2004年のアテネ大会(ギリシャ)が最も印象に残っています。マラソンのゴールは、1896年にアテネで行われた第1回近代五輪でメーンスタジアムとして使用された「パナシナイコ競技場」でした。
上空から見るとU字型の競技場で、スタンドは総大理石造りです。アテネ郊外の街「マラトン」から42・195キロの距離にあります。歴史的なスタジアムで取材できたことはカメラマン冥利につきるのですが、フォトポジションは決して褒められたものではありませんでした。限られたスペースに何十人ものカメラマンがすし詰めとなり、五輪の聖地≠生かした写真を収めることはおろか、ゴール写真を撮影するのがやっとでした。ただ女子マラソンでは、野口みずき選手が金メダル獲得の快挙。東京の本社からのオファーは笑顔のゴール写真。野口選手に助けられました…。
東京駅をバックにゴールするランナー。
ベストポジション≠ェ設定できればすばらしい光景となるでしょう。政治資金の問題で都知事を辞職した舛添さんですが、これが唯一の?功績となるのかもしれません。
来年2月の東京マラソンでゴールのシャッターを押すのは私ではありません。しかし、パナシナイコでの経験を胸に、報道各社のカメラマンがすばらしい写真を撮れるよう汗をかいています。
2016年7月
産経新聞東京本社写真報道局
夕刊フジ写真部長 奈須稔
被爆者の森重昭さんと抱き合うオバマ米大統領(5月27日、広島市中区の平和記念公園) |
オバマ米大統領が小中学生に手渡した折り鶴(5月27日、広島市中区) |
「運も実力のうち」
オバマ米大統領が広島を訪れた5月27日午後。歴史に残る1枚を撮ろうと、報道各社のカメラマンはそれぞれのポジションで来たるべき時を待った。
舞台となった平和記念公園は厳しい規制が敷かれ、一般の人たちは立ち入り禁止。カメラマンの人数もかなり制限された。重要なポイント3カ所はプール取材=代表撮影となり、いわゆる各社取材になったエリアは1カ所だけ。それも1社2名に限定され、撮影位置を決めるための抽選が行われた。わが社のOカメラマンはくじ運悪く順位は最下位。だが実際に撮影の瞬間を迎えてみないと、そのポジションがほんとうに良くないかどうかは分からない。献花を終えたオバマ氏が被爆者の代表に歩み寄り言葉を交わす場面では、7段脚立の上で600_の超望遠レンズを構え、冒頭の写真をものにすることができた。
一方、献花ポイントの取材からあぶれたAカメラマンは周辺取材にまわった。カメラマンの数が少ない日経の場合、かけ持ち取材は当たり前。被団協記者会見の取材を終え、次はオバマ氏がサインした芳名録の撮影に向かったが、資料館に着いたときには撮影順は最後の方になってしまっていた。撮影が終わってカメラマンも残り少なくなり情報収集のために残っていると、急きょオバマ氏が小学生に手渡した折り鶴を撮影できることになった。残り物に福、とはこのことか。すぐに写真を本社に送信、朝刊紙面用に準備するとともに電子版の公式ツイッターにも投稿。リツイートが3000を超える大きな反響があった。
事前に情報を集め可能なら下見を重ね、どんな取材でもできるかぎりの準備をして写真記者は現場に臨む。今回の広島のような現場にそれぞれの社を代表して取材するのならなおさらだ。実際にうまく撮影できるかどうかはまた別の話でもあるが、ベストの準備をつくしていればこそ、運も味方してくれるというものだろう。それが大きなスクープ写真につながれば言うことなし。そこまではなかなか、うまくはいかないが…。
2016年6月
日本経済新聞社写真部長
鈴木 健
写真@ 1995年6月、新大阪駅ホームで偶然出会う巨人の桑田と西武の清原。 |
写真A 2001年4月、東京ドームの巨人戦で観戦に訪れたプロレスラー小川直也と握手する清原。 |
写真B 2001年4月、ナゴヤドームでの試合前、本紙を手に笑顔の清原。 |
「堕ちたヒーロー」
覚醒剤取締法違反(所持、使用)の罪で起訴された元プロ野球選手清原和博被告が3月17日、逮捕から44日ぶりに警視庁本部から保釈された。その姿をとらえようと多数の報道陣が警視庁前に集結。行き先を報道するために、各社ヘリやオートバイでの追っかけ取材も敢行された。
我が社も8人のカメラマンを投入し、何とか清原被告の姿を撮影できないものかといろんな方法で試みるものの、結果は無残。いまだにその姿はとらえられていない。
あの甲子園のヒーロー、プロ野球界のスーパースターがこんなことになるとは…いまだに信じられない。この私もカメラマン時代に何度か清原被告を取材したのだが、清原被告に対し、他の方々とは異なった印象を抱いている。
高校時代から多数のカメラマンに追っかけられ、プロ野球界に身を投じてからも常にフラッシュを浴び続けてきた。そんな彼は新聞社や雑誌のカメラマンに対して横柄な態度で接してきた。時には「うるさい!ハエ!!」とハエ呼ばわりしたという話も聞いたことがある。西武ライオンズに入団して輝かしい実績を積み、誰もが認める球界のスターとなった清原被告。1992年のあるプロゴルフの大会で初めて取材した。ハワイ・マウイ島で行われていたエキシビション競技にプロとアマが参加する大会を、その日、同島でキャンプを行っていた西武の選手4〜5人を連れて清原が観戦に来たのだった。キャンプ休日で極秘に訪れたのか、西武担当の記者、カメラマンは一人もいなかった。その時彼らに気づいたのは私と某社のカメラマン2人だけだった。エキシビション競技だったため報道陣にはカートが一人に一台与えられていたので「誰のプレーを見たいの? カートに乗せてあげようか?」と私が声をかけると、清原被告は「青木功さんが見たいです。乗せて行ってください」と答えた。そして青木功や王貞治現ソフトバンク会長(当時は野球解説者でアマチュアとして大会に参加)と記念写真を撮ってあげると「ありがとうございました。後で写真頂けますか?」と予想外の受け答えで、今まで聞いていた印象と違い、普通の礼儀正しいスポーツ選手だと感じた。後日球場でその写真を渡すと「ありがとうございます。うわ〜めっちゃくちゃうれしい!」とこちらの方が恐縮するほどの喜びようで、その後も私の顔を見つけるたびに「こんにちは!」とあいさつしてくれた清原被告。この場面を見た他社カメラマンに「清原がカメラマンにあいさつするのを初めて見ました」と驚かれもした。
こんなこともあった。95年巨人担当だった私が巨人選手の移動を新大阪駅で取材中、ケガで戦線離脱して一人で帰京中の清原被告とバッタリ。この時も早めに駅に着いていた私一人だけで、少し会話した後「向こうに巨人の選手がいるよ。桑田もいるから一緒に写真撮ろう!」と言うと「ええですよ。ちょっと待っていて下さい、弁当買ったら行きますから」と、このころでは珍しいグラウンド外でのツーショットが実現したのだった。桑田も前日の登板でケガをしていたため「“傷心の”帰京KKが新大阪駅でバッタリ」の見出しで写真雑感として掲載された。
そして翌年96年に清原被告はFA移籍騒動。担当だった私は当然、清原被告をハエのように追っかけまわすことになる。連日のように繰り返される追っかけや張り込み取材。ある日銀座の街中を報道陣から逃げるように歩く清原被告を「悪いな、これも仕事だからさぁ」とフラッシュを浴びせる私に「人の道を捨ててますね」と怒りをぶつけてきた。今思えば、どっちが人の道を捨てているのか…。
これで良かった関係も終わりだなと、当時は少し落ち込んだ。
そして清原被告は巨人にFA移籍。無視されてもあたりまえ。しかし、彼の態度はそれほど変わらなかった。あいさつすれば答えてくれるし、写真を持って行けば「ありがとうございます!」と笑顔。格闘家が球場を訪れ、一緒に写真を撮りたいと言えば「ええですよ」と即答。一度、東スポらしい1面で格闘家の体に清原の顔を合成してファイトする写真を載せたことがあった。この写真を見て喜んでいたと人づてに聞いた。その新聞を持って写真を撮らせてと頼むと「ええよ」と自らグラウンドに出て東スポを広げた。巨人に来ても、私にとって清原和博は怖い存在ではなかった。
しかし、数年後世間には怖い存在に変貌していく。私も巨人担当から離れ、清原被告を取材することもなくなった。耳にするのは悪い話ばかり。さほど仲が良いわけではなく、一緒に食事したわけでもない。こんな私でさえ、ピアスをした清原被告の変わりようには落胆した。子供たちが憧れるスーパースターの姿ではなかった。チーム首脳陣との確執や若手への悪い影響などが報道され始めたのもこのころだったと思う。相次ぐ故障に成績不振。そして憧れてやっとたどり着いたチームからの戦力外通告。オリックスへ移籍しても復活することはなかった。
覚醒剤の噂が流れた時、耳を疑った。私が取材の際に接した清原は番長のイメージはなく、ちょっとやんちゃな優しい人。昨年9月本紙カメラマンが張り込んで撮影した足の入れ墨の写真を見た時、噂は本当かも…と失望した。
週刊誌には足だけではなく、体にまで入れ墨をした写真が掲載されていた。これでは球界復帰はおろかメディア復帰も難しいだろう。せめて2人の子供たちのために人間らしい道を歩んでほしい。
栄光への道は捨ててしまったけれど、人としての道は外さないでほしい。
2016年4月
東京スポーツ新聞社
写真情報システム部副部長
細島啓輔
先月、元フジテレビアナウンサーの岩瀬惠子さんが進行役を務めるラジオ日本の朝のニュースワイド番組に出演させていただく機会があった。弊社の部長や記者が最新ニュースなどについて解説するというコーナーだが、なぜか次は写真部長にとお鉢が回ってきた。「30分ぐらいだからあっという間だよ」と担当の編集局デスクに言われ、つい生放送の出演依頼を受けてしまった。
一体何を話せばいいのか考えあぐねた末、ネット展開を見据えた組織改編で変わり行く写真部といった漠然としたレジメを作り、ドローンを使った撮影の裏話などを交えて話すという段取りになった。
そして放送当日。最近の業界事情などを説明して前半が終了。天気予報やニュースが流れる間のブレイクとなり、マイクがオフになった。岩瀬さんと入社年次が近かったことから、昔の失敗談などを話していると、「後半は山本さんの思い出話で行きましょう」と突然の予定変更。そして、出されたのは「一番心に残っている写真は何ですか?」という質問だった。
傑作と胸を張るほどの写真はないし、失敗作ならいくらでもあるのだが。生放送なので口ごもっているわけにもいかず焦ってしまった。慌てて頭の中で記憶の巻物をさっと広げると、駆け出しカメラマンだった25年前の雲仙普賢岳の噴火災害が蘇ってきた。
「目の前に迫る大火砕流を撮ったことがあります」。報道関係者や消防団員など40人以上が命を落としている。岩瀬さんも当時の記憶は鮮明だったようで、私が話し始めるとにこやかだった表情にやや険しさが走った。
1991年6月3日午後4時ごろ、梅雨の雨雲が低く垂れ込め、普賢岳の様子を伺うことができないまま、私は土石流が度々発生していた水無川沿いで上流を見詰めていた。毎日新聞の加古カメラマンと出くわし世間話をしているところへ、同社の石津カメラマンが車で通り掛かかり、上流へ様子を見に行くから一緒にどうかと誘われた。数日前に先輩に紹介されて面識があったので声を掛けてくれたのだろう。しかし、5月29日に発生した火砕流が各社の撮影ポイントだったいわゆる「正面」と呼ばれる場所の間近まで迫ったこともあり、上流には行かないと決めていた。そのため、加古カメラマンとその場に残って見送ったその直後だった。
雨雲の中から火砕流が現れた。それは何回か見たものと同じ黒い煙の塊だったが、すぐに何かが違うと直感した。遠くに見える川沿いの民家を次々と飲み込み、止まる気配を見せない。「これは逃げられんばい」と加古カメラマンがつぶやいた。私は咄嗟に2枚ほどシャッターを切って走り出した=写真。
そのあとはよく覚えていない。川沿いではなく横へ逃げようと、トウモロコシだかタバコだか分からない葉をかき分けて、畑の中を夢中で走った。加古カメラマンともいつの間にかはぐれていた。ふと振り向くと火砕流は凶暴な輪郭をうっすらと消しつつあり、頭上では火山雷が鳴り響き、火山灰でドロドロの雨粒が着ていたカッパを叩き始めた。
見覚えのある道に出たとき、地元テレビ局の取材車が私の前で止まり、火砕流が襲った現場へ向かうので乗らないかという。近くでは興奮した消防団の男性が「行ったらみんな死んでしまう」と叫んでいる。私は無言で首を横に振った。火砕流がまた来るかもしれない。
雲仙普賢岳の災害では報道関係者の火山災害に対する知識の欠如や専門家がパニックを恐れてしっかり警鐘を鳴らさなかったことなど様々な問題点が指摘されたが、25年後の現在、その教訓はどこまで生かされているのか。
編集とは切り離した安全対策だけを考える部署を作った社もあると聞く。そこがダメといえば編集デスクが何を言ってもダメなのだそうだ。強制力はありそうだが、自分の身は自分で守るのを基本に考えたい。
昨年の常総市の鬼怒川決壊では、現場に向かった記者、カメラマンがドライバーの運転する車ごと増水してきた水に浸かって身動きできなくなる事態が発生した。近くの民家に避難させてもらい夜を明かしたが、並行して流れる小貝川の堤防脇だったため、万が一その堤防も決壊したら大変なことだった。部長として取材を命じる側になり、カメラマンの安全をどう守ればいいのか改めて考えさせられた。
マイクに向かって話しながら頭の中でそんなことを考えていたら、岩瀬さんがちらちらと視線を時計に向けている。見るとあと30秒ほどしかない。「ドローンが使えれば、いずれ安全に取材できるようになりますね。山本さん、どうもありがとうございました」。本当にあっという間だった。
このコラムが掲載されるころには東日本大震災から5年目の「3・11」を迎えているだろう。安全についてのみならず、災害から何を学ぶか。被災者に寄り添って取材したカメラマンたちも自問自答しているに違いない。
2016年3月
時事通信社写真部長
山本 浩
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【写真】世界水泳・男子400メートル個人メドレーで金メダルを獲得した瀬戸(8月4日、バルセロナで=金沢修撮影) |
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《インドの大地 2000年取材》
悠久のインド。死生観をも変えてしまうという摩訶不思議な地に、ずっと憧れ、一度は行きたいと思っていた。
その念願が42歳にして、2000年にかなった。日本農業新聞の年間キャンペーン報道「アグリ世紀」の一環で、取材記者として、インドの大地をめぐるチャンスがやってきた。インドはこの年に人口が10億人に達した。「アジアの巨像」といわれる同国は人口爆発が続くが、食料自給を果たして続けられるのか――。世界、そして日本の食料確保にかかわる大テーマだった。
でも、この取材は13年も前のもの。記憶は徐々に薄れ、日々の忙しさにかまけ、インドは忘却の彼方にいってしまっていた。
それがどういう因果のめぐり合わせか、取材カメラマンを未経験なのに昨秋に写真部長兼務となり、当コラムを書く順番が来てしまった。さて、どんな写真にまつわるコラムにしようかと思案。その挙句に思いついたのが、インドだった。本紙にも縮刷版があり、当時の「インドの大地 〜食料自給の苦闘」の連載記事をめくっていくと、にわかにインド取材の感触が蘇ってくる。
3月。生暖かい風がまとわりつく。デリー空港の到着ロビーに出ると、見知らぬおじさんの手がすっと伸びてきて、親切にも重いスーツケースを黙って転がしてくれる。迎えの車のトランクに入れるやチップをせがまれ、やっと「施し」の意味が分かった。その後も手荒い洗礼は容赦なかった。それでもインドはどれだけ好奇心があっても足りず、圧倒的におもしろかった。
農村での写真撮影。農民にカメラを向けても嫌がらない。それどころか俺をどんどん撮ってくれ言わんばかりに、カメラのレンズを覗き込むようにポーズをとる。だから、「カメラ目線の写真ばかりだな」と困る。まごまごしていると、いつのまにか人だかりに囲まれてしまう。物珍しさからか、人が湧いて出てくる。ボロ着の子どもたちの物乞いは凄まじい。這う這うの体でチャーターの車に乗り込んで逃げ出すのが常だった。
その車(カブトムシのようなインド国産車)も毎日故障しては、途中で修理工場に寄った。その都度、急ぎの修理費を払わされた。本当に故障していたかどうかは定かではない。きっと騙されていたと思う。
狙っていた写真がある。インド北西部ハンジャブ州での「塩害農地」。農民が「死の粉」と恐れる白い塩がふいた農地のことで、作物はまともには育たない。インドの食料生産を危うくする大敵で、近代農業のあだ花というべきものだ。
少々解説すれば、ここパンジャブ州は1960年代後半からの「緑の革命」による稲・小麦の高収量品種の導入で、食料増産体制が整い、国内一の穀倉地帯になった。ただ、この「奇跡の種子」にはセットとなる化学肥料、農薬が不可欠。さらに、稲・小麦の増産には灌漑(かんがい)水が必要で、地主農民は借金してでもせっせと深い井戸を掘り、地下水のポンプアップにしのぎを削る。「水は金なり」で、大地を潤す水さえあれば稲・小麦の増産で大儲けできる。しかし、そのしっぺ返しはまた大きい。灌漑水は再び地下に潜り、土中の塩類を溶かしながら標高の低い同州南西部の農地に集まる。そして、雨期に塩分の濃い地下水で水浸しになる農地が増加。その水が乾期に蒸発するたびに、農地に「死の粉」の塩が残されるというわけだ。
その不毛の塩害農地を見つけ、困り果てる農民を入れた写真を簡易デジタルカメラで撮影。記事を書き、写真も携帯送信機をつかって現地から送稿。大国インドの近代農業の陰を伝えるもので、本紙1面トップで掲載された。というものの、写真送稿には苦労した。小さな田舎町の電話所からは幾度試しても国際回線につながらない。結局、車を夜通し走らせてデリーに戻り、大きなホテルに頼み込んでやっと送ることができた。その簡易デジカメは、インド南部の農村取材中に紛失(盗まれたと思う)。一矢報いるべき、帰りのデリーの空港で警察に「空港内で盗まれた」と方便し、フライト直前まで粘って盗難証明書を渋々書いてもらった。海外旅行保険の保証金で、写真部にはカメラ紛失をかろうじて許してもらった。
「俺はお前をだます。だから、お前も俺をだましてもいい」「俺はお前を差別する。だから、お前は他の者を差別すればいいじゃないか」――そんな妙なインド流にちょっと馴染んでしまったかも知れない。儒教の国では理解できないことだが、人間のあるがままの本質に寛容で実は自然なことなのかも…。そんな禁断の想いまで、思い返してしまった。
日本農業新聞
編集局長兼写真部長 永井考介
《1997年リマの記憶》
毎年桜が散った今頃になると、両肩がうずくような気がする。仕事柄いろんな所へ行ったが、それは日本から一番遠い所で私が体験したことが原因であり、それまでの日常からかけ離れた記憶は、今でも私の心のどこかに刺さった棘になっている。
1996年12月17日に発生した「日本大使公邸人質事件」取材のため、南米ペルーの首都リマに到着したのは、翌年の2月6日。公邸内に当初600人以上いた人質は徐々に解放されて70人余りになっていたが、獄中の仲間の釈放を求める犯人のトゥパク・アマル革命運動(MRTA)側とフジモリ大統領率いる政府側の交渉は難航していた。帰国までの2カ月あまり、到着直後から始まった国際赤十字やカトリックのシプリアニ大司教が仲立ちした双方の直接交渉などを取材しながら、高い塀に囲まれた大使公邸を見下ろせる16階建て高層マンションの最上階にある撮影「定点」で張り番生活を続けた。
リマのサン・イシドロ地区という高級住宅街にあるマンションの「定点」は奇妙な部屋だった。階下に住むオーナーが投資のため、これから内装工事をしようとしていたワンルームを日本の新聞・通信数社が借りて、各社が使う窓1つごとにペルー人の平均月収をはるかに上回る家賃を払っていた。ニュースカメラマンに張り番は付き物だが、これ程長い時間他社の人々と一緒に過ごしたことはない。大晦日にMRTAのセルパとの会見に成功して有名人になっていたH氏や、当時はストリンガーで地元の散髪屋の女の子の追っ掛けが居たO氏、夜通し一睡もせずゴルゴ13のように公邸を見続けるA氏など今や各社の重鎮たちの若き日を、扉のないトイレを共用した同居人として鮮やかに思い出す。また、フジモリ政権に人質の人権を無視した武力突入をさせない抑止力として、自分たちは常に見守る使命があるんだという、日本人としての連帯感も部屋にはあったと思う。
H氏と公邸でセルパを一緒に取材した山本カメラマンの帰国後、時事のカメラは若い宮田カメラマンと私2人だけ。16階「定点」ベタ張りの空中勤務と、直接交渉や大統領会見を取材する遊軍の地上勤務を、日没を境に24時間交代ですることにした。「定点」での食事は現地のスタッフに運んでもらい、撮影の邪魔になるためガラスを取り払った窓脇の折り畳みベッドで、睡眠を取った。雨が降らないリマで夏だから出来たのだと思う。地上勤務の時にやっと、写真電送用に近所に借りたマンションのベッドで手足を伸ばして眠れた。そして公邸から2キロ離れた邦人民宿に開設された臨時支局との連絡や、買い物や洗濯などの身の回りのことは、地上勤務の合間に済ました。24時間ベタ張りにこだわったのは、当時すでにトンネル工事が行われている情報があり、ゲリラたち同様に政府側の夜襲を一番警戒していた。後から思えば、私が居た2カ月余りはトンネル掘りや特殊部隊訓練のためにフジモリが時間稼ぎしていた時期で、昼は突然キューバのカストロと会見したりする彼お得意の政治パフォーマンスに、夜も結局は見えない敵に振り回されただけだった。
物悲しいMRTAの革命歌で目を覚まし、電気が止められている公邸の窓に映るろうそくの明かりが消えると一日が終わる単調な日々が続いたが、時にはゲリラが前夜の嵐で倒れたMRTAの旗を直しに公邸屋上に出て来たり(=写真、3月5日)、公邸の庭に埋められた地雷が暴発して、地響きとともに住宅街の鳥たちが一斉に飛び立ったりした。そして3月には宮田と後任の渡部カメラマンが交代。4月に入って石原カメラマンがリマ到着。私は現地でたまった代休を数日消化して帰国することになった。
学生時代にスペイン、ポルトガルを旅してラテン系の楽天的な生き方に惹かれた私にとって南米はあこがれの地である。人質になった人々を思えば不謹慎ではあるが、帰国直前に3日間のクスコやマチュピチュのインカ遺跡、ボリビアとの国境にあるチチカカ湖への地元ツアーを申し込み、その出発前日は疲れていたのでリマ市内で過ごすことにした。そして、プライベートな写真は白黒で撮ることにしていた私は、カメラを私物のマニュアルピントのもの1台だけにして、取材でも行った港町カヤオへ向かった。
日系移民が初めて上陸したという古い街並みでスナップ撮影を続け、あるカテドラルの前に立った時だった。険しい目付きの男性が寄って来て、身分証の提示を求められた。私服の警察官だった彼は、フジモリ政府発行の記者証を一瞥すると「ここは危ないから立ち去れ」と言う。陽はまだ高かったが、翌日の旅行を考え引き揚げることにした。そして昨日までの張り番生活を思えば、遊んでこのまま帰るのも気が引けて、最後に港の端にあるMRTAの幹部ら政治犯を収容する監獄の資料写真を撮ろうと思ったのが間違いだった。
地元スタッフが教えてくれた治安の悪い地区を迂回して海岸へ出ようとしたが、スラムに入ってしまった。大勢の大人が路上にたむろし皆がこちらを見ている。アジアのスラムを経験している私の中で警戒音が鳴った。落ち着けと自分に言い聞かせ、近くに居た身長190センチはあるアフリカ系の若い男性が人懐こそうな目をしていたので、海の方角を聞いた。私が指差した方を見た彼は驚いて首を横に振り、「シュッ!」と言って首を掻き切る仕草をした。このまま進めば命が無いということか。
見るからに気の良い兄ちゃん然とした彼が手招きして来いという方向が、私の頭の中の安全地帯である大通りの方向と重なったので付いて行った。そしてその大通りに出ると、礼を言ってタクシーを拾おうとする私の肩をたたき、彼は1ブロック先の交差点を指差した。スラムから離れたその通りを行けば安全に海岸に出られるらしい。途中で友人と笑顔であいさつしたりする彼にすっかり騙され、馬鹿な私は海辺の土手まで誘導されてしまった。土手を登ると確かにそこは海だったが目的の監獄は岬に阻まれ見えず、目の前に広がる砂浜は何と危機を避けたと思ったスラム裏のゴミ捨て場だった。
後ろから突き倒され、両肩をがっしり押さえ込まれた。途中であいさつした仲間に連絡が取れたのか、ボロ布を手に巻いてワインボトルや角材を持った7〜8人の少年から青年が私を取り囲んだ。抵抗しても多勢に無勢でカメラが真っ先に盗られ、旅行用に支局から借りたドル札が何枚も入っている札入れが抜かれ、ペルーで買ったばかりのスニーカーとジーンズが脱がされた。これで終わりかなかあと思いつつ、誰か聞いてくれと「POLICIA!」と声が枯れるまで叫んだ。そして不注意でこんな所まで来てしまった自分の情けなさを、妻と娘に詫び続けた。カメラマンジャケットが破られ、Tシャツが胸まで脱がされかかったところで突然、彼らの手が止まった。私服警官に提示させられた後、首から下げていた記者証を皆が見ている気配がする。その時一瞬、私の両肩を押さえ込んでいたバナナのように太い黒い指の力が抜けたように感じられた。右手が動いたので、とっさにそのバナナの房の中でも一番大きい中指をつかんで、全身の力を込めて折った。鈍い音がしてバナナは手の甲に付いたように見えた。
体が自由になった私はこの機を逃さず、顔の脇に落ちていたツルがひしゃげて片方のガラスだけになった眼鏡を拾い、全力で走り出した。土手脇の家から子どもを抱いた女性が見ていたので、もう一度「POLICIA!」と叫んだが、激しく首を横に振って大通りの方を指差した。十分過ぎる戦果を挙げたせいか彼らは追って来なかったが、Tシャツとパンツ、靴下だけの日本人は大通りまで走り続けた。その格好でタクシーを止め、またもや記者証のおかげで民宿までたどり着いて部屋の鏡で自分を見ると、押さえられた時に付けられたバナナの房形の内出血がタトゥーのように両肩に付いていた。
2カ月間の滞在中に首都リマとシプリアニ大司教に付いてアヤクーチョという街に行っただけだったが、極端な貧富の差のせいかペルーの印象は暗く感じられた。チェ・ゲバラの肖像が至る所に描かれたスラムと、一辺数百bもコンクリートの高い塀が続き、監視カメラと私兵に守られた富豪の家。事件後このままの印象で帰国するのは悔しいので、翌日からのツアーはキャンセルせずに強行した。警察への盗難届けが夜中までかかり、睡眠不足でクスコに着いたためひどい高山病はなったが、結果から言ってその成果は十分得られ、私はまたペルーが好きになれた。
最終日に訪れたチチカカ湖にはアシで出来た浮島がたくさんあり、先住民族系の人々が住んでいる。その島の1つに国内のマイノリティーに人気があるフジモリ大統領博物館が出来たらしい。ツアーのコースには無くてこの目で確認出来なかったのが心残りだが、「彼が援助物資として送った小型自動車を走らせたら島が沈み始めたので、使うのを止めて博物館にした」と、英語の先生の資格を持つ通訳が笑って教えてくれた。現地の実情に合わないバラ撒き政策を揶揄しているようにも取れるが、仕事が無く観光客の通訳で生計を立てている彼女は、フジモリ政権が力を入れた教育の機会均等政策を高く評価していた。「これからよ」と。
4月10日、桜が終わったばかりの日本に着いた。そして22日、フジモリ大統領はペルー軍特殊部隊に大使公邸の突入を命じた。その時刻は私もゲリラも油断していた午後だった。後に「リマ症候群」という心的相互依存症が報じられるほど、人質にゲリラも心を開いていた結果なのかも知れないが、MRTAのメンバー14人全員と人質1人、兵士2人が死亡し、発生から127日ぶりに事件は武力解決した。繰り返し放送されるその瞬間のTV映像を見ながら、ついこの間まで目の前で見ていた日常の延長なのに、私にはひどく遠い世界の出来事に感じられた。やっと事件が終わったことを認識しながらも、地球の裏側まで行ってたいした仕事もせず、暴力に対して全く無力だった自分が、最終的に相手の中指を折る暴力を行使した記憶が強過ぎた。出来るだけ早く全てを忘れたかった。
そんな私が事件解決の翌日、ペルーのあの日常に引き戻された映像があった。それは、ゲリラとフジモリ大統領に何度も直接対話を呼び掛けたシプリアニ大司教の記者会見だった。平和的解決に全精力を使った彼が、17人も死者を出した自分の無力を嘆き眼鏡を外して目頭を押さえた瞬間、私の中で何かが弾け、私は泣いた。
あれから16年、世界中持てる者と持たない者の差はよりいっそう開き、持たない者はテロという暴力で、持てる者と刺し違えることが増えた気がする。お金を払ってどちらも死なない日本的な超法規的解決という選択も、国際的に難しくなった。フジモリ大統領の失脚後、ペルーは日本人にとって少し遠い国になった気がする。通訳の彼女が望んだ未来はどの程度実現出来たか分からない。今年1月にアルジェリアで起こった人質救出作戦に比べれば、はるかに成功したフジモリの武力解決だったとは思う。しかし、その解決法は持てる者が持たない者に行使する暴力には違いなかった。あのバナナが折れる鈍い音は、一生私の心のどこかに刺さった棘のまま終わるかも知れない。
時事通信社 写真部長
入江 明廣
【写真】嘉数高台展望台から見える普天間基地にはオスプレイが数機羽根を休めていた(写真上)。
そこから左へ目を移すと約3`先には宜野湾の東シナ海が広がる。 (13年2月18日、いずれも花井尊撮影) |
《沖縄の青い海を見て考えたこと》
2月に沖縄を訪れた。東京写真記者協会の部長会で、プロ野球の春季キャンプと米軍基地などを視察した。
巨人のキャンプを見学した翌日、宜野湾市内の高台に上がった。終戦直後に建設された広大な普天間飛行場と、その向こうに広がる東シナ海が一望できる。じっとながめていると、つい静かな青い海に視線が吸い込まれてしまう。その時、ふと、プロ野球創生期を支えた巨人軍の伝説の名投手のことが脳裏をよぎった。
第二次世界大戦の戦況が悪化していた1944年(昭19)12月1日、15隻の船団を組んだ日本の輸送船が門司港を出発した。翌2日午前4時頃、屋久島沖西方の東シナ海で米国の潜水艦の攻撃を受けた。2隻が沈没し、2100人が命を落とした。その中に剛速球で一世を風靡(ふうび)した巨人軍の沢村栄治がいた。27歳だった。
私は記者時代に沢村の直球人生を、丹念にたどったことがある。戦争という時代が、刻々と偉大なエースの「栄光の右腕」をむしばんでいく。取材をしていて、悲しくて、空しくて、やり切れなくなった。そして、最後に強い憤りが込み上げてきたことを思い出した。
沢村栄治を知らない世代のために、彼の人生を簡単におさらいしたい。
まだ日本にプロ野球が誕生する前の1934年(昭9)11月20日、静岡・草薙球場。全日本チームの投手として17歳の沢村が、来日した米大リーグ選抜との第9戦に先発した。初回1死から4者連続三振を奪う快投で、2日前の第8戦で21点をたたきだした強力打線を沈黙させた。本塁打王ベーブ・ルース、三冠王ルー・ゲーリックら超一流のバットを、剛速球とストンと落ちるカーブでクルクルと空転させた。7回にゲーリックに本塁打を浴びて0−1で敗れたが、当時の実力差からすると奇跡的な快挙だった。
36年(昭11)に日本職業野球連盟が発足した。巨人軍に入団した沢村はプロ野球初のノーヒットノーランを達成するなど日本一の立役者になる。翌37年の春のシーズンでも2度目のノーヒットノーランを成し遂げて、24勝4敗、防御率0・81で最優秀選手賞を受賞した。しかし、沢村の右腕が輝きを放ったのは、このシーズンが最後だった。この年の7月、日中戦争が勃発した。
38年1月、入隊した沢村は戦地に赴く。ボールの3倍以上も重い手榴弾を投げ続けて右肩を痛めた。頑丈な体もマラリアに冒された。40年に巨人に復帰したが、剛速球がよみがえることはなかった。現役最終年の43年の成績は登板4試合で0勝3敗。防御率10・64。左足を顔の位置まで上げる豪快な投球フォームは、ぎこちない横手投げに変わっていた。
あの忌まわしい戦争の終結からまもなく70年を迎える。国内唯一の地上戦の舞台となり、地形が変わるほど激しい砲撃を受けた沖縄は、巨人をはじめとするプロ野球球団の春季キャンプでにぎわっていた。ぜいたくなほどの施設が完備された練習場で選手は汗を流し、地元の子どもたちは色紙を手に人気選手に群がる。「野球がしたい」という純粋な夢さえもかなえられない時代があったことを知る人は少ない。
そんな和やかな光景を目で追いながら、私はあらためてスポーツを満喫できることの幸福をかみしめた。そして、青い海を見ていて、ふと答えのない問いが頭をよぎった。この近海の底に眠る沢村は、どんな思いで今の沖縄をながめているのだろうか……。
日刊スポーツ新聞社
写真部長 首藤正徳
【写真説明】津波で大勢の児童・教職員が犠牲となった大川小学校近くの草地に、
一輪の小さなヒマワリが咲いていた(2012年8月19日、宮城県石巻市) =「記憶 忘れてはいけないこと5」より |
《手作りの写真展》
震災発生から間もない2011年4月、東京本社で始めた、東日本大震災報道写真ギャラリー「記憶 忘れてはいけないこと」が5回目を迎える。現在、3月1日開催に向けて慌ただしく準備を進めているところだ。当初は、写真プリントを展示パネルに貼りつける慣れない作業に四苦八苦しながら、部員と社内ボランティアがカッター片手に格闘した。1000通近い案内葉書の宛名書きもあえてプリンターに頼らず、今でも手書きにこだわっている。文字通り「手作りの写真展」なのである。
試行錯誤の連続だが、心がけていることがある。それは、説明的で押しつけがましい写真はできるだけなくそうということだ。被災者のふとした表情や、被災地の何気ない光景。その場の雰囲気をすくい取るような、温かなまなざしが感じられる一枚を大切にしている。一方で、被災地の厳しい現実に目を向けることも忘れない。写真によっては、もう少し深い背景や被災者の心情を伝えたいものがある。そういう時には、部員が取材した長目のメモを添える。押しつける気はないが、さらっと見て終わりというのも残念だ。その辺りのバランスの難しさをいつも痛感している。
写真展を続けてきてよかったのは、来場者の生の声を聞けることだ。昨年10月に4回目を開いた時、一点一点食い入るように写真を見ていた中年の男性が受付にやってきた。聞けば、広告写真を撮りながら、被災地に通っているという。「この写真展にはぬくもりがある。ぜひ続けて欲しい」と励ましてくれた。日頃、多くの読者に情報を届ける仕事に携わっていながら、読者との接点が極めて少ない身にとっては、グッとくる一言だった。
震災直後と比べ、世間の被災地への関心が薄れてきているのは否めない。しかし、気の遠くなるような原発事故の処理や復興への取り組みは始まったばかりだ。この写真展を通して、ひとりでも多くの人に被災地の今が伝わればと願っている。
日本経済新聞社編集局写真部長
矢後 衛
あけましておめでとうございます。今年も皆様のご多幸を願っています。東日本大震災が発生してから二度目の正月を迎えました。今なお苦しみを抱えながら避難している方々が多くいらっしゃることを私たちは忘れてはなりません。
昨年の「2012年報道写真展」は、ロンドン五輪のボクシングミドル級で金メダルを獲得した村田諒太選手と女子レスリング48kg級の金メダリスト、小原日登美選手にテープカットをお願いしました。写真パネルは五輪関係で約50点、そして東日本大震災関係もほぼ同数展示して総数は約250点でした。また1月11日から3月3日までは、横浜の日本新聞博物館でも開催されます。
感想ノートには、「震災の写真、涙とまらず。忘れてはならない」「被災地の現在の写真をみて震災を思い出しました。一日一日一生懸命に生きる姿に勇気をもらいます」「東日本大震災のすさまじさ、そしてロンドン五輪の感動がよみがえってきました。ガンバレ日本 K.H」「毎年この展示を心待ちにしています。いろんなことがありすぎて忘れてしまっている事を改めて思い出させてもらう反省の日でもあります。静岡・S」
楽しい話題も多くありました。ロンドン五輪のほかに山中伸弥京大教授にノーベル医学生理学賞、東京スカイツリー開業、国内で25年ぶりに金環日食を観測など。一方で、大津いじめ事件、中国で反日デモ激化、笹子トンネル事故で9人死亡など暗いニュースもありました。昨年の極め付きは、年末の総選挙で民主党が惨敗、自民党中心の政権に戻りました。
今年も7月に参院選挙がひかえています。国民がどう判断するのか、日本はどこに向かっていくのか。誰しも権力に対してはしっかりチェックが必要だし写真記者は、地道な活動で少しでも人々に感動を与える魂が入った写真を撮っていただきたい。そのためには、スポーツでも芸能でも事件事故でも同じように緊迫感がないと撮れません。みなさんの活躍を今年も期待しています。
2013年1月、東京写真記者協会
事務局長・花井尊
【写真】蘇州の日本料理店を襲う、暴徒化した反日デモの参加者=9月15日
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《北京カメラマン》
9月15日、日本政府による尖閣諸島国有化に抗議し、中国各地で「反日デモ」の嵐が吹き荒れた。デモ隊は日本の取材陣にも憎悪の牙をむいた。
北京の日本大使館前では、カメラマンめがけて植木や卵、ペットボトルが飛んできた。投石が当たり、うずくまる記者もいた。江蘇省蘇州では、暴徒化した一部がゴルフクラブを振り回し、次々に日本料理店を破壊した。日本車は蹴飛ばされ、ひっくり返され火を付けられた。
殺気立ったこの騒ぎの渦中で、東京写真記者協会に所属する共同通信中国総局(北京)の写真・映像記者らが撮影した「中国各地で反日デモ」が協会賞をいただいた。
受賞作品を見ていて、写真家ロバート・キャパが後輩に残した至言を思い出した。「君の写真が傑作にならないのは、あと一歩、被写体に近づいていないからだ」。報道カメラマンは身を危険にさらすのと引き換えに、起きたことを世界に伝える。撮影する「位置」はプロ魂の発露でもある。
5枚の写真に共通するのは、被写体に肉薄する「位置取り」だ。買い物に使うエコバッグに広角レンズを付けたカメラを入れ、デモ隊に紛れ込み、至近距離から表情を捉えた1枚。石が飛び交う日本大使館前で、バリケードを乗り越えようとする群集に恐怖を感じながら、素早く身を隠すために武装警察隊のすぐ後ろで撮った1枚。写し取られたデモ隊の怒りの表情からは「反日」だけでなく、中国政府や世の中に対する不満が読み取れた。いずれも最前線で体を張ったプロの仕事だった。
中国総局カメラマンの陣容は現在3人。本社から赴任して約半年の写真・映像記者Y君、中国生活約15年で外国通信社のストリンガーを経た契約カメラマンI君、写真の腕を日々磨く同総局3年目の助手S君だ。
中国の面積は日本の約25倍。写真取材のカバーエリアは途方もなく広大だ。3人は当局の取材規制にもひるむことなく、超大国の素顔を今日も写し続けている。
共同通信社ビジュアル報道局写真部長
小原 洋一郎
【写真】魚釣島沖の接続水域を並走する中国監視船と海保の巡視船=9月18日
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《尖閣取材》
ロンドン五輪では日本選手団が史上最多38個のメダルを獲得し日本中が盛り上がった。その最中に、尖閣諸島や竹島をめぐる領土問題が急浮上した。終戦の日を前に韓国大統領が竹島に上陸し、8月15日には香港の活動家らが魚釣島に上陸した。そして中国の海洋監視船が尖閣諸島周辺に頻繁にやって来る状態が続いている。
9月14日、共同通信社との合同航空取材機「希望」は、魚釣島の北東沖を並走する中国監視船と海上保安庁の巡視船の姿をとらえた。同17日、中国のラジオが1000隻の漁船が尖閣諸島を目指して出港したと伝えた。同18日、尖閣周辺に漁船は現れなかったが、中国監視船団と海保の巡視船団が接続水域を並走した。=写真
撮影したカメラマンによると「18日の夕方、午前中に引き続き魚釣島を中心に中国の漁船団を探したが見つからない。このままでは何も撮れないと焦り始めたとき、パイロットが「魚釣島沖約27キロに船団がいる」との情報をキャッチした。現場に近づくと、ぼんやりと3隻ほどの船影が見えてきた。しかし何か様子が違う。異常にでかい。漁船がいるものだと思っていたが、それは海保の巡視船と中国の海洋監視船「海監」だった。巡視船6隻と海監10隻が、先頭から約10キロにわたり隊列を組んで並走する様はまるで映画のワンシーンのようで、機内は一機に緊張感に包まれた」という。
またパイロットは「尖閣付近は視程の悪い事が多くレーダーで探して肉眼で確認する。中国監視船や海保の巡視船が多数隊列をなした18日は、船の影が重なり細長い帯になって見えた」と話している。そして同25日には、尖閣諸島の日本領海内で日本と台湾の巡視船が放水しあう事態も発生した。遠い南の洋上で何が起きているのか?これらをとらえた写真や映像は、現実に起きていることを読者に伝えた。
2010年9月尖閣沖で海保の巡視船に接触する中国漁船の映像は公表されず、海保内部から動画投稿サイトへの流出によって公になった。もし、内部流出がなければ未だに映像が世の中に出ることはなかったかもしれない。そういう意味では、今回は報道機関としての役割を果たせたと思う。
その一方、五輪も領土問題もナショナリズムを刺激する。一部のメディアによる「すわ戦争だ」のような報道には危惧するが、報道そのものがナショナリズムを煽っているという批判も耳にする。過去の苦い歴史も踏まえ、この問題には慎重にそして冷静に対応したいと思う。
毎日新聞東京本社写真部長
佐藤 泰則
【写真】完全防備でビールかけを取材する各社のカメラマン(東京ドームホテル)
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《どこまで伸びるか…プロ野球1試合の撮影枚数》
例年、この時期は「プロ野球のペナントレースもいよいよ佳境で…」と言った決まり文句が、業界のあいさつ代わりだが、セ・リーグは21日、巨人の優勝が早々に決まってしまった。スポーツ紙としては、最後の最後まで競り合ってもらい、ファンが盛り上がったほうが、面白い紙面を作りやすいし、売り上げも期待できる。
パ・リーグが小差の戦いをしてくれているのがありがたい限りだが、ファンの関心がクライマックスシリーズや日本シリーズに移ってしまっているのは否めない。巨人と2位・中日、さらに3位・ヤクルトまでが約20ゲーム差(9月27日現在)で臨むクライマックスシリーズとなるが、あらためてシリーズの意味合いなどを考えてしまう。
原監督や主将の安部捕手など巨人ナインが歓喜に包まれた祝勝会。「ビール掛け」と称する祝宴の取材は、カメラマンにとっては、四方八方から飛んでくるビールや日本酒との戦いでもある。カメラやストロボをラップやビニール袋などでぐるぐる巻きにして防水対策をするのだが、なかなか完璧とはいかない。
締め切りが迫っている場合、嵐のような状況下でカードを抜いて、電送しなければならない。しかし、ビールまみれの手でカメラやカードに触るのはご法度なので、ラップ巻きのカメラを数セット用意して、カメラごと電送要員に渡す方法をとっている。
写真部員が使用しているCFカードは大容量。コマ数を気にしないで撮影できるので、「ビール掛け」などカードの交換にリスクを負う取材では非常に助かる。フィルムカメラの時代は、ラップ巻きのカメラが何台あろうとも、1セットで撮影できる枚数は36枚。肝心なシーンにコマの残りがなく、悔しい思いをしたこともある。
気になって、祝勝会当日の撮影枚数を調べてみた。選手の近くで、ビールまみれなりながら撮影できるカメラマンは1社1名に限定。弊社の某女性カメラマンが撮影した枚数は、カメラ2台で計902枚。約30分弱の宴の間に36枚撮りフィルムにして約25本分を消費したことになる。フィルム時代はせいぜい3、4本だったので、これぞデジカメの威力だろう。
では、プロ野球1試合で、どれほどの枚数のシャッターを切るのか。ちょっと古い話で恐縮だが、延長15回と日本シリーズ史上、まれに見る熱戦となった2010年のロッテ―中日第6戦の取材データが残っている。カメラマン7人で、なんと1万2362コマ。1人平均1766コマ、フィルムに換算すると343本。1取材での撮影枚数の写真部記録として社内で話題になった。
カメラの性能が上がり、メモリーカードの容量もぐんと増えている。今年の日本シリーズの対戦カードは未定だが、人気球団同士の好ゲームとなれば、カメラマンのテンションモも上がって、シャッターを切りまくる。「そんなに撮ってどうするの!?」とデスクは悲鳴を上げるだろうか、旧人類には目もくらむような枚数の新記録誕生を密かに期待している。
東京中日スポーツ写真課長
星野 浅和
《五輪はカメラマンにとっても一生に一度の夢舞台》
日本全国を寝不足にしたロンドン五輪が閉幕した。日本選手団は金メダルこそ7個と目標の15〜16個には届かなかったが、総数ではアテネ五輪の37個を上回る史上最多38個のメダルを獲得した。勇気と感動を与えてくれた選手たちに拍手を送りたい。
五輪で表彰台のトップに上るのはアスリートにとって最大の栄誉だが、カメラマンにとってもその現場に立ち会えるのは最大の幸運である。五輪は4年に1回。複数の人間を写真取材に派遣する他紙とは違い、デイリースポーツは恥ずかしながら1人のみ。一生に一度経験できるかどうかの夢舞台といっていい。その舞台に立つには、選手が国内での代表争いに勝ち抜くのと同様に、まずは社内での競争に勝たなければいけない。
筆者もバルセロナ五輪(1992年)“出場”をひそかに狙っていたが、あえなく予選敗退。その後夏季五輪はアトランタ、シドニー、アテネ、北京、ロンドンと5回を数えたが、二度とチャンスは巡ってこなかった。その後はデスク、部長として“五輪代表”を選考する側に回ったが、五輪への思い入れは人一倍強いつもりだ。
選考基準として筆者が最優先したのは「俺に行かせてくれ。五輪を撮るのは俺しかいない」という強い自負心を持っていることだった。極限のプレッシャーと闘うには自分が選んだ道なんだという意識が必要だ。
以上に加え、アグレッシブさに豊富な経験、タイトな日程に耐えられる体力が求められる。理想をいえば30代前半から中盤、入社10年から15年の最も脂が乗りきった世代が適任と考えた。
そしてもう一つの条件として挙げたのは、業界用語でもある“引きの強さ”だ。「被写体が期待に応え、金メダルを獲る」のではなく「被写体に金メダルを獲らせる」のだ。時にはアクシデントまで発生させてしまう。そしてその瞬間を確実にとらえる。それが“引き”だ。強運を生まれ持っている人間はいる。だが“引き”はカメラマンの執念が引き寄せるものだと思っている。
以上の条件をすべてクリアし、社内での競争を勝ち抜いた人間をロンドン五輪代表に選考した。取材の中心はなでしこジャパンだったが、合宿地とロンドンの各会場を片道2時間かけて移動し、柔道や体操、レスリング、水泳、陸上も体力の続く限りカバーした。柔道女子の松本薫、体操男子個人総合の内村、女子レスリングの小原、伊調、男子レスリングの米満。日本が獲得した金メダル7個中、5個はカメラマンが“獲らせた“と勝手に思いこんでいる。
締め切りの関係でほとんどが号外、WEBでの対応となったが、多くの人に感動を伝えることはできたと思っている。カメラマンに贈られるメダルはなかったが、8月20日に行われた銀座パレードでメダリストが乗るバスに同乗、50万人からの歓声を浴びることができた。
2016年・リオデジャネイロ、2020年・東京?カメラマンの五輪代表争いはすでに始まっている。
デイリースポーツ写真部長
佐藤 厚
ポロリ・山崎安昭撮影
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ノック・野上伸悟撮影
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《この瞬間とあの瞬間》
カメラマンじゃなくて良かった。写真部長になるまで記者一筋だった者にとって、やり直しや追加取材のできないシビアな世界で生きていく自信はない。
写真は一瞬、一瞬が勝負で、カメラマンは決定的瞬間を追い求めてシャッターを切る。試合展開を見ながら「今だ」という瞬間だけならいい。やっかいなことに、後から「あの瞬間」を、という状況がしばしば出てくる。
今年5月8日の巨人×DeNA戦で「あの瞬間」が起きた。巨人が2点差に迫られた9回2死二塁、巨人阿部は捕ればゲームセットになる捕飛を落球した。その後に同点とされ、勝利は消えた。カメラマンは落球の瞬間を撮っていた。よしよし。のはずだったが、元巨人の篠塚和典氏による、まさかの評論家原稿が待っていた。
阿部の落球には、3時間前に伏線があったという。試合開始直前のシートノックで、勝呂守備走塁コーチが、最後に打ち上げる捕飛を数回ミスした。ベンチに引き揚げかけた皆を阿部が押し留めるようにもう1回要求。勝呂コーチは完璧な捕飛を打ったが、阿部は笑いを取ろうと思ったのか、打球も見ずにベンチに向かって歩いていた、という内容だった。こうなると、3時間前の決定的瞬間がほしい。これが「あの瞬間」である。
カメラマンなら試合前練習は当然撮っているだろうと思う。ところが、シートノックの時間帯は取材陣にとってスキの出やすい時刻にあたる。試合開始が迫り、腹ごしらえの時間となる。気持ちも目の前の練習よりも、試合へ向けた戦闘態勢モードに入る。記者もカメラマンも脇が甘くなる。現役時代に2度首位打者に輝いた名選手とは違い? 3時間後、言い訳のできない厳しい状況を突きつけられる。
記者ならば対処の仕様がある。後からいくらでも取材ができる。ところが、カメラマンはそうはいかない。撮っていなければおしまいである。幸いにも、当日のカメラマンは3時間前の「あの瞬間」を撮っていた。「普通ですよ」との言葉にカメラマン魂が漂う。もし、私がペンではなく、カメラを持たされたら「普通ですよ」と言えるだろうか。写真部に異動して1年4カ月。記者で良かったと思う日々を過ごしている。
日刊スポーツ新聞社 編集局写真部長
飯田 玄
≪写真って何だ!≫
写真って何だろう――。最近、よくそう考える。物事の真実を紙面を通じて読者に伝えるのが使命だ。とりわけ、報道に携わるわれわれの世界は、この数十年で劇的な変化をした。フィルムを化学反応で現像してプリントをつくって送る世界から、電気的な信号で映像を表現できて瞬時に送稿できるデジタル時代にめまぐるしく変革した。
日本で、新聞に写真らしきものが最初に登場したのは、手書きによる「絵」だった。1888(明治21)年、読売新聞社が会津磐梯山の噴火を報じる日本最初の「写真画」で試み、掲載した。当時は写真をそのまま印刷する技術がなかったので、写真家が撮影した写真を模した銅版画にして印刷した。これが日本における報道写真の事始めといわれる。朝日新聞に初めて写真が載ったのは1904(明治37)年9月30日とされる。時代は日露戦争のまっただ中。世の中の関心時だった戦地の様子を伝えた写真で、従軍していた記者が遼陽戦で撮影した。「九月一日シヤオシヤンズイ高地占領後の光景」と説明がつき、塹壕のふちに3人の日本兵が立ち、日章旗が見えている写真だ。撮影から約一カ月後の掲載だが、歴史に残る一枚となった。
その後、新聞における写真は「目撃者としての責任を果たす」という新聞記者の仕事の核心を担う重要なツールとして進化してきた。最近は写真のメッセージ性の高さや魅力が再認識され、新聞における写真の重要性が見直されてきた。だが一方で、改めて報道写真の意味や、報道に携わる者の倫理性が厳しく問われている時代を迎えている。近年、「写真は新聞の顔」ともいわれているが、紙面のビジュアル化はまだ歴史が浅い。今日も記者は、どうしたら世の中のことを、よりリアルにわかりやすく伝えられるかを工夫して写真撮影している。
しかし、最近の紙面はどうだろう。パソコンそしてグラフィックソフトの進化で、よりわかりやすく事象を説明するためにと、インフォメーション・グラフィックス(以下インフォグラフ)が台頭している。写真もその一つのパーツとして使われることも多くなった。ここで生半可な論を展開するつもりはない。
しかしながら、現実的に文字が大きくなった紙面では、既視感のある従来型の写真を掲載する紙幅がなくなってきているのも事実だ。さらに写真取材の取り巻く環境も厳しい状況に陥っている。だがどうだろう。ひとたび大きな事件事故、災害などが起きれば、報道写真の存在価値は高まる。東日本大震災でもそうだったように。
今年、オランダの世界報道写真財団が主催する報道写真コンテストで、日本のわれら同人3人が栄えある賞を受賞した。そのすべてが東日本大震災での写真だったが、世界から送られた10万点を超える写真のなかから選ばれたのは栄誉なことであり、これらが代表するように被災地の現状を伝える写真が世界の人たちに感動を与えたことは間違いない。
6月10日付けの天声人語で「ジャーナリズム本来の『追う仕事』に忠実なのは。フリーを主とする報道カメラマンだろうか。名声と正義、生活のために、彼らは体を張る」と記された。
われわれの報道写真も同じだろう。写真を通じて人々の感動を呼び起こしたり、独自のメッセージを送ったり、新たな使命感を模索しつつ、その可能性を追求しなければならない時代に突入した。最近、その思いを強くしている。
朝日新聞社報道局写真部長
渡辺幹夫
≪六四に思うこと≫
毎年6月になると思い出す「六四」と浅田飴。「六四」とは、1989年6月4日の未明、民主化と腐敗一掃を求め、北京市の中心部にある天安門広場に全国から集結した学生たちを、武力によって強制排除したことで、市民を含む多数の死傷者を出した「天安門事件」のことです。
当時、北京支局の特派員だった私は、その時、天安門広場でテレビカメラを持ち取材に当たっていました。猛スピードで長安街を東から突進してきた装甲車が、天安門の前を通り過ぎようとした時、ガードレールを利用して築かれていたバリケードに阻まれ、立ち往生しました。次々と火炎瓶が投げつけられ、瞬く間に装甲車は炎に包まれました。私は一部始終を撮ろうと駆け寄りました。
炎上した装甲車から兵士が脱出しようとした時、周囲から「叩き殺せ!」という声と、「殺すな!」という声が飛び交いました。いわゆる事件後政府が暴徒と呼んだ集団と、兵士を守ろうとした学生の間で、明らかに違う行動が起きていたのです。
結局、負傷してぐったりした兵士を学生らが抱き抱え、駆け付けた救急車で病院へ運びました。後日、病院で聞いた話では、事件当時、兵士を運んだことで救急車が暴徒の標的になり、燃やされたりして大破したとのことでした。
広場の中心にある人民英雄記念碑の前では、学生たちが革命歌「インターナショナル」を肩を組み合唱していました。号泣しながら歌う学生。心の中で無事を祈りながら、ただ、すべてを撮らなければとの一心で取材を続けました。
やがて長安街には続々と銃を水平に抱えた人民解放軍の兵士が現れ、やや斜め下に向けた銃口から、火花が散る様子が見えました。その瞬間、道路上の多くの学生や市民が逃げ惑いました。威嚇射撃だと思っていましたが、目の前にいた女学生が急に腹部を押さえて座り込み、地面には血が広がりました。撃たれたことが分かりました。
支局は広場から長安街を東におよそ3キロ行ったところにあり、流れ弾が街路樹の葉をバサッバサッと落とす音を聞きながら、這々の体で何とか天安門広場で取材したテープを支局まで無事持ち帰りました。
取材した映像素材は、通常はCCTV中国中央電視台から衛星伝送していましたが、4月15日の胡耀邦元総書記の死をきっかけに、北京市内では民主化を求める学生デモが連日繰り広げられ、政権への批判が日に日に激しさを増しました。5月19日、ついに首都北京に戒厳令が敷かれました。その後CCTVからの伝送はできなくなり、空路で東京に持ち帰るか、内戦状態を恐れて帰国する邦人に運んでもらうしか方法はありませんでした。
日本に送る部分の編集を終えると、テープを解体し、編集済みのロール部分だけを何かに入れて乗客に渡すことを考えました。空港でのチェックを恐れ、できるだけカセットテープの原型を留めたくなかったからです。さて、何に入れるか。当時、のどが痛い時によく嘗めていた浅田飴。その缶がちょうどいい大きさであることに気が付きました。空にした缶の底にロールを置き、中敷きの紙、そして、飴を並べました。缶は、その日の臨時便で帰国する男性に託し、成田空港で待ち受けたNHK職員の手に渡りました。未明に撮影した天安門事件の映像は、十数時間後、当日のニュース7で放送されました。
あれから23年。中国は日本を抜いて世界第2位の経済大国に成長し、将来第1位になることが予測されています。今や海外旅行や海外の不動産投資に走る富裕層が目立つ中国ですが、果たして、国民は豊かになっているのでしょうか。なくならない権力闘争や汚職、増殖する知的所有権の侵害、人権侵害問題等々、疑問は多く残ります。
先月19日には、中国の人権活動家・陳光誠氏が中国を出国しアメリカへ渡りました。また、天安門事件の後、国外に亡命した学生運動指導者のウアルカイシ氏は、家族との再会を理由に、ワシントンの中国大使館に帰国の申請に訪れましたが門前払い。集まったメディアを前にして嘆きました。
結局、何も変わっていないと思わずにはいられませんが、悠久の歴史からすると、この23年はほんの一瞬なのかもしれません。さまざまな現場で「瞬間」を記録する若いカメラマンには、これからもファインダーを通した実像を根気よく撮り続け、歴史の証人としての活躍を願うばかりです。
日本放送協会 報道局映像取材部長
下垣内 真
《五輪取材》
今年はオリンピックイヤー。ロンドン五輪が7月27日に開幕する。
去年の9月になでしこジャパンが早々と五輪出場を決め、今年4月には競泳の北島康介が100m平泳ぎに続き、200m平泳ぎでも五輪代表に決まった。今大会のメインどころとなるのは間違いないだろう。
20年前に取材したスペイン・バルセロナ五輪で金メダルの期待がかかったのは、何といっても、柔道。男子の古賀稔彦、吉田秀彦、小川直也らの錚々たるメンバー。女子では “ヤワラちゃん”こと田村亮子(現在は、巨人の谷佳知選手夫人で参議院議員)だった。注目度は抜群。当時16歳の女子高生だったヤワラちゃんは、髪留めリボンがトレードマーク。勝負の時は、ピンク色だったか。初戦が始まるのは日本時間の夜中、朝刊の締め切りぎりぎりの時間だ。コダックが出したデジタルスチルカメラの出番となった。モノクロで、画質も、現在のデジタルカメラと比べたら、雲泥の差。それでも、撮影後すぐに電送できる画期的なカメラだった。
順調な勝ち上がり。決勝の相手は、フランスのセシル・ノワック。効果2つを取られ、2位となった。呆然とするヤワラちゃん。その傍らにはガッツポーズで喜ぶノワック。カメラマン席からはため息がもれた。銀メダルの表彰台でも笑顔は見られない。翌日の1面の写真は、涙をこらえた表彰台ではなく、決勝戦で果敢に攻める写真に決まった。それが上の写真。勝負が決まった瞬間ではなく、私自身も忸怩たる思いの写真だった。
全日本選手権4連覇を達成したばかりの95キロ超級の小川直也は、もっとも金メダルに近い選手だった。目の前で金メダルが見られる。そう確信していた。柔道会場のカメラマン席は、ほとんどが日本の報道陣。一回戦に臨む小川が、待ち構えていた日本人カメラマンの「TATAMI(畳)A」だか「B」だかの前を通り過ぎる。慌てて場所移動する日本人カメラマン。通信社のカメラマンは「何事か!」と驚き、私たちに尋ねる。こちらは得意げに「日本のチャンピオンだ!(気持ち的には金メダルの第一候補だよ。と言ってやりたかったが、なにぶん英語が…)」。彼らも移動せざるを得なくなった。順調に決勝まで勝ち上がった小川の相手は、予想を覆してEUNのハハレイシビリ。開始25秒で技ありを取られ、焦った小川は、強引に相手のふところに入ろうとして、なぎ倒された。合わせ一本の負け。小川は、ハハレイシビリの足元で倒れこんだまま、しばらく立ち上がれなかった。
なぜ、いまさらこんな写真2枚を上げたのか?というと、ロンドン五輪を前にちょっと反省したからだった。またもや金メダルを過剰に期待している自分がいる。W杯で優勝した女子サッカーや、アテネ、北京で100mと200m平泳ぎで連続2冠の北島康介には相当のプレッシャーがかかっていることだろう。他にも、ハンマー投げの室伏広治。女子レスリングの吉田沙保里、伊調馨らに連覇の期待がかかる。彼、彼女らのガッツポーズが見たい。いや、たとえ敗れようと、堂々とした日本人の姿が見たい。五輪を見る楽しみは、選手の一所懸命なプレーだ。
ロンドンで行われる五輪の決勝タイムは、連日未明の時間帯。当時のデジタルカメラと違い、格段に性能アップした最新機種で、その感動のシーンを活写してくれる各社のカメラマンの皆さん。心に焼き付く写真を“期待”しています。(敬称略)
産経新聞写真報道局
夕刊フジ写真部長・清藤 拡文
《「祈り」の日》
東京新聞に月1回掲載されている読者のフォトコンテスト「東京写真館」。毎月200点前後の応募がある。新米部長がみても毎回、入選作品のレベルの高さに目を見張るばかりであるが、4月の「東京写真館」(第182回)に入選した作品の一枚には、思わずうめき声をあげてしまった。
「妻の祈り」と題された応募作は、コタツの上に置かれた新聞に思わず手を合わせる女性の一瞬を捉えた。よくみると、本紙3月11日付朝刊である。年齢を感じさせる手の動きやバランスのとれた全体の画面構成も見事である。だが、何よりも新聞に手に合わせる写真など、これまでみたことなどない。「一体、何事か…」と、思わず応募票のコメント欄に見入った。
撮影した埼玉県久喜市の山中三郎さんは、今回を含めて3回の入選歴のあるコンテストの常連。「(3月11日付)朝刊を見て思わず大きな声で妻を呼んで『素晴らしい写真が載っているよ、早く』と、この祈りの写真を目の前に出したら、妻はコタツの所へ座り手を合わせた。私はこの瞬間を逃してなるものかと撮りました」とあった。そう、手を合わせた対象は新聞ではない。新聞に掲載された写真であるが、いずれにしても、ありがたい話ではある。
11日付朝刊の写真の撮影時間は、今年3月4日午前9時35分。写真部の嶋邦夫記者が、真っ白に雪が積もった仙台市若林区荒浜の海岸で、太平洋から迫る波に向かい、祈りをささげる僧侶を撮影したものだ。
東京新聞では、3月11日付朝刊一面に、作家の伊集院静氏に依頼した詩を掲載する予定で、その詩のテーマにふさわしい写真を撮影するというのが、写真部に求められたミッションだった。震災からの1年を象徴するような写真を大胆に狙ってほしい、という指令だ。しかし、「3・11」に向けた編集方針が固まった2月下旬時点では、詩を依頼したばかり。肝心の詩がいつ完成するからは分からない。詩の完成を待っていては、写真が間に合わないかもしれない。取材を先行することに決め、嶋記者を3月1日から前日の10日までの10日間、太平洋岸の岩手、宮城両県を中心とした被災地取材に派遣した。以来、文字通り、地をはうような取材の中から撮影したのは1750カット。その写真の中から最終的に選ばれたのが、荒浜での祈りの写真だった。
手前みそな話の続きで恐縮ですが、新聞掲載日直後から読者から手紙やメール、FAXなどで多くの反響が寄せられた。本社読者応答室によると、3月11日付朝刊の写真に関して寄せられた声は27日現在で、36件にのぼった。
一部を紹介すると、「波の音とお経が聞こえてくるようだ。1年前のあの日を忘れない深い悲しみが伝わってきた」、「100行の記事より一枚の写真とはよく言ったものだ」、「無常観と鎮魂の気持ちがあふれた写真」、「祈りをささげる僧侶の姿に胸が震えた」、「カメラマンがいたのは知っていたが、まさか新聞に掲載されているとは」(僧侶本人)など…。
大半が称賛の声であったが、「あの美しい海が牙をむき、大勢の命をのみこみ、私たちの悲しさ、祈りを、あの坊さんにお願いしたいと思います」という意見が印象的だった。あの日から1年を迎えた朝、人々は祈りの場所を求めていたのかもしれない。そう思えば、冒頭のコンテストの応募写真も「さもありなん」と納得する次第である。
ペン記者の現役時代、数少ない特ダネ記事を執筆した時でも、読者からほめられたことなど、ほとんど記憶にない。写真の訴求力、インパクトの強さの神髄であろう。「100行の記事より1枚の写真」。言い尽くされた感のある言葉だが、あらためて実感する昨今である。
東京新聞写真部長
吉原 康和
《託されたもの》
冒頭から自分の会社のコンテストの話で恐縮だが、新米の写真部長として出席した1月28日の「よみうり写真大賞」の表彰式のことから始めたい。
審査の対象は昨年1年間に読者から投稿してもらったり、紙面掲載されたりした3万点余の写真。言わずもがなのことだが、報道写真の部門や「ありがとう」を課題にしたテーマ部門では東日本大震災を素材にしたものが目立ち、入賞作品は例年にも増して力作ぞろいだった。いつもなら和やかな雰囲気の中、笑顔が行き交う表彰式になるのだろうが、今回は少々様子が違った。
「今にして思えば、私がビデオで撮っている間、この津波におばといとこが流されていたんです」と壇上で嗚咽(おえつ)したのは、宮城県女川町で津波の映像を撮り、グランプリに選ばれた男性だ。彼は家族や知り合いに避難を呼びかけてから職場に戻り、観光施設の屋上で何時間もビデオを回し続けた。ビデオには「うわー、何もできねえよ」という男性の悲痛な声も入っている。津波で男性の自宅は全壊し、今も仮設住宅で生活している。
「元気になりました」というタイトルで、被災地でテント暮らしをする夫婦らの笑顔を写した岩手県宮古市の男性は「皆さまからの励ましを強く感じました。立ち上がることができました・・・」と話したきり、絶句してしまった。町が津波にのまれる光景や、家族を亡くして嘆き悲しむ人の姿を目の当たりにし、「写真なんか撮っていていいのか」と自問自答を続けてきたのだろう。大震災のまがまがしいまでの現実と受賞の晴れがましさとの落差に、気持ちの整理がつかないようにも見えた。
そんな人たちに向かって、「亡くなっていった人はカメラやビデオを通して皆さんに託したんだと思います。多くの人に知らせてほしいと」と、審査委員の大石芳野さんが語りかけた。
大石さんは日本における女性の報道写真家の草分けだ。40年以上も単身で紛争地や戦場を駆け巡り、カンボジアではポル・ポト時代の大虐殺を生き延びた難民、ベトナムでは「枯れ葉剤」の影響で障害を負って生まれてきた子供たち、ウクライナではチェルノブイリ原発事故の健康被害に苦しむ人々の姿を撮り、世界に発信してきた。大震災の被災地にもたびたび足を運び、原発事故で故郷を追われた住民らの苦悩を撮り続けている。
シャッターを押すのをためらったのは新聞社の写真記者も同じだ。入社4年目の記者は、焼けただれた幼稚園バスの前で園児一人ひとりの名前を呼びながら手を合わせている女性を撮ろうとしたが、「女性を傷つけてしまうのではと怖くなって、指が動かなかった」と話していた。
撮らなければ伝えられない。しかし、大災害や事故の現場で過酷な現実を写しとった写真は、刃物のように生身の撮影者を傷つけることもある。背負った重荷の中に「託されたもの」があると信じられれば、幾分かでも荷が軽く感じられるのではないか。そう思いながら、大石さんの言葉を胸に刻みつけた。
読売新聞東京本社写真部長
梅崎隆明
《後世に残すパノラマ写真の挑戦》
東日本大震災からまもなく1年が経とうとしています。この間、報道各社は総力を挙げて大勢の記者やカメラマンを現地に派遣し取材を続けてきました。家屋を飲み込んで押しよせてくる津波、壊滅した街、かけがえのない家族を亡くし、途方にくれ肩をおとす人々…。被災した方々には辛く悲しい記憶ですが、私たちが取材・報道した多くの写真や映像は、「記録」として残り、未来に語り継ぐ災害史の貴重な資料となるはずです。
ネットの出現により、ここ数年、新聞各社は従来のスタイルとは異なるウェブサイトでの速報や映像報道に力を入れ始めています。東日本大震災の報道では、紙面で収容しきれなかった写真や動画を大量にアップすることができ、各社とも多角的に未曾有の大災害を伝えることができたと思います。紙数の都合で掲載できなかった写真も、今ではサイト上で幅広く展開できる時代になりました。
産経新聞写真報道局ではマイクロソフト社とともに、写真の持つ力と新しい映像表現に挑戦し、写真好きの人たちと交流の場をつくろう、との思いから2011年1月に『産経フォト』を立ち上げました。サイト運営は、産経新聞やサンケイスポーツのデスクを長く務めた経験豊富なベテランたち。ネットに舞台を移し、紙媒体とは違う視点や感覚で自社取材や通信社の配信する良質な写真を選択し、ニュース、トピックス、フォトエッセイなどのカテゴリーに類別編集し、「魅せる・語る・読む写真」としてユーザーに発信しています。また、フリーの写真家に発表の場を提供し、アマチュアカメラマンのために写真コンテストを企画するなど、写真に特化したユニークなサイトを目ざしてコンテンツの充実に努めています。
サイトの立ち上げから熱心なユーザーの間で評判になっているのが、マウスで自由に視点移動ができてパソコン画面上で360°すべてが見られる球体写真のシリーズ企画「パノラマ写真館」です。産経フォトでは震災報道においても被災地の360°パノラマ写真を積極的にアップし、国内だけでなく世界中からも注目を集めました。これまでに瓦礫に覆われた被災地、避難所、福島第一原発から1キロ地点、被災地の変化をとらえた定点観測など130枚以上を公開してきました。臨場感ある被災地のパノラマ写真は、アメリカやロシア、シンガポール、ドイツ、インドなど各国のMSNサイトが転載し、ドイツのシュピーゲル誌やオーストラリアのヘラルド・サン紙など有力な外国メディアも自社サイトにアップするなど大きな反響を呼びました。
実はこの震災パノラマは、当初現場の取材者には抵抗感がありました。マウスで自由に視点移動し「遊ぶような感覚」で画面を見るパノラマ写真は、「被災現場にはそぐわない。不謹慎なのでは」との声が局内の一部に上がり議論になったからです。しかし、非難どころか「現場に立っている感覚だ」、「現地の被災状況が本当によくわかる」という好意的な多くの声を頂いたのは、通常の紙面取材の合間を縫ってパノラマ撮影を続けたカメラマンたちの大きな励みになりました。静止画の新聞写真だけでは伝えきれない震災パノラマは、ネット時代に生きる写真記者が後世に残す貴重な記録になると信じています。
Webサイト http://photo.sankei.jp.msn.com/ または『産経フォト』で検索
産経フォトでは「硫黄島の壕の中」や「組閣取材時の首相官邸」、「ジャンボ機のコックピット」、「東京スカイツリー」、「しんかい6500の船内」、「南極」など硬軟取り混ぜたさまざまなジャンルのパノラマ写真を700枚以上公開しています。
産経新聞社写真報道局
サンケイスポーツ写真部長・佐藤一典
新しい年があけました。今なお東日本大震災で被災され、苦しみ、不自由な生活を続けている方々に心よりお見舞い申し上げます。
展示の約4割を占める東日本大震災写真を中心に約300点を展示した「2011年報道写真展」(日本橋三越本店11年12月16日〜25日)は、大勢の人たちに見て頂きました。日本橋三越調べでは、昨年より1万人多い約5万人を超える人たちが入場しました。連日あまりの多さに大震災がいかに高い関心事であるか、またこの報道写真展が多くの皆さまに受け入れられ、定着したと改めて感激しました。受付に置いた「ユニセフ募金」には、期間中に、何と36万円もの募金を頂きました。感謝に堪えません。全額を日本ユニセフ協会に寄付させていただきました。
報道写真展開場式のテープカットには、新大関琴奨菊関と「なでしこジャパン」の丸山桂里奈選手をお招きしました。新大関は今年のさらなる活躍を約束し、丸山選手はケガを直して一線に戻り、がんばりたいと抱負を語っていました。この報道写真展は、今年1月14日(土)から4月15日(日)まで、横浜市の日本新聞博物館に会場を移して展示されます。
昨年、報道写真展について取り上げた朝日新聞の「天声人語」に「私たちは指先ひとつで、ある一瞬に永遠の命を授けることができる。写真の話しである。シャッターが切られ、ひとたびフレームに納まった表情や景色は、時計の針と同じ速さで遠ざかりながら、過去を語り続ける」。最終章に「被災者らが自筆のメッセージを掲げる『読む写真』がある。子どもたちの小さな決意に、深くうなずいた。『もらった命 たから かんたんに失わないようにがんばって生きよう』。写真は時として、未来も語る」とありました。なるほど。
会場に置かれた「感想ノート」には、さまざまな意見、感想が書かれていました。@毎年見に来ています。今年は東日本大震災ばかりのニュース。来年はロンドンオリンピック、楽しみにしています(男性)A心が痛むほどの写真に心の中で手を合わせました。私も3カ月後、被災地を訪問、写真で見る以上のものでした。カメラマンの心に感謝。B写真の力を実感しました。命懸け一心に撮影された皆様有難う御座います。(高2、女子)C東日本大震災が起きた時の写真を見て私たちも何かできることをして、被災地が復興できたらいいなと思いました。(13歳、中学1年生)D写真はリアルに私達に問うて訴えている。何とかしたい。寒さの中で、さぞ大変と思います。頑張って下さい。応援します!E写真はすごいです。人がその中にいます。すべてを語っている1枚の写真の力はすごいと改めて思います。F写真が伝える現実に胸をうたれた。1日も早く、大好きな東北へ。あの時の三陸へ今、行く決心がようやくつきました。力になれるかわからないけど、行くぜ東北!G写真を業とする者です。最初の「ままへ」の写真を見て、平静を保つので精一杯でした。H朝日の社説で展示会を知り、仙台から参りました。ありがとうございます。自身で見た光景と同じです。I映像では伝わらない瞬間を切り取った報道写真は、胸に迫るものがあり、1枚の写真に涙が出ました。=感想143点から10点の抜粋です。
「歴史が動いた年」と言われた09年、「混迷の政権運営」と言われた10年、「未曽有の大震災」に見舞われた11年、12年は世界同時恐慌危機とか、財政危機、超円高、北朝鮮の行方、福島第一原発の放射能汚染問題など明るさが見えてきません。またロシア、アメリカ、フランス、韓国の大統領選関連、中国の国家主席継承、ひょっとしたら総選挙など「選挙の年」でもあります。その中で、明るい話題としては5月、東京スカイツリーの開業、7月、期待されるロンドン五輪があげられます。
今年も、写真記者たちは「国民の知る権利」に応え、記録して伝える――愚直に、真摯に、忘れることなく続けることが大切だと思います。その記録は「時代の証言」です。権力チェックと同時に弱い立場の人たちの代弁者でもあります。また、質の高い企画ものに見られるように、ひとりの表現者として写真の中から今年も多くのメッセージを発信してくれることを期待しています。
2012年1月 | 東京写真記者協会 | |
事務局長・花井尊 |
《震災取材のフォロー》
先月25日の東京写真記者協会賞の選考会では予想通り、グランプリの協会賞、一般ニュース部門賞、企画部門賞と新聞協会賞を受賞した毎日、NHKの2社は震災関連作品の受賞だった。
今回の災害の大きさは各社とも、発生から定期的に現場や被災者の現状を紙面で大きく取り上げたことにもうかがえる。協会賞に選ばれた読売の「ままへ」も5月に写真ニュースでフォローしている。
共同でもその都度定点で、被災直後と3カ月後、半年後の状況。現在との比較写真を節目に送信した。岩手県大槌町大民宿に乗り上げていた観光船「はまゆり」。宮城県気仙沼市の市街地は地盤沈下によりいまだに冠水が続いている。岩手県大船渡市の市街地ではがれきはほぼ撤去された。宮城県女川町では津波被害を受けたビルの撤去が進んでいる、石巻市がれきが撤去され草の緑が目立つ。(写真は左下から時計回り)
震災半年では「定点観測」に加え、被災直後に取り上げた住民の半年後の現状を比較した写真を連載企画として配信した。各回に写真記者が記事50行、震災直後に撮影した被災者と近況を送信した。内容は水を運ぶ少年、車中生活を続けた一家、福島県いわき市で原発事故から逃げる一家、離島に取り残された双子と再会した母親、母を亡くした女性、震災直後に出産した女性の一家。被災直後に撮影した写真記者が半年後再び訪れ、粘り強く被災者と交渉し、締め切り間際に取材を承諾していただいた方もいた。
この企画を京都府の小学校では掲載された一部紙面を教材に取り上げ、“今、自分にできること、自分がどうできるか”をテーマとした道徳の授業を受けた5、6年生の子どもたちから京都新聞社を通じて手紙が寄せられた。
「あたりまえのようにくらしている毎日がおくれず、とても悲しい時があったことを知りました」
「今自分が学校に行けることや、自分の帰るところがあることが本当のしあわせなんだ・・」
「被災された方が、少しずつ前向きにがんばっておられる姿を見て、私も負けられない・・」と素直な感想が寄せられ、取材者を通じて本人に届けられた。
「今回の子どもたちの取り組みは学校教育での新聞記事活用から生まれ。記事を通じ社会を知る力、考える力、行動力を育てることにも大きな貢献ができたことにもなり、まことによろこばしいことと思います。」との同新聞社読者応答室長からのうれしいコメントも添えられていた。
一方、一見して分かる被災地と違い廃炉まで30年以上といわれる福島第1原発をめぐる状況を来年以降も長期間伝え続ける重い課題を負ったことを忘れてはならない。
共同通信社写真部長
上妻 聖二
《写真か、動画か》
今年5月18日スタートした「朝日新聞デジタル」の購読数が10月末、5万件を突破しました。日経そして朝日が先行した有料デジタル版ですが、来春にむけて同業他社の電子版の動きが活発になりそうな気配だといいます。明確な答えや道筋のないデジタル版ですが、従来の紙だけではなくデジタル空間でも存在感を明確にする新しい新聞社の形を目指しています。
この朝日新聞デジタルにおいて、目玉の一つになっているのが「動画」です。動画は主に写真部員が中心に取材していますが、取材現場で「大きな変革期を迎え始めている」と実感する事例が時折あります。まさに「写真か、動画か」という命題です。ほんの数年前なら考える必要もない命題でしたが、いまは違います。現場を取材する写真記者にひとしきりの葛藤が芽生えています。
9月はじめ、中堅の写真部員が福島第一原発から半径20キロ以内の立ち入りが禁止されている「警戒区域」への同行取材に入りました。もちろん警戒区域に設定した地元・浪江町長の許可が得られての初めての取材です。「写真も動画もおもしろい映像を撮りたい」という記者魂がうずく現場です。
「二兎を負う者一兎を得ず」という諺どおり、ベストのシャッターチャンスは一瞬で一度だけ。前夜、取材を想定して「写真も動画もベストを撮ることはできっこない。動きがあり音声もある題材だったら、まずワンカットだけ写真を押さえ、それから即座に動画を撮ろう」と考え、取材方法を思い巡らせたそうです。
結果は、動画撮影された映像から切り出された写真が朝刊一面に掲載されました。無人となった小学校の校庭を疾走する牛の群れは迫力満点。校庭に響くドドドドッという足音が印象的な動画がデジタル版で扱われました。取材者曰く、「計算して動画で撮ったのならば胸も張れるが、たまたま流し撮り効果で画像が止まった」といい、「牛の疾走は写真で撮るべきだったか」「写真だったらもっとクリアな映像だったはず」と反省しきり。しかしおもしろい動画が撮影できたことで、「やはり動画で正解だったのかなあ」と結論づけていました。このときは、それなりに自らを落ち着かせたものの、「今後も同様の悩みに遭遇する気がする」と最近は話しています。
オリンピックごとにデジタルカメラは技術革新が進みます。先日、某メーカーから発表された来春発売の最新鋭機は、画素数も3割増強された高スペックなカメラに生まれ変わります。数年のちには「すべての撮影対象を動画で撮ったらいいじゃないか」との少し乱暴な意見も出るでしょう。質よりも写真の有無が問われる報道の現場では、動画からの切り出し映像を活用することも想定内になるでしょう。
とはいえ、写真は現在も未来も一瞬を切り取る世界です。写真のもつ情報量の多さ、そして人々の感動を呼び起こす印象度や訴求力からみても、写真の優位性は揺るがないと確信します。東日本大震災から8カ月近くたち、今年はつくづくその存在の大きさを感じています。
朝日新聞社報道局写真部長
渡辺幹夫
《ワスレテハイケナイコト》
東日本大震災の取材がはじまって1週間余りたった3月20日ごろ、写真部員の一人が「写真展やりませんか」と言ってきた。連日被災地から送られてくるおびただしい数の写真。紙面に掲載する写真を選びながら、この選ぶという作業にどれほどの意味があるのか、新聞に載った写真と載らなかった写真に差はあるのか、そもそも新聞だけでこの災害を伝え切れるのか。そんな疑問がどんどん膨らんでいたときだった。
日々の紙面を作るだけでも十分に忙しい毎日だが、部員はみな何かに憑かれたように作業をし、2週間後の4月6日には東京・大手町本社での開催にこぎつけた。展示したのは3月12日から27日までに撮った67枚の写真と8つの取材メモ。タイトルは、この災害を決して風化させてはいけないという思いで、東日本大震災報道写真ギャラリー「記憶 忘れてはいけないこと」とつけた。
勢いだけで始めた写真展。反響があるかどうかは正直不安だった。しかし、予想以上の数の来場者があり、多くの励ましのメッセージもいただいた。その中で、滋賀県米原市の米原公民館の方から、「感動しました。ぜひ、うちの公民館でこの写真展を開いてもらえませんか」との依頼が寄せられた。そんな引き合いがあるとは思っていなかったのでびっくりしたが、喜んで写真パネルを貸し出し、大阪写真部からは設営の手伝いも派遣し、6月6日から20日にわたって無事開催された。写真はそのときに見に来てくれた親子である。
「キオク。ワスレテハイケナイコト…」。父親が2人の子供に聞こえるように、写真展のメッセージボードを読み始めた。一字一句漏らさず語る朗読はやがて写真のキャプションに移る。途中、写真の解説も交えながらの約30分間、2人の子供の目は写真を見つめ、耳は父親の声をたどっていた。
親から子へ、そして人から人へ。私たちの「写真ギャラリー」という小さなメッセージが、確かな言葉となってつながっていく。震災後、人とのつながりや絆を意識することが多い。そして「伝える」ことの大切さも。これらも「ワスレテハイケナイコト」なのだろう。
日本経済新聞社写真デザインセンター長兼写真部長
山田 康昭
《あきらめない心で》
最近、日本人サッカー選手の海外進出が目立ちます。イタリア・セリエAのビッグクラブ・インテル・ミラノに移籍した長友佑都を筆頭に20人前後の選手が欧州の主要リーグに所属しています。ドイツ・ドルトムントの香川真司の昨年の大活躍は記憶に新しいですし、多くの選手がレギュラーを獲得、もしくは争っています。中でもCSKAモスクワの本田圭佑は派手な言動とファッションを含めスター選手の雰囲気がありますね。ビッグクラブ移籍の噂も絶えません。欧州の移籍マーケットは8月で閉じますので、このコラムが掲載される頃には新しいチームへ移籍しているかもしれません。
私が新聞社に入社した26年前、サッカーは決してメジャーなスポーツではありませんでした。海外で活躍していた選手も奥寺康彦さんしか記憶にありません。人気の高かったプロ野球の陰に隠れていたように思います。流れを変えたのは中田英寿の出現でした。彼は欧州のトップリーグ、イタリア・セリエAペルージャへ移籍し活躍しました。その後ASローマでもプレーし、“イタリアで初めて成功した日本人”になりました。しかしその後、欧州主要リーグで成功したといえる日本人は思い浮かびますが、“中田以上の選手”がいたでしょうか。
ところが今年、“私的に中田以上の選手”が出現しました。それは長友佑都です。彼はセリエAのビッグクラブ・インテル・ミラノへ移籍し、驚くことにレギュラーの座を獲得しました。(今後はわかりませんが)中田英寿はカップ戦要員でしたから、私の勝手な理論で“中田以上”となるわけです。
1998年、初出場のフランスW杯で私たちは世界との実力差を思い知らされました。2002年日韓大会での「思い上がり」もつかの間、2006年ドイツ大会では再び世界との差を実感しました。しかし、2010年南アフリカ大会では下馬評を覆し、決勝ラウンドまで駒を進めました。今年のアジア杯での優勝も見逃せません。8月のガチンコ対決では宿敵・韓国を3-0と圧倒しました。
躍進の理由は多々あると思いますが、個人の技術向上が大きい要因だと思います。タフで技術の高い欧州の主要リーグでプレーする選手が増えたことが日本代表のレベルの底上げにつながったのだと思います。今夏、19才の宇佐美貴史がドイツのビッグクラブ・バイエルン・ミュンヘンへ移籍しました。イングランドの名門アーセナルはオランダへレンタル移籍させていた宮市亮(18才)をプレミアリーグでプレーさせるため、特例で就労許可証を取得させました。日本人選手の評価は確実に高まっているのです。
7月、女子サッカーの“なでしこジャパン”がドイツで行なわれたW杯で優勝、日本に勇気を与えました。東洋人は不利といわれるボディーコンタクトの球技を「あきらめない心」で制したのです。南アW杯前「目標はベスト4」と発言した岡田武史前監督は世界から鼻で笑われました。しかし今後“中田以上の選手”が数多く出てくることで「誰にも笑われない日」は近い気がします。決してあきらめない心は日本人の大きな武器だと思います。
産経新聞社写真報道局
写真部長・藤原 重信
この度の東日本大震災で亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに、被災された方々に謹んでお見舞い申し上げます。
私は3月11日の地震発生時には、社内でデスク業務中。ああ地震だなと思っているうちに、揺れは大きくなり、時間も長く、ついに関東にも大きな地震がきたのかと一瞬思うほどであった。やがて震源地は東北地方であることが判明し、津波警報が発令され、ただ事ではないと私も含めて社内での認識がかわった。
ただ、人間いざとなると地震発生時は何もできない自分がいて、さらに時間がたったからといって何かできるかというと、悲しいかなさらに何をすればよいのか分からない自分がいた。
その日の新聞発行業務は、なんとか遂行することができたが、翌日からはスポーツ新聞としての震災被害の報道の難しさを感じる日々が、長く続くこととなる。その後、我々スポーツ新聞はスポーツ界、芸能界の復興支援活動をはじめ様々な角度から震災復興関連のニュースや話題を追いかけてきた。
今回のコラムで紹介するのは、岩手県陸前高田市にあった県立高田高校野球部への密着取材である。(現在は県立大船渡東高校の校舎を借用中)一年間という時間をかけての取材予定で、まだ始めてから4か月目での途中ではあるが、高田高校野球部を通しての人間模様や、地元の復興の様子などを少しでもみなさんに知ってもらえればと思い、取材に派遣した高橋雄二記者の写真とともに紙面を何点か掲載させていただきます。
スポーツニッポン新聞社
編集局写真部長 佐藤 雅裕
まず、大震災で亡くなられた方々のご冥福をお祈りし、被災された皆さまに謹んでお見舞い申し上げます。
3月11日午後3時56分、巨大地震による津波が名取市の沿岸部に押し寄せる瞬間を手塚耕一郎がヘリから撮影した。2カ月が経った5月初旬、手塚は写真を手に現地を訪ねた。そこで写真に写っている集会所の屋根に上り助かった男性と出会う。男性は地元の人たちの避難誘導中に津波に襲われ、仲間4人と屋根の上で一夜を明かした。翌朝、周囲の水が引き男性らは股下まで泥に浸かりながら仙台空港に避難した。あの日は夕方から雪になった。屋根の上で震える男性は妻に「寒くて大変だ。助けてくれ」と携帯でメールを送る。避難して無事だった妻は警察に救助を要請するが、混乱していて取り合ってもらえなかった。そのうち、携帯のバッテリーも切れ連絡が途絶えた。
翌12日の朝、妻は避難先で地元紙に載った手塚が撮影した津波の写真(写真左)をルーペで食い入るように見ていた。夫の姿を新聞で確認しようとしたのだ。写真を拡大(写真右)すると、夫が避難した集会所はかろうじて分かった。しかし○印内の人影までは、新聞の印刷では分からなかった。その後、人づてに夫が無事でいると聞いたのは14日の午後。夫婦が再開できたのは16日になってからだった。手塚が訪ねた時、この夫妻は知り合いの家族と一緒に避難所の近くの耕作放棄地を耕して野菜作りを始めていた。
沿岸に押し寄せる大津波を上空から見た手塚は、これは数千人の命が奪われると直感したという。自分が撮影したあの場所にいた人たちが、どうなったのかずっと気がかりだった。どんな反応があるのか、不安を抱えながら被災地に向かった。現地では新聞や写真集に掲載された津波の空撮写真が話題になっていて、プリントを見ながらいろいろな話を聞くことができた。夫婦の話もその一つ。
被災地の避難所では新聞が重要な情報源として機能したと聞く。停電でテレビやパソコンは使えず、ラジオにも限りがあった。震災当初、写真部員は販売店から宿舎に届けられた朝刊を避難所に届けた。被災者にたいへん喜ばれたという。
緊急時に頼られるメディアとして、一過性の報道に終わらせず「その後」をしっかりと追い続けることが新聞の使命だ。タフな取材になるが10、20、30年と地道に被災地報道を続けたい。
毎日新聞東京本社写真部長
佐藤泰則
《昆 愛海ちゃん》
東日本大震災で亡くなられた方が1万5千人を超えた(5月14日現在、警察庁調べ)。行方不明者も9千人を上回る。避難されている被災者は11万5千人以上だ。観測史上最大マグニチュード9.0の大地震は人々を恐怖へ落とし入れ、大津波はすべてを奪い去っていった。この震災被害を言い表す適切な言葉を私は思いつかない。
読売新聞が3月31日付け朝刊1面で伝えた昆愛海(こん まなみ)ちゃん(5)。「ままへ。いきてるといいね。おげんきですか」覚えたばかりの平仮名で行方不明の母親あての手紙を書き、その上に頬をのせて眠っている写真は読者の大きな反響を呼んだ。震災で両親や家族を亡くした子どもたちを正面から取り上げた写真だった。写真部には援助の申し出はもちろんのこと、養女に迎えたいという電話も寄せられた。
愛海ちゃんのこの写真を見るたびに胸を突き上げるむなしさややるせなさ。同じ思いであっただろう読者に「愛海ちゃんの今」を伝えなければと5月に入って写真グラフを掲載した。ノートには、母親への手紙の続きが書かれていた。「おりがみとあやとりと ほんよんでくれてありがと」。やさしかった父親には「ぱぱへ。あわびとか うにとか たことか こんぶとか いろんなのおとてね」と一生懸命につづっていた。
ほほ笑む母親の写真を手に「ママ、かわいいね」とささやく愛海ちゃん。家事を手伝いながら両親と妹の帰りをまつ愛海ちゃん。その小さな背中にどんな言葉をかけたらいいのだろうか。
読売新聞東京本社写真部長
池田 正一
《ごあいさつ》
この度の東日本大震災でお亡くなりになられた方へのお悔やみと、被災者の皆様に心よりお見舞い申し上げます。自然の脅威とはいえ、余りにもひどい仕打ちに言葉もありません。この不条理は理解しようとも、理解できません。この世は明日何が起こるか、本当に分からないことを明晰にしてくれました。
挨拶が遅れましたが、日本農業新聞の結城淳と申します。2月に広告部から異動してきました。若輩者ですので、皆さまにはご指導・ご鞭撻を何卒よろしくお願いします。
簡単な自己紹介をさせていただきます。1982年に日本農業新聞に入りまして、駆け出しは「やっちゃば(市場)記者」でした。昔を知らない人は想像できないと思いますが、当時国鉄秋葉原駅北口(現在のITビル、消防署)には東京の台所、神田市場(太田市場に移転)がありました。早朝から、それは賑やかなものでした。新人だけに、びっくりしたことは、10時30分にちっぽけでそれは汚い記者クラブに入ると、まず先輩の一声は「結城やるぞ」。仕事と思いますよね。でも違うのです。「こいこい(花札)」だったのです。青果卸のギェンブル大好き叔母ちゃんも交え、12時過ぎまで「こいこい」に精進して、ようやく本番、翌日の紙面を考えます。
この時点で、まだまっ白です。「キャベツが上げてるな。よしそれトップ」。「ミカンの低迷はひどいな。それサブ」。「片はどうする」。なんていう紙面つくりでした。今では考えられないほど、おおらかな時代でした。夜は早々18時(まだ勤務時間内です)くらいから、社内の片隅で酒の宴が始まります、その後、これも例外なく居酒屋へなだれ込みます。毎日毎日、延々午前様まで続きます。
夏場は銭湯(風呂付のアパートに入れたのは数年後松山に転勤した時が初めてでした。今は学生も風呂付きが常識だそうで、信じられませんが)にいけずに鬼デスクに「今日くらいは12時前に帰らせて下さいよ」と抵抗したものです。デスク曰く「風呂入らなくても、死にやしねよ」。
「やっちゃば」を4年やり、次は花の営農技術担当(何と農業専門紙、花の技術記者は初めてでした)。これは1年でちょんとなり、転勤で四国・松山で4年、戻って、くらし面、校閲、社会面、農政担当など上に嫌われていたのか、次から次へ部署が変わりました。異動にもめけず、あいもかわらず、上にモノ申していたせいか、編集から営業(広告)に飛ばされ、新会社立ち上げ準備室、6年前に名古屋で販売担当等など、経理以外あちらこちらを回り、ようやく写真部に辿り着いた次第です。
肩書は名ばかりですが、写真部長。が、悲しいかな見せるビジュアルな絵をとれませんので、実務は少数精鋭の部員にまかせ、もっぱら雑務が主な仕事で、寂寞感を感じる日々です。
恥ずかしい話ですが、東日本大震災の現場にまだ行かせてもらえません。そろそろ勝手にネタを拾い写真とペンで己の存在をまず身内に知らしめたいと切に思っております。被災地には連休明けには入りたいと思っております。写真は紙面には反映されない可能性大ですが…。
一番好きな写真家は日本人初のマグナム・フォトの寄稿写真家となった濱谷浩です。昔NHKでの特集をみて、圧倒されました。雪国、裏日本、怒りと悲しみの記録など、特に人物は圧巻です。今でもこんな写真を撮れたらと最高だと思います。叶わぬ夢ですが。ただ、くらし面時代に元気な高齢者の企画(後に「輝いてときめいて」という本になりました)をやりましたが、記事より元気で生き生き見せる写真に重点を置いて取材したのが5本の指に入る思い出です。
趣味は路上観察、人物観察です。暇はたっぷりありますが、お金がありませんので。埼玉県鴻巣市の田舎が自宅というのも幸いしてか、休日はカメラを片手にぶらぶら、ぷらぷらです。移り行く自然の変化は飽きることがありません。長くなってすいません。最後に理想の人物像は藤沢周平が描く哀歓ただよい、淡い恋心ある庶民か下級武士的存在です。映画にもなった「隠し剣 鬼の爪」で永瀬正敏が演じる片桐宗蔵には、憧れてしまいます。
今後とも何かと大変お世話になりますが、よろしくお願い申し上げます。
日本農業新聞 写真部長 結城淳
《連日の新聞写真に感動》
本文の前に、謹んで地震災害のお見舞いを申し上げます。
3月11日(金)14時46分、昼食後とあってまったりとしていた編集局が耳鳴りのような「ぶーん」という低周波の音の直後グラリと揺れた。
「地震?」「地震だね」なんて言い合っていたのもつかの間、今まで経験した事がない揺れがやってきた。「何?」「おいおい!」「デカい!デカい!」。悲鳴こそなかったが声にならない声。窓から外を見ると高層マンションの避雷針が今にも折れんばかりに大きく左右に揺れている。三脚や脚立、レンズケースが倒れ落ち液晶テレビも倒れた。
頭上からは天井の梁の部品が「バキッ」と音を立てて落ちてきた。最悪だったのは銀塩時代から使用している大きなプリンターの補給用の純水がタンクごと倒れたことだ。フロアが水びたしになり、階下に水漏れになってしまう為、揺れの中大急ぎで水をふき取らねばならなかった。
テレビからはニュース速報の「ポーン・ポーン」と地震発生のテロップが一斉に流れる。「М8.8!こりゃあヤバイぞ・・・」しばし同僚とぼう然としている間にも余震が相次いだ。足元から揺さぶられて机の下に隠れる事も、何かを押さえて保護する事も一切できない。震源地に近い東北地方の惨状はこの時は想像もしなかった。ましてや原発に被害が及び、国をも滅ぼしかねない事態になるとは全くの想定外だった。
とにかく東京も自宅も大変なことになったのは間違いないと感じた。部員や家族の安否、ペットはどうなっているかなどさまざまな憶測がフルスピードで駆け巡る。社屋の窓からは台場方向の空に黒煙がもくもくと上がっているのが見え災害を身近に感じた。地震発生から30分ほどすると「弊社のビルに亀裂が入った恐れあり」と全員退避の放送がかかる。
今思えば、ちょうど東北地方を津波が町ごと飲み込んでいる頃だった。外に出ると小学生が防災ずきんをかぶって校庭に出ている。不気味な余震は何度も続く。しばらくして退避命令が解け、社屋に戻ってみると都内で取材中だった部員や通信社から数枚の都内の被害の写真が入り始めていた。
911同時多発テロや福知山線脱線事故など目を疑うような重大事件事故の報道に携わってきたが、自分自身が大きな災害を体験したのは初めてだった。もちろん震源地付近の被害とは比べようも無いくらいのレベルだったがショック状態は続き、あえて平静を装っている自分がわかった。揺れて位置が変わったテレビからは宮城や岩手の上空ヘリからの映像が入ってきてさらにショックを受けた。現場に出ている部員とはなかなか連絡が取れない。取材の移動中、列車に閉じ込められたままの部員もいた。
先の見えない政治や経済でそれでなくてもどんよりしていた「日本」だったが、更なる追い討ちをかけるがごときこの天災。ふと外を見ると台場付近の火災現場から漂ってきた黒い煙が合わさり首都東京の空は黒い不気味な空に変わっていた。小松左京原作の映画「日本沈没」のシーンや五木ひろしが歌った映画主題歌「明日の愛」のメロディーが浮かんでくる。ついさっきまで「もうすぐ開幕だね〜」「まだ寒い」「花粉症だよ」なんてのんきに過ごしていた日々だったが、一瞬で首都圏の交通をマヒさせ、食糧や電池、燃料不足、停電に悩まされる不自由な生活に180度変わった。
テレビからはバラエティー番組や民間企業のCMが消え巨大地震緊急番組が連日流れ続けた。最初はメディアのヘリ映像だけでなく一般人が撮影したグラウンドレベルの津波動画にただただショックを受けぼう然とした。翌日、福島原発が爆発というショッキングな出来事がありニュースの中心が「放射能」の恐怖に変わっていった。福島原発が水蒸気爆発した際の衝撃的な映像や現場で必死に行動する自衛隊、警察、消防の姿と正反対の他人事のような事務方の会見、地震被災者の家族にあてた涙ながらの声、津波や固定カメラが記録していた地震のすさまじい揺れ・・・。動画でなければ伝わらない優位さを確かに感じた。
ただ、私はこのコラムの場で動画だ、いや静止画だと競うつもりはない。静止画には静止画の良さも存分にあることは言うまでもない。報道カメラマンはどんな現場でもファインダーを覗くと、何を盛り込むのか、何を伝えたいのか考える。写真から汲み取ってほしいものをぎゅっと凝縮してキャプションを付け新聞紙面という発表の場で表現する。千年に一度といわれる未曾有の地震・津波の災害や予想もしなかった原子力発電所の事故、各社の取材写真に胸を打つものが非常に多かった。
私は通常、新聞を読む時まず写真をざっと見、目で読んでから記事に目を通す癖がある。
しかし最近は写真に釘付けになり、なかなかページをめくれない。手を止めキャプションを読み目頭が熱くなっている。さらに記事を読むと、日本語の芸術ともいえるすばらしい文章がある。もう一度写真を見つめ直す。何度も見直し、読み返し、我々のような写真を見慣れた人間にも「感動」を与えてくれる。1枚の静止画から伝わるものがこれほど多いものかと新聞報道のすばらしさ、誇りのようなものを再確認した。
思い返せば平和な日々、やれ「タイミングが・・」とか「ピントが・・」とかの次元でなんとなく日々を送っていたことを反省させられた。綺麗な景色や華やかな美女の写真もいい。スポーツの決定的な写真もいいだろう。
しかしながら、報道写真の真髄は単なる記録ではなく、日本人の心の奥底にあって現代社会で忘れかけているやさしさや思いやりのような「グッ」とくるものを1枚で訴えかけるところにあるのではなかろうか。撮影者が表現したい気持ちを念じなければ写せない奥深い写真。心に染みる絵本のように読んだ後でじわ〜っとくる感じ。語弊はあるけど「いい写真だ・・」とつぶやける写真。何度も読み返したくなるような「あ〜わかるよ」という含蓄のある写真だ。連日各紙の写真は心に染み入る。被災からしばらく経ち、このコラムを執筆させていただいている今も時折強い余震が続く。
福島原発周辺では最悪の事態を免れようと命がけで全力の作業が続いている。9日ぶりに奇跡的に救出という明るいニュースもあった。日本中、いや世界中が固唾をのんで進展を見守っている。取材活動も困難を極めているだろう。悪条件の中、頑張っているプロカメラマンの1枚でまた明日も「グッ」とくるだろう。新聞報道写真。静止画の重みを改めて痛感した。
東京スポーツ新聞社 写真情報システム部長 米田和生
《思い出の紙面》
2月中旬の月曜日、このコラムで何を書こうかと考えながら出社すると、真っ黒に日焼けしたプロ野球キャンプ取材帰りの部員が何人かいました。その日焼けした顔を見ていると、自分もカメラマンとして現場に出ていた頃のことを思いだします。
思い返せば、毎年2月には、東京にいることなどありませんでした。だいたい九州、沖縄…。どこかの球団のキャンプに出張していたものです。なかでも宮崎県、つまり読売巨人軍のキャンプ地である青島に足を運んだ機会がダントツに多かったのは間違いないでしょう。
私は子供の頃からONの活躍をテレビで見て育ち、現場取材では長嶋監督を多く取材してきました。このコラムでも何人かのスポーツ紙の部長が、ミスターについて書いていらっしゃいましたが、それを読みながら自分も同じ現場にいたなぁと当時を懐かしく思い出しました。
その長嶋監督が、本拠地・東京ドームでジャイアンツのユニホームを脱ぐ勇退の日。私にとって忘れることのできない一日でした。すでに現場には出ない内勤のデスクという立場になっていましたが、これも何かの縁でしょうか、その2001年9月30日、写真部の当番デスクは私でした。
その日の編集会議で、当時としては斬新なアイデアが出ました。スポーツ紙の顔となるフロントページの1面を、記事原稿を極力少なくし写真を前面に押し出して作れないかという提案でした。10年前としては、かなり画期的な試みだったと思います。私にとっても思い入れのある長嶋監督の記念になる日の新聞です。いつまでも読者の心に残るような記念の紙面にしたい…との思いが強くありました。
当日は、現場となる東京ドームに10人を超えるカメラマンを配置しました。
大量のフイルムがドームから会社にバイク便で届きます。1コマ、1コマ、3000枚以上のコマをルーペで見ながら、どんな構図の写真を使ったらよいのか悩みました。頭の中には、長嶋さんが現役引退試合で見せた最後の挨拶、スポットライトが当たったなかでの正面を向いた姿が思い浮かんでいました。
しかし、同じパターンではつまらない。どうしたものかと考えていたところ、ふと、監督の後ろ姿が頭にひらめきました。
「そうだ!背中の3番で行こう」と思いたちました。締め切り時間を気にしながら、必死でネガを見まくりました。スポットライトを浴びた背中の3番と長く伸びた影。一塁側に配置したカメラマンが撮影した1コマが目に飛び込んできた瞬間「これでいけるぞ」と思ったことを記憶しています。
後日談ですが、勇退の挨拶で弊社を訪れた長嶋監督が、玄関に飾られたその一面の写真パネルを見て「いい写真ですね」と言われたと聞き、撮影したカメラマンとともに喜びました。
今年のプロ野球は日本ハム・斎藤佑、巨人・澤村などの注目ルーキーに加え、現場復帰した楽天・星野監督など話題が豊富です。近年は昔に比べテレビ中継も減っていて、家でプロ野球を見るような機会も減っているのが一野球ファンとしては少し残念です。テレビの代わりになるかどうかは分かりませんが、インパクトのある写真や記事を提供し、読者の心に響く紙面を届けられれば…と思っています。
報知新聞社写真部長 本戸辰男
《Nさんのこと》
2009年5月、時事通信写真部の元カメラマン、Nさんが亡くなった。享年78。会社員生活の前半を経理部門など事務系の仕事で過ごした。その頃趣味で始めたカメラにのめり込み、アマチュア写真家として台頭。主要カメラ雑誌の年度賞を獲得するなど活躍し、その腕を見込まれて写真部に転属になった。
Nさんの生涯のテーマは東京の下町。40年以上に渡り、浅草や佃島などにこだわって取材を続け、晩年には写真集も刊行した。N家を弔問した際、「写真のことはわからないから」と遺されたぼう大なネガの取り扱いに悩んでおられるご遺族に、「私に整理させてほしい」と申し出た。Nさんの写真の資料価値が極めて高いことは疑う余地がなかった。この話を「江戸東京博物館」(東京都墨田区)に持ち込んだところ、幸い興味を示してくれ、「どの時代のどんな写真があるのか調べてほしい」と依頼された。
それから私は休日のたびにN家に通い始めた。Nさんの写真整理は行き届いており、すべてのネガに時系列の通し番号をふった上、それに対応するベタ焼き(コンタクトプリント)を貼り付けたアルバムを残していた。私の仕事はネガとベタを照合して、資料性の高いコマを特定し、そのリストを作ることだった。対象を「昭和期に東京都内で撮影された写真」に限定したが、それでも最終的にリストアップされたネガは2190本、コマ数にして7万705枚に達した。
「浅草三社祭」「佃の子どもたち」「新宿フーテン族」「下町の紙芝居」―ネガには、私自身も少年期から青年期を生きた「昭和」の気配が息づいていた。感情移入して、作業の手がストップすることもしばしば。デジタル化された現在と違い、フィルム時代は36枚という制約の中で起承転結を表現する。Nさんが現場で何を感じながらシャッターを押しているか、ベタを通して追体験するような感覚にとらわれ、取材の足跡をたどる旅はスリリングだった。
ベタを見ながら気付いたことがある。Nさんはアマチュア時代の初期、動物園などでの写真コンテストやモデル撮影会に頻繁に通っている。普通、腕を上げ、作品が認められるようになれば、こうした行事は“卒業”していくものだが、Nさんはトップアマになって以降もずっと参加している。私の推測だが、Nさんはそこで知り合った写真関係の友人知己との交流を大切にし続けたのだろう。「写真家先生」になって仲間の輪から離れることを潔しとしなかったのではないか。いい意味でのアマチュアリズムを手放さなかったのが、半生に渡って写真を撮り続ける原動力になったと思う。
写真は続けた者が勝ち。何かを好きになって始めることは簡単だが、人間は必ず飽きる動物だ。控えめなNさんには「表現者として同時代の現実を切り取ってやろう」などという大げさな野心はなかったはず。だが、その作品群は当時の時代性を何重にもまとって底光りしている。特別な気負いや覚悟がなくても何十年と取材活動を続けられたのは、Nさんがごく自然に写真に寄り添っていたからだ。好きでい続けられるのが最大の才能だ。
Nさんのネガは今、同博物館に移って学芸員の手で守られている。Nさんの人生は幕を閉じたが、その分身ともいえる写真はこれから新しい旅に出て、いろんな人たちとの出会いが待っているだろう。
時事通信社写真部長 大高正人
あけましておめでとうございます。
今年も皆さま方のご多幸をお祈り申し上げます。
日本橋三越本店で開かれた「2010年報道写真展」(10年12月17日〜26日)は成功のうちに閉幕しました。日本人女性2人目の宇宙飛行士、山崎直子さんと、プロ野球日本一の原動力となった千葉ロッテマリーンズの井口資仁選手のテープカットでスタート。新聞やテレビが取り上げてくれたこともあり、連日満員の盛況ぶりでした。1月8日から3月6日まで、横浜市の日本新聞博物館に会場を移して展示されます。
昨年、報道展について触れた朝日新聞の「天声人語」に、「急ぎ足で会場を回って、政治の沈滞をスポーツと宇宙が埋め合わせた年だと思った」とありましたが、正鵠を得た指摘です。社会全体を閉塞感が覆う中、バンクーバー冬季五輪やサッカーW杯南アフリカ大会での日本人選手の活躍、オーストラリアの星空で燃え尽きた探査機「はやぶさ」の光芒は、一縷の希望を与えてくれたと言ってもいいでしょう。
09年は政権交代で「歴史が動いた年」と言われたのが嘘のように、10年から11年の年明けにかけて民主党の政権運営は「混迷」の様相を深め、おとそ気分どころではない「一寸先は闇」の状態です。年の瀬に小沢一郎元代表が政倫審出席を表明したものの、これら諸問題がこじれれば、民主党の分裂含みで政局は一気に緊迫化するでしょう。4月には統一地方選があります。昨夏の参院選大敗以来の民主党の退潮に歯止めが掛かるのかどうかも注目されます。
明るい話題としては、「ハンカチ王子」こと斎藤佑樹投手のプロ入りが挙げられます。天性のスターである彼が活躍すればフィーバーは間違いなしでしょう。また、東京都墨田区に建設中の「東京スカイツリー」が今冬に竣工予定。開業は12年春ですが、「カウントダウン」騒ぎが今から目に浮かびます。
今年も、東京写真記者協会の写真記者ひとりひとりが「国民の知る権利」に応えるべく努力していきましょう。その記録は「時代の証言」であり、権力をチェックするとともに、弱い立場の人たちの代弁者の役割も担っています。同時に、年々レベルアップする企画ものに見られるように、ひとりの表現者として、豊かな想像力を1枚の写真の中に存分に羽ばたかせてくれることも期待しています。
2011年1月 | 東京写真記者協会 | |
事務局長・花井尊 |
《白鵬の連勝》
大相撲の東横綱白鵬が九州場所2日目に平幕の稀勢の里に寄り切られ、初場所から続いた連勝は63でストップ、戦前に双葉山が記録した史上1位の69連勝には届かなかった。
しかしその後連勝して優勝決定戦では平幕・豊ノ島を優勝決定戦で下して5連覇で17回目の優勝を果たした。平成18年(!)以来の日本人力士の優勝はならなかった。
報道カメラマンとアマチュアとの違いのひとつは、スポーツ写真が撮れるかがポイントになる。大きな望遠レンズを自在に扱い被写体の動きの一瞬を切り取る技術は、競技、選手の知識、集中力や運動神経、運など多くの要素があるが、撮影ポジションもそのひとつだ。
プロ野球は一塁、三塁、センターなどのカメラマン席、サッカーもゴールライン後方など決められた取材席からの撮影になる。ヨット、ボートは水上から撮影できない限り相当離される。被写体から近いほど良い写真が撮影できるチャンスが多い。では間近から撮影できるスポーツは何か?
大相撲取材は制限が多いが、近くから撮影ができる。「砂かぶり」といわれる土俵の東西審判員の並びの最前列で撮影できる。12人が土俵を囲み、日替わりで取材位置がずれる。ボクシングなどの格闘技系があるが、中腰の姿勢での撮影になる。2メートルの距離でじっくり座って取材できるのは大相撲ぐらいだ。決まれば迫力のある写真が紙面に載る。しかし危険が伴う。「うっちゃり」、「寄り倒し」など土俵際でもつれる相撲は、力士が「降ってくる」のを覚悟しなければならない。カメラやストロボの破損は当たり前で、けがをする時もある。
蔵前国技館で取材していた頃、腰高で投げられやすい高見山の取り組み時には緊張した。手前に力士が来たときには逃げ方を考えながら、シャッターをどこまで切るかとっさの判断をせまられた。デスクがフィルムを見ればわかるので逃げるわけにもいかなかった。白鵬の63連勝中の決まり手を見ると、「寄りきり」19回、「上手投げ」17回、「押し出し」、「すくい投げ」と続き、砂かぶりのカメラマンにとっては比較的「安全」な横綱だ。
7月の名古屋場所。相撲協会は野球賭博問題の影響を受け、優勝力士への天皇賜杯を辞退した。白鵬は賜杯のない千秋楽の表彰式で涙を流した。「何回も優勝している自分でも変な気持ちになるのだから、ほかの力士が優勝したら大変な思いだったと思う。そういう意味で自分が優勝してよかった」とのコメントは素晴らしかった。
九州場所で13連勝。連勝が続くと今度は、来年の名古屋場所で大記録達成になる。
2010年12月
共同通信社ビジュアル報道センター写真部長 上妻聖二
《伝えること》
1年前の10月28日、八丈島近海で撮影したこの映像は、新聞の複数紙が一面で掲載してくれたことから、昨年、初めて東京写協の報道展に出品させていただいた。メディアの違いについて、選考過程でさまざまな議論はあったと思うが、いろんな意味で記念すべき映像となった。こんなチャンスも、もうなかなかないだろう。
行方不明となった漁船の乗組員が転覆した漁船から4日ぶりに奇跡的に救出される瞬間をとらえたものだが、とにかく、尊い命が救われた瞬間であったことが見る人を感動させたと思っている。おかげさまで、このテレビ映像は、今年度の新聞協会賞を受賞することができた。テレビの強みは映像と音。上空のヘリコプターからの空撮のため、助かった本人の肉声を聞くことはできないが、水中から日常の空間に戻ってきた瞬間、乗組員が、最初になんと発したのか、その言葉が想像される。
日ごろから事件事故をはじめ、緊急報道では、早さ、正確さ、決定的瞬間を競っている各社だが、読者や視聴者の期待に応えるには、より多様な発信が必要だと感じているのは共通した意識だろう。最近、明るいニュースがめっきり少なくなった中で、久しぶりに心和らぐ話題が映像とともに地方から届いた。
地方局のカメラマンが提案したリポートの内容は「飛行犬」。連日の盛りだくさんのニュースで、放送が延び延びになっていたが、先日やっと全国放送になった。
「飛行犬?」。かつて「潜水犬」といった話題もあり、はじめは、ゴーグルでもして、パラグライダーでもするのかと思っていたら、ほんとうに飛んでいる!?
(※残念ながら、著作権の関係で掲載はできないが、興味のある人は、一度「飛行犬」で、検索を・・・)
記念写真にとどまらないインパクトのある犬の写真が撮れないか、兵庫県の地元の写真館から独立したカメラマンが、そう考えていた時にたまたま撮れたのが、空を飛んでいるかのような躍動感あるこの写真。記念写真に満足しない愛犬家たちが、全国からそのインパクトのある写真に魅せられ、集まってくる。
取材したカメラマンによると、年々、口コミやネットで噂は広まり、1日に最高で30匹、年間にのべ3000匹もの犬たちが飛行犬になろうと飼い主に連れられてくるそうだ。中には、飛行犬になるには少し適齢期を過ぎた犬もいる。なんとか元気なうちに、その姿を写真に納めたいと思う主は、日ごろの運動不足もなんのその、息を切らしながら、愛犬と共に全力疾走する。その願いをプロがその技術で写し込む。時には、望遠レンズで写す秒間10コマの連写でも、成功するのはたった1枚。飼い主の切なる思いを受け、その一瞬にプロの技で応えようとする話と愛きょうのある写真に、思わずほほえんでしまった。
わたくしごとだが、わが家の飛行犬候補生は、御年15歳。いまだ、独身。このニュースを見て、プロの技で・・・という気持ちもあるが、最近は持久力も衰え、果たして、飛べるのか、いや、宙に浮くのか、自信はない。
1枚の写真をめぐる人々の思い、カメラマン自身が撮影するだけでなく、こうした思いを映像で伝えるのも、大切な役目だと思う。
スチルとムービー、いま、その距離は確実に縮まっている。スチルカメラにハイビジョン動画撮影機能が加わり、ハイビジョン映像からは、高画質の静止画が加工できるようになった。これまでどおり、手法の違いはあれど、映像・写真で人々に感動を伝えるという思いがカメラマンの原動力となっていることに変わりはないと思っているが、このボーダレスな動きは、これから、カメラマンたちにどのように影響を与えていくのだろうか。
そうしたこれからの変容の可能性とともに、ただ歴史を記録することに満足するのではなく、映像を通して、その周りにある人々の思いをどれだけ伝えることができるのか、カメラマンのカメラマンたる存在理由が、よりいっそう求められていくだろうと感じている。
NHK
報道局 映像取材部長
坂本 務
《写真力》
ありのままを写しとること。またその写しとった像…。
あらためて「しゃしん」を辞書でひいてみた。すると、このような文言が最初に出てくる。実は現場時代はプロ野球を中心にペンの世界が主戦場。半年前に写真へ移って以来、毎日膨大な数の写真を前に「ありのまま」の重みをかみ締めている。
私たちが日々接することが多いスポーツも例外ではなく、この原稿を書いている9月のある1週間も、そんな思いで写真に接した。手前みそで恐縮だが、たとえば次のような写真が小紙に載った。
◆サッカー日本代表のFW森本がグアテマラ戦で先制のヘディングシュートを決めたシーン。タイミングがドンピシャの写真は森本と相手DF、ボールとともに、森本の頭から汗がほとばしっている様子もとらえていた。
◆巨人が中日に敗れ3位に転落した試合で、小笠原が中飛に倒れたシーン。バットが球をはじき返したインパクトの瞬間をとらえた写真は、バットの中央が捕手側にしなっていた。常識ではバットの先端が捕手側にしなるはずだが、球威が勝ったのか? そんな想像をたくましくさせるシャッタースピード5000分の1が見せてくれた世界。
◆エンゼルス松井のバットの握りが変わっていることに担当カメラマンが気づいた。構えたときの左手親指のバットへの添え方と、左ひじの角度。小さな変化だったが、並べて掲載すると一目瞭然だった。
こうして文章にすると、私の筆力が乏しいこともあって何と分かりづらいことか! いや、だからこそ写真が求められるのだ。写真に力があれば、説明はいらない。
そんな「ありのまま」を写しだすすごさや奥深さをかみ締めながら、写真とカメラマンの世界に引き込まれ続けている。
もちろん、一瞬を切り取るために必要なのは技術やタイミングだけではない。担当カメラマンによれば、松井のフォームが小さなところで変化していることに気づいたのは、打撃練習を毎日望遠レンズを通して見ていたからだという。こんな話も聞いた。1シーズン、プロ野球を取材していると、投手の癖が分かるという。好、不調が顔や態度に出やすい投手もおり、そんな投手が多いチームもあるとか。
ニュース写真以外でも、説得力が増す「ありのまま」がある。たとえば、投手がよく口にする「腕を振る」。ある投手が得意のカーブを投じた際、球が手から離れる瞬間を横からとらえると、なんと指先より球が後ろ側に写っていた。
カメラマンにとっては、このように写真が撮れることは特別なことではないという。肉眼では知りえないシャッタースピードと望遠レンズの世界で、いくつもの「引き出し」を秘めながら、いざというときの1枚を生み出そうと格闘しているのだ。そんな魅力的な世界の仲間に入れてもらって半年。私自身、まだまだ発見をしたいし、力のある写真を読者に一枚でも多く届けたいとの思いを強くしている。
日刊スポーツ新聞社
写真グループ長 森田久志
《殺人スライディング》
1992年秋、ミスタージャイアンツ・長嶋茂雄の監督復帰に日本列島は沸き返っていた。私も少年時代に憧れた一人で、この商売を志したのもミスターに会いたい一心からだった。第一志望の報知新聞には書類選考で振るい落とされ、なぜかデイリースポーツに拾われることになったのだが・・・・。
そしてミスターが監督として始動する秋季キャンプを取材する幸運に恵まれた。以前このコラムにサンスポ・藤原部長も書いていたが、私も毎朝5時に巨人軍の宿舎へ行ったクチだ。まだ若い盛りだから、朝まで飲み明かしその足で宿舎へ行った。結局、キャンプ中にミスターが散歩に出ることはなく、張り込みは失敗に終わった。正確に言うとキャンプ序盤に一度散歩に出ようとしたらしいが、ロビーに大勢の記者、カメラマンがたむろしているのを見て取りやめたらしい。後日ある人から聞いた。あれだけ多くの人間がいて目撃情報がまったくなかったのは、皆ロビーのソファーで眠っていたからだ。
そんな狂騒曲が鳴り響くある日の昼下がり、原稿の打ち合わせで巨人担当の鬼キャップが私に言った。「今日の原稿は“殺人スライディング”で決まりだな!」目をぎらぎらさせ、かなり興奮していた。
「?????」何を言っているのかさっぱり理解できなかった。「そうか、おまえいなかったな。長嶋さんがスライディングを教えたんだよ。なんだったら1枚あげようか?」やりとりを横で聞いていたSニッポンのベテラン、Kカメラマンが教えてくれた。ミスターから目を離すという最大の愚を私は犯してしまったのだ。デスクや先輩からは「ネガをもらうな!」という厳しい教育を受けている。生きた心地がしなかった。
その直後、放心状態でグラウンドを見ていた私の目に、ライトポールへとダッシュするミスターの姿が見えた!私もカメラと400ミリをぶら下げライトポール目がけ追いかけた。必死だった。ウサイン・ボルト並?のスピードで走りに走った。そして何とか追いついた。
カメラを構えた瞬間、ミスターが「足をカギカッコにして〜」と長嶋語を発しながら「ザザザー!」と芝生を滑った。肩で息をしながら懸命にシャッターを押した。人差し指がわなわなと震えていた。ミスターは私のため?にもう一度パフォーマンスを見せてくれたのだ。その時は本当にそう思った。とても56歳とは思えないほど格好よかった。
だが“殺人スライディング”にはとても見えなかった。横にいたNスポーツのUカメラマンにおそるおそる取材した。
「さっきの(スライディング)はどうだった?」
「まったく一緒ですよ。今の方が絵的にはいいかも」
彼は絶対にうそをつかない男だ。生き返った気がした。残念ながら1面ではなかったが、紙面に穴を開けるという最悪の事態は免れた。Kデスクに殴り倒される心配もなくなった。
18年たった今でも、ミスターが夢に出てくる。派手なパフォーマンスを見せるのだが、なぜか私がカメラを持っていなかったり、シャッターが落ちなかったりする。そして目が覚める。額には脂汗が浮いている。その原体験が“殺人スライディング”にあるのは間違いない。
デイリースポーツ写真部長
佐藤 厚
「『W杯』にちょっと違和感」
オールスターゲームが終了して、プロ野球はいよいよ後半戦に突入しました。古くから日本人は節目を大事にしてきましたが、報道の世界も例外ではありません。ワールドカップやオリンピックなどの大イベントでは、「開幕まで一年」や「あれから一ケ月」など節目に合わせた紙面を作成します。特にスポーツ紙ではプロ野球のキャンプインやペナントレース開幕日は特別な日で、各社が独自の視点で一面を競い合います。担当カメラマンも選手と同じような高揚感や緊張感を持ってその日を迎えているはずです。オールスターゲームが終わるとシーズンの折り返し。球団、選手にとっては大きな節目で、好位置にいるチームはさらに上を目指し、下位に甘んじているチームは心機一転の巻き返しを図るチャンスです。ファンの心躍る好ゲームを展開して、一面をにぎわしてほしいものです。
冒頭から「オールスターゲーム」や「ワールドカップ」「オリンピック」と記してきましたが長たらしく、さらに片仮名が多くて読みにくく感じませんか? 新聞ではそれぞれを「球宴」「W杯」「五輪」といった略表記を用いて紙面化しています。見出しや記事の字数が限られている新聞ならではの工夫ですが、文章がコンパクトになる上に、文体も滑らかで全体的に読みやすい紙面になります。今ではテレビや雑誌にも使用され、読者にも広く受け入れられている略表記ですが、「W杯」については多少論議があるようです。私の回りにも「あまり好きな言葉じゃない」という人は少なからずおり、サッカーが好きな人ほど違和感を持っているようです。
「五輪」は五大陸を五色で表現したシンボルマークを由来とした素晴らしい言葉だと思います。読売新聞社の記者が考案したと言われていますが、オリンピックという壮大なスポーツの祭典を端的に表現しながら、日本語としても美しいと思います。「球宴」もまあまあでしょう。「オールスター」を直訳したわけではなく、野球をイメージしながら、華やかさとお祭り気分のような雰囲気が伝わってきます。対して「W杯」には由来や創造性がなく、肝心な世界観もありません。そもそもW=世界とするには無理があり、事務的な言葉の域を出ていません。
では、どう略表記すればよいのか。「World Cup」をそのまま日本語に置き換えると「世界杯」となり、何の大会なのかわからなくなります。では頭文字を取るとどうなるか。「WC」…これはちょっと。結果として「W杯」となったのもやむを得ないような気がしますが、さらに発音も問題です。「ダブルはい」なのか「ダブリューはい」なのか。どちらにしても語感がよろしくありません。今回の南ア大会のテレビニュースを注意して聞いていたら、アナウンサーは「ダブルはい」と発音していましたが…。
スポーツに限らずワールドカップを冠する催しが乱立していますが、ワールドカップと言えばサッカーのワールドカップのことを指します。その正真正銘のワールドカップを「W杯」と記すことや、「ダブルはい」と呼ぶことにファンは違和感を覚えるのでしょう。新聞紙面は略表記のオンパレードで、日々「新語」も誕生しています。むろん読者の立場に立って考えた言葉なのですが、評判の良いもの、お叱りを受けるもの玉石混合です。先ほど「南ア大会」と記しましたが、次回の2014年ブラジル大会はどう略されるでしょうか。漢字の「伯剌西爾」は馴染みが薄いので頭文字をとった「伯大会」になることはないでしょう。「ブ大会」もまさかとは思いますが、テニスのデビスカップを「デ杯」と略す新聞業界ですから少し心配です。
当たり前に使っている略表記や言い換えが、実は事の本質を損なうことになっていないか。「W杯」が「絶対ダメ!」とは思いませんが、新聞を生業とする私たち自身が節目、節目に見つめ直す、考え直すことが必要だと考えます。あれこれ愚痴のようなことばかり記してきましたが、何か「W杯」に代わる素晴らしい略表記はないでしょうか。世界観があって、夢や熱気を感じられ、そして日本語としても美しい…。次大会までにどなたか妙案を!
東京中日スポーツ
写真部長 星野浅和
《速報が“命”の夕刊紙》
夕刊紙といえば、仕事帰りのサラリーマンが満員電車の中で身を小さくして読んでいるイメージが強い。きわどい見出しで駅の売店に並んでいるアレだ。中身は政治からスポーツ、ギャンブルにゴシップ、三面記事のなんでもござれ。
世のお父さんたちが酒の肴にしたりと“役立つ”?情報が満載。当然、写真も多岐にわたる。政権交代など世間の耳目を引く出来事があると、一面は政治一色。芸能スキャンダル発覚ともなると、連日追っかけまわす。
元グラビアアイドルでストリップデビューしたKさんの場合がそうだった。浅草の劇場の出入り口全てにカメラマンを張り付けるライバル紙もあった。うちは朝からエース一人を投入。「Tスポ、すごい人数来てますよ。応援は(出してくれますか)?」「今はなし。スポーツ(担当デスク)に頼んで昼から出すわ。ま、それまで一人でがんばれよ」非情な命令を出さなければならない。
Kさんは報道陣のあまりの騒ぎように、劇場に入るのを躊躇していたようだ。結局夕方近くに裏口から入ろうとしたKさんは100人近い報道陣に囲まれる始末。もみくちゃになりながらの“撮影会”。うちのエースもどうにか撮れたようだ。芸能ネタは、尽きない。結婚、離婚、不倫。薬物汚染なんて事件にからむこともある。
覚せい剤取締法違反の罪で起訴された女優のSさんが、拘置されていた警視庁東京湾岸署から保釈されるのは夕方の4時過ぎの予定だった。通常の夕刊フジの締切り時間はとうに過ぎている。編集局長の「事件発覚後、初めて公の場に出るSさんの表情を一面に載せたい」との判断で、すでに4人のカメラマンを送り込んでいる湾岸署に写真の電送要員として写真部員を追加した。
頭を下げ、神妙な面持ちのSさんの写真が本社へ送られてきたのは10分後だった。さっそく紙面が刷られ、山手線の主要駅の売店に並んだ。速報が“命”の夕刊紙ならではのドタバタ騒ぎだった。
さて、夕刊紙の速報は芸能、事件ばかりかというと、そうではない。欧米で行われるスポーツイベントは、日本時間の未明から昼ごろが多い。メジャーで活躍するイチローや松井の試合はデーゲーム、ナイターで時間のずれはあるが夕刊時間帯である。今まさに開催されているサッカーW杯南アフリカ大会では、日本代表がデンマークを3対1で破り、決勝トーナメント進出を決めた試合が終わったのは朝方。朝刊各紙は号外を出さざるを得ない時間帯だ。
夕刊フジも号外に負けていられないと、締切り時間を1時間以上早めて出稿。写真はリアルタイムでAP、ロイターの海外通信社や共同通信から続々と配信されてくる。もちろん産経新聞グループからも2人のカメラマンを特派員として送り込んでいる。
本田だ、遠藤だ、岡ちゃんだと写真選定は盛り上がる。結局一面はAPの写真を使ったが、特派員の写真も掲載できた。このページに添付した写真は、左側が当日の夕刊フジの一面。右側は「前垂れ」というもので、駅の売店で新聞の束の前に垂れ下げ、当日の紙面の読みドコロを紹介するためのものだ。
イチ押しがある場合は大きく写真を使って目立たせることもある。興味をひく写真があったら一度ご覧いただきたい。
夕刊フジ写真報道局
写真部長 清藤 拡文
《W杯とカズ》
このコーナーで何を書こうかと思い悩んでいた時、テレビニュースでカズ(三浦知良)がサッカーW杯南アフリカ大会の日本代表発表について、記者に囲まれている映像が流れてきた。インタビューに真摯に答えているカズを見ていると、今更、カズでもないだろう≠ニいうせつない思いがこみ上げてきた。それは私があの瞬間≠目撃した一人であるからだろうか。無性にカズを書きたくなった。このコーナー「コラム」にそぐわないのかもしれないが、カズのことを書かせてもらう。
あの瞬間≠サれは「ドーハの悲劇」。サッカーファンのみならず、多くの日本人の記憶に刻まれた93年サッカーW杯アジア最終予選の最終試合。イラクに勝利すれば悲願の本大会初出場が決まる一戦のロスタイム、イラクのオムラム・サルランに同点ゴールを決められ、Jリーグ元年で浮かれていた、我々の夢物語は現実の世界へ引き戻され、目を覚まさせられた。
当時、まだインフラが整備されていなかったカタール。衛星回線用のパラボラアンテナを持ち込んだ社もあったが、各社でカタール・テレコムに交渉に行き、何とか国際回線を確保。フィルムの時代だったゆえに40℃のカラー現像液を保つため、魔法瓶に液を入れホテルから競技場に持ち込んだ。余談だが、サポーターで来ていた岐阜・金津園のソープのかわいいお姉ちゃんたち≠ェ隣のライバル社に差し入れに来るのを横目でながめたり、試合開始前から、あわただしい1日が始まった。
試合開始時間が16:15(日本時間22:15)。早版に間に合わせるためには、私は開始10分しか撮影できない。前半5分、運良くカズの放ったシュートが、ゴール裏で構えていた私のファインダーに飛び込んできてくれた。後の取材は同僚に任せ、臨時のプレスルーム(会議室)からカズの写真を送信。しかし、同じ競技場にいながら試合の経過が分からない。
後半25分、東京本社でテレビを見ているデスクから中山が勝ち越しのゴールを決めたと連絡が入り、フィルムをピックアップするためにピッチに走った。洗面所で現像を終え、プレスルームに戻る途中、韓国関係者が待機していた部屋から歓声が上がった。
私は不吉なものを感じながら、戻ったその時だった、目の前の電話が鳴り、「ダメだ!同点だ!」それは東京のデスクからの悲痛な叫びだった。私もとっさに「ダメ?」と大声でデスクに聞き直した。周りにいた各社のカメラマンが送信の手を止め、凍りついた。そして時間が止まり、すべてが終わった。
ピッチに座り込んだ選手の中でも、日本中の期待を一身に背負っていたカズはW杯を機に世界に飛躍しようと考えていただけに、落胆ぶりは計り知れないものがあった。82年、カズは15歳で単身ブラジルに渡り、90年には「サントスFC」でレギュラーポジションを獲得した。当時、ブラジルの国民的英雄のF1ドライバー、アイルトン・セナの活躍で、F1もサッカーと並んで人気スポーツだった地元では、ウィングのカズはF1に参戦していた同じ日本人の中嶋悟と比較され、「ナカジマは全然走らないが、カズはよく走る」と称賛されていた。
90年、帰国して読売クラブ(現東京V)に入団。その後の活躍は言うまでもない。カズは少年時代、周りの大人たちから「長嶋茂雄」の話をよく聞かされていた。チャンスに強く、ファンやマスコミにもサービス精神が旺盛な長嶋さん。監督時代、自らポーズを作ってくれたうえ、我々カメラマンとアイコンタクトをとり、首尾よく撮影できたかどうかを確認し、次の行動に移ってくれた。
カズもまた、記者に囲まれると、次の日の見出し≠ワで考えて話してくれた。いつの日かサッカー界の長嶋茂雄≠ノなりたいと思う気持ちが、長嶋さんに会ってからますます強くなっていった。
しかし、「キング・カズ」と呼ばれ、頂点に登りつめたカズだが、W杯には縁がない。98年、フランスW杯の直前合宿の地スイスで、メンバーから外された。体調が万全ではなく、プレーにも陰りが見えてきたカズだったが、日本代表を引っ張ってきた男に岡田監督は非情にも帰国命令を下した。カズを残すぐらいの余裕≠ェ岡田監督にはないものかと思ったのは私だけではなかっただろう。
カズは髪を銀色に染めて帰国。長嶋さんが、自分であって、自分ではないもう一人の「長嶋茂雄」を常に意識していたように、カズも「キング・カズ」を演じなければならなかった。あの銀髪はその表れだったのだろう。
今年で43歳になったカズだが幾つかのチームを渡り歩き、現役を続けている。今回の代表発表でも岡田監督の口からカズの名前は呼ばれることはなかった。翌日、テレビカメラの前でカズは、次回は母国<uラジルだから、行きたいねと話していた。母国の日の丸を背負って、母国≠フピッチに立つために、今日も走り続けるそんなカズに拍手を贈りたい。
報知新聞東京社編集局
写真部長 多田隆一
《新聞の原点》
写真部に着任したのは昨年6月。あの時、この部に来て、すぐに頭に浮かんだ言葉がある。それは「現場」。外へ次々と飛び出していく部員の後ろ姿を見ていて、反射的に浮かんできた。
新聞の世界に入って30年が過ぎた。ずっと書き手、ペン記者の道を歩んできた。事件でも、事故でも、街だねでも、いつも現場で取材を重ねてきたように思っていた。なのに、写真部に来たら、その「現場」という言葉がなぜか新鮮だった。どうしてか。知らぬ間に、現場から遠ざかっていたような気がして、寂しく、そして恥ずかしい思いがこみ上げてきた。
弊社のことでやや申し訳ないが、約6年前、横浜市の日本新聞博物館で「東京新聞創刊120年展」という催しが開かれた。タイトルの通り、さまざまな展示品によって弊社の120年の歴史を紹介する企画展だったが、当時、横浜支局にいた私は開催の数日前から博物館に足繁く通い、展示品の陳列などの手伝いをさせられた。かなりの重労働。ただ、展示する際に内容をひとつひとつ確かめるため、昔の新聞記事や写真をじっくりとながめることができた。そんな中で、ある記事に目が止まった。
弊紙の前身「都新聞」の記事だった。明治時代に刺殺事件を起こした美人芸者の出獄をスクープしようと、都新聞の記者が張り込み取材する。その現場の様子をこの記者は雑感記事に仕立てていくのだが、この記事が実に生々しく、現場がにおうように書いてある。観察力の鋭さ、表現力の見事さ、現場での粘り…。明治の大先輩の文章を読んで、脱帽した記憶がある。そして、強く感じたものだ。新聞の原点は、やはり現場だと。
当たり前だが、写真は現場に行かなければ話にならない。しかしながら、記事は必ずしもそうではなくなってきた。伝聞、あるいは電話取材…。現場に行かなくても、現場の様子を書き上げる二次的な手段がある。ただ、それに甘えてはいないだろうか。そんな考えがいつも頭の片隅にあったし、新聞全体が甘えの構造に浸食されていくような気がしてならなかった。
通信手段の飛躍的な進歩、官公庁などの行き届いた広報体制、過度になりがちなプライバシーの保護…。そんなさまざまな要素が現場をさらに遠ざけていく。
新聞がおもしろくなくなった、と以前から言われてきた。当たっていると思う。ならば、おもしろくするには…。記者が現場で苦労して撮ってきた写真に多くの手がかりがあるように思える。単純に、素直にそう思う。記事も、現場や現実にもっと肉薄しなければいけないのではないか。やはり、それが原点だろう。
そんなことを考えながら、「現場」を頭によみがえらせてくれた写真部に、感謝している。
東京新聞編集局
写真部長 伊藤憲二
プロ野球が開幕しました。我々スポーツ新聞のカメラマンにとって、プロ野球の開幕は特別な日です。選手たちと同様に私たちカメラマンもキャンプ、オープン戦で競い合い、開幕を迎えます。開幕戦は144分の1だと言う人もいますが、我々スポーツカメラマンにとっては唯一の試合なのです。
カメラマンの担当競技、担当球団が決まるのは前年12月です。サンケイスポーツの場合、部長やデスクが協議して決定します。そして、忘年会の席で発表するのが恒例となっています。20代頃の私は、担当の発表前には夜も眠れず、ワクワクして発表を待ったものでした。担当球団を持つことで、1年の仕事の流れが決まるからです。
担当球団が決まると、カメラマンはキャンプ地の宿を予約します。1ヵ月間過ごすのですから、宿の立地、環境はとても重要です。今年は西武ライオンズに入団したスーパールーキー・菊池雄星選手の人気が高く、キャンプ地・宮崎県南郷町の宿が報道陣で一杯になりました。担当カメラマンは宿の確保に苦労したようですね。
キャンプ期間中は朝から晩まで取材の連続です。1992年、長嶋茂雄さんが2回目の巨人の監督に就任した時に、報道合戦がピークに達しました。監督が第一次政権時、未明に散歩に出かけたという情報から、私たちは警戒のために朝5時に起床し、巨人の宿舎に張り込みました。監督が宿舎をこっそり抜け出して近所の青島神社に参拝するという噂もあり、一部のカメラマンは夜明け前に神社の境内に張り込みました。賽銭箱の陰に隠れ、タバコを吸おうと点したライターの炎で他社のカメラマンの顔が暗闇に浮かび上がり、「お化け!!」と悲鳴を上げたカメラマン同士のエピソードは、今では笑い話です。
夜は浜辺に三脚を立て、超望遠レンズで巨人の宿舎で行われる素振り部屋を監視しました。長嶋監督が現れて、誰かを指導したら一面です。こうして紙面に載らないところでもカメラマンの戦いは続くのです。
夜間練習取材後は、決まって宿の近くのスナックで、各紙のカメラマン揃って酒盛りが始まります。実はこれにも意味があります。他社と飲む事で“抜け駆け”を防止するのです。皆が揃っていれば安心して飲めるということです。
2月のキャンプが終わると、3月はオープン戦で各地を転戦します。地方でのオープン戦では予想できないハプニングも起きます。私が最も印象に残っている出来事は前橋で行われた巨人対ヤクルト戦でおきました。残念ながらゲームの中ではありません。それは試合終了後に起きました。両軍の移動用バスは珍しく同じ駐車場に隣り合わせで停められていました。バスに乗り込む両軍選手に混ざって、ヤクルト・野村監督がやってきました。そして、誤って巨人のバスに乗り込んでしまったのです。当時長嶋監督と野村監督は犬猿の仲と云われ、リーグ優勝を常に争うライバル同士でした。もちろん、試合当日も我々のいう「カラミ」(一緒に写真に写ること)はありませんでした。
野村監督がバスに乗り込むと、監督席には長嶋監督が座っていました。野村監督の驚いた様子がその背中に現れていました。そして、お互い気まずそうに挨拶を交わしました。私たちはバスのフロントガラス越しに夢中でシャッターを切りました。
野村監督の名誉のために付け加えますと、取り巻きの記者と話しながらバスに誘導されたための“失敗”だった気がします。もちろん、間違って乗り込みそうな野村監督を見て、我々カメラマンが「しめた!」と思ったことは言うまでもありません。
こうしてカメラマンは、キャンプ、オープン戦と切磋琢磨し、デスクに怒られながら、やっとの想いで開幕を迎えるのです。選手同様「開幕一軍」を目指して・・・。
サンケイスポーツ写真報道局
写真部長 藤原重信
2月1日付けで、朝日新聞東京本社編集局の写真センターマネジャー(写真部長)に就任しました。入社以来28年間、あくせく現場を駆け回ったのが16年で、残りの12年はデスク稼業です。
写真の原点は究極のスナップだと思っています。「写真は記録。写さなければ意味がない」とよく言われます。なにげない街角の風景やその時代を写した事象など、そこに切り取られている情報量が写真の命ではないでしょうか。
取材現場を離れて久しいのですが、「いつでも現役復帰」との心構えでカバンのなかにはコンパクトタイプのデジタルカメラを持ち歩いています。スナップが中心ですが、変貌する都心の街並みなどを撮りためています。
なかでもこだわりをもっているのが「富士山」です。静岡県人としての愛着もありますが、帰省の際や出張時の車窓などから機会があえば撮影しています。おととしまでの福岡勤務時代はその楽しみをさらに満喫できました。羽田発福岡行きの航路が富士山上空を飛行するコースだったからです。山梨県側からみる富士山は裏富士なのですが、その四季折々でみせる姿がなかなか美しく輝いています。早朝便のときなどは「前方左窓側」の席を事前に予約。雲間に隠れてみえないこともあれば、美しく輝く姿、伊豆半島までがくっきりみえる秀峰に一喜一憂しました。
通常われわれがする空撮とは違い、この撮影は航空会社の機長判断しだいですので、せっかく天気が良くても山の真上過ぎて見えないときもありで、ほんの一瞬しか見ることができない富士山撮影はスリリングでなかなかの醍醐味でした。
新聞社におけるここ二十数年の最大級の変革は写真でしょう。ものすごいスピードで技術革新が進んだ新聞写真はあっという間に取材した結果が瞬時に得られるデジタル時代に飲み込まれていきました。入社以来、さまざまな出来事に遭遇し取材してきましたが、当時はフィルム全盛のアナログ時代。先輩たちから的確で迅速な暗室処理を求められ、四苦八苦の連続だったことを覚えています。
しかし、その手作り感のある写真プリントはとても丹念につくられていて、紙面で写真の訴求力を高める重要な役割を担っていました。デジタル化によって写真は誰もが撮れるようになったこともありますが、その表現力が若干淡泊になったような気がするのは考えすぎでしょうか。とはいえ、その速報力は絶大だと痛感していますが。
朝日新聞に残される約480万枚の古き良きニッポンを伝えるプリント写真。この膨大な写真も順次データベース化され、公開していく予定です。デジタル化の波のなか、動画も注目されているが、個人的にはやはり人々の心に残る印象度の強い一枚の写真にこだわっていきたいと思っています。よろしくお願いいたします。
朝日新聞東京本社報道局
写真センター長(4月から組織変更)
渡辺 幹夫
山田康平、3歳(推定)。2007年5月、わが家にやってきた。その年の1月ころに生まれ、都内の公園に潜んでいたところを保健所に捕獲、収容された。それをドッグシェルターという団体が救い出し、里親を希望するわが夫婦に出会いの機会を与えてくれた。
体重が4キログラム強しかなかった当時の康平は、人見知りが激しく、よちよち歩いてはすぐに私の背中の陰に隠れた。まともなものを食べていなかったのか、お腹の中にはずいぶん虫がいた。少し大きくなって外を散歩できるようになっても、車や自転車が近くを通ると体を震わせて怯え、匍匐(ほふく)前進した。捕獲、収容された経験がトラウマになっているようだ。
犬の3歳は立派な大人だ。体重も17キログラムに増え、顔つきも凛々しくなった。外出時の匍匐前進の癖は直らないが、番犬としての役割も覚え、カラス、野良猫、不意の来客には果敢に吠える。勤め帰りの私には、激しくしっぽを振って出迎えてくれる。
毎朝、近所の公園までの散歩を日課としている。うれしそうに飛びついてくる康平。私はそれを両手でしっかり抱き止め、心臓の鼓動を聞き、ふさふさした毛に顔を埋め、「康平、康平」と呼びかける。最高に幸せな瞬間だ。これを康平も私も、毎日毎日、飽きもせず繰り返している。不思議なのは、何百回やってもこの幸福感が一向に色褪せないことだ。
ナシーム・ニコラス・タレブという文芸評論家が書いた「ブラック・スワン」という本に、おもしろい記述があった。ちょっと長いけど引用してみる。
実際のところ、幸福はいい気分の強さより、いい気分になった回数のほうにずっと強い影響を受ける。心理学者たちはいい気分になることを「ポジティブ感情」と呼んでいる。言い換えると、いいニュースはとりあえずいいニュースだ。どれだけいいかはあんまり関係ない。だから、楽しく暮らすには小さな「ポジティブ感情」をできるだけ長い間にわたって均等に配分するのがいい。まあまあのいいニュースがたくさんあるほうが、ものすごくいいニュースが1回だ けあるよりも好ましいのである。
人間は太古から、飲んで、食べて、寝てという原始的な行為の継続にささやかな喜びを感じるように作られている、とタレブは言う。慧眼(けいがん)である。科学が進歩し、職業が多様化し、生活が複雑さを増したとしても、この原理は変わらないのかもしれない。
そんなことを考えていると、近年の新聞報道が読者を惹き付けなくなっているのも、何となくわかってくる。一人の政治家を失脚させなければ日本はだめになると叫び、基地問題が合意通りに解決しなければ日米関係が戦争状態に陥りそうなほど悪化するとがなり立てる。小さな事実を伝えるよりも大仰な提言で一面を飾ることを好み、読者の不安と焦燥をあおる。それでなくても日々の生活は苦しいのに、新聞を読むともっと辛くなるというのでは、たいがいの人は新聞を放り投げるだろう。
どうすればいいか。確信は持てないが、タレブの言葉を信じて、まあまあのいいニュースを、できるだけ長い間にわたって、継続的に紙面に載せる努力をするというのもありのような気がする。ということで、2010年は、記事も写真も「まあまあのいいニュース」に注目したい。
日本経済新聞社編集局
写真デザインセンター長 兼 写真部長
山田 康昭
明けましておめでとうございます
皆様のご清福を心からお祈り申し上げます。今年もよろしくお願いします。
昨年暮れ、日本橋三越本店で開催された「2009年報道写真展」は、天皇、皇后両陛下の行幸啓を仰いだほか、09年のマン・オブ・ザ・イヤーと言える鳩山由紀夫総理夫妻が来場。また、ご自身も写真を撮影される高円宮妃久子さまも鑑賞に来られました。VIPの相次ぐ来場が影響したのか、入場者は三越調べで約4万人以上と、一昨年と比べ約1万人増となりました。50回目の節目にふさわしい活気溢れる報道展となり、開催にご尽力いただいた関係者各位に改めて感謝申し上げます。
会場に展示された約280点の作品を一点一点頭に浮かべてみると、写真記者が事件事故、スポーツ、話題ものなどを追い求めて真摯に、中には命がけでシャッターを切った力作、労作ばかりです。写真という媒体が持つ、強いメッセージ性を再認識させられた思いです。来場者に自由に書いていただく「感想ノート」には、今年も「感動した」「思いの宿った写真に言葉を忘れた」「さすがプロカメラマン、うまい」などお褒めの意見が多く寄せられました。一方で、「皇室の写真が多すぎる」「テレビで見たものばかりだ」などとちょっぴり辛口な意見も頂戴しましたが、われわれはこうした声も謙虚に胸に抱き、成長の糧にしなくてはいけません。
さて2010年は、2月にバンクーバー冬季五輪、6月にサッカーW杯南アフリカ大会と大きなスポーツイベントが控えています。後半に入ると、7月に参院選挙が予定されています。政権交代後、初の大型国政選挙であり、有権者が参院でも民主党に単独過半数を与えるか、自民党が巻き返せるかが焦点です。結果によっては、政界再編のうねりが起きかねません。また、10月にはCOP10(生物多様性条約第10回締約国会議)が名古屋で開催。地球環境問題に重きを置く鳩山政権のもと、日本のイニシアチブでどこまで有意義な枠組み作りが進むのかが注目されます。
以上のように、今年も写真記者の出番は目白押しです。社会の隅で苦しんでいる人たちの現状を、スポーツ選手が描く伸びやかな表情を、政治家が繰り広げる人間の機微の一瞬を、写真記者たちがどう切り取って伝えてくれるのか、今から期待が膨らみます。われわれの責務は、月並みですが、読者のためにより早く、正確な、分かりやすい写真報道を心がけることです。愚直に取材対象にぶちあたっていけば道は開けてくると信じています。今年も元気印で、自然体で、やりぬきましょう。
2010年1月
東京写真記者協会
事務局長・花井 尊
11日の総会で君波昭治・前常任幹事から業務を引き継ぎました。よろしくお願い申し上げます。
10月まで在籍した写真調査部では昔の写真を見ることが多かった。昨秋から、共同通信は自社著作物を利用した発信の視点で毎日1枚「レトロ写真−あのころ」の配信を開始し、約1年間、出稿作業を担当した。過去に起きた日付をキーワードにして、数年から数十年前の写真に100字から150字の写真説明を付けて配信するもので、社の倉庫やデータベース保存の写真を新たに発信して活用を図るのが目的。
写真探しは手探りの状態。発掘は写真部OBの方にお願いした。資料写真の著作権の確認や事実関係の調査、画像の修復など思いのほか手間がかかる。写真は「懐かしい」「ほのぼの」がキーワード。しかし、これらの写真に説明を付けるのが大変。アルバムの日付は撮影日なのか送信日なのか。撮影場所も無いのが多い。説明はやはり当時の新聞の情報が最もあてになり各紙の縮刷版を参考に作業した。
「だっこちゃん」「フラフープ」「月光仮面」「力道山」「街頭テレビ」など見る人を昭和へいざなうテーマも発信できたと思っている。また、歴史的な節目の「終戦の日」「ミズーリ上の降伏」など重要なテーマも取り上げた。また、全然知らなかった新発見のテーマもあった。ひそかに自分の写真も潜り込ませた。
8月15日付「太平洋戦争が終結」の写真は、同盟通信時代の大先輩の撮影。現在手元に残っているのは35ミリフィルムで15コマのネガ。終戦の日の写真について新聞社から取材を受けたこともあり大先輩のネガをじっくり見た。これが面白かった。
撮影時間は全コマとも、昼前後、天候は晴れ。前半に兵隊か、もしくは軍服姿の集団が行進している背景に皇居・二重橋が見える。一般の人も多いが表情が暗い。しかし、座り込んでいる人は見当たらない。
後半のコマには、正門前で座り込んでいる人、泣いている人、直立している人、歩いている人が見え、国民がいろいろな思いで終戦を迎えた事実を伝える貴重なシーンとなった。
写真はあまり被写体に近づかずに撮影されている。全体的におとなしい印象。
一連の写真は当日加盟社に送られた記録はない。撮影した内容から見ると、脚立を使用した形跡ない。泣く人も遠くから望遠レンズでまとめている。自分だったら被写体にワイドレンズでもっと寄って撮影したいと思うが・・。おそらく翌日に紙面には絶対に掲載されない群集のシーンを撮影したのも、終戦の日に何があったかを冷静に伝えようとしたのではないだろうか。
結果的には当時各紙に掲載された「土下座」以外の写真も残った。古い写真を見ると撮影者の「息遣い」が伝ってきて、しばし「タイムスリップ」する楽しみを味わうことができた。
2009年12月
共同通信社ビジュアル報道センター写真部長 上妻聖二
以前、弊紙のコラム欄に、カメラのデジタル化がもたらした写真記者の仕事の変貌ぶりについて書いたことがあります。フィルムカメラ時代の取材体験を織りまぜながら、最新のデジタル技術を大いに利用し、写真表現の更なるレベルアップに努めていきたいという思いを読者に伝えました。その一方で、デジタルカメラしか知らない入社したての若手の写真部員に、普段はあまり口に出して言えないような話を、『この場を借りて』アナウンスしたいという思惑もありました。
「フィルム世代は、どうがんばったところで36回シャッター押したらそこで一区切り。ピントは手動、露出もマニュアル。フィルム交換を計算したり、思ったとおりに撮れているか不安になったり、出張先のホテルではバスルームで現像液の温度管理をして慎重にフィルムを現像。ネガからベストショットを選んだら電話機に電送機をつないで、20分近くかけて1枚のカラー写真を送っていたけれど、今じゃ、カードでいくらでも撮り放題。画像もその場で確認できて、軽くて薄いノートパソコンで加工したら、その場からピューンといっぺんに送り放題の幸せな時代に新聞社のカメラマンやってるんだから、もっと斬新な写真を撮って紙面をもっと面白くしてくれよー!」という(かなり長い解説ですが)、熱い思いを行間に滲ませつつ、エールを送ったわけです。
果たして、その思いが通じたのかどうかわかりませんが、コラムを読んだ、ある若手女性部員から、「昔は写真を撮った後にフィルムを現像したり、電送も、ものすっごーく時間がかかったり、本当にたいへんだったんですねぇ〜」と、慰めと哀れみが入り交じったような、なんとも名状しがたい表情で見つめられた後に、「でも、今は便利な時代になって本当によかったですねっ!」と明るく屈託のない、実にストレートな感想をもらったのですが、私はフンフンと頷きながらも、「そんなに昔かなぁ。うーん、なんかリアクションがちょっと違うなぁ」と心の中でつぶやきつつ、「まっ、そんなもんか」と妙に納得した次第でした。
無理もないです。デジタル世代の若い写真記者に、アナログ世代が経験した職人的な技術など理解できるわけありません。二十数年前の新人時代に、先輩カメラマンやデスクから、「一枚勝負!」のような緊張感あふれる取材現場の話を聞いた時に、「そりゃ、たいへんだわ。今はモータードライブとズームレンズがあってよかったなぁー」と、ノーテンキに思った感覚に少し似ていると思ったからです。それにしても昔の写真記者って、今振り返ると思わず笑ってしまうような、「家内制手工業的」な作業が多かったような気がします。
今、デジタル時代の最前線で働く写真記者は、アナログ世代とは性格のまったく違う職人技や苦労を背負いながら仕事をしているように思います。写真を撮る以外にパソコン上ですばやく画像を選んで的確に処理できるエディター的能力や、どんどん改良が加わるデジタルカメラや通信機器に精通した「メカを使いこなす」能力も求められます。プライバシーや肖像権の高まりで、昔では思いもよらなかったトラブルに遭遇することもあり、取材上の制約も以前に比べ増えつつあります。撮った写真が紙面に掲載されるまでの過程が劇的に進化したことで、極端に言えば、ひとりで仕事を完結することも可能です。前述の女性部員が言うように、本当に便利な時代なのですが、フィルム時代に写真記者の青春を過ごした身からすれば、仕事の流儀があまりにも変わってしまいました。
あの頃も、写真記者は個人プレイヤーではありました。でも、取材した写真が紙面化されるまでの間に、いつも誰かが介在していたような気がします。たとえば暗室の中で、皆でワイワイ議論したり騒いだりしながら写真を批評しあったり、表現力やプリント焼きの上手な技術を学んだり、現場の失敗談を聞いたり・・・、とても感傷的ですが、「人の匂い」を感じながら仕事をしていました。
パソコンが何台も並んでいる職場では、今日も次代を担う写真記者が黙々とディスプレイに向かっています。彼らの背中を眺めつつ、あの牧歌的でアナログチックな日々を懐かしむ今日この頃です。
2009年11月
産経新聞社 写真部長 佐藤一典
夏休み期間中は「政権交代」の総選挙で美人候補者や当落予想でも特集しようかなぁ・・・
なんてのんきな事を考えていたら、お盆前にほぼ同時に起きた押尾学と酒井法子の2つの事件で、てんやわんやの大忙しになってしまった。毎年8月は弊社のような駅売り主体の新聞は「夏枯れ」といわれる現象に見舞われ、部数が落ちるのが常なのだが、読者のこの事件への関心の高さからか、わずかながら販売部数を伸ばしてくれた。
ネタを拾ってくる記者ももちろん大変だが、なにより大変だったのは現場カメラマンだ。逮捕や送検で警察車両の透かし撮りは私自身も何度か経験があるが、いざ本人を乗せた車両が来る時には独特の緊迫した空気やアドレナリンが出て戦闘体制に入る。場数を踏めば踏むほど落ち着いて撮れるようになるのだろうが、最初のうちは違う人物を写してしまったりガラスにストロボが反射したり、あるいは光ってなかったり、ギラギラとした感じが目立ちすぎて警官に邪魔されたりと散々な思い出がある。
今回の事件の中継を見ていても、規制されているエリアもあっという間に無法地帯になり、カメラマンが転んでいたり機材がふっ飛ばされていたりと、まさに昔と変わらぬ修羅場だ。ロス疑惑の三浦和義逮捕、オウム真理教の強制捜査で極寒、濃霧、悪臭、雨でぬかるむ上九一色村の張り込み。「絶対に負けるなよ!」と先輩に送り出された思い出がよみがえる。
先日の押尾被告保釈の際には関東に接近した台風11号の影響で強風と土砂降りの雨の中、三田署や三田署以外の持ち場で保釈の時に備え、ずぶぬれになりながら張り込んだカメラマンの苦労を考えると現場は大変だとつくづく思う。もちろん取材にはもっともっと過酷なものもたくさんあるだろう。しかし現場を離れて今、記憶に残る思い出とは、こういった修羅場で同業他社の方と同じ目的のミッションに参加し小競り合いや助け合いをしたという一体感が一番の良い思い出だ。「同じ釜の飯」を食ってきた仲なのだろう。
現場にいたものだけが撮れる写真はうそをつけない。どこの社がどこで何を撮ったかも瞬時にわかる。事件現場は、みんなが公平に撮れるわけではなく明暗が分かれる現場だ。現場にいなければ撮る権利さえないからお地蔵さんのようにどんな状況でもひたすら待つ。あるときは非情な運にも左右される。撮れたのか撮れなかったのかで疲労感は天地ほど違う。撮れれば祝杯、撮れなければやけ酒だ。
通常の取材と違い「張り込み」は待ち時間に情報交換をしながら飛び交うデマにもざわめき翻弄される。時にはさまざまな暇つぶしをしながら自身のいろいろな事を考える時間もあるだろう。
長くいればいるほど、交代要員と交代するとすぐにチャンスがやってきそうで交代したいのに交代したくなくなる。そんなジレンマとも戦いながら有事の際のリハーサルをして無念無想の境地に到達する。
今は部員を送り出す立場だが、きっとみんな悪条件の取材に腐らず、修羅場を前向きに経験することで自信を持ち、よりステップアップしてくれると信じている。
2009年10月
東京スポーツ新聞社 編集局
写真情報システム部長 米田和生
≪いい写真とは≫
仕事柄、「いい写真を撮りたい」とか、「いい写真を撮れ」とか言うが、それでは「いい写真とはどんな写真?」と考えることがある。知人に「これはいい写真だね」と話しかけた時、「ええーっ?!」と否定的な反応もあれば、「そうね」と同意される時もある。
一般的に写真の「いい悪い」は、人の感性が判断の基準なのだろうか。個性的な芸術作品ならば「感覚の差」で片付けてそのままにしておけるが、我々が携わっている新聞写真を含む報道写真はそういうわけにはいかない。記録性に加え、ニュースを読者に伝える役割が大きいので、「写真も自己表現の一つ」として内容が伝わらなくてもいいや、と済ませるわけにはいかないのだ。かといって中味が伝われば絵柄はどうでもいいというわけでもない。そこが難しい。
その点スポーツ写真は分かりやすい。記録性はもちろんだが主な基準は「迫力がある」か、「美しい」か、で決まり、「いい悪い」がすぐに分かる。写真を見れば競技名も分かるし、構図もきれいなものを選んで出稿するので、極端な話をすれば、100点か0点の場合が多い。
反対に事件、事故などは、記録性、証拠性という要素が入ってくるので、その要素が強ければ強いほど構図や絵柄が悪く、迫力がなくてもボツにしない。少々ピントがあまくてもそれしかなければ使用する。この手の写真は「証拠写真」と呼んでいた。これはこれで必要な新聞写真で、テレビドラマの裁判シーンで使われる殺人現場の写真を想像すると分かりやすい。現場を忠実に写すことを目的にしているので証拠能力は高いが写真表現としての構図の遊びなど、取材者の個性、感情は出ていない。
かつて取材した米価審議会の答申取材は、答申が出る時期が分からず、農水省の別館で張り込んで大臣に答申を手渡すだけの数秒のセレモニーを撮った。これこそ答申が出たという「証拠写真」の極みだ。当時はデスクに「生産者が掲げる『むしろ旗』が並ぶ写真のほうがよくないですか?」と売り込んだ。なぜむしろ旗を推したのか。それは答申場面よりも生産者が生活の実情を訴える言葉を書いたむしろ旗のほうが「絵」になっていたからだ。この「絵」になっていることが「いい写真」の条件の一つではなかろうか。
米価審議会答申は双方の顔が見える場所を確保するための技術は必要だが撮影そのものは高度な技術がとくに必要というものではなく、モチベーションは上がらなかった。図柄もただ答申を渡しているだけで感動も与えない。紙面で見せられている読者も「答申が出た」という記号として何気なく見ていたのではなかろうか。ニュース写真として「絵」になっていなかった。
写真撮影は技術が必要だ。写真の意図を正しく伝えるにはそれなりの技術がないと写真表現はできない。では技術で「絵」にすればそれでいいのだろうか。
以前、この道何十年の撮影歴があるプロ、アマ写真家の作品の中にたった1日、コンパクトカメラを渡された小学生たちが自由に写した作品を展示した写真展があった。そのベテラン写真家たちには申し訳ないが、子供たちの写真の方がよかった。写真家の風景写真は構図などしっかりしていて「絵」になっていた。逆にこどもたちの写真はそれなりの構図であまり「絵」になってはいない。だが感じるまま素直に撮っているのか人物の表情がいいし、身近な風景の色などがとてもよかった。
なぜそう感じたのだろうか。違いは撮影時の感受性や感動の度合いだと思う。子供たちは感動しながら写真を撮っている。「きれい」、「おもしろい」と思えばそれらをストレートにとらえていた。写真家は技術に頼りすぎて感動の表現を置き忘れていたような気がした。
いい写真の条件が少しわかったような気がしてきた。同レベルの写真家が一つの被写体を撮った場合、構図、シャッターチャンスが同じなら「いい写真かどうか」の分かれ目は、自分が感動して撮影しているかどうかが分かれ目になるのではなかろうか。つまり被写体への入れ込み具合で写真に差が付く。感動して撮影するとなぜか見る人にそれが伝わっていく。
報道における「いい写真」の条件とは記録性があり、しっかりした技術に支えられた表現で、見る人にニュースを的確に伝え、感動を与える写真と定義されるのではないだろうか。見る人にいい写真と感じてもらうには最後の味付けとして、自分が感動して撮影したかどうかがキーポイントになると思う。
しかし、まだまだ「いい写真とは」の思考は続く。
時事通信社写真部長 渡瀬啓一郎
「なぜ取材をさせないのか、理由は?」「おたくの社の希望にはそえません!」。その日、私は港区にある東京都中央卸売市場食肉市場の正門前で、都の職員と1時間にわたって押し問答した。
2001年9月に千葉県内で発生した得体の知れない牛の病気、牛海綿状脳症(BSE)に国内の畜産農家は頭を抱えた。人間に感染する可能性もあるとの海外事例もあり、消費不振が極まり牛肉価格は大暴落、市場取引も中止になった。
国はこの事態に対応するため、国内の牛をすべて検査する緊急対策に乗り出した。当時、取材記者だった私は、「検査済みの牛肉のせりを再開する」との内容の東京都の会見に出席した。せり場を記者に見せ、別室で市場長が概要を説明し「検査済みの枝肉には安全の判を押します」と発言し、会見は終わった。
この内容をデスクに伝えたところ、「判を押した枝肉の写真をすぐに送稿しろ」との指示。「撮影の時間は設定されていませんでした」と答えた後は、電話口からお定まりの言葉が飛んできた。「ばかもん、何とかしろ」。ここから都の職員と押し問答が始まったのだ。こちらは牛肉の安全性をアピールする原稿と写真を撮りたい一念。しかし、頑な都職員の態度は覆らず。「もういい。頼まん。自分で何とかする」と一撃をかまし、知り合いの仲卸業者に直談判。「そうゆうことなら、力になるよ。ついてきなさい」と市場内の冷蔵庫に案内され、同行の写真部記者(現・福本卓郎写真部次長)が快心のショット。これに「安全の太鼓判」の見出しを付けて、紙面に掲載することができた。このカットはこの年の報道写真展で展示されたことは記憶に新しい。
食料自給率が4割を切る日本。国産、輸入物を問わず、食の安全は全国民の願いだ。生産、流通、消費の一連の流れを、カメラで追い続けていきたい。
2009年7月
日本農業新聞社 写真部長 大石雅敏
「オレにできるかなあ?」
「大丈夫ですよ。教えた通りやればいいんです」
「でもなあ…」
「じゃあ、お願いしましたよ。よろしく」
忘れもしない。06年10月3日深夜、広島、流川通りの入り口にあるデイリースポーツ広島支社での私とSカメラマンの会話である。当時の私は支社の編集部長だった。その夜は翌日に山口・下関球場で開催される秋季高校野球・中国大会準決勝の打ち合わせをするはずだった。地元の広陵が山口・宇部商とセンバツ出場権を賭けての大一番である。
しかし、突発的なアクシデントが起こり、Sカメラマンは取材をキャンセルすることになった。打ち合わせは急遽、“急造カメラマン”養成の場となった。
私も若い頃はカメラ片手(もちろん、コンパクトカメラ)に取材に出向いたことはあるが、大型の望遠レンズを使い、ましてや観客席からの撮影は経験したことがなかった。支社は一人が何役もこなさなければならない。幸運かそれとも不運か、私にはそれまで機会が回ってこなかったのだ。
翌日の下関球場。記者席でスコアをつけずに、50歳の記者は肩にずっしり食い込むカメラとともに、内野席をウロウロしていた。ピントを合わせて、エエッとばかりにシャッターを押す。カシャカシャカシャッ。機械音が響く。記者席と内野席を往復する。狙いは絞った。絞るしかない。エースの野村祐輔だ。(そうです。明治の野村です)1イニングが実に長い。広陵が2点リードのまま、試合を終えてゲームセット。「ベンチ前のナインの表情を撮った方がいいかな」と思いつつ、ベンチ裏で喜びのナインを取材する。ついでに野村にボールを持たせてポーズを取らせる。中井監督も押さえておいた。
宿舎に帰って写真をチェックし、何枚も送る。これがまた、時間がかかる。なのに、写真部のデスク曰く、「使えるのが少ないですねえ」と冷たい一言。さらに付け加える。「ついでに試合後のヤツもお願いします」
結局、高校野球が1面となる。ギョッ、明らかにピンぼけだ。ありゃ、試合後の写真も使っているではないか。赤面の至りではあるが、なんとか1面を張れたという充実感と同時に、肩の荷がスーッと降りた。
「だから言ったでしょう。なんとかなるって」
「ああ、そうだな」
5日夜、支社内で再び2人の会話。そう、私は彼にこう言ったことがある。「最近はカメラの性能が上がって技術よりも、使い慣れる方が大事らしいな」
彼は黙っていたが、私はこの憎まれ口を悔やんだ。確かに性能には助けられたが、結局、ものをいうのは写真を撮る人間のセンスであり、技術だ。それにやる気だ。「やる気はあってもセンスはどうかな。ないわな」東京本社に帰って、机の中に大切にしまってある当日の新聞を眺めながら、私はつぶやくのである。
009年6月24日
デイリースポーツ東京本社
編集局次長兼写真部長・菊地 順一
社内事情のはなしで恐縮です。先日、昭和21年の創刊以来ストックされているネガフィルムとベタ焼きアルバムの引っ越しを行いました。恥ずかしながら、弊社編集局はここ10年頻繁に引っ越しを行い、そのたびにネガフィルムなども移動を余儀なくされてきました。このたびやっと“安住の地”を得られ写真資料を余裕あるスペースにまとめることができた、というわけです。弊社でもアナログからデジタルへの移行は以前から進めているのですが、その元となるフィルムなどは保存しています。これらを見ることはとても楽しい作業です。その時代を過ごしたわけでもないのに懐かしさを覚えたりしています。写真からは昭和という時代を感じることはもちろん、スポーツ界、芸能界などの変遷なども読み取れます。デジタル世界で生かされている身にとっては、どれも新鮮です。
また、歴代の先輩カメラマンが残された作品を見てつくづく、味があるな〜、と感じます。選手の表情が生き生きしていたり、写真のきりとり方が斬新です。今、味のある写真がどれほどあるのかといえば疑問符がつくばかりです。より速く現場写真を紙面に反映することができる今の仕組みに文句をつけるつもりはありませんが、手であわせていたピントがオートフォーカスになり、暗室作業がフォトショップになって以降、何かが抜け落ちた感覚があります。無駄を省いたことによって無くしてしまったものがあるような気がします。今後、カメラマンを取り巻く環境はさらに変化するでしょう。もちろん時代が求める変化に対応しなければいけませんが、忘れかけているかもしれないカメラマンとしての矜持は大切にしなければなりません。撮影という行為が単なる作業で終わってしまえば、見る側の共感は得られないはずです。写真資料室を見渡し、歴史を振り返りながら何となくそんなことを考えていました。
2009年5月
日刊スポーツ新聞社編集局写真部長 福永 力
新聞記者になって30年近く、20年弱は取材記者、その後の10年ほどはデスクなどを務めました。ペンの記者として写真記者とはタッグを組んで、いくつかの仕事をしてきました。ここに掲げた写真は、その中でも強く印象に残る1枚です。
もう今から15年も前、当時の日曜版のフロントページに大きく掲載されました。撮影したのは同僚の清水隆君(現在は大阪写真センター)です。
この写真とともに掲載した私の文章はざっと次のような内容でした。
ケニアの首都ナイロビ郊外の路上に、へその緒がついたままの赤ちゃんが捨てられていた。その子は拾われ、孤児院に運ばれた。まったく泣かないので調べるとエイズに感染していた。「すぐに死んでしまうだろう」とみんなが思ったとき、その孤児院の一人の女性看護師がこの子を抱きしめ続けた。数ヶ月して泣き声、そして笑い声が聞こえだした。懸命に生きようとしている。この看護師は、難しい子どもをこうして何人も救ってきた。その力の源泉はどこにあるのか。
写真は看護師と、この赤ちゃんが見つめ合う姿をとらえています。「一番大切なことは何か」という私の質問に、彼女は「アイ・コンタクト」と答えました。清水君は、その言葉が形になる瞬間を逃さなかったのです。文句なく、すばらしい写真です。
記事にはさまざまな反響がありました。NHKの「中学生日記」という番組でドラマの題材となり、教師がこの写真を使って授業をしているシーンを記憶しています。
思えば、このときは別の取材も含め、清水君とは1ヶ月以上一緒に旅をしました。出かける前、旅の最中、私がどんな取材をしてどんな記事を目指しているのか話し、語り合いました。以心伝心とまでは言いませんが、ペンで表現しようとしていることとカメラの呼吸がぴったり合うと、とても気持ちがいいものです。
昨年秋、東京写真センターの一員になり、この欄を担当するにあたって、そんなことを思い起こしました。
2009年4月
朝日新聞東京本社編集局写真センター
マネジャー・写真部長 山川 富士夫
日本が見事にWBC連覇を達成した。決勝戦の相手は、今大会5度目となる韓国だった。これは敗者復活戦が組み込まれるダブル・エリミネーション方式の弊害だったが、主催者側からすれば狙い通りの集客をもたらした。前大会のように失点率で順位が決まるリーグ戦は、見ている側からすれば分かり難いかも知れないが、色々な国の対戦が見られて楽しいと思う。
試合は延長10回5−3。頂点を決定する試合にふさわしい好ゲームだった。試合を決めたのはやはりイチロー。一夜明けの会見で「本当に美味しいところをいただきました。ごちそうさまでした。」と本人が言っていたが、報道するこちらも「あなたが決めてくれて、本当にごちそうさまでした。」と言いたい。試合直後には新聞各社が号外を出し、テレビ各局の報道番組は“侍ジャパン連覇”を大々的に放送した。そして翌日は、新聞各社が即売を増刷し、テレビ各局は朝からワイドショーで視聴率を稼いだ。
イチローの活躍は我々マスコミ以外にも2人の男を救った。1人は民主党・小沢一郎代表。この日、政治資金規正法違反の罪で、小沢氏の公設第1秘書で陸山会会計責任者の大久保容疑者が起訴された。小沢氏は党本部で行われた会見で、涙を流しながら代表続投を表明した。もう1人はお笑いタレントの陣内智則。女優藤原紀香と正式に離婚し、都内で会見した。会見の冒頭で、離婚の原因は自らの女性問題と頭を下げた。もし、侍ジャパンの連覇がなければ一般紙は小沢氏を、スポーツ紙は陣内を大々的に報道していたに違いない。
2大会連続のMVPに輝いた松坂は、試合後のインタビューで「明るいニュースを日本に届けられてよかった。」と言っていた。100年に1度の大不況、紙媒体の低迷の中で本当にうれしいニュースである。スポーツ紙的には、この勢いのまま4月3日のプロ野球開幕、4月6日(現地時間)のMLB開幕、そして石川遼が出場する4月9日(現地時間)開幕のマスターズと盛り上がってくれる事を期待したい。
2009年3月
スポーツニッポン新聞社写真部長
森沢 裕
日本橋三越で開かれた08報道写真展には、3万人を超える来場者があったそうです。たくさんの感想の中で、朝日新聞の天声人語(08年12月23日付)からは「愛機に添えた指先から、世界を震わす1枚が生まれる。筆にはまねできない一瞬の技、うらやましくもある」とわれわれ写真記者には励みになる一文をいただきました。また、毎日新聞写真記者が撮った秋葉原無差別殺傷事件の空撮写真も高く評価していただき感謝します。大不況、そして新聞を取り巻く閉塞感の中で、少し元気を取り戻しました。私が感じる閉塞感は部数減などの問題の他に、新聞が世間からうっとうしがられているのではないかという不安感からきています。
たとえば紙面に家族の写真が載ると、昔は記念にプリントが欲しいと電話がありました。でも今は「なぜ勝手に撮ってネットに載せたんだ」というお叱りの電話やメールがほとんどです。以前は歓迎された取材先にもたくさんの規制が課されるようになりました。人権意識の高まりなど社会状況が変化していることも原因でしょうが、どうも新聞が嫌われているんじゃないかと思えてなりません。
部員からこんな話も聞きました。サヨナラ列車の出発セレモニーで、大勢の鉄道ファンが報道用に仕切られたスペースになだれ込み、取材現場が大混乱したというのです。インターネット時代を迎え誰もが情報の発信者になりました。もうマスメディアに特権的な待遇は認めないぞ!ということなのでしょう。
花井事務局長の年頭あいさつにもありましたが、読者が好む写真とわれわれが重視する写真にも、だいぶズレが出てきたように感じます。最近、毎日新聞で一番反響があった写真はエゾフクロウのスケッチ写真です。酷寒の森で暮らすつがいのフクロウに、自分たち夫婦の姿を重ねあわせて、お便りをたくさんいただきました。殺伐とした世の中で、読者が求めているのは、生々しい現場写真ではなく「癒やし」なのかもしれません。
「新聞に未来はない」とさんざんいわれています。しかし、ネットでも新聞でも媒体はなんであろうとニュースを責任持って取材する部門は不可欠です。地震、津波、戦争、事件、スポーツ、ファッション・・・国会まで、オールマイティに取材でき、世界中どこからでも迅速に写真電送できるノーハウと経験があるのは各社の写真部だけです。いろいろな面で厳しい時代ですが、新聞が愛され信頼されるメディアであり続けるため、日々の取材に真摯に取り組みたいと思います。
2009年2月
毎日新聞東京本社写真部長
佐藤泰則
1981年6月17日、梅雨入り前のカラッとした晴れわたる下町の商店街で、男が通りがかりの母子や児童など6人を殺傷、そのまま通行人の女性を人質に中華料理屋に立てこもっていた。テレビ局は現場からの生中継を始めていて、写真部に配属以来2か月間、朝から夕までを暗室内で過ごしていた私も、所轄の警察署での取材を命じられた。署に着くやいなや、先輩が使い古したぼろぼろのフィルムカメラで、署に出入りする人物や車を手当たり次第に撮り始めていた。当時はフィルムを本社にオートバイ便で送らなければ現像処理できなかったので、写真説明用紙に何をいつ撮ったかは記入していたものの、回りの雰囲気にのまれて何回シャッターを押したかはまったく気にしていなかった。無線機で「殺害された母子の夫が署に入った」とデスクに連絡、しかも「私しか撮っていない」と宣言してしまったあと、カメラのフィルム巻き上げクランクに手を添えて頭がカーッと熱くなった。クランクが何の抵抗もなく回ってしまったのだ。冷たい汗が一筋背中を流れた。今でもあのときの「バカ野郎!撮れるまで帰って来るな」という無線機が壊れてしまうのではないかというデスクの大きなしゃがれ声が耳に残る。男はその後突入した警官隊に逮捕され、下着一枚で報道陣の前に現れた。人質も逃げ出して無事だった。
恥ずかしながら、今から25年以上も前、私の入社直後の大失敗。連続殺傷事件が繰り返されるたびに頭をよぎる。どなり続けていたデスクの声がまた聞こえ、簡単に命を奪う理不尽な犯行や「誰でもよかった」などの容疑者の勝手な言い分への憤りを倍加させるような気になる。
08年の東京写真記者協会加盟の新聞、通信社カメラマンの最優秀作品を決める協会賞は、毎日新聞写真部小出洋平記者撮影の「秋葉原ホコ天で凶刃に倒れる男性」。生々しい現場で救命措置を受ける男性をヘリコプターから撮影したスクープだ。1枚の写真が伝える事実は重い。
現場の最前線から写真ジャーナリストとして事実を皆さんに冷静にきちんと伝えたい。使命感に基づいた熱意をもって仕事にあたりたい。決して仕事に失敗したから憤るが増えるという理由をつけずに。
2009年1月
読売新聞東京本社写真部長
池田 正一
あけましておめでとうございます。
まず年頭に東京写真記者協会会員の皆様方のご健康とご活躍をお祈り申し上げ、さらにホームページを見てくださっている方々のご多幸をお祈りします。
のっけから自身のことで恐縮ですが、私こと花井尊は、昨年11月から事務局長に就任いたしました。国民の知る権利に応えるべく東京写真記者協会の発展に微力ながら寄与し、協会の運営を公平公正に運ぶ所存です。どうぞよろしくお願いします。
昨年暮れ、日本橋三越本店で開催した「2008年報道写真展」は、朝日新聞「天声人語」や各紙コラム等、また日本テレビ「ズームイン!SUPER」を始め各局で放映され、さらに麻生首相来場の効果もはたらき、会場入り口のカウント数が2万4千人を超えました。出展数が255点で会場が左右2か所になり、実際見ていただいた方々は約3万人を軽く超えたでしょうと三越側の話です。報道展実行委員をはじめ協力いただいた方々に厚くお礼申しあげます。
その報道展で、自由に感想を書いてもらうノートを置いたところ、満開のカワヅザクラ、花火などのスケッチ写真に多くの関心と問い合わせをいただきました。自分としては正直言って意外でした。これまで新聞社で「ニュース写真で勝負」と粋がっていた自分にとって、反応に若干のずれを感じたのです。
事件事故はもとより四季折々のスケッチ写真も読者に対する大切な情報提供です。報道カメラマンは現場に一番近いジャーナリストです。もちろんニュース写真が王道であり、ジャーナリストとしてさらに真実を追求していくことは当たり前のことです。しかし、混沌たる世の中で恐らく読者はどこかでホッとするもの、季節を肌で感じる写真をわれわれ以上に多く求めているのかも知れません。
さて、昨年は北京五輪、日本人4人のノーベル賞と沸いたニュースもありましたが世界金融危機、無差別殺傷事件、福田首相突然の退陣などおもわしくないニュースが続きました。今年は皆さんがどんなニュースを時代の目撃者として追うことになるのでしょうか。黒人のオバマ米大統領誕生、ワールド・ベースボール・クラシック開幕、裁判員制度がスタートします。しかし何といっても総選挙の年です。そして政界再編はどのような形を見せてくれるでしょうか。目が離せません。
ジャーナリストとして、恐れず、ひるまず、一枚の写真を通して社会の発展、希望あふれる年になるよう寄与していただきたいと期待しています。
2009年元旦
東京写真記者協会
事務局長・花井尊